【26日目 近江國 滋賀県】 令和6年(2024)4月26日(金)晴れ
歩行距離:武佐駅~草津宿(ホテル) 29.0km(累計560.3km)
行 程:近江八幡駅7:19=(180円)=7:25武佐駅--8:32東横関の一里塚--9:24鏡宿立場--10:10平家終焉の地--10:20大笹原の一里塚---11:45来来亭12:10--12:35朝鮮人街道分岐--12:31守山宿--13:55今宿の一里塚--15:35草津の一里塚--15:42草津宿--16:43野路の一里塚--17:37ニュー琵琶湖ホテル(朝食付き6100円)
朝電車が混んでいると思ったら平日で通勤客
毎日が日曜日だあるので曜日の感覚が無くなっている
武佐駅は無人駅だが朝夕は通勤客が多い
【66 武佐宿出立】
昨日の終点武佐駅に戻り出立、先の踏切を渡る
歩き出して間もなく立派なクスノキのそびえる園地があった
伊庭貞剛(いばていごう)邸跡と解説版がある
「住友財閥中興の祖と言われたが、五十八歳になると事業の進歩発展に最も害するものは「青年の過失ではなくて、老人の跋扈だ」といって、サッサと引退」
ここにも地霊により近江商人が誕生した様だ
鎮火霊璽
これも火伏の愛宕信仰
南無妙法蓮華経題目碑
碑の隣の電柱に1m位の所に浸水想定域の表示がある
琵琶湖があふれるとここまで水に漬かるのだろう
住蓮坊首洗い池
住蓮坊は浄土宗開祖の法然上人の弟子。建永元年(1206)後鳥羽上皇が熊野詣の留守中に、上皇の寵愛を受けていた女官(松虫と鈴虫)の姉妹が、住蓮坊の念仏法会に参加し、浄土宗に帰依した。これを知った上皇は怒りのあまり、住蓮坊を死罪とし、法然上人は四国の讃岐に、親鸞は越後に流罪としました。(承元の法難)
高野世継観音道道標
世継観世音菩薩は臨済宗永源寺派大本山永源寺の本尊
信号「馬淵町」の所に、八幡宮と高札場跡がある
八幡社本殿は国登録重要文化財
地蔵堂
御堂前は屋根が掛けられるようになって祭事でも行うのだろう
東横関の一里塚 8:32 武佐駅より3.7km
東横関町信号の向こうの町村界あたり
横関川の渡し場跡 右岸側
水量の多いときは船で渡り、少ないときは舟二艘を縦に繋ぎ、杭を打ち舟を固定し、舟の上には渡し板を敷いて渡った
左岸側
左岸側は蒲生郡竜王町
竜王町のマンホールは、「王」の字をデザインした町章を中心に、町の木マツと町の花アエンボ(コバノミツバツツジ)
ベンガラ塗の旧家が並ぶ隘路を進む
道標「是よりいせみち みなくち道」
東海道水口を経て伊勢に至る水口道
【間の宿 鏡宿】
旅篭亀屋跡
旧鏡村は武佐宿と守山宿の間の宿(鏡宿)と呼ばれた
旅篭京屋跡と街並み
源義経宿泊の館跡
承安四年(1174)鞍馬寺を脱出した牛若丸(源義経)は鏡宿に入り、宿泊した
鏡宿本陣跡
本陣向かいの旧家
鏡神社と烏帽子掛の松
鏡の宿で牛若丸は元服し、鏡神社に源氏の再興とを祈願た
義経元服の際に使用した盥(たらい)は鏡神社に保管されているが、戦時中出征兵士のお守りとして削られ今は板になっている
鏡神社本殿 重要文化財
義経元服池
愛宕大神碑
この地方の石碑にはお札を納めるところがある
野洲市に入る
旧野洲町のマンホール
「銅鐸」に見られる紋様をデザイン。 中央の「町章」は「ヤ・ス」を図案化したもの
平家終焉の地
平家最後の総大将平宗盛は壇ノ浦の合戦に敗れ、宗盛、清宗親子は源義経に護送され、鎌倉に向かい、再び京都に向かう途中ここで斬首され、首は京都へ胴体はここに埋葬された
大篠原の一里塚跡 江戸日本橋より百二十六里目 武佐駅より9.0km 10:20
道祖神と中山道解説
金毘羅大権現常夜燈(寛政六年(1794)建立)、愛宕山大神、山灯籠
それぞれお札を納める所がある
子安地蔵堂
往時はこのあたりに天台系の寺が三千坊あり、天台系嘉祥寺に安置されていた地蔵菩薩が元亀(1570-1573)の兵火を免れた、平安時代末期(十二世紀)造立の極彩色等身大の半跏趺坐(はんかふざ)像が祀られている
桜生(さくらはざま)史跡公園と甲山古墳
このあたりは大岩山古墳群と言われ前方後円墳や円墳が多く存在する
昼食は滋賀県発祥で西日本に250店舗ある「来来亭」
アジフライ定食ラーメン 1,020円
御飯が食べきれなかった
稲荷神社
壬申の乱で野洲川原で戦死した人々の供養と国家鎮護を祈願し、天暦二年(948)伏見稲荷を勧請したもの
本殿脇の古宮神社は鎌倉時代の創建で重要文化財
神社本庁の教化モデル神社というのは何だろう?
