森のようちえんに対する私の疑問を解決できないかと、様々な教育にかかわっている友人たちに向けてfacebook上で問いかけました。
私の投げ掛けからはじまった「森のようちえん(特にその指導)」についての対話をブログに公開します。
このブログを通じて対話に参加してみませんか。
*写真は、イメージです。
後藤のfacebookでの発問
今頃ですが、森のようちえんって何?
何を求めていると言うか何を目的に実施されてる?
集団の中での個の成長、自然体験、異年齢交流などなど
森のようちえんは環境教育?どの部分?単なる場所への期待?
はてさて何をねらいにしている?
注.対話に登場する3名は私からの依頼ではなく、任意に対話に参加された方々です。
H氏:
昨年は年長を担当、今年は年中を担当、明らかに1年で子どもたちは成長しています。運動能力も、手先の器用さも、コミュニケーション能力も、創造力も・・・
特殊な体験ではなく、幼児期の成長にふさわしい刺激のある環境との出会いの機会のようなもの。当たり前か・・・
後藤:
そう、そうなんです。なぜ、森なのか?単に森であればいいのか?どうでしょう。
H氏:
なるほど、公園の森や擬似的里山環境は子どもの目からみて本物感というか、伝わるものがあるのかな・・・
後藤:
森を体験させたいのか自然の中の多様性との出会い?空間であり、関係性であり、物であり、場面でありetcなのか。
H氏:
単に森を体験するとか、多様性に出会うとかではなくて、子どもたちが環境の「刺激」の影響を無意識の影響も含めてどう受け止めているのか常に意識しておくことが大事かと。たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんに光や音の刺激が必要なように、幼児にとって大事な刺激がいわゆる「森」という環境にはたくさんあるということかと。(またまた当たり前か)
後藤:
「幼児にとって大事な~「森」という環境にはたくさんある~」。それに偶発的に出会うだけで良いのかと。多くの森の幼稚園ではこの偶発性にかなり依拠しているのではないかと。如何でしょう。
H氏:
偶発的に出会うだけでよいか?大人がそもそもその偶発に気づくか?大人が子どもが気づいた偶発を膨らませることができるか?スキルが試されます・・・。そこは後藤さんのような「専門家」と幼稚園の先生との協力関係が不可欠。
F氏:
おはようございます♪「自然」には確かに刺激がたくさんあります。色々な発見や体験をおこなうことができる機会が多くなってはいますが、その発見や体験をさまざまな学びに変えていくことはむずかしいようです。ガキ大将や近所の大人からの教えなど考えるきっかけを作る環境もないのかと。ですので、そこにはHさんの言うような「専門家」「気づく大人」が必要なのだと思います。
U氏:
おはようございます。森のようちえん、私も教えてほしいです。
スウェーデンのSkogsmulleの流れかと思っていました。
私が子どものころは家の周りで自然体験がいくらでもできたのに、今はタンポポが咲いているくらいです。それもコンクリートの割れ目から顔をだしている、ど根性タンポポです。
子どもたちの自然体験リーダーをやるときは、昔私がやっていたことをそのまま伝授すればよいだけですから、とても楽ちんです。昔遊びも同じです。森の幼稚園はそれに比べると身構えないといけないのかなって思っています。
後藤:
Fさん、偶発的な様々な体験を子どもたちは純粋に受け止め、時には驚き、時には親しみを持って楽しみます。楽しんでいる姿を見て同行する大人は良い体験をしていると判断する。失礼な言い方なのですが、楽しんでいる姿を同行者が楽しんでいるだけの取り組みも中にはあるのではないかと。発達教育的な視点や同行する大人の関わりが必要ではと考えています。花や虫たちとの偶然の出会いや集団(群れ)の成長に伴う共感の広がり、他者がいることで起こる共同的な遊び、少人数で動くことで感じる一体感などなど。すべて偶発的にそこに来ることで起こっているのだとしたらそれは意図された教育なのか?ということです。
後藤:
Uさん、伝承遊びからのしみだしが子どもたちの行動に見られると思います。その発展を大人たちが支えているというか包んでいる。あいまいな言い方ですみませんが、大人が介在することで空間を維持している場面があると思います。森のようちえんの指導者にも必要なスキルだと考えています。森のようちえん、Uさんであれば身構えずにいつもと同じことを少し自然度の高いところ(発見の多いところ)で展開されると良いだけだと思います。この(子どもと同行者の)共感の関係性で維持される空間づくり、保育士の方が園外保育等で自然に展開されているのを見かけます。実は、私も森のようちえんに苦手意識があり、身構えてしまうので色々知りたいと思い…結果、疑問が多くなりこの場(facebook)で皆さんの考えを聞きたいと思い問いかけました。
