環境教育な日々

環境教育事務所 野の塾工房たまご代表の後藤清史のブログ

10月23日 公園視察への参加(公園での市民協働)

2012年10月20日 | 日記

10月11日に、パークネットワーク研究会主催の勉強会に参加。
今回は、大阪府が泉佐野丘陵に新設する公園を訪問した。
テーマは、市民協働による運営管理。
今はまだ造成中だが数年後には公園として公開される。
5年前から市民協働での運営管理を標榜し、公園用地で核となるボランティアの養成をしてきた。
当初の思惑と5年間の用地内で活動してきたことや、公開を控えての関係者の立場の変化によるズレが起きてきている感じをうけた。
それをズレと感じるか織り込み済みととるかは、当初想定(工程予測)がどの程度されていたかによる。

施設の設置では、往々にしてテーマや将来像が先に打ち出され、おおよその工期を想定し公開年が決定されているのではないか。
その後に工期の詳細を設定し、工期の中で市民参加をはかる。
工期的な発想からの養成行程なので、そこに携わる人々や社会状況の変化などは考慮されない。
その上、考慮されない完成図が既に存在していることが多い。


ボランティア養成型の市民協働は、庭木に近い管理過程が必要と考えている。
自由奔放に育っているようだが庭(公園)に合わせなくてはならない。
その木の役割を考え、完成後の姿を想像し底に植え付ける。
水をやり、時には剪定を行い、添え木も必要に応じて設置するなど庭のコンセプト合わせて、庭全体として育ていく。
設置者は庭とは何かを真剣に考え、成長過程に合わせ全体を調整し作り上げていくのだと思う。

一見自然林に思える明治神宮の森も作り上げてきたものだ。
どのように、どの段階に、どのような手をかけていくのか。
そして、それはなぜ行うのか?

市民協働は、植木のような静的なものではないかもしれない。
ならば、同様の育てを行うのであれば、それだけの手間暇がかかるということだ。
社内的な視点でなく、コミュニティー的(共同体的)な視点による関わりが必要ではないか。
良くある勘違いは、コアボランティアの想定矛盾にある。
利用者なのか、管理者なのか?
基本となるこの部分の想定をシビアに行うことが重要なはず。
想定が曖昧なまま、期待を込めた名前がつけられている公園が多いのではないだろうか。

さらに、公園をコミュニティーとして町に例えるなら。
設置者としてどのような状態の町(公園)にしたいのか。
町の住人(公園のコア利用者)としてどのようにそこに協力していくのか。
新規住人(新規ボランティア)やゲスト(来園者)たちをどのように迎え入れていくのか。
また、その人たちにどのような町(公園)に感じてもらい、どのように過ごしてほしいのか。


「公園とは何か」という根本的な部分をしっかり押さえないまま、市民協働が優先されていないかをPDCAのサイクルに載せて検証する必要がある。
市民協働は社会参加(参画)であり、参加する市民にも相応の責任が生じることを正直に伝えているだろうか。
市民協働ありきになっていないか?
タマゴが先か、ニワトリが先か。

市民協働を行政が養成すること自体、矛盾を内包しているのかもしれない。
公園運営のコーディネーターとして、市民協働による公園運営の難しさと面白さを再確認した視察でした。
現在かかわっている公園でも、もっと市民との協働を増やすようにしよう。



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