至福感のこと
至福感というのは、そのまま幸福感と表現してもいいだろう。 ただ、狭義の意味では、それはスピリチュアルな幸福感ということになる。
つまり、ボーナスをもらったとか、恋人ができたとかというような外的な要因ではない。 自分の内側から泉のように湧いてくるような幸福感のことだ。
スピリチュアルなことに興味がある人でこの至福感を求めない人はいない。 だからスピリチュアルなティーチャーも、その要求に応えて、「至福感」という言葉をよく使うようになる。
そして「私の指導した人は、○○したから何があっても揺るがない至福感を得られるようになった。 だからあなたがたにも、○○をお勧めする。」というようなことを教えてくれる。
それ自体は、全く望ましいことだ。 ティーチャー側に何の問題もない。
しかし、このアドバイスを受け取る側は、知っておかなければならないことがある。 それは「至福感」は、たとえそれが内的な探究であったとしても、結果として生じてくる現象であって、最初から「至福感」を求めると自己破壊的なものとなるということだ。
なぜなら、至福感がいつのまにか、自分の精神的、霊的ステータスの指標になってしまうからだ。 至福感が得られないとき、自分はまだまだダメだと思ってしまう。 いつも、どんな時も自分は揺るぎない至福感に満たされていなければならないと思うようになる。 これは実にマズイ。 罪悪感にまでつながってしまうかも知れない。 それは本来、与えられるもの(恩寵)であって、自分でゲットするものではないのに。
「至福感」は決して、自分で手に入れるようなものではない。
フランクルはこう言う。
『至高体験もまた結果として起こるものであって、けっして追求されえない。 実際には、人間は快楽や幸福それ自体を求めるのではなく、個人的な意味の充足であれ、人間との出会いであれ、結果として快楽や幸福を引き起こす。』
追い求めるものではなく、それは結果として生じてくる現象なのだ。 健康も良心も同じであって、健康を追い求めることによって病気の危険性を孕むことになり、良心を追い求めることによって、偽善者を生み出す。
悟った、覚醒した、至福感を得た、至高体験をしたと思った人は、その体験を多くの人に知らせたいだろう。 「だれも明かりをともして、それを穴蔵の中や升の下に置く者はいません。」…ルカ 11:33 にあるように、愛は拡張していく。 それはごく自然な流れだ。
しかし、それを聞く人は、そこに隠されたトラップに気が付いていなければならない。
ジャック・デリダが言うように、表象としての言葉は絶えず「差延」を生む。 つまり発言者の伝えたいことが、伝達手段として表象された言葉とズレていく。 我々聞く側は、必ずこのズレが生ずることに気が付いていなければならない。
我々はその人の指ではなく、その指が指し示す月の方を見なければならない。また、禅には自燈明という言い方がある。 ある禅僧が師の指導が終わってそとに出たら暗くなっていた。 そこで師は弟子に灯火を渡してくれたが、渡した直後にその灯火をフッと吹き消してしまった。 この意味が分かるだろうか。
繰り返すが、至福感を体験した人がそのことをアナウンスするのは、聖霊の計らいだと思う。 しかし至福感が究極の目標ではない。
法華経に「三車火宅の譬喩」がある。
火事が起こっている家で自分のおもちゃに夢中になっている子供を家から脱出させるために、子供たちが以前から欲しがっていた3つの車があるぞと呼びかける。 子供たちがそれを欲しがって家の外に出てきたら、それぞれに1つのもっと素晴らしい車を与えるというたとえ話。
3つの車(おもちゃ)は、本質を与えるための、方便なのだ。
また、奇跡講座では、ゲームとして表現される。
「救いは、幸せな子供たちがするゲームであると考えることができます。そのゲームは「彼」の子どもたちを愛している「存在」によってデザインされ、子供たちの恐ろしいおもちゃを楽しいゲームと交換する「存在」によってデザインされたのです。 …W153
この文章も、ゲーム(おもちゃに替わるもの)という言葉によって、方便であることを示唆している。
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