U氏:
以前に森のようちえんの外国での事例をテレビで観たのですが、それは大人(先生、保育士)がほとんどケアしない、いわば森に子どもたちを解き放ち、多少の怪我くらいは何のその、友だち同士のケンカありで体や服は泥だらけ、自由奔放に遊ばせているシーンでした。あらかじめ親に承諾を取っておき、親は着替えをちゃんと子どもにもたせている。森のなかでの自然遊びを通していろいろなことを体験できる、そんな機会を子どもたちに与えているような感じでした。森だから自然ではなく、森を材料にして人間関係までもが学べるという、そんな感じなのかもしれません。
U氏:
泥んこまみれの子どもで思いだしました。近所の公立小学校では、雪が降って校庭が一面の銀世界になると、なぜか先生は校庭へ出て遊ぶことを禁止するのだそうです(と近所の子どもが訴えていました)。それは、学校から帰ってきた子どもの服が汚れていると、学校へ苦情をいう親がいるからだという話を聞いたことがあります。
すみません。森のようちえんとは関係ないですね。
でも、森のようちえんって、今の子どもの親を教育する場なのかもしれないな、などと考えてしまいました。
U氏:
その理不尽な親を育てたのは私たちの年代です。すみません。
後藤:
実際の森のようちえん(私の思うところの)を見学したことはありませんが、様々な気づきの要素が含まれているのは確かです。自然の中で体験する多様性な出会いや出来事、発見、匂い、触覚、関係性etcetc。その多様な体験が個への刺激となり多様な個の成長を促すと思います。ただ、ここの子どもの資質に望みを託すだけでなく、そこに存在する大人がもしファーブルやシートン、レイチェルだったらどうでしょう。その子の経験は自分で咀嚼する以上の速さで学びにならないでしょうか。彼らが体験することは非構成の偶発的なことかもですが、そこに同行する大人の関わり方(介在)で大きくその体験(効果)は変わると考えます。書籍等を見ても多くの森のようちえんの紹介は、活動に焦点が合ってしまい、子どもたちに関わる大人のスキル、必要とされる資質が議論されていないように思います。体験を学びに変える。幼児期の学びの段階、幼児期にとっての体験とは、幼児の身体や認知の発達段階、なぜ自然遊びなのか、なぜ集団なのかなどなど。憧れや感覚ではない森のようちえん、森のようちえんに関心のある皆さんは気にならないのでしょうか。
F氏:
そうなんです。近くにいる大人のかかわり方でその経験が学びになるのだと思っています。(先生)もちろん、その学びの方向性でも変わります。(プログラム)その方向性の予測や対応できる大人のかかわり方(専門指導者)が必要だと園長と話をしております。先生方にはワイルドの内容を知ってもらうと言うことで資格取得を幼稚園でおこなっています。でも、スタート2年ぐらいはすごく試行錯誤しておりました。なかなか学びまでいかないので…そこで、上記の方法に体験学習を最大限に利用するために年間プログラムで関連を付けて今は安定した形になりました♪
F氏:
Uさんのいうとおりに親も育てないと行けないです。授業の内容と子どもたちの成長を見てくれているので今では何も問題なく活動できていますが、他の幼稚園では親からのお願いで、体験前の準備に30分かかるそうです。
後藤:
多分、色々な方がこのキーワード(発した問い)に?と思ったのでは。(facebook上には)森のようちえん関係者(実施している人)も多いと思っています。ただ、この問いに興味を示し対話を通じ議論してくれたのは、ごく少数の知人のみでした。森のようちえん、託児的、イベント的、園外保育型、そのものズバリ、保育的、サークル的など様々な実施形態がありますが、実施される場所の自然度が高いことだけが必要条件なのでしょうか。森に行って幼児期の集団で活動すれば「森のようちえん?」というのが私からの問題提起です。学びの構造は気にしなくてよいのでしょうか。
後藤:
Fさん、ありがとうございました。学びのラインを大切にしたということですね。
F氏:
はい。わたしも森のようちえん?とはなんだろう?なのですが、自然度が高いところでなくても、自然からの学びは幼児期にすごく大切で、その効果が高いです。
