鎌倉街道は信濃、越後、陸奥方面から鎌倉へ通じた道で鎌倉幕府の御家人らが鎌倉へ向かう道として発展したが、今では道路改修・圃場整備・宅地造成など様々な事業で往時の姿が残っているところは少ないそうだ。
鎌倉から上州へ向かう上道(カミミチ・カミツミチ、上の道)、下野へ向かう中道(中の道)、常陸へ向かう下道(下の道)が有名であるが、我が上州から鎌倉への上道を歩いてみることにした。『いざ! 鎌倉へ』
【7日目 東京都】 2023年3月30日(木)晴れ・曇り
歩行距離:北府中駅~中央林間駅 31.1km(累計151.6km)
行 程:前橋駅5:31====8:06北府中駅8:10---09:31中河原駅09:38---09:45関戸橋09:50---11:50デニーズ12:25---13:23小野路宿13:23---13:25関屋の切通し13:33----13:41小野路宿里山交流館13:49----14:44七国山14:44---14:55今井谷戸バス停14:58----15:35雷文15:35---15:40菅原神社15:44---16:45町田天満宮16:49----17:58境川水管橋17:58---18:03二津屋橋18:04---18:09境川道路橋18:09---18:37中央林間駅===小田急江ノ島線===大和駅---アークホテル大和泊
前橋駅=北府中駅運賃1980円グリーン1000円 中央林間=大和駅運賃167円
昼食:デニーズ1340円 お茶:サンズカフェ360円 夕食:龍園1450円 宿:6810円 合計13,087円
【北府中駅 8:10発 府中市】
始発で前橋駅を出発、通勤時間真っ只中の北府中駅に着く
駅を出ると「TOSHIBA」ロゴ入りの塔が桜並木から生えていた
東芝府中工場の入口から北に延びる場内道路がほぼ旧鎌倉街道の様だ
【浅間神社 8:45 2.0km】
旧屋敷分村の鎮守浅間神社
神社前に庚申塔(延宝2年1674建立)と首を修理した石仏
地名の謂れなど書いた立派な石板があるが銅板の絵図は良く読めない
浅間神社から100m程行くと八雲神社
創設年代は不詳だが700年前には存在していた
古くは天王宮と称され牛頭大王が祭神で、八雲神社の祭神素戔嗚尊と合祀されている
神社道路際に立つ「元応の板碑」元応元年(1,319年)に建てられてた
本物は博物館にあり、板碑と板碑を抱く木はプラスチック製のレプリカ
【梅花山光明院 9:05 2.6km】
真言宗豊山派のお寺で開山時期は不明だが鎌倉時代にはあった
山門前の庚申塔(青面金剛)
真言宗お決まりの弘法大師像
平成8年に建立された現代風青銅製の弁財天像
慶応年間(1865-1868)に造られた木造弁財天を体内に納めてらる(光明院HP)
【分倍河原古戦場碑 9:17 3.1km】
「元弘3年(1333)この地で新田義貞が北条勢を破り鎌倉まで攻め込んだ」
この碑は軍国主義が台頭する昭和10年に建てられたもの
後醍醐天皇に従った忠君を顕彰する意味もあったのかもしれない
東京都道18号府中町田線が通称鎌倉街道
人家が立ち並ぶが商店街はどこか?
