いろはにぴあの(Ver.3)

ピアノを趣味で弾いています。なかなか進歩しませんが少しでもうまくなりたいと思っています。ときどき小さな絵を描きます。

階段を下りると、そこは

2013年07月22日 | ピアノ・音楽

 クラシック音楽をじっくり聴きながら、珈琲を飲める、そんな名曲喫茶に行きたくなって高円寺に足を運びました。twitterの友人たちに教えてもらった店に行くことにしました。

中央線沿線の高円寺商店街のアーケード。古き良き町という印象です。

細い路地を左に曲がって少し進むと。。。「地下一階 ルネッサンス 音楽室と珈琲」と書かれた古そうな黄色い看板が見えます。右の方に入っていくのですが、一見そっけなさそうな感じです。

 しかし地下に降りて扉を開けると。。。日本でいえば大正浪漫、ヨーロッパでいえば中世に戻ったような薄暗い部屋が広がっていました。そしてショパンのピアノソナタ第2番が部屋いっぱいに聴こえてきました。まるでお祖母ちゃんの秘密のお部屋のような雰囲気です。

 飲み物は入口で注文。珈琲(ホットとアイス)、ジュース、紅茶がありました。

 席に着くと目の前には古そうなスピーカーがどんと構えていました。ビクター犬が顔を向けてもよさそうです。しかしこのスピーカーからは音が聴こえてきませんでした。空調設備もちゃんとついていて、涼しかったです。

  音が聴こえてくるもとはどうもこちらの方向でした。壁には絵が掛かっており、がっちりとした高級そうなコンポが置いてあります。ちょっと暗くてすみません。フラッシュをたけなかったのでこのようになりましたが、スピーカー見えるでしょうか?

  音源はすべてLP。部屋いっぱいに音楽が広がっていました。ノイズも時折聴こえてきたのですが、そのノイズも含め心地よく聴こえます。音源の元も古い演奏。

  店員さんにかかっていた曲と演奏者を尋ねました。どの演奏も心をゆさぶるものばかりでした。部屋の雰囲気と古き良き演奏のおかげでたちまちタイムスリップ、夢の世界へと誘われました。

ショパン作曲 ピアノソナタ第2番 アルフレッド・コルトー (ピアノ)

マーラー作曲 交響曲第4番 カール・ベーム(指揮)アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

ベートーヴェン作曲 ピアノ協奏曲第4番 カール・ベーム(指揮)ロベール・カサドシュ(ピアノ)アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

フランク作曲 ヴァイオリンソナタ アルテュール・グリュミオー(ヴァイオリン)ジェルジ・シェベック(ピアノ)

 こんなに集中して音楽を聴いたことは、コンサートや発表会以外にはないのではないだろうか、というぐらい、集中して聴きました。会話はできませんでしたが、そのようなことは気にならないぐらい。他のお客さんも音楽に聴き入っていました。

 しかし部屋にあるものにも思わず心惹かれました。椅子や机もただならぬ雰囲気の素敵なものだったのですが、席からふと上を見てみるとレトロなシャンデリアとともになんとこんなものがありました!

 トランペットです♪演奏していた方がいたのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  目立たないように、忍び足でちょっと探検してみると

 ミステリアスな空間が。。。

 嶽本のばら氏という作家がカフェーについて書いた『カフェー小品集』に描かれたさびれながらも魅力的で耽美的なカフェーの世界を実現していました。行間から音楽が聴こえてきそうだったのを覚えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

  本とともに振り子の時計(ちゃんと動いています)ギリシャ神話に出てきそうな方の胸像もありました。

 

 ちょっと見方を変えてみると。。。

 こんなところにちょっと埋もれてみたい、という思いがふつふつと。

 ちなみに古き写真や古き絵も壁に飾ってありました。

 しかしそれだけではなく、

古き時計も、飾ってありました。

おじいさんの時計たちです。動いていませんでした。

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 こんな空間に入ってしまったら心はすっかり夢の中。美しい音楽を聴きながらいろいろなことを思い浮かべ、頭も心もデトックス。店から出るときにはまるで別人になったような感覚でした。

 その後は友人に会い貴重なひとときを過ごしました。いつも前向きで努力家の友人から大きなエネルギーをいただいたような気がします。

 それにしてもルネッサンスのような名曲喫茶、これからもなんとかして存続してほしいものです。そのような場を必要としている人がたくさんいるはずですから♪


誰かといっしょに音楽をやるとき

2013年07月07日 | ピアノ・音楽

 先日の発表会以来、アンサンブルのように誰かと一緒に音楽をやることの楽しさを味わいたくなっています。確かに一年に一回、レッスン関係でプロの方とのトリオのアンサンブルをする機会はあり、それ自体非常にありがたい機会なのだけれども、私以外は共演者の方たちも含めみなさん先生、わいわいと試行錯誤しながらという状態ではありません。それが、先日の発表会で、趣味仲間とわいわい言いながら、ピアノや歌やリコーダーを合わせるというのをやって以来、もっとやりたくなってしまったようなのです。ピアノは一人でも楽しめる楽器なので、自分だけで空想にふけったり世界を作り上げたりできていました。今までそれが気楽、そして幸せを感じていたし、今もそう感じることも多いのですが、このごろどうも、そちらとは反対方向にも気持ちが向かっています。

