聖なる国 日本

ジェロニモの聖地・パワースポットのプログ。

スサノオⅥ.愛知県『津島神社』建速須佐之男命

2022-06-23 | スサノオ

【津島神社】愛知県津島市神明町1

 

ご祭神 建速須佐之男命(タケハヤ スサノオのミコト)

ご相神 大穴牟遅命(オオアナムチ)

この日は、あいにく雨で画像にも白い筋が映ってしまいました。

 

 

全国3000社の津島神社の総社。もとは『日本の総社』とも。

天王さまの尊称で牛頭天王を祭る津島「天王祭」は、日本三大川祭りのひとつで、国の重要無形文化財・ユネスコ文化遺産に登録されている。

 

豊臣秀吉寄進の楼門(国重要文化財)

津島神社は創建1500年だけあって、在郷の神社の合祀や遷祀を幾重にも歴てきた歴史があり、それぞれを残し、スサノオ様は本殿とは別に境内・別宮に須佐之男命を沢山祭っていて、須佐之男六社巡りというのができる。

【本殿、荒御魂社、柏樹社、和御魂社、居森社、疹社】

私はなんとなくだが、須佐之男命という表記が、素戔嗚尊より読みやすくて好きだ。

漢字の意味付けが成熟する前の古代日本では、借字(当字)はありがちだが、「素戔嗚尊」だと一瞬

(誰??)、となっしまう😅『洲崎ノ王』=スサノオならば分かり易い。

須佐之男だと、助けを差し伸べた男の意味になるので

日本神話で出雲族の姫を助けたスサノオっぽい。

 

✨日本の神様には4つの神性『和魂、荒魂、奇魂、幸魂』があり、

スサノオ様のその4つの側面を祭られている。

和魂『平和な動き』 荒魂『勇猛な動き』

奇魂『不思議な動き』幸魂『幸せな動き』

 

 

スサノオ様がご来臨した【居森社】

 

別宮『大日霎貴命』

 

 

大日霎貴命は天照大神の別称とされていますが、こちらでは天照大神とは別にお祭りされてました。

 

 

 

【創建】西暦540年 対馬よりここ津島神社の居森社にスサノオ様が御来臨されたのが始まりという。

 

 

長崎県対馬は、江戸時代までは「津島」だったらしい。

1500年前のこと、朝鮮半島と日本列島の国境の島から遥か1000㌔近く離れたこの場所に、スサノオ様は

何故「ご来臨」されたのだろうか? 

 

興味津々、というよりこんな由緒を知ってしまったら、対馬のスサノオ様

『島大國魂神社』にも行きたくなるではないか・・・😅

対馬は、スサノオが朝鮮半島と日本列島を行き来した拠点で、スサノオが御子・大牟遅命と五十猛命を連れてやってたという伝承もあり、またスサノオ様の知られざる一面に出会えるかもしれない。

 

(行ってみたい😂⛩️☝️)

 

ここからまた、古代ミステリーロマンの天武ファン✨

として、長い文を加筆したいと思います。(また天武か😌)


ですが、その前に、

今回はスピリチュアル系っぽいエピソードを少し✨

 

今回、津島神社に行った時のこと、、


雨が降ってました⛩️☔

私は御朱印集はしていなくて、

『御札』(大麻)を買っている。

 

いつものように御札を買うつもりでいたのだけど、

お参りする前に、先に社務所に寄って御札を買えと言う(誰が?😂)

(いや、先にまずお参りなのでは?)

「先に御札を」と

(誰?🤣☝️)

 

ホンマかいな?と、お参りの前に手前の社務所で買うことにしたが、

「1400円のお納めです」👰

おろ?だいたい1000円くらいなので
ちょっと高かい😅

雨も降ってたし、財布からいちいちお賽銭出すのも面倒だったので、

この時は財布は持たずに

ポケットに御札代の1000円札だけ入れて、後は小銭をじゃらじゃらと持っていた。

「細かくてすいません」と、
なんとか1400円はあったが、

お賽銭する小銭はもうほとんど残らなかった💦

もし、先にお参りしてたら御札買えなかったかも、、😳

4時ギリギリだったので、車にお金取りにいったら多分社務所も閉まってたし、

😳なるほど~そゆこと?!

