腹の立つ事ぼやきブログ

今の政治は腹の立つ事ばかり。せめてブログでぼやかせて。

都会難民の大移動を体験。道路は車で埋まってしまった。緊急時の自家用車の使用を考えるチャンスだ。

2011年03月13日 15時20分23秒 | 政治

11日の午後、横浜から仕事を終えて秋葉原に着いて、

仕事で使う道具を買うためにヨドバシカメラへ入った。

商品が余りにも多すぎてどれを選んでいいのか分からずうろうろしていたら、

突然の大揺れ地震が始まった。


私の人生で初めて経験する地震の揺れ方に、最初は持病の高血圧が悪化して、ついに俺も逝かれてしまったか!?と一瞬思ったが、まぎれもなく地震だった。

とりあえず揺れ方がひどいので外へ逃げ出した。ところが外へ出てビックリ、ヨドバシカメラのビル側のJR秋葉原駅高架の、フェンスがまともにガタガタと大きな音を立てているので2度びっくり。とにかく立っていることも難しい揺れ方だ。


駅へ行ってみると、JRは運休。アナウンスで何時復旧できるか分らない、相当時間がかかるという。この時点で、6時に逢うことになっていた仲間と会えないことを観念した。携帯が全くつながらないからだ。


さてっと、我が家は現在稲城市平尾へ移転したばかり、どうやって帰ろうか思案。12月末までは三ノ輪に住んでいたので、ゆっくり歩いて帰れたのがちょっぴり残念だと頭をかすめる。


とにかく家の方向へと神田方向へ向かって中央通りを歩きだした。ところが、おんなじ思いの人たちがこれほど居たのかと思うほど歩道は溢れんばかりの人波だ。


後ろから押され・靴は踏まれまともに歩けない、「人波」と言うが、正に水が流れるがごとく、人と人の中に埋もれて押されながら流れるように歩いている。


神田駅周辺のホテルに泊まろうとしたがどこも満室。よし稲城まで30キロほどだ、1度歩いてみるのも良い経験だと、歩くことに心を決める。


神田駅から中央通りを外れて山手線沿いを東京駅へ向かうが、こんなわき道でも人で一杯だ。丸の内北口へ出て来た、丸の内のサラリーマンの中には、会社から支給されているのだろう、男も女もヘルメットをかぶっている。やっぱり大手の企業は福利厚生がしっかりしているなと関係ないことを考えながら、日比谷通りを内幸町へ向かって歩く・歩く。


東京駅から離れるように歩いているのだが、秋葉原から今歩いている日比谷通りの歩道まで人波で一杯まのだ。道路上には、ほとんど動かない車のプール状態を観る。


こんな道路状況でも、タクシー乗り場には長蛇の列。バカじゃないのこの人たちは。こんな渋滞状態でタクシーに乗っても進めませんよ。とよっぽど言ってやろうと想った。

日比谷交差点の手前では、丸の内警察の前で、帰りの道を訊いているのだろう人達が群がっている。帝国ホテルの前を過ぎ、霞が関方向へ向きをかえて歩く。相変わらず農水省・外務省等々、お役所の周りには、個人タクシーが取り囲んでいる。良く見ると予約車と表示していたり、屋根の行燈標識のランプを消している。


以前、問題になった居酒屋タクシーを思い出したが、結局、マスコミが取り上げて問題になった一時は、タクシー使用を自粛するがほとぼりが冷めると、どうせ国民が払った税金だからと、官僚たちの大盤振る舞いのタクシーでの帰宅。民主党だから舐め切られてしまっている。公務員の削減なんて嘘の公約をするな!ダメ管総理よ。


なんて心で怒りながら溜池交差点を六本木方向へと進む。ここまでほとんど人波の量は変わらない。どこまで続く…なんかそんな歌があったっけ。


六本木の交差点へ近くなるとほとんど進まなくなってきた。もう足は自分の思うように動かないから、後ろの人には、邪魔にされて小突かれる。特に若い女の子たちは、情け容赦なく邪魔にしていく。私は背が低いから人波に埋もれてしまっているのだ。


六本木警察の前を過ぎて西麻布交差点へ、ああ・ここで誰かさんが死にそこなうほどぶんなぐられたビルだな、と思いながら歩く歩く。だが西麻布の交差点を渡ってからしばらく歩くとバス停があり、バスが止まっていたのを見て吸い込まれるように乗ってしまった。


道路は車の大渋滞だから歩いた方が早いことは分かってはいたが、どうにも足が動かなくなっていたから、休みながら前へ進める名案だと考えたのだが。


想像していた以上に動かないバスの中で、つり革につかまって立っていることの辛さを思い知らされた。動かないと言っても、チョコチョコと車は動く、そのたびに踏ん張らなければならないから、休む状態にはならないのだ。