後藤:
私も某市の保育課が主催した保育士研修で同じような内容を講演したことがあります。身近な自然事象(日常の中の自然)に気づき寄り添うことが大切と…結構自然体験への渇望があったのですが、その反面、自然がないのでと半ばあきらめに近い空気があり都市部の園にありました。そのため自分の経験を基に身近な自然事象に目を向けた環境体験の大切さを話ました。森のようちえんへの憧れが広がり始めた3年前のことです。同様の内容について書かれた本があります。「環境保育(有賀克明著)」面白いですよ。お勧めです。
H氏:
前にも書きましたが、森のようちえんには、専門家と幼稚園の先生との協力関係は不可欠だと思います。かといって「専門」的な説明をしても子どもたちは?となってしまうので、森のようちえんにかかわる大人(専門家)には森のようちえんのための高いスキルが必要です。(私もまだまだ身についていませんが)
・子どもの世界観に共感できる。
・ミクロからマクロまで環境への深い洞察力
・好奇心、探究心
・広い世界観
などなど。
しかし、あまり身構えると子どもに見抜かれてしまうので、自然な流れや対話の中で空間を構築していくことが必要です。難しい言葉を使うことなく、気づきを促していくことはインタープリテーションの原点のような、いちばん難しいスキルだと感じています。
後藤:
私も先に述べたように専門スキルの必要が有ると感じています。なのに、様々な形態やランクが混ざった状態があまりにも多く、整理されないままになっていることが気になっています。あとは、森のようちえんへの期待が高いのは分かるのですが、あまりにも森に入ることありきに感じて、なぜ森のようちえん(森での体験)に期待するのかを問いかけました。残念なのは森のようちえん関係者が多くいるにも関わらず・・・。
この対話は、facebook上で公開して行ったものです。如何でしたでしょうか?
森のようちえんについての出版物や報告が多くあるので、もしかするとすでに分かっていることを話していただけかもしれません。その際はご指摘いただけると嬉しいです。
今後もfacebook等で懲りずに教育について発信していきますので、ご興味のある方はぜひご参加ください。
※今回の内容は各発言者の許可を得てブログに掲載しています。無断での引用および転載は禁止させていただきます。
私の投げ掛けからはじまった「森のようちえん(特にその指導)」についての対話をブログに公開します。
このブログを通じて対話に参加してみませんか。
*写真は、イメージです。
後藤のfacebookでの発問
今頃ですが、森のようちえんって何?
何を求めていると言うか何を目的に実施されてる?
集団の中での個の成長、自然体験、異年齢交流などなど
森のようちえんは環境教育?どの部分?単なる場所への期待?
はてさて何をねらいにしている?
注.対話に登場する3名は私からの依頼ではなく、任意に対話に参加された方々です。
H氏:
昨年は年長を担当、今年は年中を担当、明らかに1年で子どもたちは成長しています。運動能力も、手先の器用さも、コミュニケーション能力も、創造力も・・・
特殊な体験ではなく、幼児期の成長にふさわしい刺激のある環境との出会いの機会のようなもの。当たり前か・・・
後藤:
そう、そうなんです。なぜ、森なのか?単に森であればいいのか?どうでしょう。
H氏:
なるほど、公園の森や擬似的里山環境は子どもの目からみて本物感というか、伝わるものがあるのかな・・・
後藤:
森を体験させたいのか自然の中の多様性との出会い?空間であり、関係性であり、物であり、場面でありetcなのか。
H氏:
単に森を体験するとか、多様性に出会うとかではなくて、子どもたちが環境の「刺激」の影響を無意識の影響も含めてどう受け止めているのか常に意識しておくことが大事かと。たとえば、生まれたばかりの赤ちゃんに光や音の刺激が必要なように、幼児にとって大事な刺激がいわゆる「森」という環境にはたくさんあるということかと。(またまた当たり前か)
後藤:
「幼児にとって大事な~「森」という環境にはたくさんある~」。それに偶発的に出会うだけで良いのかと。多くの森の幼稚園ではこの偶発性にかなり依拠しているのではないかと。如何でしょう。
H氏:
偶発的に出会うだけでよいか?大人がそもそもその偶発に気づくか?大人が子どもが気づいた偶発を膨らませることができるか?スキルが試されます・・・。そこは後藤さんのような「専門家」と幼稚園の先生との協力関係が不可欠。