 アンサンブルと言えば先日、友人と行った演奏会での演奏にも心打たれました。プーランクのクラリネットソナタ第1番でのクラリネットとピアノ。生島繁氏のクラリネットの演奏の音色が多彩なこと、ピアニシモからフォルテまでの表情が見事に出ていてここまで表情が出せる楽器なのだと驚くあまり。繊細なピアニシモの音色を一音たりとも聴き逃すまいという気持ちになりましたが、そのクラリネットと見事に溶け合う演奏をされていたのが、ピアニストのパトリック・ジグマノフスキー氏でした。ちょっとひねりのある、哀愁あふれた旋律にうっとりしました。 そして彼、ジグマノフスキー氏と奥さんの池田珠代さんの連弾を数曲聴くことができたのですが、息がぴったりあった素晴らしい演奏でした。特に印象に残ったのはドヴォルザークのスラブ舞曲Op.72-2とスメタナのモルダウ。どちらの曲もオーケストラのイメージが強くピアノ連弾とは結びついておらず、どのような演奏なのか大変気になっていたのですが、どちらの曲もオーケストラにまったくひけをとらない自然で響きの美しい演奏でした。実はこの二曲、何を隠そう、どちらも作曲者自身による連弾版なのでした。しかもドヴォルザークのスラブ舞曲はブラームスのハンガリー舞曲と同じくピアノ連弾版の方が管弦楽版よりも先に出版されたのですね、驚きでした。ブラームスはドヴォルザークの音楽に心酔しており、友人で楽譜出版社の経営者であるジムロックにドヴォルザークを紹介したところ、ジムロックはドヴォルザークにブラームスのハンガリー舞曲と同じような曲を書いてくれないかと依頼しました。そして出来上がった曲がスラブ舞曲で、第1巻に8曲、第2巻にも8曲。もともとはブラームスのハンガリー舞曲と同じくピアノ連弾版が先で、後にドヴォルザーク本人によって管弦楽版に編曲されたそうです。そしてドヴォルザークのスラブ舞曲のOp.72-2をいつか音にしたいという願望が。他のスラブ舞曲も聴いてみたくなりました。モルダウのピアノ連弾版は本人による編曲で一曲にまとまっていたのですが水しぶきのあがってきそうなドラマチックでストーリーが感じられる演奏でした。その後演奏された豪華絢爛なラ・ヴァルスでさらに興奮。その後も素晴らしい演奏に楽しい演出を十分に堪能することができました。

 そして指揮者アバドによる絵本「アバドのたのしい音楽会」を紹介します。

なんとあの指揮者アバドが本を書いていたのですね。twitterの友人の紹介だったのですが、音楽とはなにかという問いかけ、彼が指揮者になるいきさつ、オーケストラの楽器について、演奏の形態、指揮者としての在り方、音楽を演奏したり聴いたりするうえで大切だと思うことについて彼の言葉で丁寧に書かれています。音楽一家に生まれ育ったアバド氏は幼少期から音楽に囲まれた生活を送っていたのですね。特に印象に残った部分をあげます。

「パパはぼくに、伴奏をしてみないかと言った。(略)そしてパパはとても厳しかった。大声で、もっと速くと言い、いつまでもやめさせてくれなかった。その後、ぼくがずっとまともに弾けるようになってからも、パパはいつもそうだった。音楽に関してはものすごく気難し屋で、ひとが変わったように厳しくなるのだ。そのときパパに教わった秘訣はこうだ―誰かといっしょに音楽をやるときには、自分がうまく弾けるとか、よい耳を持っているかということはそれほど重要ではない。音楽的”対話”のある伴奏とは、その会話を感じとり、受け入れ、その神秘的な意味の端々まで完全に理解することなのだ。音楽においても日常生活においても、ほかのひとの言うことに耳を傾けることが最も大切なのだ―」

 自分がうまく弾けるとか、というのは分かるにしても、よい耳をもっているかということがもっとも重要なのではない、という見解にはかなり衝撃を受けました。主にアンサンブルについての見解だとは思うものの、日常生活の大切さを語っているところでは身につまされました。

 他に指揮者は楽譜を徹底的に勉強するという話のくだりにも教えられました。楽譜は本と同じく、何度読んでもつきない、新しさと神秘の泉なのだということ。かわいらしい絵のたくさん入った楽しい絵本です。


トンネル脱出か

2013年06月29日 | ピアノ・音楽

 今日は内輪の仲間同士での発表会がありました。私はピアノソロ、連弾、歌、リコーダーで出演しました。ピアノソロ、曲数は短い曲一曲だけだったのですが、これがもう心配で心配で。。前回まで2度こけているので。しかし、今回は、音ミスや音色、強弱、表情の起伏をもっとつけたかった、想いをもっと音に出したかった等の課題は残されたものの、止まったり弾きなおしたり外しまくったりすることはなく、音楽の流れにのった演奏ができたと思います。長期的な課題はたくさんありますが、本番トラウマのトンネルからは脱出できたと思います。しかし、本番というのは、エネルギーを使いますね。出演後は憑き物が落ちたみたいにぐったりしました。毎回本番ばかりのプロなんか本当にタフでないとやっていけないと思いました。しかし、本番というのも間隔を開けずに回数を増やせば、却ってタフになれるのかもしれませんが、その前にばてないことが大切ですね。それにしてもピアノ、連弾の練習の過程もとても楽しかったです。ああでもないこうでもないと言いながら練習することで学べることってたくさんありますね。

 ひとまず一件落着。これからもこつこつ頑張っていこうと思います。

 

