失敗。田舎暮らし ブログ

田舎暮らし、出版関係、原発・核などについて書いています。今は、田舎暮らし中です。役立つ情報になればと、書き始めています。

「はだか麦」と無能な「職員」 (はだか麦作付けの後編)

2024年12月25日 18時30分17秒 | 田舎暮らし

----(前編より)----

はだか麦の話に戻ろう。
需要の減った「はだか麦」だが、新しい供給先を探すか、
新しい商品を開発・販売するのが普通だ。

しかし、無能な「職員」たちは、
いつものように組合員に損を押し付ける方法を選んだ。
(組合員に意図して損をさせるのは組合法違反なのに)

彼らは麦の選別を厳しくすることにした。
そうすれば供給量が減って在庫もなくなる、と安易に考えた。

麦は、コンバインで収穫の際に選別されている。
コンバインで選別・収穫された麦でほぼ問題なく商品(精品)になっていた。
センターの再選別でも90%から95%が精品とされ販売品となっていた。

ところが「職員」たちはその最終選別を厳しくすると決めて実行した。
その結果、特別に大きい麦だけが精品となり、
これまで普通に選別された麦は規格外になり
事実上の廃棄処分になった。

私の場合65から70%が規格外(価値のない麦)として処分され
収入も約70%減少した。
収入が70%減ると農機のローンさえ払えず、生活にも支障が出た。
(2024年春の収穫分。元々が低収入だったのに収入が70%減ると

どうなるかは想像のとおり)

コロナ禍の時、私は困ってJAバンクに融資の相談にいったことがある。
農協の金融はこういうときのためにあると、私は考えていたので
資料を持って支所のJAバンクに行った。

ところが、無能な「職員」は私にこう言った。
「JAバンクは、あなたのような農家には融資しません」
家に帰ってネットなどで調べた。
やはりこういう時のためにJAバンクがあり、
融資を受けることが可能だと考えて
もう一度、JAバンクに行った。

「融資はしないと言ったでしょ。ここは準組合員の自動車ローンとか
住宅ローンのような、安心して貸せる人に融資しているんです。
もし用紙に記入して申し込み書を渡されても、私はゴミ箱に捨てますよ。
上司に農家の融資は受け付けるなと強く指示されているので
融資はできません。帰ってください」(支所の所長)

私たち農協の組合員は、こうして無能な「職員」の仕打ちにあい
理不尽な経済的負担に耐えている。

「はだか麦」の作付け中止を見て、
私は農業に寄生して利益を得ている関係者と「職員」が
農家の最大の敵だと改めて実感している。

 


「はだか麦」作付け激減の理由 (前編)

2024年12月25日 15時39分07秒 | 田舎暮らし

 

日本の単独品種と言っても過言ではない「はだか麦」。

かつては「麦ご飯」として食べるのが普通だった麦で
他にも麦味噌や焼酎。麦茶などの原料になるなど用途は多い。

さて、その「はだか麦」だが、今期(2024年)は作付けが激減している。
圃場を見た印象では50%以上が「はだか麦」の作付けをやめてしまったようだ。

なぜ、こうなったのか?
わかりやすく言うと「赤字になってもう無理」が
その理由だ。

コロナの流行で需要が減ったことがきっかけで、
肥料の高騰(約2倍になった)もその理由。
しかし最も大きな理由は、
農業関係者の「生産者へのリスクの押し付け」がある。

コロナ禍により「はだか麦」が売れ残った年に
全農と農協「職員」の担当者が勝手に相談して
「麦の代金は半分しか支払わない」と決定。
金なら払わない、と生産者に対して居直った。

生産者は、農業機械のローンなどを
麦の代金から支払っていたので
各担当者に抗議したが
「支払わない」の一点張りでその年は過ぎた。

ここで、農協の「職員」について説明しておきたい。
私が所属する農協では、なぜか職員が威張っているからだ。

農業協同組合法には「農協は組合員の集まり」と明記してあり
農協は「組合員による食糧増産と経済的向上によって社会に貢献せよ」が
組合員の使命である。

これに対して、組合員ではない農協の「職員」は
「組合員に奉仕すること」が使命となっている。
つまり、農協は組合員のためにあり、職員のためには存在してないのだ。

ところが「職員」は日常の事務的業務で給料とボーナスをもらっており
組合員より裕福な立場にある。
農協の主役である組合員は、通常は群れることはなくひたすら農業に
従事している。

そのような日々が続くと「職員」は組合員を馬鹿にするようになる。
田舎のヤンキーあがりや企業の就職に失敗して
コネで入所した連中も多いと聞く。
それで、おとなしい組合員に対して威張り始める。

「組合員の言うことなんか聞くな!」
「農協は俺たちが仕切っているんだ」
「あの組合員は俺たちに意見をした。みんなでやっつけてやろうぜ」

連中は、農協法を守らない無法者の集まりと私は思っている。

私の所属する農協の「職員」は、かつて窃盗などの犯罪が続出して
全国的に報道されたことがある。
そんな連中が、「職員」組織をあげて【組合員の敵】になっている。

(後編に続く)


家庭菜園と危ない奴

2024年08月10日 10時23分04秒 | 生活

家のすぐ近所に、農家ではない家庭菜園をやっている人がいる。


ひとりは大都市から、嫁の故郷に移住してきた人。

二人目は地元にある大学の元教授。


二人に共通しているのは、農家を見下しているので
水稲用の水が染み出してくる、と文句を言ったり
水利組合の決まり事を無視している。


二人は、まわりの田んぼの生産者や住民に気を使うなどは皆無。
それで問題が発生する。


元大学教授は、菜園でゴムが混じったゴミを長時間燃やしたことで
住民が息ができないほどの空気汚染となり
110番されて警察沙汰になった。


この元大学教授は短気なので、何かあると農家に怒鳴っていた。
結局、地主に「出ていってくれ」と言われて、
彼の菜園の趣味は終わった。

都市から嫁の実家に移住してきた人も危険な人だ。


この菜園の近くから、田んぼに取水するよう水路ができている。
水路に関板を入れて取水すると、菜園にも少し水が入る。

だからその度に菜園取水口にあるビニール袋を丸めた栓を入れていた。


ある日、この栓を触ると指に強い痛みがした。
見ると、指に深い傷ができて、血がポタポタと落ちるほどの怪我をしている。


ビニールを丸めた栓には刃物(カッターの刃)が仕込んであった。
これまでもたびたび問題を起こしているこの男も危険な奴だ。


ミスKGBとジョージア娘

2022年03月03日 19時01分52秒 | 出版

いつもカジュアルな服装でやってくる通訳がスーツとネクタイで正装していた。

その日は、KGBの取材があった。

 

1991年ソ連邦の崩壊によって、KGBはこれまでの組織を解体し、ロシア連邦保安庁と対外情報庁などに分かれた。保安庁は警察組織、情報庁は対外諜報機関となった。

 

私は、そのソ連邦崩壊の前と後、両方の時期に現地で取材をした。

今回は、KGB分割の直前の話。

ソ連では、ゴルバチョフ大統領がペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて、民主化に傾いていた。

 

そのころ「KGBの民主化」もソ連邦で議論されていたが、その内容が不明だった。

「KGBの民主化をどのように実現するのか?」と取材依頼をしたら、

KGB本部から「取材を受ける」と返答があった。

取材協力しているロシアの通信社が「信じられない」というほど、異例の対応だった。

KGBは、外国のプレスに対して柔軟に対応することで、イメージチェンジしたかったようだ。

 

とはいえ、市民は、当時のKGBに対して良い印象はなかった。

それまでは、言論の自由がなく、あらゆることに統制や制限があった時代だったから、

KGBが民主化するなど、誰も信じていなかった。

 

しかし、改革は始まっていた。

 

KGB本部に入ると、広報担当がインタビューに対応した。

広報担当者は、どのような質問にも穏やかに応えていた。

 