【西向庚申塔 9:34 4.0km】
京王線中川原駅と都道18号の交差点近くにある西向庚申塔
庚申とは方位でいうと西南西の位置を示し普通は庚申塔もこれにならうもで、この庚申塔は真西を向いており非常に稀なものなので「西向庚申塔」と呼ばれているらしい。また、なぜ真西向きなのかは不明
【中川原の渡し】
多摩川に架かる関戸橋、
架け替え工事中のため中川原の渡しを示す道標は工事用車両通路脇にあり見ることは出来なかった
旧鎌倉街道の説明版や遺跡の保存に熱心な自治体もあるが概して忘れられているようだ
関戸橋より上流側
下流側 渡しは下流側にあるが新橋も下流側に造るらしい
【関戸古戦場跡 10:08 6.0km 多摩市】
『最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘3(1333)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、5月16日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、6日後に首都鎌倉を制圧した。 多摩市教育委員会 』
関門山 延命寺(時宗)
古戦場跡の地蔵堂脇の隘路が参道
こじんまりしたお寺、藤沢市にある清浄光寺住職の隠居寺だったそうだ
慈眼山観音寺(真言宗豊山派)
創建は、建久三年(1192年)。毎年5月16日は、関戸合戦(元弘三年・1333年)の供養をおこなう。
涅槃寂静姿の「やすらぎ地蔵」
本尊せきど観音の写しである「なで観音」
街道沿いの常夜灯と馬頭観音
昭和のものらしいが柔らかい石で風化が激しい
【熊野神社と木戸柵跡 8:40 7.3km】
熊野神社
霞ノ関南木戸柵跡
「この付近は、鎌倉時代の建暦3(1213)年、鎌倉街道に置かれた関所跡で、熊野神社参道に沿って関所南側の木戸に柵跡が発見された。数少ない関所跡として重要である。 多摩市教育委員会 」
関戸の地名の由来でもある
沓切坂の庚申塔(正徳2年1712)
この坂は急で鎌倉攻めの折、新田義貞の馬の沓が切れたといわれている
多摩市役所前の道標
乞田川(コッタガワ)
【麦花塚 11:25 9.8km】
麦花塚は明治の歌人麦花の和歌や漢詩等が刻まれ麦花本人が刻字した
地蔵菩薩は寛文6年(1668)、阿弥陀如来像は寛文13年(1673),庚申塔は宝永2年(1705)に建立
都道18号(鎌倉街道)を東に渡ると多摩ニュータンに「瓜生せせらぎ散歩道」がある
散歩道の植込みの中に「瓜生一里塚跡碑」
「一里塚 は、一般的には旅の目印や休憩のために榎などの木を植えた塚を一里ごとに設けたものである。
瓜生一里塚は多摩市内では唯一の一里塚で、ここから西南七〇メートルほど離れた鎌倉街道を挟んだ両側に、
径四・六メートル、高さ三メートルほどの塚が存在していた。
江戸時代初期の元和3年(1617年)、駿河国久能山(現在の静岡市内)に埋葬されていた徳川家康の遺骸を
日光東照宮に移すために街道の整備を行い、この一里塚が造られたと言われている。」
塚跡碑から18号線に戻り、昼食タイム
今日のランチはスパゲッティと野菜サラダ
(11:50~12:25)
【大平山妙櫻寺(日蓮宗) 13:53 12.6km 町田市】
昭和27年杉並区に妙櫻協会を設立、中央道開通の為移転、昭和53年4月8日に寺号を妙櫻寺と改称
鎌倉街道説明板
旧道の面影残ず道
子育地蔵
関谷の切通
小野路宿の街並み
高札場跡にある小野路の解説版
小野路は鎌倉と国府の置かれた府中に通ずる要衝で古くから宿駅として賑わっていた。
江戸時代には東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として、江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行く人々で賑わう宿だった
小野路の歴史と江戸期の宿場図が記されている
