在フィリピン日本大使館の一等書記官の必死の呼びかけに応じて四名の残留日本兵が投降に
応じて下山しました。五十数名以上と確認された日本人で下山したのは四名だけでした。
他の人は、後に下山したのか、病死したのか、もしくは現地妻との家族との生活を送ったのか
分かりません。
投降した四人がにほんに帰る貨物船 山萩丸(山下汽船・現商船三井)内で書き残した手記が
船内でガリ板刷りにされ乗組員だけに配布されたもようです。貨物船と言っても定期客船の無い
航路は2~3部屋の客室があり便乗の形で乗ることはできました。政府の依頼でしょうから山下
汽船も最大級のもてなしをし、乗組員の大部分も太平洋戦争に駆り出された人たちですから戦友を
故国に送り届ける任務に興奮したことでしょう。
【比国残留日本兵たちの手記】 ( 山下汽船 山萩丸船内に於いて)
『 孤 籠 手 記 』
ミンドロ島「サンホセ」飛行場の攻撃の命を受け、同島「カラパン」に到着したのは昭和二十年
元朝であった。未明より探索する敵機の為、舟艇三隻に便乗した同志は同地に仮泊する事も出来ず
上陸潜伏した時には、初日は早や海岸の椰子林を越して晴れた東の空に揚がっていた。
「お正月どころではない」 戦闘配備、駐屯部隊への連絡、此処に於いて幡谷中将以下百三十名の
攻撃中隊は編成された。
「コラシ」湾上陸、「サンホセ」東方山岳地帯に到達したのは同年二月五日夕であった。
当時に於ける敵情は実に優勢なるものがあり銀翼もまぶしく居並ぶ多数の敵機を見て躍起した。
「夜襲 切込みは一度だ!」
隊長以下白たすき、白はちまき、も雄々しく出征したが、不幸一敗地にまみれ、以来襲撃と病魔
と糧秣の貧缺とによって部隊は四散、その大半は斃れたものと認む。
同年十月頃より各所に於いて見た「日米休戦協定成立す」「日本人各位に告ぐ」「日本人の捕虜は
幸福だ」等等、フィリピン駐在米軍司令部より出された投降勧告文は、今からおもえば「うそ」では
無かった様だが、而し当時未だ各所に交える彼我の戦闘銃声、また当時に於ける我人の気持ちとして
斯くの如き宣伝ビラを信じる由もない。
小隊は二手に分かれ「ロハス」西北山中に於いて自活態勢を取ることなりしも、以来またしても
病魔の為に数多の戦友を失い、遂に四名生き残ることとなっていた。
十一年間に亘る孤籠自活の状況を簡記したいと思ふ。
「ミンドロ島山中に点々と土民「マギヤン族」が農を営み、甘蔗(さつま芋)を主食として生活
している。追われ追われてての身「さつま芋でも良い、腹一杯にでも」と。
幸い農家出身の兵が多かった小隊では「これ位の百姓なら」と取り付いた第一年、思いもよらぬ
豊作は欲望と勇気と生への光明を与へ、初物の新芋を味わった時の歓喜はおそらく在滞間の最高
のものであったであらう。
見知らぬ土地に於ける農法、それから割り出してからの集団生活の努力は身にしむものがあった
程に、余計に未だ印象附けるものがある。
「もう一秒我慢するんだ」 難しい主義主張も無い、臥薪嘗胆の三か年は送くられ、
基礎建設の目鼻はついた。とは云え、ようとして外界の情勢は不明であった。
亦、後の不安を打開するものは
「生甲斐のある生活態勢の樹立」
にありとの下に、全員持てる力を発揮した。家も理想的に建て、小さな「靖国神社」、続いて
「山の神」も祭られた。「御互いの気持ちで」面白く生き抜こうと各々の持つ底力は窮した道
を打開し内面的に充実した。が昭和二十七、八年と五名の戦友が病の為斃れ、一足先に不帰の
旅路へと立たれしことは、居残る四名が如何ほど悲痛の淵に悩みしことか、一段と意を強く
新しい気持ちで憐きあうより他は無かった。
一貫して常に脳裏より脱し得なかったものは「敵襲」である。がこの時期に於いては観念的に
和らいででいた。安神して時期の来るまで生きるんだ。また此の度戦友を失いいつまでも
くよくよしていては気の毒だ。と神社へ合祀した。
「悪夢は明日への運命を妨害するものである」と欲望は次第に情操的に指向されるようになった。
暇を見ては昔の小学校の復習勉強、楽器の作成、酒の製造等、生活方面では農法の改善、
製糖器、玉葱、黍粉粉砕機、農具の改良等の作成、それに家畜(豚・鶏)増加繁殖等に重点を
置き、被服の方は手製の着物等も出来て不自由はなかった。が食塩だけは如何とも為し難く
遠く海を眺めては頭をひねっていた。が此處数年来の不食塩体に左程切実な問題、否、たまたま
笑い話の種くらいしかなっていなかった。
当時飼っていた一匹の子猿は少なくなった家内の中にあって無心にも我らの愛嬌を買っていた。
