何かしてます。

 無職だって退屈してません。「何か」してます。「何か」ってなんだ?

お勉強しなくっちゃー(スノーケリングとパソコン講習)

2008年01月31日 13時47分34秒 | お勉強
 暖房がきいた部屋で、テレビなどを見て1日を過ごす年寄りになるのはまだ早いと思い、昨日は(1月30日)二つの講習を受けお勉強に励んだ。

(1) スノーケリング講習(於:スポーツジム 午後0時50分から1時間30分の間)
 たまたま講習のチラシが眼についた。『昔取った杵柄(きねづか)』( 過去に鍛えた腕前。昔、修練して腕に覚えのある技量。)久しぶりにシュノーケルの感触を味わいたいと思った。

 私のスノーケリングの歴史は、3つに分けることができる。
第一期
 >29歳から31歳まで(昭和48~50年)の3年間、スキューバダイビングに熱中した。
       
          
 (観音山カッパピアで、柳田さんのスキューバダイビングの講習を受けた。)


第二期
 夏休みに家族で海水浴に行ったとき、3点セットを使って子供たちの安全を守ったり、時々サザエを採ったりして楽しんだ。
          
 (新潟県柏崎市 番神海岸)

第三期
 55歳から58歳くらいまでの間、岩木さんと二人でサザエ採りに熱中した。三点セット(シュノーケル、足ひれ、ゴーグル)にウエットスーツを着て、重りをつけて潜り、たくさんのサザエを採りました。それは楽しいものです。
 もちろん泥棒ではありません。まずい食事を無理して食べ、高いビールを飲んで『海の家の親父』の許可をもらって採りました。

            

 さてさて、私の第四期スノーケリング時代が始まるだろうか??・・・・・

(2)オンライン確定申告講習(於:パソコン教室 午後7時から同9時までの2時間)
  昨年、入院したり手術をしたりしてかなり高額の医療費を支払いました。しかし、この私の入院や手術は医療保険の対象にならなかったのです。(請求したのですが、拒否された。)
 せめて高額医療費の税金控除をしてもらおうと思い、お勉強をする気になりました。

 でも、講習内容が理解できなかった。       

お散歩日記(オバタリアン?と一緒)

2008年01月28日 22時21分24秒 | お散歩
 お母さんに誘われて、イオンにお供した。このところ寒くて外出が少なかったのでお散歩代わりにちょうどいい、またエレセンと会うのもまた楽しいと思ったのです。

 まずパソコンのお勉強が終わったエレセンと、和食で健康志向のバイキングの昼食をとった。食べたいものだけを選んで食べて、ゆっくり時間をかけてお食事を楽しんだ。
 ふと、メニューを見ると一般より500円安いシニア料金が書いてあるのに気づいた。「あれ、シニア料金があるんだね~。」と何気なく口にしたところ、すぐエレセンが反応し、「シニアにしなかった。ちょっと掛け合ってくる!」とレジに飛んでいった。良く見たらメニューの下あのほうに「シニアは75歳以上」と書いてあった。
 帰り際に、「誰も見ていないよ。」などといって、エレセンがビニールの袋に唐揚とお饅頭を詰め込んだ。それをお母さんが自分のバックに押し込んだ。
 私はちょっと離れて赤の他人のふりをしていた。

 次に、かねてから欲しいと思っていた抱き枕を買いに行った。
 寝るときシャント手術した左手を、どこに置いたらいいか困っていたのです。

          

 気に入らなかったが一種類しか置いてなかったので、これを買いました。今夜から気分良く眠れるでしょうか?。


 いったん家に帰ってきたが、お出かけついでに一人で少林山へ向かった。
 まず、娘の安産を祈願をした。
 次に一昨年働いてくれた達磨さんを、感謝を込めてお納めした。

          