F氏:
おはようございます♪「自然」には確かに刺激がたくさんあります。色々な発見や体験をおこなうことができる機会が多くなってはいますが、その発見や体験をさまざまな学びに変えていくことはむずかしいようです。ガキ大将や近所の大人からの教えなど考えるきっかけを作る環境もないのかと。ですので、そこにはHさんの言うような「専門家」「気づく大人」が必要なのだと思います。
U氏:
おはようございます。森のようちえん、私も教えてほしいです。
スウェーデンのSkogsmulleの流れかと思っていました。
私が子どものころは家の周りで自然体験がいくらでもできたのに、今はタンポポが咲いているくらいです。それもコンクリートの割れ目から顔をだしている、ど根性タンポポです。
子どもたちの自然体験リーダーをやるときは、昔私がやっていたことをそのまま伝授すればよいだけですから、とても楽ちんです。昔遊びも同じです。森の幼稚園はそれに比べると身構えないといけないのかなって思っています。
後藤:
Fさん、偶発的な様々な体験を子どもたちは純粋に受け止め、時には驚き、時には親しみを持って楽しみます。楽しんでいる姿を見て同行する大人は良い体験をしていると判断する。失礼な言い方なのですが、楽しんでいる姿を同行者が楽しんでいるだけの取り組みも中にはあるのではないかと。発達教育的な視点や同行する大人の関わりが必要ではと考えています。花や虫たちとの偶然の出会いや集団(群れ)の成長に伴う共感の広がり、他者がいることで起こる共同的な遊び、少人数で動くことで感じる一体感などなど。すべて偶発的にそこに来ることで起こっているのだとしたらそれは意図された教育なのか?ということです。
後藤:
Uさん、伝承遊びからのしみだしが子どもたちの行動に見られると思います。その発展を大人たちが支えているというか包んでいる。あいまいな言い方ですみませんが、大人が介在することで空間を維持している場面があると思います。森のようちえんの指導者にも必要なスキルだと考えています。森のようちえん、Uさんであれば身構えずにいつもと同じことを少し自然度の高いところ(発見の多いところ)で展開されると良いだけだと思います。この(子どもと同行者の)共感の関係性で維持される空間づくり、保育士の方が園外保育等で自然に展開されているのを見かけます。実は、私も森のようちえんに苦手意識があり、身構えてしまうので色々知りたいと思い…結果、疑問が多くなりこの場(facebook)で皆さんの考えを聞きたいと思い問いかけました。
U氏:
以前に森のようちえんの外国での事例をテレビで観たのですが、それは大人(先生、保育士)がほとんどケアしない、いわば森に子どもたちを解き放ち、多少の怪我くらいは何のその、友だち同士のケンカありで体や服は泥だらけ、自由奔放に遊ばせているシーンでした。あらかじめ親に承諾を取っておき、親は着替えをちゃんと子どもにもたせている。森のなかでの自然遊びを通していろいろなことを体験できる、そんな機会を子どもたちに与えているような感じでした。森だから自然ではなく、森を材料にして人間関係までもが学べるという、そんな感じなのかもしれません。
U氏:
泥んこまみれの子どもで思いだしました。近所の公立小学校では、雪が降って校庭が一面の銀世界になると、なぜか先生は校庭へ出て遊ぶことを禁止するのだそうです(と近所の子どもが訴えていました)。それは、学校から帰ってきた子どもの服が汚れていると、学校へ苦情をいう親がいるからだという話を聞いたことがあります。
すみません。森のようちえんとは関係ないですね。
でも、森のようちえんって、今の子どもの親を教育する場なのかもしれないな、などと考えてしまいました。
U氏:
その理不尽な親を育てたのは私たちの年代です。すみません。
後藤:
実際の森のようちえん(私の思うところの)を見学したことはありませんが、様々な気づきの要素が含まれているのは確かです。自然の中で体験する多様性な出会いや出来事、発見、匂い、触覚、関係性etcetc。その多様な体験が個への刺激となり多様な個の成長を促すと思います。ただ、ここの子どもの資質に望みを託すだけでなく、そこに存在する大人がもしファーブルやシートン、レイチェルだったらどうでしょう。その子の経験は自分で咀嚼する以上の速さで学びにならないでしょうか。彼らが体験することは非構成の偶発的なことかもですが、そこに同行する大人の関わり方(介在)で大きくその体験(効果)は変わると考えます。書籍等を見ても多くの森のようちえんの紹介は、活動に焦点が合ってしまい、子どもたちに関わる大人のスキル、必要とされる資質が議論されていないように思います。体験を学びに変える。幼児期の学びの段階、幼児期にとっての体験とは、幼児の身体や認知の発達段階、なぜ自然遊びなのか、なぜ集団なのかなどなど。憧れや感覚ではない森のようちえん、森のようちえんに関心のある皆さんは気にならないのでしょうか。
