もうまともな原本は残ってはいないでしょうから後世の為にUPしておきましょう。
歴史的内容は今から87年前の常識であって現在の歴史観とは異なるものもあります。
しかし、当時の状況がよくわかります。 屋代源三。
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【 小松町誌 】
小松町誌 昭和十一年四月発行 非売品 編者 小澤白水
発行 山口県大島郡小松町役場
配布命令者 奈良本助役
印刷 大島新聞社印刷部 社主 笹井運人(小松開作)
歴史
(一) 紀元前後
小松町の歴史は之を厳密に検討すればさして古いものではない。中世時代までは殆ど屋代村の一部を
成していたに過ぎないのである。だから之を詳説するには勢い屋代村を除外することは出来ないのであるが
茲にはそれを言及しない。
小松町にあって、最も顕著なる古記録は、現在瀬戸に鎮座せる大多麻根神社の存在である。
「大多痲根神社」大多痲根神社は、その始め小松富士と称せらるる飯の山山頂に祀るられていたのである
が、後年これを古明神に移し更に現在の地に移さる。この時代、加はふるに神社の数も少なかった時代に
この神社は地方民崇敬の最高峰でありしのみならず、全国的に知悉されていたのである。同社の主神である
大多痲流別は大島郡創造の神とも云うべく、日本記神代巻に
先以淡路州為胞廻生大日本豊秋津州次生筑紫州次雙生隠岐州與佐渡州次越州
次生大洲次生吉備子州由始起大八州國之号
とある。大洲は勿論大島郡を指したものであり、また古事記に、二尊島を生む時に大八洲國を生む時に
大八洲國の次に
次生大島亦名前大多痲流別
とあるのと彼被照応して、大島郡がその発祥の時代に、大多麻流別命によって治世が行われていたことは
異論ない点である。今古著書集に載せられたる基朝臣が島を知りける頃、島の明神とておわしける、とある
島の明神もそれであり、又、左中将具武の読める
さりともと身のうきことは大島の 神のこころをたのむはかりそ
の神も無論仝社をさしているのである。
「神武御東征」 神武天皇御東征のため九州の崗水門を御発向あらせられ、順路大島鳴門を御通過の折
この大多麻根神社下に御船繋りあらせられたと言われている。
【参照】 日本記に、十有一月丙戌朔甲午、天皇(神武天皇)筑紫國崗水門に到り玉ひ、十有二月丙辰
朔壬安芸国に到り埃宮に座す。
神武天皇御船かかり説は大多麻根神社関係書類にも推定してある。
【当時の住民】 この時代における住民は、この地方にもアイヌ族が居住しており、これを征服仝化したのが
出雲族であり、その後に天孫民族が来住したものであるから、大体出雲族が主であったと思われる。
当時の大島郡領は出雲族である穴倭古命(アナイコのミコト)の支配下になっており、その子孫の世襲と
なっていたのであるが、惜しいかな、この命の御事績が判然としないのである。
【参照】 国造の配置は次のようである。
國造 穴門・・・・・・・・・・・・・阿武郡
大島・・・・・・・・・・・・・穴倭古の世襲
國防・・・・・・・・・・・・・玖珂、熊毛、都濃、佐波山間部
都怒・・・・・・・・・・・・・仝上海岸部
吉之岐・・・・・・・・・・・吉敷郡
右の如きであるけれども、古代における民政の実際は詳しく知ることができない。恐らく当時は完全なる
行政区割はなかったと見るべきであろう。唯、この國造時代は、神武天皇以来の習慣をそのまま採用され
氏族制度の時代であったと見られる。而して大島国造がいずれにあったかは知れないが、或いは
大多麻根神社の関係から屋代小松の地ではなかったのか?
(二) 王朝時代
【郡領制度】
氏族制度が崩壊して、生まれ出たのが郡領制度である。有名なる大化の新政がそれだ。
即ち、國を廃して縣を置き、以下、郡、郷、里の制度が布かれた。
本郡は、屋代郷、美敷郷,務理郷の三郷に分かれた。
その区域は右のごとく推定されている
屋代郷・・・・・・・・・・・・・屋代、小松、沖浦、蒲野
美敷郷・・・・・・・・・・・・・久賀、安下庄、日良居
務理郷・・・・・・・・・・・・・家室西方、森野、和田、油田
【参照】 栗田憲郷名同名考に、屋代は神を祀るために、神霊まし奉る家代の義にて即ち「社」なりとみゆ。
按ずるに此の郷、大多麻根神社につきての名なるべし、とある。
『源三・注』 屋代の社からの由来は東屋代の鎮座する妙見様を由来とする説もある。
また、当時は一郷に50戸、一戸平均26名とされるので、それぞれの郷の
住民は平均で1300人となりますから、現在の周防大島町域で3900名と
想定されます。
【私有制度発生】
この郡領制度は漸次紊乱して来た。約三百年にしてその紊乱愈々甚だしく、郷の他に私有地の
発生を見るに至った。これが荘園である。屋代庄は安倍成清が開発して右大臣藤原良家に寄進し、
その荘園としたもので、爾来久しくこの地方は藤原氏の荘園であった。荘園というは、当時の郷・・・郷は
公地であるが、この公地の間隙にできた私有地で、後に庄と言われたのである。その後、毛利氏の先で
ある大江廣元が源平戦の功により大島三庄(屋代、島末、安下)の地頭職に任ぜられている。
『源三・注』 荘園の管理者は公文と呼び、地頭とは武家制度になっての土地管理者を言いますので
荘園はどんどん地頭に奪われていきました。
(三) 小松の地名
【源平時代】
源平時代におけるこの地方は一時平氏に属していたと思われる。有名な事実では、屋代の人、
屋代源三、小田三郎が知盛(平氏)を援けたという旧記がある。この人々が果たして如何なる役割
を演じていたか詳細を欠くが、旧記に残る位であるから相当有力な人物であったであろう。
その後、平氏が破れて西海落ちをするに至り、源氏方の為に力を致し、義経(源氏)の兵船に
加わって壇ノ浦に征戦したものと見られる。
「参照」 明徳年間の四月頃、新田義宗、脇屋義治の一族、二十七士、各妻子童幼を連れて
羽州羽黒山の麓を去り、信濃を経て紀伊に出で,船を以て伊予に渡り、更に本郡に
来たり、屋代村和田に上陸したという記録がある。
『地名考二三』
小松町の独立自治たる年代は、比較的新しいものであることは前述の通りであり茲に問題となる
のは小松地名の出所である。これについては説が区々に分かれている。従来発表されたものを見ると、
「其の一」 源平時代に、源義経が平氏を西海に追うて、四国の屋島に大勝を博し、更に西征の途、
その舟軍八百数十艘が屋代川口に停泊したので之を「駒ノ津」と読んでいたのが後年
國音相通じて「小松」と称するに至ったものである。
「其の二」 往古三韓と交通頻繁なりし当時、この付近は絶好の湾曲を形成しており、去来供によく
船舶の停泊地になっていたもので、高麗の船も繋船するによりこれを「高麗津」と呼んで
いたのが、後年、小松になったものである。
「其の三」 瀬戸の突端に小さい松があり、航海者の目標となっていたが為、小松、小松と称せられ
後年、小松になったものである。
「其の四」 風土注進案に八幡宮(志駄岸)の背後の山に松の苗数百本を植えたところ、この松が
繁茂したので、この地の付近を小松村と言い慣わした。
以上、各説それぞれの理由を持っているが大体において第二節が有力視されている。
たとえば、熊毛郡室津村が、唐津(もろつ)と称せられたる事や、本郡家室西方村の白木山が新羅
(しらぎ)山の転化であると言われることとに等しく。他にも例が多いからである。
『屋代川口』
現在の小松町の内で、古くから一部落を形成し郡村制時代にその名の現れたのは志佐村である。
故に、少なくとも戦国時代ごろまでは、小松町の内、開作を始め、手崎、中田、宮の下方面にかけて
海であったことは推論して差支えあるまい。当年の屋代川口は頗る広く深く現在の屋代村砂田方面まで
潜入していたことは、屋代村の字名に白浜を始め、海に関する地名の存在によって知らるる。
