上州からの山旅

凡人noyamaの山旅の記録

熊野街道(熊野古道)を行く 3(仁徳天皇陵~貝塚市・石才駅)

2024年10月27日 | 街道を歩く


【仁徳天皇陵~貝塚市・石才駅】 令和6年(2024)10月19日(土)晴/雨

行  程:(阪堺電気軌道阪堺線)御陵前駅9:00---9:40石津神社---10:16大鳥神社---10:55北王子--11:50聖神社・篠田王子---12:20昼食・万作13:00---13:12平松王子---13:45泉井上神社---14:00井ノ口王子---15:50お茶16:20---16:42半田一里塚--16:58石才駅=(水間鉄道250円)=貝塚駅=(南海本線240円)=17:15泉佐野駅--ビジネス旅館三松荘泊(素泊まり3400円)
歩行距離:23.2km


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大阪府営浜寺公園内にあるユースに宿泊
朝食まで時間があったので公園内を散歩した


*
ユース前に小泉純一郎総理とロシアのプーチン大統領署名の「日ロ友好記念碑」があった
日露戦争当時この地に収容したロシア兵捕虜を丁重に扱ったことでの友好記念だそうだ
今のロシアにそんな余裕があれば良いのだが

 



【堺市】


浜寺駅前駅から阪堺電気軌道で御陵前駅へ


本日の出発地。土居川にかかる山之口橋



熊野街道を示す石標を確認し先に進む




石津神社 創建は紀元前で日本最古の戎(えびす)神社と称している

境内には「クスノキ」の古木や「オガタマノキ」が堺市指定の保存木になっている



 *
大鳥神社
延長5年(西暦927年)創建の延喜式内社、和泉国の一ノ宮
本殿は大鳥造と言い、切妻造の妻入りで出雲大社に次ぐ古い形式
*切妻屋根において、軒先側にあたる平側に入り口を設置するものを「平入り」、横から見て屋根が八の字のように見える面(妻側)に入り口を設置するものを「妻入り」



鳳本通商店街




大鳥居王子
商店街の一角に北王子会館なるものがありそこに「大鳥居王子」はここにあったとある

 



【高石市】


高石市のマンホールは天女と羽衣、周りに市の木松(松葉)と波をデザイン

高石市には羽衣伝説のある大鳥羽衣濱神社がある 

 



【和泉市】


和泉市の花スイセンのデザイン
鎌倉時代に我が国で最初に栽培された地といわれている

カワセミとアユのデザインもある



聖神社一の鳥居




篠田王子
聖神社一の鳥居を過ぎ、民家の間を入ったところにあり不心得者がいるようで注意書きと監視カメラがあった



小栗地蔵
熊野街道は小栗街道とも呼ばれ、架空の人物ではあるが小栗判官と照手姫を祀ったものか
道中の安全を祈願したものか?



ここでランチタイム 「万作」という蕎麦屋でかつ丼
上州はソースかつ丼なる卵がかけてないかつ丼があるが、卵がかけてあって三つ葉の乗っている方が好きだ
ここのはそれだが、御飯は薄味のタレがしみ込んでいてお茶漬け一歩手前状態で馴染みのかつ丼と違う
付属のスプーンで食べる仕様のようで興味深くも美味しかった




放光池一号公園にある住吉大神宮石灯籠
大阪湾の安全航行を願う灯台の役割を果たした300年前のもの


平松王子
放光池一号公園の向かいにある
後鳥羽上皇一行は渡辺の津(八軒家浜)を出発して2泊目宿泊地とした




陸上自衛隊信太山駐屯地前の隘路を行く



古い街並みが残っている



道標は「熊野街道」ではなく「小栗街道」




泉井上神社 和泉の地名の発祥で5社を合祀した総社神社
「泉井上神社は 「和泉」の地名の発祥となつたと伝えられる「和泉清水」を祭る神社である
五社総社は 奈良時代に河内国から分離し和泉国が設置された際 国府の所在地府中に
国内の五大社である大鳥・穴師・聖・積川・日根を総合して勧請し参詣の便を図つたといわれている
現在の本殿は 慶長10年(1605)に豊臣秀頼が片桐且元を奉行として再建したと伝えられるもので
国の重要文化財に指定されている」(解説版) 



境内にある南北朝時代の板碑
石に刻まれた銘文はほとんど消えて読めないが、解説版も消えかかっている



和泉市設置の案内看板



和泉市井口町 古い町並み




井口王子
碑のある妙福寺境内には子宝地蔵が祀られている

 