小野路宿里山交流館 トイレや野菜の直売などあり道の駅の様な施設
野津田公園 桜のトンネルを抜けて行く
野津田公園から鶴見川へ向かう道
掘割が旧鎌倉街道
鶴見川に架かる丸山橋
鶴見川上流
七国山(ななくにやま 標高128.5m)付近の旧鎌倉街道
【鎌倉井戸 14:43 17.8km】
新田義貞が鎌倉攻めの途中ここで軍馬に与えたと伝えられ、昭和50年ごろまで湧水があった
【久住山宏善寺(日蓮宗) 15:19 19.9km】
創建年代等は不詳ながら、日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流された文永8年(1271)、井出の沢にあった真言宗の寺を日蓮宗に改させたという
【鶏足山養運寺(浄土宗) 15:19 20.4km】
永禄10年 (1567年)に浄土宗の寺となった。前身は文永年間(1264~74)以来の天台宗寺庵と伝えられ、750年ほど前の鎌倉時代よりある寺だと考えられます。事実鎌倉時代や南北朝時代の紀年銘のある板碑が数基伝存しています。(養運寺HP)
鎌倉時代には天台宗から鎌倉仏教といわれる6派(浄土宗・臨済宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗)が派生した。以前からある寺院は鎌倉時代以降、天台宗や真言宗から浄土宗や日蓮宗に変わる寺が出てきたのだろう。
【本町田菅原神社 15:38 20.9km】
当神社は東京都旧跡「井手の沢古戦場」に建っています。
十二世紀末鎌倉に幕府が設置され鎌倉街道が整備されると、当地は北関東から鎌倉へ通ずる街道の中でも重要な地点となりました。府中方面からここまでは丘陵地で起伏がありますが、ここから鎌倉までは一気に兵が押し下れるからです。
土地の形状から砦の如き城が築かれていたであろうとの研究も為されています。
建武2年(1335)足利尊氏の弟直義は、鎌倉幕府再興を図り信州から一路南下した北条時行の軍をこの地で迎撃し、激しい戦いの末敗れましたが、一時鎌倉を占拠した時行も20日にして尊氏に滅ぼされたのです(中先代の乱)。
(菅原神社HP)
小田急東横線町田駅
駅近くのコーヒーショップ サンズカフェ町田店で休息(16:10~16:30)
【町田天満宮 16:45 24.1km】
天正年間(1580年頃)の創設 彫り物が立派
【金森杉山神社 17:00 24.9km】
天和3年(1683)創建
石塔・石仏が並べられてあるが、それぞれの解説がありありがたい
【金森天満宮 17:15 25.7km】
創建年代等は不詳
左の石碑は菅原道真の和歌「こち吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわすらな」
【西田杉山神社 17:46 27.8km】
左の道が旧鎌倉街道 神社の入口に元禄11年(1698)の「庚申塔」
天和3年(1683)創建
樹齢300年といわれる大きなイチョウが入口にあるが周りが舗装されており今後の生長が心配
金森杉山神社とご神体を隔年奉遷して祭典を行なっているそうだ
【瑠璃光山常楽寺(曹洞宗) 17:36 27.2km】
創建年代等は不詳ながら、寛文3年(1663)建立の地蔵石像が残されている
境内にある「群馬置石」 三波石だろうか?
【鶴間熊野神社 17:45 27.8km】
創建年代等は不詳、享保11年(1726)には本殿を造立
日没は午後6時、本日はここで終了し小田急江ノ島線中央林間駅まで歩き
大和駅まで乗車、駅近くの中華料理屋で夕食をとり宿へ
夕食は「固焼きそば」
今年は桜の開花が例年より早いそうですが、その後気温が低かったせいか
花見を楽しみながらの道中、10時間ほど歩きましたが予定地には着きませんでした
埼玉県北部では「鎌倉武士の鏡」と謂われた畠山重忠にまつわるものが多くありましたが