之によって想像するならば、その時代においては此の港は現在の塩田は勿論、開作より安迫、
屋代村片山を海岸とし、西は北方の下方、屋代村和田等を海辺とせるもので、今の中田地方は
浮洲であったと見られる。現在もこの沖合に、沖の藻と称するものあり、非常に遠浅で、干潮時には
水面下一二尋位であるが、往時は、この沖の藻にかけて大きな洲であったことは間違いないようである。
『大島津』
源平西海の戦いに於いて、平氏を追い討った源氏の舟軍は、元歴二年三月二十一日、壇ノ浦に
向かう途中、周防大島津に停泊したと記録している。この大島津は屋代川口であって、今の小松
であることは今日においては殆ど定説になっている。本文の筆者は、かってその昔「「大島郡大観」
にこれを断定したのであるが、その後、斯界の諸権威も同様な見解をくだしつつある。
大島津の出所は、東鑑に
三月三十一日(元歴二年)、廷尉(源義経)為攻平氏、慾発向壇浦、依雨延引
五郎正利、依為鎌倉殿御家人云々
とあり、又た、
三月二十二日、廷尉促数十艘兵船、差壇の裏解鑓、三浦介義澄聞此事、参會干當國大島津
と」ある。即ち、義経は屋島の戦いに勝っての後、瀬戸内海の舟軍を徴発して西下の途中、屋代
川口に来たので、その時の兵船は八百四十艘であったと言われる。
『源三・注』 この時、対岸の柳井を本拠とする楊井氏が兵船数十艘を従えて、義経軍に
参加したとされるので、他の人が言う、「大島津は柳井津のこと」とすることは当てはまらない。
また、義経の兵船は小舟の集団であるので、今の柳井港から新庄を経て平生湾へ抜ける、所謂
柳井水道を抜けていったとされます。よって現在の室津半島は半島ではなく島となります。
(四) 吉野朝次代以降
吉野朝次代における事績としては、この地方の領主、村上氏が来島して屋代村に居を構えたる
ことの外はあまり徴べき文献はない。当時は瀬戸内海が海賊の巣窟であった時代であり、村上氏も
この連中の一方の旗頭であったと徴して、この付近もそれらの中に有力なる人を排出していたと
想像される。更に下って、戦国時代に入ってからは、本郡は殆ど従属が明らかではなく、海賊と
しての海軍力を発揮し、豊臣氏の毛利征伐、毛利と陶氏の戦い等に毎に兵船を出しているくらい
である。唯、屋代、小松地方における人口の増加はこの時代に目立って増加したるものなることは
肯定できる。それは、村上氏が来島して屋代に住居するに従って、伊豫方面から同氏に従って来住
するものが少なくなかったからである。
歴史的内容は今から87年前の常識であって現在の歴史観とは異なるものもあります。
しかし、当時の状況がよくわかります。 屋代源三。
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【 小松町誌 】
小松町誌 昭和十一年四月発行 非売品 編者 小澤白水
発行 山口県大島郡小松町役場
配布命令者 奈良本助役
印刷 大島新聞社印刷部 社主 笹井運人(小松開作)
歴史
(一) 紀元前後
小松町の歴史は之を厳密に検討すればさして古いものではない。中世時代までは殆ど屋代村の一部を
成していたに過ぎないのである。だから之を詳説するには勢い屋代村を除外することは出来ないのであるが
茲にはそれを言及しない。
小松町にあって、最も顕著なる古記録は、現在瀬戸に鎮座せる大多麻根神社の存在である。
「大多痲根神社」大多痲根神社は、その始め小松富士と称せらるる飯の山山頂に祀るられていたのである
が、後年これを古明神に移し更に現在の地に移さる。この時代、加はふるに神社の数も少なかった時代に
この神社は地方民崇敬の最高峰でありしのみならず、全国的に知悉されていたのである。同社の主神である
大多痲流別は大島郡創造の神とも云うべく、日本記神代巻に
先以淡路州為胞廻生大日本豊秋津州次生筑紫州次雙生隠岐州與佐渡州次越州
次生大洲次生吉備子州由始起大八州國之号
とある。大洲は勿論大島郡を指したものであり、また古事記に、二尊島を生む時に大八洲國を生む時に
大八洲國の次に
次生大島亦名前大多痲流別
とあるのと彼被照応して、大島郡がその発祥の時代に、大多麻流別命によって治世が行われていたことは
異論ない点である。今古著書集に載せられたる基朝臣が島を知りける頃、島の明神とておわしける、とある
島の明神もそれであり、又、左中将具武の読める
さりともと身のうきことは大島の 神のこころをたのむはかりそ
の神も無論仝社をさしているのである。
「神武御東征」 神武天皇御東征のため九州の崗水門を御発向あらせられ、順路大島鳴門を御通過の折
この大多麻根神社下に御船繋りあらせられたと言われている。
【参照】 日本記に、十有一月丙戌朔甲午、天皇(神武天皇)筑紫國崗水門に到り玉ひ、十有二月丙辰
朔壬安芸国に到り埃宮に座す。
神武天皇御船かかり説は大多麻根神社関係書類にも推定してある。
【当時の住民】 この時代における住民は、この地方にもアイヌ族が居住しており、これを征服仝化したのが
出雲族であり、その後に天孫民族が来住したものであるから、大体出雲族が主であったと思われる。
当時の大島郡領は出雲族である穴倭古命(アナイコのミコト)の支配下になっており、その子孫の世襲と
なっていたのであるが、惜しいかな、この命の御事績が判然としないのである。
【参照】 国造の配置は次のようである。
國造 穴門・・・・・・・・・・・・・阿武郡
大島・・・・・・・・・・・・・穴倭古の世襲
國防・・・・・・・・・・・・・玖珂、熊毛、都濃、佐波山間部
都怒・・・・・・・・・・・・・仝上海岸部
吉之岐・・・・・・・・・・・吉敷郡
右の如きであるけれども、古代における民政の実際は詳しく知ることができない。恐らく当時は完全なる
行政区割はなかったと見るべきであろう。唯、この國造時代は、神武天皇以来の習慣をそのまま採用され
氏族制度の時代であったと見られる。而して大島国造がいずれにあったかは知れないが、或いは
大多麻根神社の関係から屋代小松の地ではなかったのか?
(二) 王朝時代
【郡領制度】
氏族制度が崩壊して、生まれ出たのが郡領制度である。有名なる大化の新政がそれだ。
即ち、國を廃して縣を置き、以下、郡、郷、里の制度が布かれた。
本郡は、屋代郷、美敷郷,務理郷の三郷に分かれた。
その区域は右のごとく推定されている
屋代郷・・・・・・・・・・・・・屋代、小松、沖浦、蒲野
美敷郷・・・・・・・・・・・・・久賀、安下庄、日良居
務理郷・・・・・・・・・・・・・家室西方、森野、和田、油田
【参照】 栗田憲郷名同名考に、屋代は神を祀るために、神霊まし奉る家代の義にて即ち「社」なりとみゆ。
按ずるに此の郷、大多麻根神社につきての名なるべし、とある。
『源三・注』 屋代の社からの由来は東屋代の鎮座する妙見様を由来とする説もある。
また、当時は一郷に50戸、一戸平均26名とされるので、それぞれの郷の
住民は平均で1300人となりますから、現在の周防大島町域で3900名と
想定されます。
【私有制度発生】
この郡領制度は漸次紊乱して来た。約三百年にしてその紊乱愈々甚だしく、郷の他に私有地の
発生を見るに至った。これが荘園である。屋代庄は安倍成清が開発して右大臣藤原良家に寄進し、
その荘園としたもので、爾来久しくこの地方は藤原氏の荘園であった。荘園というは、当時の郷・・・郷は
公地であるが、この公地の間隙にできた私有地で、後に庄と言われたのである。その後、毛利氏の先で
ある大江廣元が源平戦の功により大島三庄(屋代、島末、安下)の地頭職に任ぜられている。
『源三・注』 荘園の管理者は公文と呼び、地頭とは武家制度になっての土地管理者を言いますので
荘園はどんどん地頭に奪われていきました。
(三) 小松の地名
【源平時代】
源平時代におけるこの地方は一時平氏に属していたと思われる。有名な事実では、屋代の人、
屋代源三、小田三郎が知盛(平氏)を援けたという旧記がある。この人々が果たして如何なる役割
を演じていたか詳細を欠くが、旧記に残る位であるから相当有力な人物であったであろう。
その後、平氏が破れて西海落ちをするに至り、源氏方の為に力を致し、義経(源氏)の兵船に
加わって壇ノ浦に征戦したものと見られる。
「参照」 明徳年間の四月頃、新田義宗、脇屋義治の一族、二十七士、各妻子童幼を連れて
羽州羽黒山の麓を去り、信濃を経て紀伊に出で,船を以て伊予に渡り、更に本郡に
来たり、屋代村和田に上陸したという記録がある。
『地名考二三』
小松町の独立自治たる年代は、比較的新しいものであることは前述の通りであり茲に問題となる