神社本庁ホームページに過疎地域神社活性化の取組とあった
藁ぶき屋根にベンガラ塗の暁酒造
趣きある建物だが店舗前の自販機が無粋
中山道野洲碑
野洲市のマンホール
野洲郡野洲町、中主町と合併して野洲市となった
中央に野洲川を配置し、東海道新幹線の野洲川橋梁と旧中主町の町の花として指定されていた「アヤメ」と旧野洲町のシンボルである三上山をそれぞれ上下の位置に配置
朝鮮人街道分岐
江戸時代の朝鮮通信使が通った道で、朝鮮人街道(赤)は近江八幡~安土~彦根を経て鳥居本で再び中山道に合流
背くらべ地蔵
子供が右の小さい地蔵と同じくらいになれば一人前
珍しい茅葺き屋根の浄土宗佛牙山唯心寺
延暦二十四年(805)の開基で、この寺も天台宗であったが後に浄土宗に
山門前に釋尊身御舎利碑があるが、お釈迦様の分骨でも納めてあるのだろうか?
浄土真宗本願寺派清流山蓮照寺
寛永元年(1624)浄春の開祖で、境内には街道から移設した道標が3基保存されている
一番左は「左 八まんみち」「右 中山道」
四ツ家八幡神社
石仏群
赤い涎掛けをしているのでお地蔵様の様だ、立体像で無くレリーフ地蔵が多い
黄檗宗百足山十輪院
御堂の向かい側には沢山の地蔵尊が安置されている
野洲川に架かる野洲橋を渡る
【67守山宿着】 13:31 武佐駅から17.0km
守山宿解説
次の草津宿・大津宿は東海道の宿と重なり中山道単体では最後の宿
京都から江戸へ向かう吾妻下りでは最初に利用された宿
高札場跡
守山市吉身地区は守山宿の(人馬が足りない時に応援する)加宿であった
帆柱観世音 慈眼寺 天台宗比叡山正覚寺末寺
本堂は石柱の奥の建物だが第二日曜日以外中に入れない
傳教大師最澄が唐から帰国途上、突然の海難に遭遇して危急の折り、海上に観世音菩薩が現れて風波が鎮まり無事に帰国された。帰国後大師は、海難で折れた船の帆柱で、十一面観世音菩薩と脇侍の持国天・多聞天像を彫り、弘仁元年(810)中山道に沿う吉身の地に水難をはじめ全ての交通安全の守り仏として安置されたのが起源とされています。
道標 「高野郷新善光寺道是ヨリ二十五丁 すぐいしべ道」
東海道の石部への道標。新善光寺は栗東市高野にあり長野の善行寺と同じ御利益があるといわれている
守山宿の景観協定書
宇野本家酒造跡
元内閣総理大臣宇野宗佑氏の生家
現在は守山市が譲り受け、「守山宿町屋うの家」として公開
守山宿街並み
本陣跡推定地
この場所は小宮山九右衛門本陣があったと推定される場所で江戸時代には問屋・脇本陣・本陣などの役割を果たした。ここには昭和40年まで特定郵便局兼局長宅があったが、平成16年に取り壊された。
中山道文化交流館 町屋を利用した休憩所兼ギャラリー
延享元年(1744)の道標 市文化財
「右中山道幷美濃路 左錦織寺四十五町こ乃者満ミち」 と刻まれている
天台宗比叡山東門院守山寺
中央石造五重塔は重要文化財、左手の石造宝塔、右手の石造宝篋印塔は共に国重要美術品指定
東門院は、延暦年間(782-805)比叡三千坊といわれる比叡山の僧坊の一つとして最澄が開いた寺院で、桓武天皇から 「比叡山を守る東門」 として東門院の名を賜った
門前茶屋かたたや 門前の茶屋兼旅籠堅田屋跡
土橋 旧栗太郡と旧野洲郡の境界 守山宿の京(西)口
境川(吉川)を土橋で渡ると、守山宿の加宿である今宿村
林業のプロの店
守山市マンホール
守山の「源氏ホタル」をメインに、「琵琶湖大橋・魞(えり)」を図案化
今宿の一里塚江戸日本橋より百二十八里目 13:55 武佐駅より18.5km
滋賀県内で現存する唯一の一里塚
住蓮房母公墓標石
建永2年(1207)に近江八幡の馬渕で処刑される住蓮房に一目会いたいと後を追った住蓮坊の母は、焔魔堂まで来たところで既に処刑された事を知り、悲嘆に暮れて尼ヶ池に身を投げて亡くなった
当時の新興宗教浄土宗に対する南都北嶺の妨害と弾圧の物語
