還熊八幡神社(愛媛県松山市)を掲載しました。
還熊八幡神社(かへりぐまはちまんじんじゃ)
【鎮座地】〒791-8013 愛媛県松山市山越3丁目3-2 旧伊予国 和気郡
【御祭神】品田和氣命 帶中彦命 息長帶姫命
(合祀)迦具都知命 菅原道眞 素盞嗚命
【例祭】2月19日 祈年祭 10月6日 例大祭 毎月1日1・15日 月次祭
【旧社格等】村社
【御由緒】
松山八社八幡の七番社。祭神は、品田和気命、帯中彦命、息長帯姫命、迦具都知命である。
貞観年間(859~877)越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建された。
延久5(1073)年、国司の源頼義により八社八幡の一つに加えられたという。
八幡神は神功皇后の伝説から弓矢の神となり源氏の氏神といわれた。河野氏も源氏と深い関係を持っていたので当社への尊心は厚かった。延元年間(1336~1339)には後醍醐天皇の皇子懐良親王が武運長久を祈願したと伝えられている。
当時の領主河野氏が崇敬したという。
慶長5(1600)年、関が原の戦に出陣した加藤嘉明の留守をねらって河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し、佃十成と戦ったとき、当神社に立てこもった河野一族は敗北し、社殿、宝物等すべて焼失した。のちに松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し、八社八幡の一社として崇敬した。
『愛媛面影』に「旅行する人此社詣(づ)れば必(ず)恙無くかへり来て信ずる人多し。還熊と云(ふ)名によるなるべし。」とある。
松山市
松山市教育委員会
(境内案内板より)
一の鳥居
JR松山駅から国道196号線を2Kmほど北上、大川に架かる八幡橋をわたり300m直進突き当りの小高い鎮守の森に鎮座。
参拝当日は松山市は市をあげての秋祭りで当社も幟が飾られていました。
境内入口
石段の参道は鬱蒼とした木立に囲まれ薄暗くひんやりとした雰囲気です。
拝殿
平成16年に改修された、コンクリート造りとなっています。
絵馬
拝殿には多くの絵馬が奉納されています、「大阪陣図 山越村若連中」天保14年(1843年)
本殿
貞観年間(859~877)越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建されました。
境内社
「金山」(かなやま、鉱山)を司る神、金山彦命を祀る「鎮守社」
社殿全景
還熊八幡神社(かへりぐまはちまんじんじゃ)
【鎮座地】〒791-8013 愛媛県松山市山越3丁目3-2 旧伊予国 和気郡
【御祭神】品田和氣命 帶中彦命 息長帶姫命
(合祀)迦具都知命 菅原道眞 素盞嗚命
【例祭】2月19日 祈年祭 10月6日 例大祭 毎月1日1・15日 月次祭
【旧社格等】村社
【御由緒】
松山八社八幡の七番社。祭神は、品田和気命、帯中彦命、息長帯姫命、迦具都知命である。
貞観年間(859~877)越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建された。
延久5(1073)年、国司の源頼義により八社八幡の一つに加えられたという。
八幡神は神功皇后の伝説から弓矢の神となり源氏の氏神といわれた。河野氏も源氏と深い関係を持っていたので当社への尊心は厚かった。延元年間(1336~1339)には後醍醐天皇の皇子懐良親王が武運長久を祈願したと伝えられている。
当時の領主河野氏が崇敬したという。
慶長5(1600)年、関が原の戦に出陣した加藤嘉明の留守をねらって河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し、佃十成と戦ったとき、当神社に立てこもった河野一族は敗北し、社殿、宝物等すべて焼失した。のちに松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し、八社八幡の一社として崇敬した。
『愛媛面影』に「旅行する人此社詣(づ)れば必(ず)恙無くかへり来て信ずる人多し。還熊と云(ふ)名によるなるべし。」とある。
松山市
松山市教育委員会
(境内案内板より)
一の鳥居
JR松山駅から国道196号線を2Kmほど北上、大川に架かる八幡橋をわたり300m直進突き当りの小高い鎮守の森に鎮座。
参拝当日は松山市は市をあげての秋祭りで当社も幟が飾られていました。
境内入口
石段の参道は鬱蒼とした木立に囲まれ薄暗くひんやりとした雰囲気です。
拝殿
平成16年に改修された、コンクリート造りとなっています。
絵馬
拝殿には多くの絵馬が奉納されています、「大阪陣図 山越村若連中」天保14年(1843年)
本殿
貞観年間(859~877)越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建されました。
境内社
「金山」(かなやま、鉱山)を司る神、金山彦命を祀る「鎮守社」
社殿全景