のは小松地名の出所である。これについては説が区々に分かれている。従来発表されたものを見ると、
「其の一」 源平時代に、源義経が平氏を西海に追うて、四国の屋島に大勝を博し、更に西征の途、
その舟軍八百数十艘が屋代川口に停泊したので之を「駒ノ津」と読んでいたのが後年
國音相通じて「小松」と称するに至ったものである。
「其の二」 往古三韓と交通頻繁なりし当時、この付近は絶好の湾曲を形成しており、去来供によく
船舶の停泊地になっていたもので、高麗の船も繋船するによりこれを「高麗津」と呼んで
いたのが、後年、小松になったものである。
「其の三」 瀬戸の突端に小さい松があり、航海者の目標となっていたが為、小松、小松と称せられ
後年、小松になったものである。
「其の四」 風土注進案に八幡宮(志駄岸)の背後の山に松の苗数百本を植えたところ、この松が
繁茂したので、この地の付近を小松村と言い慣わした。
以上、各説それぞれの理由を持っているが大体において第二節が有力視されている。
たとえば、熊毛郡室津村が、唐津(もろつ)と称せられたる事や、本郡家室西方村の白木山が新羅
(しらぎ)山の転化であると言われることとに等しく。他にも例が多いからである。
『屋代川口』
現在の小松町の内で、古くから一部落を形成し郡村制時代にその名の現れたのは志佐村である。
故に、少なくとも戦国時代ごろまでは、小松町の内、開作を始め、手崎、中田、宮の下方面にかけて
海であったことは推論して差支えあるまい。当年の屋代川口は頗る広く深く現在の屋代村砂田方面まで
潜入していたことは、屋代村の字名に白浜を始め、海に関する地名の存在によって知らるる。
之によって想像するならば、その時代においては此の港は現在の塩田は勿論、開作より安迫、
屋代村片山を海岸とし、西は北方の下方、屋代村和田等を海辺とせるもので、今の中田地方は
浮洲であったと見られる。現在もこの沖合に、沖の藻と称するものあり、非常に遠浅で、干潮時には
水面下一二尋位であるが、往時は、この沖の藻にかけて大きな洲であったことは間違いないようである。
『大島津』
源平西海の戦いに於いて、平氏を追い討った源氏の舟軍は、元歴二年三月二十一日、壇ノ浦に
向かう途中、周防大島津に停泊したと記録している。この大島津は屋代川口であって、今の小松
であることは今日においては殆ど定説になっている。本文の筆者は、かってその昔「「大島郡大観」
にこれを断定したのであるが、その後、斯界の諸権威も同様な見解をくだしつつある。
大島津の出所は、東鑑に
三月三十一日(元歴二年)、廷尉(源義経)為攻平氏、慾発向壇浦、依雨延引
五郎正利、依為鎌倉殿御家人云々
とあり、又た、
三月二十二日、廷尉促数十艘兵船、差壇の裏解鑓、三浦介義澄聞此事、参會干當國大島津
と」ある。即ち、義経は屋島の戦いに勝っての後、瀬戸内海の舟軍を徴発して西下の途中、屋代
川口に来たので、その時の兵船は八百四十艘であったと言われる。
『源三・注』 この時、対岸の柳井を本拠とする楊井氏が兵船数十艘を従えて、義経軍に
参加したとされるので、他の人が言う、「大島津は柳井津のこと」とすることは当てはまらない。
また、義経の兵船は小舟の集団であるので、今の柳井港から新庄を経て平生湾へ抜ける、所謂
柳井水道を抜けていったとされます。よって現在の室津半島は半島ではなく島となります。
(四) 吉野朝次代以降
吉野朝次代における事績としては、この地方の領主、村上氏が来島して屋代村に居を構えたる
ことの外はあまり徴べき文献はない。当時は瀬戸内海が海賊の巣窟であった時代であり、村上氏も
この連中の一方の旗頭であったと徴して、この付近もそれらの中に有力なる人を排出していたと
想像される。更に下って、戦国時代に入ってからは、本郡は殆ど従属が明らかではなく、海賊と
しての海軍力を発揮し、豊臣氏の毛利征伐、毛利と陶氏の戦い等に毎に兵船を出しているくらい
である。唯、屋代、小松地方における人口の増加はこの時代に目立って増加したるものなることは
肯定できる。それは、村上氏が来島して屋代に住居するに従って、伊豫方面から同氏に従って来住
するものが少なくなかったからである。
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