 音源編も更新しました。耳が壊れてもよいと思われる方はお入りください。


四つの最後の歌

2013年06月14日 | ピアノ・音楽

 今月末はピアノ以外の内容も含めた内輪の仲間での発表会がある上に、のんびりしていた私も来週からのんびりできなくなるので、今は心も体も音楽方面はその発表会、そして演奏する曲へと専念しようと決意していたのですが、そのようにしたとしても(すればするほど?)、他方面への関心も消せないものです。いや、もともと、気が多い人間だったのかもしれませんが(汗)

 しかしたまにはそういう姿をブログに書くのもありのような気がしてきたので書くことにします。本番が近付いているピアノを弾く人間にしては集中力に欠けた態度なのかもしれませんが、ひょっとしたらブログを読んでくださっている方の中に関心を持ってくださる方がいらっしゃるかもしれないので。

 今月8日はロベルト・シューマンの誕生日でした。折角だからシューマンの音楽を聴こう、と思って聴いてみたところ、芋づる式に聴きたい曲がでてきて飽和状態、結局聴きたい曲が全部は聴けない状態でした。私はシューマンが好きだと思っていたのですが、ここまで好きだったとは思わなかったです。本当に心の底から好きだったんだなあと改めて感じました。それでも室内楽を始めとして知らない曲もたくさんあるのですが。 

 そしてその2日後の10日は、リヒャルト・シュトラウスの誕生日でした。今までの私にとってシュトラウスといえば聴いただけで踊りだしたくなる曲をたくさん作ったワルツ王ヨハン・シュトラウスに決まっていました。その一方、リヒャルト・シュトラウスといえば私が真っ先に連想したのは映画「2001年宇宙の旅」のみ。交響詩ツァラトゥストラはかく語りき」の導入部が「2001年宇宙の旅」のテーマに採りあげられました。しかしそれ以外のリヒャルト・シュトラウスに対して抱いていたイメージは哲学的でかっこよさそう難しそうでなじみにくいメロディーが多い上に、ピアノで弾かれる曲も多くないため、敷居が高いというイメージ。しかし、なじみにくそうなものであればあるほど却って無縁だと言いたくない、知っていた方がかっこいいように思い始めました。そこでちょっと背伸びしてみようと思って聴いた曲が、最晩年にヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフとヘルマン・ヘッセの詩に基づいて作られたという、四つの最後の歌という曲でした。確かに第一印象は、機能和声に心底なじんでいる耳には素直に入ってくる曲ではありません。しかし、聴いているうちに、近現代の曲には多い曲線的なねじれがありながらも天に上るようななんともいえない音楽に魅力を感じました。

 ちなみにこの四つの最後の歌は以下の順番です。

  1. 「春」 Frühling
  2. 「九月」 September
  3. 「眠りにつくとき」 Beim Schlafengehen
  4. 「夕映えの中で」 Im Abendrot

 素敵な演奏はいろいろある上に、とてもではありませんが、全部聴き切れていないのですが、同じく最近気になりだしている歌手である、グンドゥラ・ヤノヴィッツ氏の「九月」 September と、「夕映えの中で」 Im Abendrot の動画を掲載します。

 ソプラノ:グンドゥラ・ヤノヴィッツ 指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン

「九月」 September

「夕映えの中で」Im Abendrot

 

 これをきっかけに、リヒャルト・シュトラウスの音楽をもっと聴きたくなりましたが、さすがに今は保留です。

 なお、コメントもなしでm(__)mすみません。

 注)文章を一部修正しました。


エリック・ル・サージュ ピアノリサイタル

2013年05月17日 | ピアノ・音楽

 今日は以前から生演奏を聴きたいと思っていた、エリック・ル・サージュ氏のピアノリサイタルに行ってきました。とても洒落た切れのいい演奏をするという印象があり、どんなにクリアな演奏を聴けるのかと思うと楽しみでたまりませんでした。

 曲目は以下の通りでした。

ドビュッシー作曲 子供の領分 (全曲)
 Ⅰ.グラドゥス・アド・パルナッスム博士
 Ⅱ.ジンボーの子守歌
 Ⅲ.お人形さんへのセレナード
 Ⅳ.雪が踊っている
 Ⅴ.ちいさな羊飼い
 Ⅵ.ゴリウォッグのケイクウォーク

ドビュッシー作曲 版画
 塔
 グラナダの夕べ
 雨の庭

ベートーヴェン作曲 ピアノソナタ第21番 ハ長調 ワルトシュタイン Op.53
 第1楽章 Allegro con brio
 第2楽章 Introduzione. Adagio molto - attacca
 第3楽章 Rondo. Allegretto moderato

休憩

シューマン作曲 幻想曲 ハ長調 Op.17
 第1楽章 "Durchaus fantastisch und leidenschaftlich vorzutragen - Im Legenden-ton - Tempo primo"(全く幻想的に、情熱的に弾くこと - 昔語りの調子で - 初めのテンポで)
 第2楽章 "Mäßig. Durchaus energisch - Etwas langsamer - Viel bewegter"(中庸に。全く精力的に - ややゆっくりと - 極めて活発に)
 第3楽章"Langsam getragen. Durchweg leise zu halten - Etwas bewegter"(ゆっくり弾くこと。常に静けさをもって - やや活発に)

ドビュッシー作曲 映像 第1集
 水の反映
 ラモーを讃えて
 運動

ドビュッシー作曲 喜びの島

アンコール

シューマン作曲 ダヴィッド同盟舞曲集op.6より第14番

シューマン作曲 子供の情景op.15より第1番「見知らぬ国と人々から」

 子供の領分でも幻想曲でもそうだったのですが、ピアノの前に来るといきなり弾き始められるという印象でした。しかし「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」の出だしから音の粒が軽くクリアなのにはびっくり。もやもやと弾きそうな印象を持っていたこの曲に対する先入観を見事に覆してくれました。「お人形さんへのセレナード」などは題名の割には今までほとんど印象を抱いていなかった曲だったのですが、こんなにいい曲だったんですね。「小さな羊飼い」は少し弾いたことがあります。私はぼんやりふんわりと弾いていたような気がしますが、ル・サージュの演奏はこの曲でもはっきりとした輪郭で音が浮き上がった演奏をしており、適度な緊張感もありました。決してぼんやりふんわりではありませんでした。

 版画は実際には旅行したことがないドビュッシーが、東洋やスペインなどに旅行したつもりになって想像力を駆使して書いた作品です。解説によると「塔」はガムランの記憶が聴き取れるとありましたが、ル・サージュの建てた塔はまさに豪華絢爛でした。構造がしっかりしていて決して崩れたりすることのなさそうなしっかりした立体的な塔。「グラナダの夕べ」はハバネラのリズムとムーア人の歌が聴き取れるとありましたが、スペインの熱い血が感じられるリズム感のある演奏だったと思います。「雨の庭」はフランス童謡が聴き取れるとありました(このパンフレットを見て初めて知りました)が、確かに細かく素早い動きの中からフランスの歌らしき旋律が浮かび上がってきていました。弾くだけでも大変なのにそこまで形作られるのが見事だと思いました。版画というタイトル通り、くっきりとした版画を刷ることができそうな演奏だと感じました。

 ワルトシュタイン、本人はベートーヴェンに情熱的に取り組もうとされているようで、演奏からもほとばしる情熱が感じられました。しかし、勢いのあまりなぜか1曲内で速度が変わるところが多かったような気が。拍感からもちょっと自由でテンション高い流れるような演奏でした。非常に難しいと言われる第3楽章も花開くような華やかな演奏を繰り広げてくれました。ちょっと落ち着きがなかったような気もしたのですが、まず音楽を流れるようにしよう、という思いが前面に出ていた演奏だったような気がします。昔のピアニスト、例えばベートーヴェン全曲を初めて録音したピアニスト、シュナーベルのベートーヴェンにもそういうところがあった、と思えば、なるほどと思えてきますが。

 休憩後後半は幻想曲。席に着くやいなや弾き始められました。さすが見事、ほとばしるように湧きでながらも細やかに音を紡ぐ演奏から張り裂けるような激しい演奏へとぐいぐいと引っ張って限りなく美しい幻想的な世界を作り上げてくれました。シューマンの憧れ、喜び、絶望的な悲しみ、希望など、よき感情も悪き感情も含め振れ幅が非常に大きく感じられました。第2楽章もすごかったです。ル・サージュ自身シューマンに格別な愛着を感じていたそうですが、そういう思いが演奏全体から感じられるような、そんな演奏でした。ものすごい難所も目じゃない、曲の根底にある心をしっかり引きだしていたように思います。しかし一番素敵だったのは第3楽章。この楽章自体素晴らしい曲なのですが、ル・サージュはスケールの大きさと曲の輪郭の把握と的確な表現によって、さらに曲の魅力を引き出してくれたような気がします。出だしから雄大で包みこむようなのです、こんな旋律だったのだと改めて認識。しかし歌っているのは主旋律だけではありません。低音の内声部で、このようなメロディーが入っていたのだと初めて気づくようなところもありました。隠れた低音の旋律が細かい音の間に浮かび上がるように聴こえてきて美しかったです。もちろん盛り上がるところでは力強く盛り上がり心の奥に訴えかけるような演奏でした

 ここから楽譜を見て演奏されましたが、ドビュッシーの映像もよかったです。「水の反映」、ゆったりした出だしから一転音がどんどん複雑に絡み合い、水が奔放にゆらぐようすが美しく描写されていました。版画ほど明晰な感じはしませんでしたがレースのように細やかで繊細な表情が出ていてしっとりした落ち着きも感じられました。旋律が見えない曲、分かりにくい曲が私は苦手で、苦手意識を克服したいと思っていたのですが、彼のドビュッシーの演奏を聴いていると、旋律から独立した音の純粋な響きあいから作られる美というものが存在するということが実感できたような気がします。「ラモーを讃えて」は初めて聴きました。ラヴェルのクープランの墓と思わず対比しそうになりました。こちらの曲はずっしり、ゆっくりとしたちょっととらえどころのない舞曲、噛めば噛むほど味わいが出てくるのでは、と思える曲でした。「運動」は一転、動きが軽く急速でリズミカル、途中で華やかな光が舞い降りてきたりもして楽しめました。細かく難しそうな動きがたくさんあるのですが安定していて安心して聴けました。

 「運動」が終わった途端最後の「喜びの島」へ!喜びの島であり極楽の島、ほとばしるような悦びが感じられ、夢のようでした。色と光が音からきらきらとはじけ出た豪華な夢の世界という演奏に酔いしれることができた幸せな瞬間でした。

  アンコールはシューマンの2曲でしたが、直前までのドビュッシーの雰囲気は一掃、愛しむような優しく柔らかい演奏で、温かい気持ちになれました。あれだけ丁寧な音色が紡ぎだせている、ということは音の隅々にまで耳と神経とが行き渡っているということでもあるのですが。。。見事な切り替え、そして終わり方でした。

  ル・サージュ、予想通り非常に高度なテクニックをお持ちの方だと感じました。曲の全体像、輪郭をつかむのが非常にうまく、つかんだ輪郭も立体的に再現していて、もちろん彼だからなのかもしれませんが、ピアノでもここまで表現することができるんだと感じました。聴きに行けて本当に良かったです。    