「教えてくれてありがとう!🙏」
(誰に?😂)

しかし境内にはたくさんスサノオ様が祀られてて、

これからその、スサノオ6社巡りというのをしなければならない😑残りの小銭で足りるのか?

とポケットに手を突っ込んだらナント

ちょうど60円あった😳

「さすがです!ありがとうございます!」(誰に?)

鳥居をくぐったところ

左側にひっそりと猿田彦様が祀られていた。

導きの神様✨⛩️

🙏ありがとうございました。

スサノオ様を無事に神棚にお迎えすることが出来ました🙏✨

 

 

と、いう訳で(どんな訳だ?)LCCのチケットが取れたので、

今週末は、長崎県対馬🚀へ行ってきます。😂☝️

なかなか出雲へ辿りつけませんが、

スサノオ様の旅は周るほどに情報や由緒がとびこんできて

謎が深まり(今日は牛島神社の話しが😮⛩️)

好奇心のあまり、次の目的地へいざなわれてしまいます。😌

 

長文ですが、興味のある方はお読みください↓↓

 古代ミステリーロマン・天武系の終焉

 

△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼

【津島神社】と平安京遷都の時代

(それにしても何故?スサノオ様を巡る旅なのに度々、天武天皇の存在に触れるのだろうか、😑)

 

津島神社は、9世紀初頭に嵯峨天皇が『日本総社』という社号を授け、

『スサノオはすなわち皇国の本主なり故に日本の総社と崇め給いしなり』

と詔したという謎めいた神社だ。

 

どこが謎めいてるかといえば、、

 

天皇家といえばスサノオの兄・天照大御神を祖神とする皇統であるのに、

本主(=本来の主・所有者)はスサノオであると天皇自らが名言し詔していることと、

 

津島神社を『日本総社』にしたこと。

最高神を天照大神とし、天照大神を祭る伊勢神宮を日本一の社格としてる神祗界からも、他のスサノオを祭っている神社からもさして反対はなかったと言うことだ。

 

もっとも、嵯峨天皇は勢い盛んな天皇だったので逆える者はいなかったのかもしれない。

 

伊予国の石鎚山の名僧の生まれ変わりだという嵯峨天皇は、兄の平城京のクーデターを坂上田村麻呂を派兵し鎮圧、空海に東寺を与え、警察機構・機密機関を拡充し(検非違使)、源氏の創設、藤原北家の起用など、強力な親政を誇った天皇だ。

 

平安京に遷都した父・桓武天皇の様な平安時代の創建者と言っても過言でない。

 

嵯峨天王は、かの794年ウグイス平安京に遷都をした桓武天王の第二王子。

平安時代の始まりとなる平安京遷都だが、只の引越しではなく「平安維新」「平安革命」といっても良いほど、仏教政権の時代が大きく転換した重要な時期だ。

 

桓武天皇と嵯峨天皇親子の時代について書いてみたい。

 

八代続いた天武天皇系の皇統が途絶え、

天智天皇系の皇統の時代になったのが桓武天皇の父・光仁天皇から。

 

「壬申の乱」で天智系の弘文天皇(大友王子)が天武系との決戦に敗れてから実に100年が経ち、

天武系の奈良の都で権力を握っていた【法王】僧・道教ら仏教勢力を天智系が退けた時代だ。

 

桓武天皇は王子の頃から、高齢の父・光仁天皇に代わり内政外交に努めていた。

即位後は、秦氏など天武系の完全排除に動く勢力と共に、政治や社会を揺るがすほどになってしまった平城京の仏教勢力から離れ、新たに長岡京(京都府長岡京市・大阪との県境)への遷都に着手する。