自己の年の経つのも知らねども、永年の絶交生活に於いて使用した農具、鍋釜等も命はつき
又、壊れた。これ等を補充すべく昭和三十年八月、付近の土民(マギャン族)と交渉を開始、
以来一か年半見事成功、物資は勿論、今頃では土民の家に泊まり、土民もまた家に来ては遊宿
し、たまたまご馳走等も交換し気焔を挙げていた。久しく絶っていた食塩も少々であったが
入手することが出來、一日一食であったが膳を賑わしていた。土民の女達も片言を交えて
語らい、恥ずかしながらも招待してくれる等、一風変わって生活に享味を与えていた。
この交際が次第に伝わり、平坦の「シベリアン」の耳に入る所となり、時又、日比の情渉から
して「フィリピン」政府へと伝達し、大使館を始め其の方の御手数により再び生きて故国の地
を踏む次第となったものと思う。
回観十二年、過ぎ去った現在に立ち至って考えれば左程長くも感じない。が音信の絶えた異国
の山奥暮らしに於いて第一に大事なのは「体」であるとはいえ之を底つけるものは精神力だ。
何物も侵すべからざる我慢と信念、希望、死線を突破した生き抜く力、之等は陰ながら
見守って下さった「神の力」が現在を在らしめたものと信ず。
余る生涯において忘れることのできないのは此の「ミンドロ」生活であらう。と共に忘れて
ならぬのは眼のあたり斃れて行った戦友の姿、悲しい声である。
山の家に祭られた護国神社の神々がはかなき現身に思いをやられ、懐かしの内地へと運命
つけたものであらう。遺骨、遺品も一緒にふところにしてきた。
孤独な山中生活に於いて、別に興味ある又、享楽的な話題もないが、幾度か死線を越え、
貧困な生活に於いて生への光明を生み出し生きながらえて来たことは今後なんらかの参考
となると思ふ。
現在の変わった世界、復興した日本を眺め、我々は一段と生き甲斐を感じつつ入国の日を
待っている。
山下汽船 山萩丸 船中に於いて。 (繁一)
『生存者 氏名』
和歌山県田辺市芳羪町一七七六 山本 繁一
秋田県南秋田郡富津内村中津又 石井 仁太郎
岩手県九戸郡小軽米村字小軽米 中野 重平
長崎県西彼杵郡矢上村平野区字榎之木 泉田 政治
以上
(源三注・上記四名は多分物故者でしょう。子供たちや親族は居られるとおもいます。
この手記の内容はご存じないでしょうから関係者にお伝え頂ければ幸甚です。)
応じて下山しました。五十数名以上と確認された日本人で下山したのは四名だけでした。
他の人は、後に下山したのか、病死したのか、もしくは現地妻との家族との生活を送ったのか
分かりません。
投降した四人がにほんに帰る貨物船 山萩丸(山下汽船・現商船三井)内で書き残した手記が
船内でガリ板刷りにされ乗組員だけに配布されたもようです。貨物船と言っても定期客船の無い
航路は2~3部屋の客室があり便乗の形で乗ることはできました。政府の依頼でしょうから山下
汽船も最大級のもてなしをし、乗組員の大部分も太平洋戦争に駆り出された人たちですから戦友を
故国に送り届ける任務に興奮したことでしょう。
【比国残留日本兵たちの手記】 ( 山下汽船 山萩丸船内に於いて)
『 孤 籠 手 記 』
ミンドロ島「サンホセ」飛行場の攻撃の命を受け、同島「カラパン」に到着したのは昭和二十年
元朝であった。未明より探索する敵機の為、舟艇三隻に便乗した同志は同地に仮泊する事も出来ず
上陸潜伏した時には、初日は早や海岸の椰子林を越して晴れた東の空に揚がっていた。
「お正月どころではない」 戦闘配備、駐屯部隊への連絡、此処に於いて幡谷中将以下百三十名の
攻撃中隊は編成された。
「コラシ」湾上陸、「サンホセ」東方山岳地帯に到達したのは同年二月五日夕であった。
当時に於ける敵情は実に優勢なるものがあり銀翼もまぶしく居並ぶ多数の敵機を見て躍起した。
「夜襲 切込みは一度だ!」
隊長以下白たすき、白はちまき、も雄々しく出征したが、不幸一敗地にまみれ、以来襲撃と病魔
と糧秣の貧缺とによって部隊は四散、その大半は斃れたものと認む。
同年十月頃より各所に於いて見た「日米休戦協定成立す」「日本人各位に告ぐ」「日本人の捕虜は
幸福だ」等等、フィリピン駐在米軍司令部より出された投降勧告文は、今からおもえば「うそ」では
無かった様だが、而し当時未だ各所に交える彼我の戦闘銃声、また当時に於ける我人の気持ちとして
斯くの如き宣伝ビラを信じる由もない。
小隊は二手に分かれ「ロハス」西北山中に於いて自活態勢を取ることなりしも、以来またしても
病魔の為に数多の戦友を失い、遂に四名生き残ることとなっていた。
十一年間に亘る孤籠自活の状況を簡記したいと思ふ。
「ミンドロ島山中に点々と土民「マギヤン族」が農を営み、甘蔗(さつま芋)を主食として生活