メンデルスゾーンとゲーテ (メンデルスゾーン基金日本支部の集まりより)

2013年05月14日 | ピアノ・音楽

 日曜日はメンデルスゾーン基金日本支部の企画に行ってきました。私も美しい音楽をたくさん作ったメンデルスゾーンについてもっと詳しくなりたいと思っていたところ、友人に会員の方がいて集まりのことを知ったからです。

 メンデルスゾーンと言えば、無言歌をはじめとする、旋律の美しい曲をたくさん作ったお金持ちの作曲家という印象を受けやすいし、私もそのように感じていた時期がありました。しかし彼は14歳の時祖母からクリスマスプレゼントにもらったあの「マタイ受難曲」の自筆稿の写本を研究し、なんと20歳の時に「マタイ受難曲」を復活させるべく上演、すなわちバッハをこの世に広めたという偉業を成し遂げた人物なのです。ユダヤ人であったこともあり、死後他の作曲家などから不当な扱いを受けたりもしましたが、作曲面でも演奏面でも大変な天才であった上に視野の広い人物でもありました。彼のオルガン曲や協奏曲を聴くと彼の音楽の力強さ、深さ、骨太さを実感します。

 今回はゲーテの作った詩をもとに作られた歌曲を、姉のファニー・メンデルスゾーンが作曲した曲とともに紹介する企画でしたが、演奏前に第1部として、メンデルスゾーン研究の一人者である星野宏美氏の「メンデルスゾーンとイタリアとゲーテ」という講演、星野宏美氏、淡野弓子氏、淡野太郎氏の鼎談がありました。

 星野氏の講演によると、フェリックス・メンデルスゾーンは人生の多くの期間を旅していたとのこと。子供のころに訪問していたイギリス、スイス、フランスに対して、大人になって訪問したイタリアには、訪問前から大変な憧れを抱いていました。訪問前からゲーテと親しく芸術について深く語り合い、イタリア訪問の際にはゲーテ著の『イタリア紀行』を備えて旅立ったとのこと。ただそのゲーテの紀行文、イタリアへの感銘から失望という内容も含まれていたらしいそうですが。メンデルスゾーンのイタリア訪問、最初のヴェネツィアではゴンドラに出会い、フィレンツェは1週間滞在、そしてローマは長期的に滞在し、そこで人との交流も持ちゲーテと出会っていました。メンデルスゾーンはイタリアでオペラを聴いたりしたものの、オペラの中心が北方面になっていたのもありイタリア音楽から退廃が感じてしまい音楽面では失望を感じたそうです。そのような失望もあったのでしょうか、彼は自分の根源がドイツであることを自覚したのとイタリアへのよきイメージを保持したかったのもあり(実際美術など他の芸術では感銘を受けました)、二度とイタリアへは訪れなかったそうです。ちなみにフェリックスの姉のファニー・メンデルスゾーンも親から音楽教育を受け大変な才能を持っていた人物でしたが、当時は女性が作曲などの仕事をするということが一般的ではなかったためか父から音楽活動を 自粛し,弟のよき理解者になるよう勧められました。しかし才能も熱意もある彼女、その後も細々と音楽活動を続け自作も出版しましたが。。。

 ゲーテとの交流もフェニックスは5回であったのに対してファニーは1回のみ。しかもゲーテと深く交流できたフェニックスに対して話すことはほとんどなかったファニーでしたが、ゲーテの詩を大変愛していたうえにゲーテも彼女の曲を愛しており、作った曲からもゲーテへの憧れが感じられたということでした。

 星野氏、淡野弓子氏、淡野太郎氏との鼎談ではゲーテの詩に基づいた曲のいきさつや特徴が語られました。詩で伝えたいことがしっかり伝わるように曲を付ける詩の連や行を前後、反復させているという例として、「Erster Verlust 最初の喪失」が挙げられていました。いまた恋愛などの私的な内容を語った詩に付けられたことの多かった独唱曲は出版されなかったものの、自然を語った詩に付けられたことの多かった合唱曲は出版されたという事実から本来は人に知られたくないような心のひだを歌った詩に曲をつけたことが後ろめたいという感情があったのでは、という話や、音の流れや重厚な和音、そしてその変化から衝撃を受け、なぜそのような和音、響きのものをメンデルスゾーンは作ったのかということを追求しながら演奏していきたい、という演奏者としての抱負等、興味深い話をうかがうことができました。

 後半の演奏では以下の曲が演奏されました。

独唱曲
Sehnsucht nach Italien イタリアへの憧れ 1822 曲:ファニー・メンデルスゾーン 詩:ゲーテ
Nach Süden 南へ Op.10 曲:ファニー・メンデルスゾーン  詩:不詳
Venezianisches Gondellied ヴェネツィアのゴンドラの唄 Op.57-5 曲:フェリックス・メンデルスゾーン 詩:Th.モーア(独訳:F.フライリガート)
Erster Verlust 最初の喪失 Op.99-1 曲:フェリックス・メンデルスゾーン 詩:ゲーテ
Die Liebende schreibt 恋する女が書いていること Op.86-3 曲:フェリックス・メンデルスゾーン 詩:ゲーテ
Suleika ズライカ Op.34-4 フェリックス) 曲:フェリックス・メンデルスゾーン 詩:ゲーテ=v.ヴィレマー
二重唱曲
Suleika und Hatem ズライカとハーテム 曲:ファニー・メンデルスゾーン 詩:ゲーテ=v.ヴィレマー
合唱曲
Auf dem See 湖上にて Op.41-6 曲:フェリックス・メンデルスゾーン 詩:ゲーテ
Die Nachtigal うぐいす Op.59-4 曲:フェリックス・メンデルスゾーン 詩:ゲーテ
Frühzeitiger Frühling 早すぎた春 Op.59-2 曲:フェリックス・メンデルスゾーン 詩:ゲーテ