埼玉県南部から東京に入ると鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞関連のものが目立ちます
時代とともに歴史上の人物の評価が変わる事もあるようですが
地元贔屓は変わらないようです
本日は鎌倉街道の旅で初めての宿泊
明日鎌倉への到着を楽しみに就寝
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
地図
次の資料を参考にしています
鎌倉街道を歩く(保存と活用のいま) 高橋光幸著 さきたま出版会:鎌倉街道上道の案内書
旧鎌倉街道探索の旅 Ⅰ 上道・山ノ道編 芳賀善次郎著 さきたま出版会:鎌倉街道のバイブル
五街道の旅:五街道はじめ脇往還・歴史街道など地図付きで詳しいホームページ
道・鎌倉街道探索日記:埼玉県内の鎌倉街道を地図と写真で詳しく解説
「隠居の思ひつ記」:迷道院高崎(めいどいんたかさき)さんの軽快で詳細なブログ
上野国交替実録帳を読む(千年前の県政白書) 前澤和之著 みやま文庫:群馬を知る事典みやま文庫から
熊谷デジタルミュージアム
鎌倉から上州へ向かう上道(カミミチ・カミツミチ、上の道)、下野へ向かう中道(中の道)、常陸へ向かう下道(下の道)が有名であるが、我が上州から鎌倉への上道を歩いてみることにした。『いざ! 鎌倉へ』
【7日目 東京都】 2023年3月30日(木)晴れ・曇り
歩行距離:北府中駅~中央林間駅 31.1km(累計151.6km)
行 程:前橋駅5:31====8:06北府中駅8:10---09:31中河原駅09:38---09:45関戸橋09:50---11:50デニーズ12:25---13:23小野路宿13:23---13:25関屋の切通し13:33----13:41小野路宿里山交流館13:49----14:44七国山14:44---14:55今井谷戸バス停14:58----15:35雷文15:35---15:40菅原神社15:44---16:45町田天満宮16:49----17:58境川水管橋17:58---18:03二津屋橋18:04---18:09境川道路橋18:09---18:37中央林間駅===小田急江ノ島線===大和駅---アークホテル大和泊
前橋駅=北府中駅運賃1980円グリーン1000円 中央林間=大和駅運賃167円
昼食:デニーズ1340円 お茶:サンズカフェ360円 夕食:龍園1450円 宿:6810円 合計13,087円
【北府中駅 8:10発 府中市】
始発で前橋駅を出発、通勤時間真っ只中の北府中駅に着く
駅を出ると「TOSHIBA」ロゴ入りの塔が桜並木から生えていた
東芝府中工場の入口から北に延びる場内道路がほぼ旧鎌倉街道の様だ
【浅間神社 8:45 2.0km】
旧屋敷分村の鎮守浅間神社
神社前に庚申塔(延宝2年1674建立)と首を修理した石仏
地名の謂れなど書いた立派な石板があるが銅板の絵図は良く読めない
浅間神社から100m程行くと八雲神社
創設年代は不詳だが700年前には存在していた
古くは天王宮と称され牛頭大王が祭神で、八雲神社の祭神素戔嗚尊と合祀されている
神社道路際に立つ「元応の板碑」元応元年(1,319年)に建てられてた
本物は博物館にあり、板碑と板碑を抱く木はプラスチック製のレプリカ
【梅花山光明院 9:05 2.6km】
真言宗豊山派のお寺で開山時期は不明だが鎌倉時代にはあった
山門前の庚申塔(青面金剛)
真言宗お決まりの弘法大師像
平成8年に建立された現代風青銅製の弁財天像
慶応年間(1865-1868)に造られた木造弁財天を体内に納めてらる(光明院HP)
【分倍河原古戦場碑 9:17 3.1km】
「元弘3年(1333)この地で新田義貞が北条勢を破り鎌倉まで攻め込んだ」
この碑は軍国主義が台頭する昭和10年に建てられたもの
後醍醐天皇に従った忠君を顕彰する意味もあったのかもしれない
東京都道18号府中町田線が通称鎌倉街道
人家が立ち並ぶが商店街はどこか?
