(有馬の人形筆、人形の飛び出る仕組み・・・わかります?)
コンピュータが、韓国のプロの一流棋士と囲碁の真剣勝負をして、勝ったというニュースが新聞に載っていた。5番勝負の初戦だったとか。日本の井山が、えらいことになったとコメントしていました。これを書いている最中に、二局目も人間が負けたというニュース。
将棋ならまだしも、囲碁でコンピューターがプロに勝つ時代が来たのですね。ビックリです。
機械の知能は人間とは比較にならない進化のメカニズムを持っています。なんだかわかりますか。
つまり、コンピューターは何世代にわたって死なないのです。たとえ一つの機械は死んでも、その成果は次の機械に引き継がれます。次世代の機械は、進化した知能の到達点から動き出すわけですね。
それに対して人間は、どんなに優れた知能を習得しても、一世代で消えてしまいます。分かり切ったことですが、人間は常に一から学びなおさなければならないのです。
人間は、機械に勝てそうもありませんね。人間がんばれ!!
しかしもし、勝てるとしたら、人間の叡智しかないのですから、その可能性はないのかどうか、知能について考えてみたいと思います。
機械と人間の違いは歴然ですね。しかしその違いの溝が少しずつ埋められているのも事実です。機械に感情はありませんが、感情のふりをする機械は確実に進歩するでしょうし、計算能力はけた違いです。その機械を人間自身がつくっているというのが、一種のパラドックスのようではありますが。
人は誰でも、一から学ぶしかありません。つまり知識はすべて学び取るしかないのです。
そしてこの学びは、自分の経験と他者からの教えによって成り立っています。
人間の始まりは、意識が自分の内部を照らし出す事から始まりましたね。人が初めて体験するものは、身体感覚と光だったでしょう。(私は覚えていませんが)
それがやがて知性の芽が顔を出す。「何」という問いかけです。そこに教えが届くと、人はスポンジが水を吸うように、知識を吸収します。いかに教育が大切かはいうまでもありませんが、一番大切なことは、「何」という問いだということを見落としてはなりません。
問いは、その人の中にあるものですね。その人が人間として成長するための欲求と言えるかもしれません。教えは、その問いを成就させるためにあるわけです。つまり、「問」のない教えは、正常な人間の成長を疎外する可能性もあるわけですね。教育はその意味では、いかに子供の問いを導いてやるかなのかもしれません。
やがて、就学期を終える頃には、人としての基本的な知識を身に着けます。しかし当然機械の知識に追いつけるものではありません。
機械の知識は、ある意味、科学の最先端ですから、教えだけで勝てるわけはないのです。しかし人は負けませんよ。
ここから人は、本来の能力を花開かせるのです。
人は教えを超えます。
「何」という問いかけが、健全に機能していれば、人はいつまでも「何」を発し続けます。どんなに年老いても、問いかけの欲求は生まれるのです。無論その何パーセントは、教育でつぶされたり、社会につぶされたりして、自然に消えていきますが、しかしそこから残ったものは死ぬまで「何」を問い続けるのです。それが人間の本当の能力と言えるでしょう。そしてこの問いかけが、やがて教えを超える力となっていくのです。
人が機械に勝つのは、この能力をおいてほかにないでしょう。
限りない「何」という問いかけは、大まかに言えば、研究と芸術という言葉に表されます。未知の世界を開拓していく意志、それは成熟した人間の真の姿だといえるでしょう。
こうしているうちにも、機械との勝負、第3局が戦われているかもしれません。「何故負けるのか」そう問いかけるのは人間ですから、その問いは必ず、人の熱意によって克服されるでしょう。空を飛び、宇宙に飛び出す叡智が人間の歴史なのですから。
言いたいのは、いかに、「何」という問いかけを大切に守り育てるかが、機械と人間の勝敗のカギだということです。
井山君頑張って!!
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