演奏者
独唱:永島陽子、淡野太郎、淡野弓子
二重唱:柴田圭子、依田卓
合唱:メンデルスゾーン・コーア&ハインリッヒ・シュッツ合唱団有志
指揮:淡野太郎
ピアノ:山形明朗

 ファニー・メンデルスゾーン作曲のイタリアの憧れは彼女自身のイタリアへの憧れが切々と感じられるものでした。ヴェネツィアのゴンドラの唄は無言歌のピアノ曲にもありますが、淡野太郎氏のバリトンの響きがしぶく訴えかけるような感じでとても心を打つものでした。個人的には無言歌のヴェネツィアノゴンドラの唄よりも好きだった気がします。独唱曲と二重唱曲として作られたズライカの作詞者であるV・ヴィレマーは、晩年のゲーテがひそかに恋した若き人妻で、作品はハーテム(男性)とズライカ(女性)の詩のやりとりを描いた愛の章であったとのこと。おおっぴらにはやはり出版できない事情がこちらにもあったようですが、独唱曲、二重奏曲ともストーリー性のある美しい曲でした。

 出版されているうえに和声が重厚だとの説明もあった合唱曲の三曲は、メンデルスゾーン・コーア&ハインリッヒ・シュッツ合唱団有志
の方たちのアカペラでした。衝撃的な和声変化の発見まではちょっといけませんでしたが、ドラマ性が感じられる変化に満ちた堂々たる曲であることが伝わってきました。噛めば噛むほど感じられそうな味わい。曲の持つ力そして人の曲への愛情、声の力を実感しました。やっぱり人の声っていいですね!

 改めてよき集まりに行けたと思いました。メンデルスゾーンの音楽や生涯についてもっと知りたいと思いました。紹介してくれた友人に感謝です。その後会場近くの店を回り楽しみました。代官山いいところですね、あそこの某書店は極楽すぎて魔の空間です。

 おまけ

Felix Mendelssohn - Die Nachtigall うぐいす. opus 59, № 4 
演奏:TheArmChoir

 


練習会

2013年05月14日 | ピアノ・音楽

 お絵かきを入れる予定ですがその間に2記事(もう1記事入るかもしれません)音楽記事を入れます。

 先週末土曜日はピアノ練習会。練習したり、日ごろの練習の成果をお互いに披露&聴きあい、人前での演奏に慣れたりするために集まっています。始まる前にこう弾こうという目標を立てるのですが、大体思ったように弾けず、それでもメンバーたちの熱意と温かさのおかげで大きなエネルギーをいただき毎回励みになっているという集まりです。今回もそうでした。

 ちなみに今回の私の目標の一つは「休符に気を付ける」でした。たかが休符されど休符。ときにレッスンで指摘してもらう前には気づかない休符の中にも、入れることによって緊張感がもたらされたりする重要な休符があるのですね。休符のないときで音が飛んでいるときにはぎりぎりまで伸ばして瞬間移動 とか、休符のあるときにはその前の音をパシッと切るかそれとも余韻の有るような雰囲気で聴こえないようにするかという離鍵についてもこだわったりしたら本当にきりがないです。それプラス、まともな音楽らしく聴こえるようにする、となるとさらに難題が(汗 )ミスタッチも嫌ですよね、そのミスタッチ、歌いたい、と思ったところや、難所を通過した直後のようなところが危険だったりします。先日もそれでした、プーランクの「エディットピアフを讃えて」ここで歌わせるぞ~と言った場所のソプラノの出だしで見事に指が違うキーの上に着地しました。そうなったら最悪。内声や低音部でつじつまを合わせるように弾いていてもあきらかに大切な音が欠落していることには変わりない。どこも間違えたくないけれど、特に間違えたくない場所、というのが明らかにありますよね。そういう場所ではなぜか力みやすいのですが、そういうところでこそ正確に弾きたいですよね。(一方和声的に影響がなさそうなところはちょっと間違えてもなんとかなったり(ここは練習時にはできるだけ参考にしないほうがいい項目ですが、実際にはそういうことがあります) )着地箇所を正確にした上に表現豊かにするに不可欠なのは運動神経なのかしら。。。耳が痛いです。こまめな練習しかないのかもね。

 音を響かせるために重心を置く場所、というのもありますよね。背筋をもっと使うとよい、とあったし、実際そのようにすると、音も出ていたような気がするのですが、先日はそういう意識はすっかり吹っ飛んでいました。唯一明らかに存在していたのは格好つけて背伸びしたい妙な色気。そういう色気だけは自然と湧き上がり、想定外の曲も衝動で登場させ撃沈しました(汗)

 録音、今回はしなかったのですがしてみたらさぞかしどのようなものかが分かるだろうな。人様に録音を勧めたからにはそろそろ自分の恐るべき演奏、客観的に聴いてみなければと思いました。メンバーたちも課題や目標をもって臨まれていて、練習会の場を有効に活用されているようです。本当にまじめ、謙虚な方たちばかりでありがたいです。私も足元を見つめしっかり練習しよう、と行くたびに思うのです。本番を控えた方たちのご健闘、この場をお借りしてお祈りいたします(^^)


