「奇跡」というネーミング 2024年9月17日
私は最初に「奇跡講座」という名前を聞いた時、何かイカガワシイものを感じてしまった。 それはいかにもテレビショッピングに出てくるようなネーミングの気がしたのだ。 「奇跡のクリーナー!! これで汚れは一発解消!」なんていう感じ。 「奇跡のダイエット!! あなたも一週間で2kg痩せる!」というような感じ。
そして「神の使者」という本の朗読を聞いたら、ますます、そのイカガワシサを増したような気がした。 それなのに、どういうわけか、「奇跡講座」本を買ってしまった。 それで読んでみると、さっぱりわからない。 というか、数行読むだけで異様な眠気に誘われた。 それで数年放っておいた。
ところが、なぜまた手に取って読んだか実に不思議なのだが、今度は、突然、少しわかった。 それで今度はワプニック博士の解説書を買ったが、第一分裂とか、第二分裂だとか、「オッカムの剃刀」から言わせると、実に胡散臭く、まるで学者が無理やり理屈を当てはめたようで、気に入らなかった。 ここでまた数か月放っておいた。 それに、当時、キリスト教の教理とかけ離れていることにずっと違和感を持っていた。 神はこの世を創らなかったなんて、誰が信じるだろうか?
ところが、今では「奇跡講座」は私にとって欠かせないものになっている。 これこそ奇跡以外の何であろう。 そして、そのうちに、なぜ敢えて「奇跡」というネーミングにしたのかがわかってきた。
「奇跡」でなければならないのだ。
シモーヌ・ヴェイユは「重力と恩寵」でこの「重力」と「恩寵」という言葉を使った。 この二つのベクトル、一つは下に引っ張られ、もう一方は上げられる。 重力とはこの世の因果法則のことだ。 この世の隅々にまで、人間の社会の隅々にまで貫かれている宇宙の、科学の法則のことであり、さらに魂が下に引っ張られるの重力のことでもある。
ヴェイユはこう言った。「魂の自然な動きはすべて、物質界の重力法則と類似する。」 つまり魂は放っておくと、自然の物が下に落ちるように落ちてしまうのだ。 「恩寵」だけがそこから除外される。
この世の科学法則、この世の魂の法則から逸脱すること。 それを「奇跡」と呼ぶ。
井筒俊彦の「意識と本質」に世界の事物の必然性(因果律に支配された世界観)と偶然性(脱因果律の世界観)の問題がイスラーム的意識を述べたところに出てくる。
井筒は、「火が紙につけば燃えるという因果律(原因と結果)がある。火が原因で、紙が燃えるという結果をもたらす。 事物はすべて「本質」なるものを持っており、世界はその事物の本質通りの因果律(原因と結果)に整然と支配されている。 では、その因果律に整然と支配された世界に、神の介入する余地はあるのであろうか。因果律を脱した「奇跡」は起こりうるのだろうか。」 と言う。
神が介入することが「恩寵」であり、「奇跡」のことだ。
奇跡講座によれば、「因果律に整然と支配された世界」とはエゴの世界のことなのだろう。 そして我々が本来いる場所は実相の世界であり、この世は幻想である。 これをエゴの世界から見れば、実相の世界は因果律を逸脱した「奇跡」となる。
禅の中には「奇跡」という言葉はなかなか出てこない。 なぜなら禅は神の代わりに「空」を据えるからだ。 それでは禅はよく世間で言われるように、「自力本願」なのだろうか? 禅はよく只管打坐と言われて、坐ることが最優先となるが、それと同時に礼拝を同じくらい大切な修行としている。 実は禅も「他力本願」なのだ。
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