 わが家に30年以上飾ってあったお人形も、一緒に納めさせていただいた。

 お散歩の【締め】にお風呂で温まろうと思い、30年来なじみの『鳴沢湖 智光薬湯』に足を伸ばした。ところが残念なことに『智光薬湯』はすでに無く、「ディサービス 鳴沢園」になっていた。

感慨(鉄棒と赤ちゃんとおばあさん)

2008年01月27日 23時23分12秒 | 近況
 1月26日、感慨を覚えるシーンが三つあった。

           

 孫の保育園に行ったとき、鉄棒に飛び上がってみた。子供用の低い鉄棒だったが、飛び上がっただけで何もできないことに驚いてしまった。前回りも後ろ回りも逆上がりもできないのである。これでも私は小学校5年生のときには、『蹴上がり』ができた。
 老化は「目、歯、まら」という鉄則は実感しているが、これほど全身の筋肉が衰えているとは思わなかった。



          

 長女の中学時代の同級生が赤ちゃんを抱いて訪れた。9ヶ月の女の赤ちゃんの可愛いこと、そしてあの子が若くて美しいお母さんに変身していた・・・

          

           

 おばあさんが炬燵で居眠りをしている。毎度のことだから気にもしなかったが、あまりに不自然な姿勢で長いこと動かないので、もしや!と思い揺り動かしたら息を吹き返した。
 戦争で旦那さんを失くし、闇屋をして娘二人を育てた聡明で気の強かった面影は今はまったくない。いや、気の強いところは今も変わりないか・・・
 

かるた大会

2008年01月27日 00時15分08秒 | 近況
            

 パパの代わりに、保育園で行われたカルタ大会の参観に行った。
 上の孫のカルタ取りを見ていたが、子供たちが立派にルールに則って競っているのには感心した。
 同時にカルタを取に行っても、下の手の者が勝ちであることをすべての子供が理解しており、想像していたトラブルはまったくなかった。
 先生方のご努力に頭が下がります。
 
 我が家の孫は、11枚取りました。立派なものです。
 次に父兄と子供が組んでやりました。
 真剣に全力を挙げて頑張った結果、私と孫のペアは18枚も取りました。
  まあまあ上出来でしょう。

 廊下に児童が書いた絵が貼ってありました。

          

 孫の順調な成長がうかがわれます。

 

私が登った群馬の山37【(28)太田金山】

2008年01月24日 11時37分32秒 | 群馬の山
 太田市には2回居住しています。

《 1 昭和53年(1978)3月 太田     33歳 3年間
   ①飯塚町の寮(転居)
   ★長女誕生

  2 平成13年(2001)3月 太田     56歳 4年間
   ①藤阿久町の寮(転居)
   ★単身赴任                           》

 この間、太田金山には十数回登っています。
 金龍寺から金山山頂へのコース、子育て呑龍様からの西山コース、駐車場からのコース、東山コース、山頂からこどもの国やキャンプ場まで、八王子山の親水公園コース等隅から隅まで歩きました。

 特に思いで深いのは、長女が生まれた当時、長男と二人で登った太田金山です。

           

 36歳当時の後姿
           

 西山コースを登る5歳の長男

           


私が登った群馬の山37(東毛の山々【(20)~(27)】

2008年01月22日 17時49分19秒 | 群馬の山
 平成13年(2001)3月、56歳のとき太田に単身赴任し、定年退職までの4年間を過ごしました。
 転勤2年目になり、公私に余裕が持てるようになったとき、東毛の山に登りたいと思いました。
 一人で気楽に登ることにしました。