【西向庚申塔 9:34 4.0km】
京王線中川原駅と都道18号の交差点近くにある西向庚申塔
庚申とは方位でいうと西南西の位置を示し普通は庚申塔もこれにならうもで、この庚申塔は真西を向いており非常に稀なものなので「西向庚申塔」と呼ばれているらしい。また、なぜ真西向きなのかは不明
【中川原の渡し】
多摩川に架かる関戸橋、
架け替え工事中のため中川原の渡しを示す道標は工事用車両通路脇にあり見ることは出来なかった
旧鎌倉街道の説明版や遺跡の保存に熱心な自治体もあるが概して忘れられているようだ
関戸橋より上流側
下流側 渡しは下流側にあるが新橋も下流側に造るらしい
【関戸古戦場跡 10:08 6.0km 多摩市】
『最初の武士政権である鎌倉幕府は、元弘3(1333)年新田義貞によって滅ぼされた。新田軍は鎌倉に向かう途中、交通の要所である分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、5月16日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、6日後に首都鎌倉を制圧した。 多摩市教育委員会 』
関門山 延命寺(時宗)
古戦場跡の地蔵堂脇の隘路が参道
こじんまりしたお寺、藤沢市にある清浄光寺住職の隠居寺だったそうだ
慈眼山観音寺(真言宗豊山派)
創建は、建久三年(1192年)。毎年5月16日は、関戸合戦(元弘三年・1333年)の供養をおこなう。
涅槃寂静姿の「やすらぎ地蔵」
本尊せきど観音の写しである「なで観音」
街道沿いの常夜灯と馬頭観音
昭和のものらしいが柔らかい石で風化が激しい
【熊野神社と木戸柵跡 8:40 7.3km】
熊野神社
霞ノ関南木戸柵跡
「この付近は、鎌倉時代の建暦3(1213)年、鎌倉街道に置かれた関所跡で、熊野神社参道に沿って関所南側の木戸に柵跡が発見された。数少ない関所跡として重要である。 多摩市教育委員会 」
関戸の地名の由来でもある
沓切坂の庚申塔(正徳2年1712)
この坂は急で鎌倉攻めの折、新田義貞の馬の沓が切れたといわれている
多摩市役所前の道標
乞田川(コッタガワ)
【麦花塚 11:25 9.8km】
麦花塚は明治の歌人麦花の和歌や漢詩等が刻まれ麦花本人が刻字した
地蔵菩薩は寛文6年(1668)、阿弥陀如来像は寛文13年(1673),庚申塔は宝永2年(1705)に建立
都道18号(鎌倉街道)を東に渡ると多摩ニュータンに「瓜生せせらぎ散歩道」がある
散歩道の植込みの中に「瓜生一里塚跡碑」
「一里塚 は、一般的には旅の目印や休憩のために榎などの木を植えた塚を一里ごとに設けたものである。
瓜生一里塚は多摩市内では唯一の一里塚で、ここから西南七〇メートルほど離れた鎌倉街道を挟んだ両側に、
径四・六メートル、高さ三メートルほどの塚が存在していた。
江戸時代初期の元和3年(1617年)、駿河国久能山(現在の静岡市内)に埋葬されていた徳川家康の遺骸を
日光東照宮に移すために街道の整備を行い、この一里塚が造られたと言われている。」
塚跡碑から18号線に戻り、昼食タイム
今日のランチはスパゲッティと野菜サラダ
(11:50~12:25)
【大平山妙櫻寺(日蓮宗) 13:53 12.6km 町田市】
昭和27年杉並区に妙櫻協会を設立、中央道開通の為移転、昭和53年4月8日に寺号を妙櫻寺と改称
鎌倉街道説明板
旧道の面影残ず道
子育地蔵
関谷の切通
小野路宿の街並み
高札場跡にある小野路の解説版
小野路は鎌倉と国府の置かれた府中に通ずる要衝で古くから宿駅として賑わっていた。
江戸時代には東海道と甲州街道を結ぶ脇往還として、江戸中期以降は埼玉方面から大山詣でに行く人々で賑わう宿だった
小野路の歴史と江戸期の宿場図が記されている
小野路宿里山交流館 トイレや野菜の直売などあり道の駅の様な施設
野津田公園 桜のトンネルを抜けて行く
野津田公園から鶴見川へ向かう道
掘割が旧鎌倉街道
鶴見川に架かる丸山橋
鶴見川上流
七国山(ななくにやま 標高128.5m)付近の旧鎌倉街道
【鎌倉井戸 14:43 17.8km】
新田義貞が鎌倉攻めの途中ここで軍馬に与えたと伝えられ、昭和50年ごろまで湧水があった
【久住山宏善寺(日蓮宗) 15:19 19.9km】