守山市二町町から栗東市綣(へそ)の堺 14:15 武佐駅から19.6km
芭蕉句碑
「へそむらの まだ麦青し 春のくれ」
大宝神社
大宝元年(701))の創建、祭神は素戔嗚尊
社名を大宝天王宮と称し正一位とされ、中山道向の大宝山佛眼寺は神宮寺となっていた。慶応4年(1863)神仏分離令により仏教色を一掃し、社名を大宝神社と改称、現在に至る。
道路原標
始めて見る大きな道路原票
栗東市のマンホール蓋
インターチェンジを図案化した市章を外周に、 内側には、まちのシンボルであるメジロ・貝塚伊吹・キンセンカが配置
栗東市と草津市の堺
【68 草津宿着】 15:42 武佐駅より23.7km
草津市マンホール
よく分からないデザイン
追分道標のマンホール
市の花アオバナ
東海道五十三次之内草津のデザイン
渋川隧道でJR東海道本線及びJR草津線をくぐり抜けグレーチング敷きの細い側道を進む
草津市渋川学区の飛び出し坊や「しぶはなちゃん」
草津の一里塚跡 江戸日本橋より百二十九里目 15:35 武佐駅より23.2km
中山道最後の一里塚
草津追分
中山道(黄色→)、東海道(白→)
追分にある草津隧道と高札場跡と延命地蔵
街並み
本陣跡 (国指定史跡)
脇本陣藤屋与左衛門跡 現在はお茶屋吉川芳樹園
脇本陣仙台屋茂八跡 現在はべーカリー&カフェ脇本陣
田中九蔵本陣跡 現在はお食事処はり治
太田酒造
江戸城を築いた太田道灌を先祖にもつ太田家は代々問屋場の総取締役を勤め、草津の政所(まんどころ)と呼ばれた
立木神社 祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)
狛犬が鹿になっている
矢倉橋 草津宿の京方(西)口 16:23 武佐駅から25.1km
手前に黒門があった
瓢箪の瓢泉堂 立場跡
寛政十年(1798)建立の矢橋(やばせ)道追分道標「右やばせ道 これより廿五丁 大津へ船わたし」
野地一里塚跡碑 江戸日本橋より百三十里、東海道の百十九里目 16:43 武佐駅から26.1km
平清宗胴塚(五輪塔)
遠藤権兵衛家の屋敷内にあり入れない
塀の上に解説と写真が掲げてある。源平の戦いで敗れた平家の総大将宗盛は野洲篠原で斬首され、長男の清宗はこの地に置いて掘弥太郎景光の一刀で斬首された。遠藤家の庭には、代々平清宗の胴塚として保存している供養塔がある。
子守地蔵
レリーフの地蔵、顔や頭は塗ってあり可愛らしい
野路萩の玉川
野路は平安時代から鎌倉時代にかけて宿駅として栄えた所であり、この野路に玉のような綺麗な湧水が有ったことから 「玉川」 と呼ばれ、「日本六玉川」 の1つに数えられていた
弁天池 弁天島には琵琶湖の竹生島から勧請した弁財天を祀る
池にはオオバンが泳いでいる
草津市と大津市の堺
大津市月輪町
本日はここまででホテルに向かう
夕食は 鯛茶漬けに地ビールで1,793円
これまでの記録はこちら
中山道もいよいよ大詰め
宿で体重を図るとなんと3kg増量
毎日宿に着く頃には疲れ果てているのですがそれを上回るカロリー摂取しているようだ
そういえば、ブログを書いているときも1日中こもって何かを食べている
帰宅後は節制しようと思いつつ今日もビールがうまかった
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地図
参考1:「ちゃんと歩ける中山道69次」 八木牧夫著 山と渓谷社
参考2:五街道ウオーク:上記本の著者八木牧夫さんのホームページ
参考3:電子足跡:GPSログがとても参考になります
参考4:「日本史 小辞典」(改訂版) 山川出版社
参考5:ウイキペディア
参考6:「長野県:歴史・観光・見所」
参考7:日本の街道を歩く旅
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