(20)鳴神山 
 平成15年(2003年)4月27日

 (日記から)『前夜なかなか眠れず、やはり久しぶりの山行がうれしいのか?。6:30起床、道に迷いながら登山口に着く。2時間かかって山頂。
          

 ヤシオツツジが満開だった。山頂からの眺め。登ってよかった。
          

 やはり足が痛い。帰りに「コロナの湯」に入った。』


(21)吾妻山
  平成15年(2003年)5月6日

 (日記から)『5:30ころ目覚めて、なんだかんだ準備をして登り始めたのが8:00。杖を使い、山野草などの写真を撮りながら1時間のコースを2時間かけて登った。』

 山頂に神様がいた
          

 山頂から桐生市内を望む
          

 
(22)小中大滝
 平成15年(2003年)9月27日

 (ネット検索)【群馬県勢多郡東村 (渡良瀬川支流小中川) 小中大滝 落差96m 幅15m 段瀑 群馬県下有数の大瀑であり、・・・・】

 (日記から)『袈裟丸山に登りたい。登山口などの下見に出かけた。途中、小中大滝に出会った。』
            
 

(23)根本山 
 平成15年(2003年)10月27日

 (日記から)『根本山に登ってきた。1195m。次は袈裟丸山だ。』
             


(25)袈裟丸山寝釈迦まで
 平成15年(2003年)11月5日

 注釈【ここ袈裟丸山中腹の巨大なみかげ石の岩場に浮き彫りにされた寝釈迦像は、北を枕に西方を向き、右脇を下にして横たわっています。この寝釈迦像がいつ、だれによって作られたかは不明で、弘法大師説・勝道上人説などがあり、また徳川時代に足尾銅山に送り込まれ病死した多くの囚人の菩提を弔うために刻まれたとも言われ、この地で静かに時の流れを見つめています。~環境庁・群馬県】
           

 (日記から)『袈裟丸山中腹の寝釈迦まで登山、1時間04分。山頂は次の機会に。 ♪袈裟丸に一人で寝ているお釈迦様、起きて目を開け願いを聞いて!
水沼駅温泉で汗を流した。』
           
(24)栗生山 
  平成15年(2003年)12月14日

 (日記から)『8:00ころ出発し、栗生山に登る。約1時間。いくら急な坂道でも、鼻歌を歌える程度のペースなら、まだまだいくらでも歩ける。帰りに友人の実家である医光寺に立ち寄った。コロナの湯で温まり、浜ツ子で豚骨ラーメン、おいしかった。』
(写真なし)

 
(26)袈裟丸山賽の河原まで
 平成16年(2004年)4月15日

 注釈【袈裟丸山中腹のこの場所は、木が生えておらず、大小の石ばかりが転がっているので賽の河原と呼ばれています。その昔、弘法大師が夜この地を通ると赤鬼青鬼に責められながら、子供たちが石を積み上げているのをみて三夜読経して救済したといわれています。~環境庁・群馬県】
            
 
 (日記から)『賽の河原まで1時間20分。山頂までは次の機会に!避難小屋で焚き火をした。左足のふくらはぎが痛い。平地や下りは痛くないのに?。草木ドライブインで回転急須と伸縮孫の手を買った。』


(27)袈裟丸山小丸山まで
 
 平成16年(2004年)5月27日

 注釈【袈裟丸山(1878m)の名称も弘法大師にちなんだものといわれています。中国から戻った弘法大師が赤城山に高野山を築こうとしたところ、赤城山の山神は仏の地となる事を嫌い、一谷を隠して九百九十九谷しか現さなかったそうです。大師は残り一谷を探して現在の袈裟丸山まで来たのですが、ここにもなく落胆し、袈裟を丸めてこの山に置いて下りたため、袈裟丸の名が付いたということです。~環境庁・群馬県】

 (日記から)『袈裟丸山山頂登山をめざし、5時半出発。2時間で小丸山に着いた。足が痛いのを我慢し、だましながらやっとここまで来た。山頂まで無理と思い勇気ある撤退。三つ葉ツツジ、御用ツツジ(白ヤシオ)がたくさん咲いていた。水沼駅温泉に寄った。』

 白ヤシオ
              

※ とうとう袈裟丸山の頂上には行けなかった。
東毛の名山 太田金山については、別の機会に書きます。!