創建年代等は不詳ながら、日蓮上人が鎌倉から佐渡へ配流された文永8年(1271)、井出の沢にあった真言宗の寺を日蓮宗に改させたという
【鶏足山養運寺(浄土宗) 15:19 20.4km】
永禄10年 (1567年)に浄土宗の寺となった。前身は文永年間(1264~74)以来の天台宗寺庵と伝えられ、750年ほど前の鎌倉時代よりある寺だと考えられます。事実鎌倉時代や南北朝時代の紀年銘のある板碑が数基伝存しています。(養運寺HP)
鎌倉時代には天台宗から鎌倉仏教といわれる6派(浄土宗・臨済宗・浄土真宗・曹洞宗・日蓮宗・時宗)が派生した。以前からある寺院は鎌倉時代以降、天台宗や真言宗から浄土宗や日蓮宗に変わる寺が出てきたのだろう。
【本町田菅原神社 15:38 20.9km】
当神社は東京都旧跡「井手の沢古戦場」に建っています。
十二世紀末鎌倉に幕府が設置され鎌倉街道が整備されると、当地は北関東から鎌倉へ通ずる街道の中でも重要な地点となりました。府中方面からここまでは丘陵地で起伏がありますが、ここから鎌倉までは一気に兵が押し下れるからです。
土地の形状から砦の如き城が築かれていたであろうとの研究も為されています。
建武2年(1335)足利尊氏の弟直義は、鎌倉幕府再興を図り信州から一路南下した北条時行の軍をこの地で迎撃し、激しい戦いの末敗れましたが、一時鎌倉を占拠した時行も20日にして尊氏に滅ぼされたのです(中先代の乱)。
(菅原神社HP)
小田急東横線町田駅
駅近くのコーヒーショップ サンズカフェ町田店で休息(16:10~16:30)
【町田天満宮 16:45 24.1km】
天正年間(1580年頃)の創設 彫り物が立派
【金森杉山神社 17:00 24.9km】
天和3年(1683)創建
石塔・石仏が並べられてあるが、それぞれの解説がありありがたい
【金森天満宮 17:15 25.7km】
創建年代等は不詳
左の石碑は菅原道真の和歌「こち吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春をわすらな」
【西田杉山神社 17:46 27.8km】
左の道が旧鎌倉街道 神社の入口に元禄11年(1698)の「庚申塔」
天和3年(1683)創建
樹齢300年といわれる大きなイチョウが入口にあるが周りが舗装されており今後の生長が心配
金森杉山神社とご神体を隔年奉遷して祭典を行なっているそうだ
【瑠璃光山常楽寺(曹洞宗) 17:36 27.2km】
創建年代等は不詳ながら、寛文3年(1663)建立の地蔵石像が残されている
境内にある「群馬置石」 三波石だろうか?
【鶴間熊野神社 17:45 27.8km】
創建年代等は不詳、享保11年(1726)には本殿を造立
日没は午後6時、本日はここで終了し小田急江ノ島線中央林間駅まで歩き
大和駅まで乗車、駅近くの中華料理屋で夕食をとり宿へ
夕食は「固焼きそば」
今年は桜の開花が例年より早いそうですが、その後気温が低かったせいか
花見を楽しみながらの道中、10時間ほど歩きましたが予定地には着きませんでした
埼玉県北部では「鎌倉武士の鏡」と謂われた畠山重忠にまつわるものが多くありましたが
埼玉県南部から東京に入ると鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞関連のものが目立ちます
時代とともに歴史上の人物の評価が変わる事もあるようですが
地元贔屓は変わらないようです
本日は鎌倉街道の旅で初めての宿泊
明日鎌倉への到着を楽しみに就寝
↓そんな訳で 押していただくとたすかります
地図
次の資料を参考にしています
鎌倉街道を歩く(保存と活用のいま) 高橋光幸著 さきたま出版会:鎌倉街道上道の案内書
旧鎌倉街道探索の旅 Ⅰ 上道・山ノ道編 芳賀善次郎著 さきたま出版会:鎌倉街道のバイブル
五街道の旅:五街道はじめ脇往還・歴史街道など地図付きで詳しいホームページ
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「隠居の思ひつ記」:迷道院高崎(めいどいんたかさき)さんの軽快で詳細なブログ
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