F氏:
そうなんです。近くにいる大人のかかわり方でその経験が学びになるのだと思っています。(先生)もちろん、その学びの方向性でも変わります。(プログラム)その方向性の予測や対応できる大人のかかわり方(専門指導者)が必要だと園長と話をしております。先生方にはワイルドの内容を知ってもらうと言うことで資格取得を幼稚園でおこなっています。でも、スタート2年ぐらいはすごく試行錯誤しておりました。なかなか学びまでいかないので…そこで、上記の方法に体験学習を最大限に利用するために年間プログラムで関連を付けて今は安定した形になりました♪
F氏:
Uさんのいうとおりに親も育てないと行けないです。授業の内容と子どもたちの成長を見てくれているので今では何も問題なく活動できていますが、他の幼稚園では親からのお願いで、体験前の準備に30分かかるそうです。
後藤:
多分、色々な方がこのキーワード(発した問い)に?と思ったのでは。(facebook上には)森のようちえん関係者(実施している人)も多いと思っています。ただ、この問いに興味を示し対話を通じ議論してくれたのは、ごく少数の知人のみでした。森のようちえん、託児的、イベント的、園外保育型、そのものズバリ、保育的、サークル的など様々な実施形態がありますが、実施される場所の自然度が高いことだけが必要条件なのでしょうか。森に行って幼児期の集団で活動すれば「森のようちえん?」というのが私からの問題提起です。学びの構造は気にしなくてよいのでしょうか。
後藤:
Fさん、ありがとうございました。学びのラインを大切にしたということですね。
F氏:
はい。わたしも森のようちえん?とはなんだろう?なのですが、自然度が高いところでなくても、自然からの学びは幼児期にすごく大切で、その効果が高いです。
後藤:
私も某市の保育課が主催した保育士研修で同じような内容を講演したことがあります。身近な自然事象(日常の中の自然)に気づき寄り添うことが大切と…結構自然体験への渇望があったのですが、その反面、自然がないのでと半ばあきらめに近い空気があり都市部の園にありました。そのため自分の経験を基に身近な自然事象に目を向けた環境体験の大切さを話ました。森のようちえんへの憧れが広がり始めた3年前のことです。同様の内容について書かれた本があります。「環境保育(有賀克明著)」面白いですよ。お勧めです。
H氏:
前にも書きましたが、森のようちえんには、専門家と幼稚園の先生との協力関係は不可欠だと思います。かといって「専門」的な説明をしても子どもたちは?となってしまうので、森のようちえんにかかわる大人(専門家)には森のようちえんのための高いスキルが必要です。(私もまだまだ身についていませんが)
・子どもの世界観に共感できる。
・ミクロからマクロまで環境への深い洞察力
・好奇心、探究心
・広い世界観
などなど。
しかし、あまり身構えると子どもに見抜かれてしまうので、自然な流れや対話の中で空間を構築していくことが必要です。難しい言葉を使うことなく、気づきを促していくことはインタープリテーションの原点のような、いちばん難しいスキルだと感じています。
後藤:
私も先に述べたように専門スキルの必要が有ると感じています。なのに、様々な形態やランクが混ざった状態があまりにも多く、整理されないままになっていることが気になっています。あとは、森のようちえんへの期待が高いのは分かるのですが、あまりにも森に入ることありきに感じて、なぜ森のようちえん(森での体験)に期待するのかを問いかけました。残念なのは森のようちえん関係者が多くいるにも関わらず・・・。
この対話は、facebook上で公開して行ったものです。如何でしたでしょうか?
森のようちえんについての出版物や報告が多くあるので、もしかするとすでに分かっていることを話していただけかもしれません。その際はご指摘いただけると嬉しいです。
今後もfacebook等で懲りずに教育について発信していきますので、ご興味のある方はぜひご参加ください。
※今回の内容は各発言者の許可を得てブログに掲載しています。無断での引用および転載は禁止させていただきます。