私は「週刊プレイボーイの特派記者」としてプレスカードも所持していた。

当時のソ連邦でも「プレイボーイ誌」は有名な雑誌として知られていた。

そういうブランド価値があったからだと思うが、広報担当者は終始、にこやかだった。

 

そして、突然、私にこう聞いた。

「あなたは、ミスKGBに会いたいですか?」

 

えっ? 私は、通訳に、いま何って言った?と確認した。

「彼女が近くにいるのです。ミスKGBに会いたいですか?」

と広報担当者。

ええ、可能ならインタビューしたいです。

「ちょっと待ってください。呼んできますから」

 

1分ほどして、ミスKGB、カーチャ・マヨーロワが部屋に入ってきた。

 

私は、ミスKGBにインタビューした世界で数名のジャーナリストの一人になった。

 

【続きは https://iyosky.net/  スカイネット・ブログに移行しました

 


過去からの使者。故郷へ (2)

2022年02月02日 13時11分34秒 | 田舎暮らし

八百八狸(はっぴゃくやだぬき)の話は、江戸末期に創作された講談によって全国に広まったとされている。

 

神通力を身につけた変幻自在のタヌキ・隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)をリーダーとする八百八狸は、藩の守護神として人々に尊敬されていた。

 

ところが、享保のころ、城代家老によるクーデターが起こった。

隠神刑部は、藩のお家騒動に巻き込まれて戦うことになったが、

不思議な杖を使う忠臣派の武士に捕らえられて、洞窟に閉じ込められた。

 

しばらくしてから、刑部狸は、これまでの功績に免じて、罪を許され、

里人たちと仲良く暮らした、という物語だ。

 

江戸時代に創作された講談は、時を経て民話となり、

里のタヌキ信仰へと変化していった。

 

いまでも、タヌキのことを「おタヌキさん」と呼ぶ人がいて、

境内にタヌキの祠(ほこら)がある神社や、

タヌキを祀(まつ)っている祠(ほこら)がある。

 

子どもの頃、タヌキと出会っても、追いかけず、

そっと見守れ、と教えられてきた。

 

私は、いま、そんな里に住んでいる。

 

都会の丘で見たタヌキの親子に会ったとき、

私は、体調を壊していた。

 

体調不調は悪化して、仕事が続けられなくなったので、

故郷に戻ってきた。

 

いくつかの病院で検査をしたが、

体調不調の原因は不明だった。

 

軽い物が持てなくなるほど体調が悪化して

やっと大学病院で原因がわかった。

循環器が悪く、すぐに手術が必要な状態になっていた。

 

二度の手術、数回の入院で、体調は元に戻った。

 

そんなある日、里から山間部に入る道路を走っていた。

そこで、右手に大きなタヌキの石像がある祠(ほこら)を見つけた。

帰りに、その祠(ほこら)に寄った。

 

そこは、八百八狸の長・隠神刑部の祠(ほこら)だった。

地元の人が管理しているのだろう、きれいに掃除されていた。

 

 

それから数日後、私は、夜の道を車で走って

自宅に戻ろうとしていた。

 

自宅近くに、工場を併設した会社がある。

従業員は10人くらい。

夜は無人で、駐車場が広場のようになる。

 

田舎の夜は暗い。

車で走っていても、灯りが少ないので闇が多い。

 

その夜の工場の広場は、いつもと違っていた。

闇の中で何かが動いている。

 

なんだろう?

 

車を止めていると、黒くて動くものは、

驚くほどの速さで、右へ左へと動いている。

 

タヌキだった。

 

子どものダヌキが二匹、走ったり、くるくると回転して

遊んでいるのだ。

 

いかにも楽しそうで、

見ているこちらが幸せになるほど

可愛い様子だった。

 

私は、故郷に戻って

地元の人には虐められたけど、

病気を克服して、いまはここで生きている。

 

もし、誰かが私を呼んだのなら、

それは誰なのか、知りたいと思うことがある。

 

しかし、丸々として健康そうな子ダヌキ見ていると

これも運命なのだと知った。