 

桓武天皇は百済王氏・秦氏、坂上田村麻呂・菅原道真など渡来系氏族を重用して新政に臨んだ。

しかし、長岡京の工事責任者や王族が次々と急逝し、淀川の洪水も災いして10年の歳月を費やしても長岡京は完成せず、断念して平城京に戻るしかないという状況になってしまった。

 

ここで第三の選択肢として、平安京への遷都が発案され、実行された。そして、

 

桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍にし東征を敢行し、平安京を造営し、

内外の二大事業の幕を引いて70歳の生涯を閉じた。

 

桓武天皇の跡、兄の平城天皇が3年ほど在位したことがあったが、病気により弟の嵯峨天皇へ譲位した。しかし、病気が快復すると弟の嵯峨天皇と対立し、再び「平城京」遷都を宣言し二つの朝廷と称されるほどの事態になったが、嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派兵し鎮圧、

ようやく世の中が落ち着き、新たな時代へと日本を押し出したのが「嵯峨天皇」だ。

遂に平安時代が始まった。

 

壬申の乱から100年、天武系の天皇は血統が途絶えていき、やがては仏教勢力の傀儡のように細くなっていき遂に皇統は天智系へと遷ったが、しかし、皇統は絶えても既得権勢力として奈良・平城京に盤踞していた仏教勢力が残存し、嵯峨天皇は是を刷新して、天智天皇系の平安時代が始まったことを示さなければならない時だった。

「空海」に始まる平安仏教の創成期。

神道においてもかつて天武天皇が天照大神を最高神として伊勢神宮の社格を日本一に押し上げたように、嵯峨天皇はスサノオを『皇国の主』とし、スサノオを祭る津島神社を日本一の社格にしようとしたのかもしれないが、

それにしても何故、、?京都八坂でもなく熊野でもなく、氷川でもなく、、津島だったのだろう?

方位学的な空間配置も考えられるが

謎、今の私には謎すぎるので、、、もう少し別の面から深掘りしてみたい

 

伊予国の石鎚山の名僧の生まれ変わりという嵯峨天皇と、空海、物部氏と縁のある四国に鍵がありそうな気もしますが、、嵯峨天皇と四国はひとまず置いて 

時を戻そう😔☝️

⛩️津島神社の創始の年、

長崎県の対馬から愛知県の津島に

スサノオが来臨したという

『540年はどんな時代?』

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇✨

ここから先は日本書紀・古事記は無いものと思って、雄大なアジア世界の物語としてお読みください🙏😌

ギアを入れ換え、巷説の世界観でいう西暦540年頃の東アジアの出来ごととして綴っていきます。

 

538年、

百済の聖王は北方の高句麗に敗れ、
南方のサビ城に都を移していた。

和国名は『欽明天皇』

百済・和国の二ヵ国を支配していた王だ。

聖王(欽明天皇)は、中央アジアのエフタル族の末裔である。

中央アジアの雄『エフタル族』は南アジアのインドに迫り、西アジアのペルシアを臣属させていたほどの強国だったが、

北アジアの突厥(現トルコ)と西アジアのペルシアが同盟を結んでからは挟撃され中央アジアから掃討された。

西暦500年代初頭、

国を失ってしまったエフタル族は、北アジアのステップロード(草原地帯)を抜けて、東アジアまで民族の大移動を敢行した。

当時はまだ大国が少なく、国も連合国としてしか定まってなかった東アジアに亡命してくる王族や小部族は多かったが、これほど壮強な大部族が渡来してきたことはかつてなく、

西暦500年代の日本列島と朝鮮半島は混乱の時代を迎えた。

 