している。追われ追われてての身「さつま芋でも良い、腹一杯にでも」と。
幸い農家出身の兵が多かった小隊では「これ位の百姓なら」と取り付いた第一年、思いもよらぬ
豊作は欲望と勇気と生への光明を与へ、初物の新芋を味わった時の歓喜はおそらく在滞間の最高
のものであったであらう。
見知らぬ土地に於ける農法、それから割り出してからの集団生活の努力は身にしむものがあった
程に、余計に未だ印象附けるものがある。
「もう一秒我慢するんだ」 難しい主義主張も無い、臥薪嘗胆の三か年は送くられ、
基礎建設の目鼻はついた。とは云え、ようとして外界の情勢は不明であった。
亦、後の不安を打開するものは
「生甲斐のある生活態勢の樹立」
にありとの下に、全員持てる力を発揮した。家も理想的に建て、小さな「靖国神社」、続いて
「山の神」も祭られた。「御互いの気持ちで」面白く生き抜こうと各々の持つ底力は窮した道
を打開し内面的に充実した。が昭和二十七、八年と五名の戦友が病の為斃れ、一足先に不帰の
旅路へと立たれしことは、居残る四名が如何ほど悲痛の淵に悩みしことか、一段と意を強く
新しい気持ちで憐きあうより他は無かった。
一貫して常に脳裏より脱し得なかったものは「敵襲」である。がこの時期に於いては観念的に
和らいででいた。安神して時期の来るまで生きるんだ。また此の度戦友を失いいつまでも
くよくよしていては気の毒だ。と神社へ合祀した。
「悪夢は明日への運命を妨害するものである」と欲望は次第に情操的に指向されるようになった。
暇を見ては昔の小学校の復習勉強、楽器の作成、酒の製造等、生活方面では農法の改善、
製糖器、玉葱、黍粉粉砕機、農具の改良等の作成、それに家畜(豚・鶏)増加繁殖等に重点を
置き、被服の方は手製の着物等も出来て不自由はなかった。が食塩だけは如何とも為し難く
遠く海を眺めては頭をひねっていた。が此處数年来の不食塩体に左程切実な問題、否、たまたま
笑い話の種くらいしかなっていなかった。
当時飼っていた一匹の子猿は少なくなった家内の中にあって無心にも我らの愛嬌を買っていた。
自己の年の経つのも知らねども、永年の絶交生活に於いて使用した農具、鍋釜等も命はつき
又、壊れた。これ等を補充すべく昭和三十年八月、付近の土民(マギャン族)と交渉を開始、
以来一か年半見事成功、物資は勿論、今頃では土民の家に泊まり、土民もまた家に来ては遊宿
し、たまたまご馳走等も交換し気焔を挙げていた。久しく絶っていた食塩も少々であったが
入手することが出來、一日一食であったが膳を賑わしていた。土民の女達も片言を交えて
語らい、恥ずかしながらも招待してくれる等、一風変わって生活に享味を与えていた。
この交際が次第に伝わり、平坦の「シベリアン」の耳に入る所となり、時又、日比の情渉から
して「フィリピン」政府へと伝達し、大使館を始め其の方の御手数により再び生きて故国の地
を踏む次第となったものと思う。
回観十二年、過ぎ去った現在に立ち至って考えれば左程長くも感じない。が音信の絶えた異国
の山奥暮らしに於いて第一に大事なのは「体」であるとはいえ之を底つけるものは精神力だ。
何物も侵すべからざる我慢と信念、希望、死線を突破した生き抜く力、之等は陰ながら
見守って下さった「神の力」が現在を在らしめたものと信ず。
余る生涯において忘れることのできないのは此の「ミンドロ」生活であらう。と共に忘れて
ならぬのは眼のあたり斃れて行った戦友の姿、悲しい声である。
山の家に祭られた護国神社の神々がはかなき現身に思いをやられ、懐かしの内地へと運命
つけたものであらう。遺骨、遺品も一緒にふところにしてきた。
孤独な山中生活に於いて、別に興味ある又、享楽的な話題もないが、幾度か死線を越え、
貧困な生活に於いて生への光明を生み出し生きながらえて来たことは今後なんらかの参考
となると思ふ。
現在の変わった世界、復興した日本を眺め、我々は一段と生き甲斐を感じつつ入国の日を
待っている。
山下汽船 山萩丸 船中に於いて。 (繁一)
『生存者 氏名』
和歌山県田辺市芳羪町一七七六 山本 繁一
秋田県南秋田郡富津内村中津又 石井 仁太郎
岩手県九戸郡小軽米村字小軽米 中野 重平
長崎県西彼杵郡矢上村平野区字榎之木 泉田 政治
以上
(源三注・上記四名は多分物故者でしょう。子供たちや親族は居られるとおもいます。
この手記の内容はご存じないでしょうから関係者にお伝え頂ければ幸甚です。)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます