先月の終わりごろか、ある情報サイトに「『孤独死』はそんなに大きな問題か」という記事があった。高齢者が一人寂しくひっそりと『孤独死』しているケースが急増しているとか、身元不明の遺体が多く無縁仏として埋葬されているというような記事を目にするたびに、人ごとではないとは思う。が、私にとってはそれほど大きな問題ではない。
孤独といえば、即、寂しい、みじめと捉えがちだが、人それぞれ価値観が違うように、孤独を寂しいと感じるかどうかは、それぞれだろう。自ら好んで孤独を選ぶ人もあり、必ずしも独り暮らしの人すべてが孤独だとは言えないと思うのである。私自身、子どももいない独り暮らしだが、結構、孤独を楽しんでいる方だと思う。自分のためにだけある時間、誰にも束縛されることのない自由、これらは何ものにも替えがたく、その結果、『孤独死』することになってもそれは当然のなりゆきであり、誰のせいでもないと承知している。
医師の「ご臨終です」の言葉に、ベッドの周りで泣き崩れる家族、そんなホームドラマのような、誰もが誰かに看取られながら息を引き取る死に方が当たり前と思うほうがおかしいのではないだろうか。だいたい『孤独死』という言葉は、いかにもみじめで寂しい死を連想させる。が、たとえ家族と暮らしていても孤独に苛まれ、寂しい日々を過ごした人の心のうちを推し量れば、その死は寂しい『孤独死』と同じことであろう。
記事中に、「同居家族がいるからといって、温かな家族関係があるとも、心豊かな暮らしであるとも、言い切れない。思いがけず外出先で亡くなることもある。独り暮らしの自宅で次第に力が失せ、横たわるときに、ご本人の脳裏には精一杯活躍していた時代の自分の姿と満足感があふれているかもしれない。」というくだりがあったが、まさに私の言いたいことをはそういうことなのである。
また、先月31日、NHKスペシャル「無縁社会~“無縁死”3万2千人の衝撃~」が放送されたが、その後、ネットユーザーの間で大きな反響を広げているという。掲示板やSNSの日記では「衝撃的」、「他人事とは思えない」などの投稿が相次ぎ、ブログだけでも600件以上の感想が書かれたという。
『無縁死』は『孤独死』と同じだが、独り暮らしで誰にも看取られることなく当人の住居内で死亡する『孤独死』は、家族などの引き取り手があるからまだいい。一方、社会との関わりを持たず、身元不明で遺体の引き取り手がなく、自治体によって葬られた人の死を『無縁死』というらしいが、どちらも社会との接点を持たないことが共通点のようである。だが、昔から「年をとると子どもに返る」といわれるように、加齢とともに自己中心的でわがままになり、人に合わせることが苦痛であったり、人との関わりを持つのが億劫になるのは確かで、その点では私も例外ではない。
人と人との「きずな」を重要視すれば、また、社会との関わりを持っていれば『孤独死』が防げるかというと、あながちそうとは言えないだろう。隣近所との付き合い、町内のイベントなどへの参加などで孤独を紛らわすことはできても、それは四六時中というわけにもいかず、やはり独り暮らしであることに変わりはない。ただ、社会とのつながりを持っていれば『孤独死』しても早い段階で誰かが見つけてくれる可能性が高く、何日も何週間も発見されず、ウジが湧いていたなどということがないだけマシと言えるだろう。
「無縁社会」放送後、ツイッターで「みんなでつながろう」「つながりあっていれば大丈夫」とつぶやいていた年輩の歌手がいたそうだ。が、ネット上での「つながり」は、しょせん仮想社会の中でのこと、そんな有縁で解消するような簡単な問題ではない。
現実の生活の厳しさから不安感が増し、頼る人もいない孤独感からますます社会から隔絶した存在になってゆく。だとしたら、極端な言い方だが、人との「つながり」は必要ではあるが、それよりも生きてゆくための十分なお金があれば多少の孤独など我慢できるだろう。それに、どう死のうとそれは当人がそれぞれ決めることであり、他人がどうのこうのと言うことではないと、へそ曲がりのひねくれ者は思うのである。
私も『孤独死』を恐れる気持ちはまったくないが、人さまに迷惑をかけることがないようにと願っている。それには、『孤独死』してもすぐに発見できるよう、独り暮らしの高齢者の安否確認を定期的に行う必要がある。そこで考えたのだが、新聞配達システムを利用するのはどうだろう。独り暮らしの高齢者は新聞販売店に任意で有料登録し、その地区の配達人は2、3日新聞が取り込まれていない登録者がいたら通報する。これなら大掛かりな設備も人員も不要であるが、ただ、その通報先が問題だ。しかし、所信表明演説で何十回も「いのち」を強調し、「いのちを守りたい」と言った鳩山総理だ。自治体に担当部署を作ることを指示するくらいはたやすい事だろう。
また、マスコミもいたずらに恐怖感を抱かせるような報道ではなく、それを未然に防ぐ方法を提案するとか、もっと意義ある報道の仕方を考えるべきであろう。
孤独といえば、即、寂しい、みじめと捉えがちだが、人それぞれ価値観が違うように、孤独を寂しいと感じるかどうかは、それぞれだろう。自ら好んで孤独を選ぶ人もあり、必ずしも独り暮らしの人すべてが孤独だとは言えないと思うのである。私自身、子どももいない独り暮らしだが、結構、孤独を楽しんでいる方だと思う。自分のためにだけある時間、誰にも束縛されることのない自由、これらは何ものにも替えがたく、その結果、『孤独死』することになってもそれは当然のなりゆきであり、誰のせいでもないと承知している。
医師の「ご臨終です」の言葉に、ベッドの周りで泣き崩れる家族、そんなホームドラマのような、誰もが誰かに看取られながら息を引き取る死に方が当たり前と思うほうがおかしいのではないだろうか。だいたい『孤独死』という言葉は、いかにもみじめで寂しい死を連想させる。が、たとえ家族と暮らしていても孤独に苛まれ、寂しい日々を過ごした人の心のうちを推し量れば、その死は寂しい『孤独死』と同じことであろう。
記事中に、「同居家族がいるからといって、温かな家族関係があるとも、心豊かな暮らしであるとも、言い切れない。思いがけず外出先で亡くなることもある。独り暮らしの自宅で次第に力が失せ、横たわるときに、ご本人の脳裏には精一杯活躍していた時代の自分の姿と満足感があふれているかもしれない。」というくだりがあったが、まさに私の言いたいことをはそういうことなのである。
また、先月31日、NHKスペシャル「無縁社会~“無縁死”3万2千人の衝撃~」が放送されたが、その後、ネットユーザーの間で大きな反響を広げているという。掲示板やSNSの日記では「衝撃的」、「他人事とは思えない」などの投稿が相次ぎ、ブログだけでも600件以上の感想が書かれたという。
『無縁死』は『孤独死』と同じだが、独り暮らしで誰にも看取られることなく当人の住居内で死亡する『孤独死』は、家族などの引き取り手があるからまだいい。一方、社会との関わりを持たず、身元不明で遺体の引き取り手がなく、自治体によって葬られた人の死を『無縁死』というらしいが、どちらも社会との接点を持たないことが共通点のようである。だが、昔から「年をとると子どもに返る」といわれるように、加齢とともに自己中心的でわがままになり、人に合わせることが苦痛であったり、人との関わりを持つのが億劫になるのは確かで、その点では私も例外ではない。
人と人との「きずな」を重要視すれば、また、社会との関わりを持っていれば『孤独死』が防げるかというと、あながちそうとは言えないだろう。隣近所との付き合い、町内のイベントなどへの参加などで孤独を紛らわすことはできても、それは四六時中というわけにもいかず、やはり独り暮らしであることに変わりはない。ただ、社会とのつながりを持っていれば『孤独死』しても早い段階で誰かが見つけてくれる可能性が高く、何日も何週間も発見されず、ウジが湧いていたなどということがないだけマシと言えるだろう。
「無縁社会」放送後、ツイッターで「みんなでつながろう」「つながりあっていれば大丈夫」とつぶやいていた年輩の歌手がいたそうだ。が、ネット上での「つながり」は、しょせん仮想社会の中でのこと、そんな有縁で解消するような簡単な問題ではない。
現実の生活の厳しさから不安感が増し、頼る人もいない孤独感からますます社会から隔絶した存在になってゆく。だとしたら、極端な言い方だが、人との「つながり」は必要ではあるが、それよりも生きてゆくための十分なお金があれば多少の孤独など我慢できるだろう。それに、どう死のうとそれは当人がそれぞれ決めることであり、他人がどうのこうのと言うことではないと、へそ曲がりのひねくれ者は思うのである。
私も『孤独死』を恐れる気持ちはまったくないが、人さまに迷惑をかけることがないようにと願っている。それには、『孤独死』してもすぐに発見できるよう、独り暮らしの高齢者の安否確認を定期的に行う必要がある。そこで考えたのだが、新聞配達システムを利用するのはどうだろう。独り暮らしの高齢者は新聞販売店に任意で有料登録し、その地区の配達人は2、3日新聞が取り込まれていない登録者がいたら通報する。これなら大掛かりな設備も人員も不要であるが、ただ、その通報先が問題だ。しかし、所信表明演説で何十回も「いのち」を強調し、「いのちを守りたい」と言った鳩山総理だ。自治体に担当部署を作ることを指示するくらいはたやすい事だろう。
また、マスコミもいたずらに恐怖感を抱かせるような報道ではなく、それを未然に防ぐ方法を提案するとか、もっと意義ある報道の仕方を考えるべきであろう。
私も孤独死は恐れませんが、あとあと人さまに迷惑をかけることだけが気がかりです。
それ以外は気楽なおひとりさまを楽しんでいます。
最近、賃貸住宅で孤独死した場合、原状回復費や家賃減額分を保証する家主のための新しい保険が登場したそうです。何でも商売になるのですね。
縁あって、地域活動の中心になって多くの人と一緒の時間が多いですが、プライベートの付き合いはできれば断っています。
子供たちの育成ということでなければ、ボランティアといえども、もっと昔に止めてしまっていたでしょうね。