ドラマチック
という言葉から皆さんは何を連想されますか?
ドラマチック、日本語でいうと「劇的」という意味ですが、なかなかこの言葉、使うのが難しいことが分かってきました。私はドラマチックという言葉をあまりにも多用しすぎる傾向があったかもしれません。
例えばベートーヴェンソナタの第5番、ドラマチックに弾きたいと述べたら、悲愴ソナタや熱情ソナタなら分かるけれど第5番はドラマチックというほどではない、と言われたことがあります。そのとき感じたことは自分の曲へのとらえ方の甘さとともに言葉の選択の甘さでした。しかしそれでもいいのでは、ドラマチックでもいいのでは、という思いも少し残っていました。少なくともその前に弾いていたソナタ20番よりはドラマチックなんだけどな、この曲はドラマチックに弾いたほうが思いを込めて弾けるのにな、と思ったり。
いや、熱情ソナタでも別の人にとってはドラマチックの定義に当てはまらない可能性があります、むしろ、あって当たり前かもしれません。激しく情熱的=ドラマチックだとは言えないこともあるのです。
ドラマチックだけではありません、音楽を言葉で表すことによって、音楽により近づくことができるかもしれませんが、安易に用いることは却って音楽から遠ざかる危険性もあるかもしれない、と感じるこのごろです。でもそういう危険性を恐れてばかりいたらそれはまたつまらないのですが。。。
ちなみに昨日テレビで、三省堂の国語辞典の編集について、良友だった二人の国語学者が辞書についての考え方の相違がゆえに決別することになったものの、お互いがそれぞれの個性を生かし素晴らしい辞書を作った話を見ました。見坊 豪紀氏は辞書を「かがみ」であると捉え、言葉の実態を映す「鏡」の性格と、言葉を正す「鑑」の性格を持つものでなければならないという主張のもとに出来る限り多くの言葉を収集し客観的な記述を求め、「三省堂国語辞典」を作りました。一方、 山田忠雄氏は言葉の意味の定義に堂々巡りがあってはならぬ、辞書は語釈を楽しんで読むものであり、そこには社会風刺も含まれてよい、という考えのもとに説明を詳しくした、「新明解国語辞典」を作りました。たとえば、恋愛、動物園という言葉を新明解国語辞典で調べてみたらちょっと過激でリアルな説明が描かれています。一方三省堂国語辞典には時代に応じてウルトラマンが登場したり (第六版では退場したそうです)、第六版では「マスオさん」「耳をダンボにする」のような言葉もきちんと採りあげられています。辞書のように言葉を客観的に扱っていそうな書物の編纂でもこのようなことがあるのです。言葉は物事を的確には表し切れない、しかし人は言葉がなければ生きていけない。本当に、まったくですね。
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