名曲シリーズ シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

2013年03月26日 | ピアノ・音楽

 友人のピアノを聴いた後はオーケストラを聴きに行きました。シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団による、東京芸術劇場名曲シリーズです。シルヴァン・カンブルラン氏指揮の演奏を初めて聴いたのは昨年10月に「マ・メール・ロワ」と「ダフニスとクロエ」でしたが、音が上へ上へと舞い上がるまるで夢のような世界にすっかり心奪われました。そして12月には第九を聴きに行きさらにお気に入りに。彼の来日時は必ず一度は演奏会に行こうと決めてやってきたこの日。期待しながら行きました。東京芸術劇場に行ったのは初めてだったのですが、改装されて華やかな施設になっていました。

 曲目は以下の通りでした。

メンデルスゾーン作曲 弦楽のための交響曲第8番 ニ長調

モーツァルト作曲 協奏交響曲 変ホ長調 K.Anh.9

休憩

モーツァルト作曲 交響曲第39番 変ホ長調 K.543

 最初の弦楽のための交響曲第8番はメンデルスゾーンが13歳の時に作った曲で弦楽器だけの演奏でした。第1楽章、最初の短調の出だしから湧き上がるような軽やかな主題へと舞い上がるところで一気にわくわくと何か物語が始まりそうな雰囲気に。第2楽章は中低音の弦楽器が活躍。ゆっくり歩くような感じだからこそ却ってごまかしのきかなそうな部分だろうと思いながら聴いていました。第3楽章ではたちまち華やかで楽しい雰囲気に。第4楽章では若々しくはつらつとした音楽が。中には対位法のようなおっかけっこもありわくわくした気持ちになりました。モーツァルトとどことなく似ていたところもあったような気が。

 モーツァルト作曲の協奏交響曲は木管楽器のソロが活躍する曲でこの曲も初めて聴いた曲でした。木管楽器のソロの方たちの織りなすアンサンブルと背景のオケとの溶け合いが素敵でした。クラリネットとホルンが印象的だった気が。どちらもソロで聴くことはほとんどないのですが豊かでのびやかな気持ちになれそうでした。

 休憩後は唯一知っていたモーツァルト作曲交響曲第39番。この交響曲第39番に出会ったのは学生時代。交響曲を初めて聴きたいと思った時期と、指導教官がモーツァルトが大好きだったのとが重なり、最初に是非自分でCDを買って聴こうと思った交響曲がモーツァルトの後期の交響曲でした。クラリネット五重奏曲をいつも研究室でかけていた指導教官に交響曲のお勧めのCDを尋ねたところ、ホグウッドという答えが返ってきたので何の疑いもなくホグウッド指揮の38番プラハと39番が入っているCDと40番と41番ジュピターが入っているCDを購入したのでした。初めて購入した交響曲のCD、モーツァルトとの出会いとともに交響曲そのものとの出会いでもあったホグウッドのCDの中にこの39番も入っていて当時何度も聴いては励まされていたのでした。(当時は分かっていませんでしたが、実はピリオド奏法が流行しはじめた時期だったのでした) なのでこの曲を生演奏で聴けることをとても楽しみにしていました。おそらくカンブルラン氏も古楽的なアプローチをしそうだから、ホグウッド氏と近いところがあるのではないかという期待もありました。

 カンブルラン氏が第1楽章を振り始めた瞬間、当時の思い出もともによみがえってきました。しかし今回は何といっても生演奏。奥行きがあって薫り高い演奏がステージからどんどん湧き上がってきました。カンブルラン氏による指揮のモーツァルトはどこまでも温かく軽やかで想像力をかきたててくれそうな演奏でした。ちなみに序奏、実は指揮者によってはかなりゆっくりしているのですね。後でヨッフム、ベーム、ワルターの指揮による演奏を聴いてびっくり(気付くの遅すぎですね)

 第2楽章、主題のかけあいを大切にしていそうなカンブルラン氏の動きが素敵でした。それぞれの楽器がお互いにお話ししているような感じでした。音のみによるオペラ劇場。

 第3楽章のメヌエットはまさに舞踏としてのメヌエットでした。曲とともにタクトを躍らせていたカンブルラン氏、そしてその指揮棒に合わせていた楽団員たち、タクトに合わせて合わせて音を躍らせていました。思わず私も拍子に合わせて指揮しそうになりました。さすがに指揮は恥ずかしかったのでうなずきつづけていましたが(爆)幸せな気持ちになれるメヌエットでした。

 第4楽章の主題はとても印象的で大好きなのですが、さすがです。ダイナミックに主題を繰り広げてくれました。オーケストラ、もっと指揮棒に乗って疾走してくれてもよかったかもしれない、というところもありましたが、全体としては色彩豊かで素敵な演奏だったと思います。旋律が消えたりころころ転調したりと変化に満ちた音楽、その中にあるドラマがしっかり伝わってきました。カンブルラン氏の解釈でしょうか、途中、金管楽器が3回続けて音を鳴らすところが数回あり華やかな雰囲気を作り出していたのも印象的でした。終わるときには温かく満ち足りた気持ちになりました。

 今更なのですが生でオーケストラを鑑賞する際には指揮者の動きと音の立ち上がり方、そしてパートごとの音の違いとパート内でも場所による音の違いとをしっかり感じ取ることが大切だと思いました。その感じ取る感覚器官は主に耳と目とおそらくプラスアルファ。空気のような皮膚感覚も大切なのではと感じました。