今日はなんの日?(ブログ記念日)

2008年01月19日 15時33分24秒 | 今日は何の日
 昨年の今日(1月19日)、初めてブログを公表しました。
  『ひまなので 書いてみたから 1月19日はブログ記念日』

 定年退職を機会に息子のおつき合いの程度の気持ちでパソコン教室にかよい始めました。インターネット、ワード、マルチメディアの各講座を受けましたが、右から左へ恐ろしい勢いで忘れてしまい、後に残るものがまったくないことに気づきました。
 せっかくお金をかけているのに、すべてゼロというのも残念と思い、はやりのブログなるものをやってみようと考えました。
 そこで、パソコン教室のマンツーマンの特別講座を2回(1月19日と21日)受けてブログのお勉強をしたのです。
 以来、私にしてはとても頑張って昨日までの1年間で278件(公表しない裏日記等も含む)のブログを作成しました。我ながらたいしたものです。

検査数値の推移

2008年01月19日 00時00分09秒 | 腎不全闘病日記
 昨年11月21日から、食事療法を実施している。三度三度お母さんが作る低蛋白、低塩分、低カリウム、高エネルギーの食事を食べながら処方されたお薬を飲んでいます。
 日高クリニックに診察に行くとまず、血液を採取されます。その血液を検査して医師が診断します。検査結果の推移は次のとおりです。
       
2007/11/21   クレアチニン4.40     カリウム6.4

2007/12/13   クレアチニン5.11     カリウム6.4

2007/12/26   クレアチニン4.69     カリウム5.8

2008/ 1/16   クレアチニン4.54     カリウム5.6

 医師は、「検査結果は横ばい状態、食事療法の効果が出ている。概ね良好。」とほめてくれます。

 さて今日、お母さんが、
  「パソコンができなくったって、泳げなくったって生きていける。でもご飯が食べられなければ生きていけない。イザというときのために自分のご飯くらい自分で作れるようになったら?」とお説教するのです。カチンときました
 そして、
 「きたーー。これがあれかーー!とうとうきたーーーー」と思いました。

 実は診察を受けるたびに医師から
  「夫婦喧嘩してませんか?食事療法が始まるとたいていの夫婦が喧嘩になります。我慢して喧嘩などしないように頑張ってください。」
と警告されていたのです。

 もちろん私は、ぐっと押さえて「左様ごもっともです!」と答えました。 

思い出アーカイブス(一本のカセットテープ)

2008年01月16日 13時51分52秒 | 思い出アーカイブス
 家を建ててから20年、大分汚れが目立ってきたので『ふすま・障子』の張替えをすることにしました。
 本日(1月16日)、経師屋(表具師)さんが来て家中のふすまと障子を外してもっていきました。2~3日すれば新品同様で戻ってくるでしょう。
 
         
 
 ふすまを外した押入れの隅っこに、ほこりだらけのカセットテープ1本があるのを見つけました。
 な、なんと!10年前に死んだ「私の実姉かおるさん」の唄入りのテープではないですか。

          

 姉が生前、自費でテープを作ったのは知っていました。
 そして、そのテープを幾つか貰った記憶もあります。そのとき姉は、「良い歌だから聞いてね!」と言っていました。
 しかし、そのテープを聴いた覚えはありません。
 聞いたけれど忘れてしまったのか?いや、やはり聞かなかったと思う。
 確かそのとき、「いい年をして、つまらないことをしている。」と苦々しく思ったことを覚えていますから、あえて聞かなかったのかもしれません。

 あらためて聞いてみました。

 1 酒場のほたる
 2 沖縄の海に祈る
 3 湖畔のブルース
  (演奏) 東芝レコーディング・オーケストラ

 相変わらず上手だった。本職の歌手とほとんど変わらないと思います。

 姉は子供のころから歌が好きだった。いつも歌を口ずさんでいたっけ・・・