孫の保育園で行われた『さつま芋掘り』のお手伝いをした。
私は、県都前橋で生まれ育った。父は東武バスの運転手、母は専業主婦だった。 したがって私は農業をまったく知らない。芋掘りは、もちろん初めてだった。
孫達と一緒に楽しんだ!
昭和25年(6歳当時)、(旧・相生町の)自宅から前橋市街地を一人で歩いて通り抜け、1年間神明幼稚園に通った。ラジオの【安西愛子?の歌のおばさん】を聞いてから家を出たものである。30~40分かかった。今の子どもは行き帰り送り迎え。時代が変わったものである。
ところで、このころから小学校高学年ころまで間、よく「さつま芋」を食べた。ふかし芋をはじめ、麦ご飯と一緒に炊いた輪切りのさつま芋や乾燥芋が目に浮かぶ。戦後の食糧難の時代だったからお米のかわりにさつま芋を食べたわけである。
まずいとか嫌いだったわけではないが、大人になるとさつま芋を食べる気持ちがおきず、今までほとんど食べていない。
おそらく、【子供のころ一生分のさつま芋を食べきってしまった】ためだろう。
私は、県都前橋で生まれ育った。父は東武バスの運転手、母は専業主婦だった。 したがって私は農業をまったく知らない。芋掘りは、もちろん初めてだった。
孫達と一緒に楽しんだ!
昭和25年(6歳当時)、(旧・相生町の)自宅から前橋市街地を一人で歩いて通り抜け、1年間神明幼稚園に通った。ラジオの【安西愛子?の歌のおばさん】を聞いてから家を出たものである。30~40分かかった。今の子どもは行き帰り送り迎え。時代が変わったものである。
ところで、このころから小学校高学年ころまで間、よく「さつま芋」を食べた。ふかし芋をはじめ、麦ご飯と一緒に炊いた輪切りのさつま芋や乾燥芋が目に浮かぶ。戦後の食糧難の時代だったからお米のかわりにさつま芋を食べたわけである。
まずいとか嫌いだったわけではないが、大人になるとさつま芋を食べる気持ちがおきず、今までほとんど食べていない。
おそらく、【子供のころ一生分のさつま芋を食べきってしまった】ためだろう。