運転手とそばの乗客の会話でこのバスは新橋から出てきたようだ。そして西麻布まで4時間かかっているという。

そうだバスに乗ったのが8時20分だったから、私が歩いて来た時間は4時間にもなるんだと頭で計算している。しかしバスは進まない、バスの中で休みながら少し前へ進んでくれれば、と考えた自分の甘さを後悔する。次の停留所に止まったのを幸い飛び出すように降りてしまった。全然動かないバスの中で2時間半。バス停2つの距離だ。


でもバスに乗って良かった、交通機関の情報が聞けてことだ。京王線が運行を始めということが分かったのだから。

これで帰宅のルートは確保できたと安心して渋谷駅を目指して歩いた。一時は自宅まで30キロを歩いて帰ろうと考えていたのだから。とは言っても足は動かなくなっている。休み休みとにかく渋谷駅に着いた。


途中で若者2人が渋谷駅へはこっちの方が近いんだと、違う方向へ向かっていったが、道や駅の状況を知らない人は、私の倍以上に歩いたり疲れたりしているんだろうな、なんて他人の心配をしてる。


井の頭線渋谷駅へ向かうコースを知っているから、東急の中を抜けて最短で歩けたが、東急ビルから井の頭駅への歩道橋が満杯で、警察官が出て一方う通行の規制をしていた。
私が選んで歩いたこのコースは、その規制通りを歩いたのだ。渡り高架廊下を一寸刻みで進むと、井の頭駅ビルへ、そこで驚いたのは、階段で上がってくる人波の多さだ。私が来たコースが最善のコースだった事が改めて解った。

やっと井の頭線ホームへ入ったが電車が出発寸前だった。足が思うように動かないので走れない。仕方がないから次の電車のホームで待つことに。それが正解だった。電車は入れ違いに入ってきて、難なく座れてしまった。何とも運の良い男だと自分ながら思う。


電車は明大前へ、ここで京王線に乗り換えれば、ほとんど家に帰れる訳だ。井の頭線から押し出されるようにホームへ出て、そのまま人波に流されるように歩いて出たところが、ちょうど下りホームだった。


しかも私が行こうと思っていた若葉台駅行きがすぐ来るという状態。次の電車は高尾山口行だったから、これも私に運が付いてくれる。電車は混んでいたが押され押し込まれて、座っている人の前まで。


その方が2番目の駅で降りてしまったのだから、私が座れることになってしまった。立っていた隣の若い男の子が、「私は近いからどうぞ」と声をかけて来たのだ。瞬間的に「ありがとう」と私の口から声が出たが、気持の良い若者もいるんだと、ずいぶん自分が年寄りの感概にふけってしまった。


明大前駅で乗り換えのホームへ着いた途端、電話が鳴った、これまでどこへ掛けても通じなかった電話が鳴ったのだ。出たら陽子だった。これも私に運が付いている証拠だとその時思ったっけ。

若葉台行きの電車だから、終点で降りてタクシーが居なかったら歩けばいいと思っていたが、陽子が車で送ってくれるという。まさか父親が深夜に、娘に車で送り迎えをさせるわけにはいかないと思いながら電車は調布駅へ。


調布駅でずいぶん長い間停車していたが、行き先が橋本までと変更になった。それなら若葉台より永山の駅の方がタクシーが多いだろうからと、永山まで行ってしまった。

駅を降りたらここで今日初めての判断ミスが判明、タクシー乗り場は長蛇の列だ。陽子には起きて待っているかもしれないと形携帯電話が通じないので、公衆電話から電話を入れた。

案の定起きて待っていてくれたのだが、永山まで来ているから陽子はもう寝なさいと言ったのだが、我が子の性格は親の性格を受け継いでいる。私が根負けして迎えに来てもらうことになってしまった。


しかしこうなることを想定しなかった自分の甘さを反省する。なぜって若葉台で降りて素直に陽子に迎えに来てもらっていたら、駅から歩いて1分のところに住んでいる陽子には、車を走らせる距離が短かったのにという反省。


我が子に深夜家まで送ってもらって家に入っても、無事に家に着いたかなと、運転する娘の事を案じるこの気持ちが辛い。時計を見たら2時半だった。秋葉原から10時間で帰宅できた訳だ。
京王線の中で公然と携帯で話をしている若い子が居たが、その声から小田急線が動き出したことを知る。京王電鉄が私鉄では一番早く運行してくれたのだ。京王電鉄さんありがとう。
それからテレビを観た。

余りにもひどすぎる津波の被害状況に、自分が今日歩いた都会難民の行列の経験など鼻くそにも当たらないと、今日の人生で初めての体験に感謝した。
もし東京にもっと地震の被害が出たとしたら、今日のように、道路に車が溢れて動かなくなってしまった状況を観てくると、車を使用する人達の考え方に、猛省を促したいと思う。緊急車が全く動けないからだ。

それから余分な事を一つ書くが、テレビの街頭インタビューで、「もう5時間もタクシーを待っている」という人が居たが、このバカ者を教育してやらなければと思う。

だって私が住む都心から30キロ以上も離れた田舎の多摩地区の道路も渋滞で大変だったのだから。


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