何かしてます。

 無職だって退屈してません。「何か」してます。「何か」ってなんだ?

元気で長生きパートⅧ(作り話)

2007年10月27日 12時31分07秒 | 元気で長生き
 今のおばあさんの頭の中には、3パターンくらいのお話があるだけです。それを繰り返し話します。話すほうはいつも新鮮らしいのですが、聞くほうは少しばかりくたびれます。
 ところが昨日(10月25日)、今まで聴いたことのない話しをしました。

~~「群馬には悪い人がいるんだねえ。ディに来ている人が私のうわっぱり(上着)を持っていってしまったんだよ。」

「私の上着を見て、『いいもの着てますねー。ちょっと貸して!』と言うので上着を貸してやると、それを着てトイレに行ってくるといって、そのままいなくなってしまった。」

 おばあさんは、自分が今、着ている上着をひっぱりながら「この汚い上着は、その人が置いていったものだよ。その人はそれっきり、ディにこなくなちゃった。ほんと、群馬には悪い人がいるんだね!・・・」~~

 おばあさんは、うそや冗談を言っているわけではありません。自分自身の中では真実の話をしているだけなのです。
 でも、すべて作り話です。
  認知症の頭でどうして、こんな話が作り出せるのか不思議です。
  更に、どうしてその作り話が真実の出来事として頭の中にインプットされてしまうのかも不思議です。

 最近、ものが解ってきた上の孫はおばあさんから距離をおくようになりました。よくしたもので、その代わりに下の孫がおばあさんになつくようになりました。

             

リハビリ日記�

2007年10月24日 14時37分27秒 | 病気
9月20日
 リハビリ科の診察を受け、リハビリ室に行き週2回(原則として火・木曜日)のリハビリを予約した。

9月26日(水)
 10時05分から40分間。
 前半20分は、先生が付いてリハビリ。どのくらい肘が曲がるかなど検診した後、お手玉投げのリハビリ
 後半20分は自主リハビリ。私が相手をしてお手玉投げをした。

9月27日(木)
 前半、ボール打ちとお手玉投げ。後半復習

10月2日(火)
 リハビリと診察
 『10月18日入院、19日ワイヤー除去手術、20日退院』が決まった。

※ 以後予定通りリハビリを受ける。

10月19日(金)
 ワイヤー除去手術
  前日(18日)、入院した。前回の手術の際、かなりのパニック状態だったので心配したが、手術を受けることを理解したうえで、嫌がらずに入院したので安堵した。
 しかし、手術室に入るときは、「手術は嫌だ、嫌だ!」と泣き叫んだ。孫をさらって逃げ出したい気分だったが、もっと辛い思いをしている両親に任せた。
 順調に手術が終わった。後は完治を待つばかり

           

私が登った群馬の山37(⑲浅間隠山)

2007年10月22日 22時59分27秒 | 群馬の山
 2年前の退職記念谷川登山のとき、「残念だが、これを最後の山登りにしよう。]と決めたが、また登ってしまった。
 ● 平成19年10月21日
   浅間隠山 標高1757メートル 二度上峠から往復約3時間 一般向き

 前日たまたま友人に誘われた。一度は断ったがついその気になってしまった。
 「足は大丈夫かな?」と不安はあったが、たいした山でない、《楽勝》だと気楽に考えた。しかし、やっぱりきつかった。『引退したのに、トレーニングもせずに試合に臨んだようなもの』だった。
 今日(登山翌日)は、足が痛くて動けない。でも、「結構登れるじゃーないか。また登ろうかな?」などとも思っている。

 山頂に着いた。64歳の友人は余裕シャクシャク、63歳の私は死ぬ思い!
             
            


 友人は、「数回登ったことがあるけど、こんないい天気は初めてだ。紅葉も丁度いい時期だ。」と言っていた。
 私は、「紅葉はやはり奥利根だ。去年見た東北の紅葉はもっときれいだった。」と内心思っていた。

            



 今回の登山の主題は、『山頂でおいしいコーヒーを飲もう!」と決め、お湯を沸かすガスと紙フィルタードリップの準備をし、途中で湧き水を汲んで登った。案の定うまかった。たっぷり2杯も飲んじゃった。
 第二の主題は、お母さんの『けんちんうどん』を山頂で食べることでした。ところがコッヘルを忘れてしまった。幸い友人が持ってきたので助かった。

            

ピーちゃんが死んだ

2007年10月20日 14時43分11秒 | ペット
               

 10月19日午後10時30分、雀のピーちゃんが死んだ。ちょっと前まで、ご飯をついばんだり、私の頭にとまったり、孫に追いかけられたり、妻の懐に飛び込んだりして元気に遊んでいたのに”あっ”という間の死亡だった。
 ピーちゃんは約4年間、家族の一員として過ごした。我が家にはなくてはならない存在だった。

 その日(19日)午後、孫が手術を受けた。「怖い、怖い!」と大泣きしたが、頑張って手術を受け、今は順調に回復にむかっている。

 『孫の恐怖や苦痛』を、ピーちゃんが一身に背負って逝ったものと思っている。

今日はなんの日?(ユーさんの命日)

2007年10月19日 10時50分24秒 | 今日は何の日
 当時の上毛新聞は次の記事(抜粋)を掲載して、ユーさんの死をいたんだ。

ユーさん急死
【 ・・・・・”ユーさん”を脳卒中が襲った。柔道四段、利根農高出身で、後輩にあたる郷土力士の栃赤城に胸を貸したことを自慢にしていた。”病気知らず”だったのだが・・・】

 享年34歳 昭和52年(1977年)10月20日のことだった。
 

今日はなんの日?(長男のお誕生日)

2007年10月16日 21時49分45秒 | 今日は何の日
 10月17日は、長男の誕生日です。
  お誕生日、おめでとう!      いくつになったんだ?