日本列島に上陸したエフタル族は、越・尾張(福井県、岐阜県、愛知県)に蟠踞し東和を抑え、欽明天皇の父・継体天皇の代になり新羅を降して朝鮮半島に進出。

継体天皇は嫡子の欽明と、百済の手白香姫と婚姻を進め任那四郡をつけて百済皇太子とし、新羅を養子の武烈にまかせ513年に和国へ戻った。

そして、大和の王権を継ぎ、西の九州勢力と東の大和勢力との最終決戦に勝利し、528年
日本列島の東西を統一した。
(東北をのぞく)

その後、継体天皇は味方の裏切りにより倒れてしまい、後継争いが起きる。

百済では523年に継体天皇の嫡子(欽明)が、聖王として即位していた。

 

聖王は、538年に南のサビ城に都を遷した後、北の高句麗からの圧力からまるで逃げる様に百済の大臣だった木氏(後の蘇我氏)に奉戴され和国にやってきた。

和国の玉座を奪ってた安閑、宣化らを退け、

父・継体天皇の跡を継ぎ和国王に即位した。


そして、蘇我氏は王の側近として和国で権力をふるい始める。

それが、540年代だ。

この時期に、

朝鮮半島と日本列島を行き来し、エフタル族の降臨地である尾張に『来臨』するほどの貴人は

百済・和国、二国に君臨する

欽明天皇=百済名・聖王をおいて他にいない。

スサノオよりも欽明天皇の存在が浮かびあがってしまう。

(スサノオ様が実在したと思われる時代は1〜2世紀頃ですし😌☝️)

スサノオと欽明天皇(聖王)

神武天皇や大国主命のエピソードは何人かの人物が重ね合わされていると、
巷説の世界でいわれているのと同様に

或るいはスサノオ様も😳?

と、感じてしまう。

欽明天皇は
「秦氏を味方につければ天下は治められる」と、

夢のお告げを受けて秦氏に協力を依頼し、共に和国の経営に臨んだ。

そして日本初の戸口調査を行った。

桓武天皇ー嵯峨天皇の平安時代も秦氏の協力のもとに進められた。

津島神社の創始540年と、
津島神社が『日本の総社』となった
9世紀を結びつけるのは、和国の有力渡来氏族である秦氏だ。

桓武天皇も空海自身も秦氏系とされる。

古事記・日本書紀は奥が深いといわれるが、深掘りすると
神武天皇には三代の人物のエピソードを重ね合わせているらしい。

大国主命も然りだが、

スサノオも何人かの人物、しかも渡来系の人物だけを重ね合わせているのかもしれない。

エフタル族の末裔の欽明天皇、
高句麗系の天武天皇、、
新羅の牛頭山から来たという
牛頭天王、

そして、スサノオ

「素戔嗚尊」だと蔑字っぽい響きがある。

※蔑字=中国人が他国・他国人を卑しみワザと蔑む漢字を使うこと

和国→倭国(萎える国)

日巫女→卑弥呼(卑さを広く吐く)

 

素=地のままで取るに足らなくて

戔=少なくて

嗚=嘆く・ため息

 

単なる言葉遊びでしかないが、先ほどスサノオを「州先の王」と当て字してみたが、

上陸地の王という意味にもなり、

海原を治めたスサノオらしい、制海権のある王の称号らしくなる。

 


スサノオ様にも

大海原を越えてきた王たちのエピソードが、

何代か重ね合わされているのかもしれない。

嵯峨天皇が、スサノオを皇国の本主として、津島神社の社格を日本の総社に詔したのは、

そうした渡来系氏族の崇敬を集めようとしたのだろうか、、

ある意味、同化政策にもとれる。

ようとして知れず、

更に深掘りしていきたい、、


明後日は、いよいよスサノオ様が来臨してきたという長崎県津島へ向かいます。

(勧請、分祀、遷宮でなく来臨🤔)

😂なかなか出雲には辿りつけませんが💦


荒唐無稽な文章になってしまいましたが長文を読んで下さってありがとうございました🙏⛩️✨

 

 

 

 



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