 今後もまたカンブルラン氏指揮による演奏を聴きに行きたいと思いました。


心に残ったピアノ

2013年03月26日 | ピアノ・音楽

 先週末、土曜日はハンガリアンの初合わせを行いました。5番、とにかく合うようにすることが大切だと思い、はじめはゆっくりゆっくり合わせていたのですが、vivaceのところを過ぎたとたんテンションが上がり速度も上昇。余裕もなくなってしまいました。大切なのは音が合うだけではなく呼吸も合うことだと痛感。でも合わせただけでも、楽しかった。これからきちんと磨いていきたいです。

 日曜日の昼は友人のピアノを聴きに行きました。某コンクールで受賞された方たちの演奏会でした。彼女の演奏を聴くのは本当に久しぶり。厳しいと言われるレッスンを受けながら頑張られてきた尊敬していた方だったので、演奏会に出られるということを知ってとてもうれしかったのです。ぜひ聴きに行かなければと思いました。 彼女が演奏した作曲家はバッハとドビュッシー。どちらも楽譜が真っ黒になるような技巧的でいわゆる「難しそうな」曲ではなかったと思います。しかし、演奏が始まって目が覚めるような思いに。光が差してくるような演奏でした。高貴な音色と磨きのかかった表現。どんどん彼女の温かく包み込むような音楽の世界に惹きこまれ、どんどん心の奥底に染み入りました。バッハは私も弾いたことのある曲だったのですが、当然のごとく曲への取り組みや密度が全く違っていました。お忙しい中本当に努力を積み重ねられていたのですね。ちょっと弾いては飽きたりとか、ついつい浮ついた練習をしやすい私からしたら、まさに襟を正さざるを得ない、いや、正したくなるような、そんな深みのある演奏でした。演奏によって、曲の魅力はどこまでも引きだすことができ、心を動かすことができるのですね。そのような素敵な演奏を聴かせてくれた彼女に感謝です。

 やっぱりピアノっていいな、音楽っていいな、そして、私も今後のピアノへの向き合い方をきちんと見つめなおしたい、と思ったひとときでした。


本番終わりました

2013年03月18日 | ピアノ・音楽

 昨日はクープランの墓、プレリュードとフーガの本番が終わりました。前回のような失敗はないようにということで準備も暗譜も早めに取り組んでいたのですが、今月になってハプニングがありすぎて練習もままならず。直前の一週間で急速にエンジンをかけて練習したような状態でした。

 エンジンがかかった勢いで本番へ、と思ったのですが、出られている方たち、ほとんど間違えないのです。しかもショパンやプロコの大曲を暗譜で。確かアマチュアの方だったはず。ある方たちにとってはそれは当たり前かもしれないのですが、私にとっては当たり前ではありません(爆)その方たちは常にエンジンがかかっているのかも。しかしそれでどうこうなるというのでは甘い。とにかく、流されずに、平常心を保って、弾くしかありません。

 しかし平常心のなさは演奏にもあらわれてしまいました。プレリュードで指が震え浮いてしまうという、練習ではなかったような状態に。しかもこんなに速くならなくてもいいのに勝手に速くなりどこへ向かうのか問いたくなる状態、車の運転だったら完全にまずいです。

 フーガでなんとか自制心を取り戻したものの、満足できる演奏からは程遠い状態。暗譜落ちだけはなかったものの、課題の多く残された結果となりました。

 いただいた講評でもっとも多かった内容が

「もっとゆっくり弾いていいです、拍をしっかりとってください」

うっ、練習ではやっていたのですが。本番は非常事態だったのかも、普通は反対でありたいのに(汗)

 年齢を重ねるにつれて、メカ的に込み入った曲は指が回らなくなりやすいのですが、そういう時こそ、拍に気を付け落ち着いて演奏しようといことでした。確かに、指が確実に回りにくくなっているのが身に染みて実感するこのごろ。指の回る若い方たちの演奏を聴いて、私もかつてはもっと指が回ったのに、という負け惜しみを言いたくもなりますが、それでは進歩がありませんね。指だけではなく、彼ら彼女たちはまっすぐな気持ちで取り組んでいたと思います、その面でも見習うべきところが多かったです。

 基礎的な練習も含め、見直したいことがたくさんありました。一度の本番で得られること学ばされることの多いこと多いこと。どんなに痛い目にあっても、やっぱり弾きつづけ本番にも出つづけようと思いました。

 それからピアノという楽器は確かに孤独なところがあります。そして演奏する楽器が毎回違うので楽器に慣れる必要もあります。昨日の講評時に調律師さんからの話でもあったのですがオケでも弦楽器の方たちは音合わせをお互いに話しあいながらできるけれどピアノはひたすらその楽器に慣れるために一人で試行錯誤を繰り返すというケースも多いとのこと。ピアノの一つの楽器で一度に多くのことができ、マイペースで練習しやすいという利点の裏返しかもしれませんね。ちなみに昨日演奏した楽器はとてもいい楽器で調律師さんも誇りに感じていらっしゃったのですが、慣れる前に本番が終わってしまいました。楽器にもっと早く慣れるのも課題の一つでした。

 しかし、最後にもう一度だけ言い訳。いつも聴きに来てくれている友人が昨日も来てくれたのですが「あの状況でよくここまでやったよ~お疲れ様」と言ってくれたのがありがたすぎました。

 そう、今回については、ちょっと、そう思いたくもあります。

 では、心機一転、前へ向かって歩んでいきたいです。

 久しぶりに音源編も更新しました。(お手柔らかにね)