【岸和田市】
井口王子を過ぎ、槇尾川・松尾川と二つの川を渡ると岸和田市
槇尾川から西に入ったところに旧道があり小栗街道説明版があるそうだが見当たらなかった



中央に市の花バラ、その周りに市の木クスノキの葉、岸和田城のデザイン



久米田駅の西側が「池田王子」と推定されているが何も無いそうだ



町内毎に「だんじり」がある




積川神社(つがわ)の鳥居(積川神社遥拝所)
 神社は5キロも東にあるが、遠方の氏子が積川神社に参拝できるよう遥拝所が設けられた。
熊野古道沿いにあるため、熊野参詣をする皇族・公家が勅願社である積川神社を遥拝する(額づく)場所にもなった。また、白河上皇が扁額を書かれたこの「額」と「額づく」から地名が「額」になったという。



東岸和田あたりの街並み



クリーム本舗岸和田店
雨も降ってきて疲れたのでお茶

 



【貝塚市】


ここに麻生川王子があったらしい、敷地内の鳥居は違うようだ



雨の中、堂の池沿いに歩く




半田の一里塚
後ろに塚が残っている



市の花コスモスのデザイン



雨も降り日没も近くなったので本日はここまでとして泉佐野の宿に向かう




泉佐野駅近くの創業大正9年のこちらのお店で
初めてお目にかかる「うどん ナポリタン」なるものを食した
腰のあるうどんにトマトケチャップ味が意外にあって美味しかった

 





熊野街道は鎌倉時代以降、秀吉時代以降から近代に至るまで戦災や開発などで
街並みや川筋、川を渡る場所、丘陵などの自然地形も著しく変化して
平安・鎌倉時代のルートは失われてしまって再現は困難と思われる
参考にしている大阪府発行のウオーキングマップもルートから外れたところに王子跡がある
江戸時代に拓かれた五街道より以前の道を探して歩くのは難しいが
見所は沢山ある街道でもありそれなりに楽しい今日この頃でもあります

↓そんな訳で 押していただくとたすかります





 地図

用語等
≪熊野街道≫
*熊野街道は、渡辺津(八軒家浜)から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)への参詣に利用された街道の総称。紀伊路とも呼ばれ、当初は、渡辺津から熊野までが一体として扱われたが、近世以後は紀伊田辺を境に紀伊路・中辺路と区分されるようになった。
 説教浄瑠璃の小栗判官にちなみ小栗街道(おぐりかいどう)とも呼ばれ、大阪市街(上町)では御祓筋(おはらいすじ)とも呼ばれる。(Wikipedia)

≪後鳥羽上皇の熊野御幸≫  
   後鳥羽上皇は建久9年(1198)から24年間の在院期間のうちに28回熊野御幸を行っており、道中のところどころの王子社などで、和歌会が催された
   建仁元年(1201)の熊野御幸では歌人の藤原定家がお供し、その様子を日記『後鳥羽院熊野御幸記』に記している。  『新古今和歌集』編纂の院宣が下されたのは、この建仁元年の熊野御幸から帰京した後のことだった。
(み熊野ネットから)https://www.mikumano.net/setsuwa/gotoba.html

≪熊野九十九王子≫
 王子とは、熊野権現の御子神だと考えられています。
 熊野詣が一大ブームとなった院政期に、多数の王子が紀伊路・中辺路ルートに出現しました。
 それらは総称して熊野九十九王子(くまのくじゅうくおうじ)と呼ばれました。九十九というのは実際の数で はなく、「数が多い」という意味ですが、実際、最盛期には99に近い数の王子がありました。
 各王子では、奉幣(幣を奉る)と経供養(般若心経などを読む)などの儀式が行われ、里神楽や馴子舞、和歌会などの奉納が行なわれることもありました。
(み熊野ネットから)

≪五体王子≫
 九十九王子のほとんどの王子は、熊野十二所権現のうちの熊野五所王子(若一王子・禅師の宮・聖の宮・児(ちご)の宮・子守の宮)の1体を祀るものですが、5体すべてを祀るものもあり、それをとくに「五体王子」といいました。
 「五体王子」は、とくに格式が高い王子だとして崇敬されましたが、どの王子が五体王子なのかは史料により異なります。「修明門院熊野御幸記」では籾井王子(樫井王子)・藤代王子・稲葉根王子が五体王子とされ、「後鳥羽院熊野御幸記」では藤代王子のみが五体王子で、稲葉根王子は五体王子に准じるとされます。
(み熊野ネットから)
*現在五体王子は、藤代皇子、切目王子、稲葉根王子、滝尻王子、発信門王子とするのが一般的

 

参考1:歩く旅シリーズ 熊野古道を歩く 山と渓谷社
参考2:み熊野ねっと::自称「熊野の伝道者 てつ」さんのHP、熊野本宮氏子総代
参考3:歴史街道ウオーキングマップ::大阪府都市整備部
参考4:熊野古道紀伊路::和歌山県観光連盟
参考5:Kansai Odyssey::誰も知らない観光地をテーマに関西を冒険する日本人の夫とアメリカ人の妻のブログ

参考7:田舎暮らしde ほっ!
参考8:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社

参考9:藤原定家の熊野御幸(ごこう):神坂次郎著 角川ソフィア文庫



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