 貴方は、おばあさんが目を回しているときに生まれました。
 生まれる数日前、おばあさんの目がぐるぐる回って寝床から起き上がれなくなったのです。
 沼賀眼科で「五分五分で生命の危険がある。」と診断され、群馬大学病院を紹介されました。直ちに入院させるとともに茨城に連絡したものです。

 こんな最中、貴方が生まれました。七福神の寿老人のように長頭で、大黒様のような大きな福耳でした。ただ、頭にほとんど髪が生えていなかった。 

私が登った群馬の山37(⑱幻の白い虹を求めて)

2007年10月14日 11時10分01秒 | 群馬の山
⑱NHK小さな旅の撮影隊とともに登った尾瀬~幻の白い虹を求めて
 定年まであと10年、長男も無事高校を卒業して就職した。仕事も比較的自由が利く。
 こんなとき久しぶりに一人で山歩きをしたくなった。

 平成6年(1994年)6月1日、鳩待峠から尾瀬ヶ原に入り、温泉小屋で一泊。翌2日、三条の滝を見て東電小屋回りで帰宅する予定を立てた。

 ところが温泉小屋で【小さな旅の撮影隊】と一緒になり『明2日三条の滝、翌3日は竜宮小屋付近で幻の白い虹の撮影』と聞いたので、急きょ予定を変更して竜宮小屋にもう一泊して撮影隊ともに幻の白い虹を見ることとした。

● 1日、牛首~竜宮~見晴を経て温泉小屋に着いた。
  予想どおり、「仙境尾瀬沼(原)、花の原」だった。

          

● 2日、撮影隊の後をつけて三条の滝に行った。

 【三条の滝を撮影する小さな旅スタッフ】

          


● 2日、撮影隊と一緒に竜宮小屋に泊まった。

 【3日午前4時、小さな旅のスタッフが起きだした。】

          



● 白い虹は日の出直後に発生するのだそうです。
 
 【日の出直前、スタンバイする撮影隊】

          


 【日の出~ 燧岳から朝陽が顔を出しました。】

          


● 太陽が出ると辺りは一変します。気温がいっきに上がるのが肌で感じられます。
  残念ながら白い虹は出なかった。
 「本当は白い虹なんてないのかも?」と思った。

          


※ 先日、テレビに「尾瀬の白い虹」が映っていた。「あ~、やっぱり白い虹は幻ではなかったのだ。実際にあったのだ!」と、のどの小骨が取れた思いだった。
 冥土の土産に、一度だけでも自分の目で『白い虹』を見たいと思っている。 

夢列車

2007年10月13日 10時50分30秒 | 近況
 この列車は、夢列車です。
  『のろっこ号』にも『湘南新宿ライナー』にも『特急草津』にも、更には「新幹線つばさ』にもなります。

 この列車は、どこへ向かって走っているのでしょうか。?
  どこであれ、明るい未来であることを祈っています。

こんにちは 赤ちゃん!

2007年10月12日 12時22分47秒 | こんにちは!赤ちゃん
10月11日(木)
 こんにちは、21週の赤ちゃん!

 検診帰りに立ち寄ってくれた。長女は、すっかり妊婦らしく、お腹もオッパイモ大きくなった。
 エコー写真には、元気そうな可愛い赤ちゃんが写っていた。
 
 男の子?
 女の子?
   ないしょ、内緒!!

       

            

思い出アーカイブス(小学5年生 クラス解体)

2007年10月10日 11時28分48秒 | 学生時代
 4年生の3学期、担任の東宮先生が病気療養したため下田先生が代わりに我がクラスを受け持った。東宮先生に親しんでいた生徒にとっては残念なことだった。

 クラス替えがなく5年生に進級し島田先生が担任になった。
 島田先生は教育熱心な方で放課後、希望する生徒に体操(マット運動)を教えてくれたので、私も参加していた。
 自分で言うのもなんですが、教えてもらった生徒のなかでは一番上手だった。今考えると、あのまま順調に体操の練習をしていればオリンピック選手も夢ではなかったと思っている??。

 二学期ころ一身上の都合で島田先生が学校を辞めてしまった。以後体操からまったく離れてしまった。
 しかし先生の精神的な教え、体操の技術などは、その後の私の人生に大きく影響したと思っています。

 さて担任がいなくなった我々のクラスは、他の5クラスに分散される憂き目に会った。クラス解体です。
 いじめられるようなことはなかったが不思議なことに、解体された当時どのように過ごしたか覚えていない。