氣多神社(富山県高岡市)を掲載しました。
氣多神社(けたじんじゃ)
【鎮座地】〒933-0116 富山県高岡市伏木一宮1丁目10-1 旧越中国 射水郡
【御祭神】・大己貴命 ・奴奈加波比賣命
(配祀)
・菊理姫命 ・事代主命
【例祭】 4月18日 例祭
【旧社格等】県社
越中國一宮
式内社 越中國射水郡 氣多神社 名神大
【御由緒】
気多神社 けたじんじゃ 富山県高岡市伏木一ノ宮。旧県社。越中国の一之宮。
祭神は大己貴命・奴奈加波比売命、他に六柱の神々を祀る。
社伝によれば、養老二年(718)、能登国の気多大社から分霊を勧請したのに始まるという。
また、当社は『延喜式』の越中国射水郡に登載せられる「気多神社」にあてられる。
国府に近いところに鋲座していることから、はやくから越中国の一ノ宮と称された。
その後、源義仲の兵火にかかり焼失したが、間もなく再建した。天正年間(1573-92)、再度上杉氏の兵火にかかって社殿を焼失した。その後、当社の別当は小祠を建て、祭祀を続けていたが、近世に入ると、藩主の前田利常は本殿・拝殿等を再建した。また、慶安二年(1650)、社領一〇石、山林二〇町歩を寄進するなど、格別の庇護を行った。例祭四月一八日。
(東京堂出版ー神社辞典より)
富山県の北西部に位置し、富山湾に面した高岡市にあります。市の北部に聳える二上山の東麓、JR氷見線「伏木駅」の北西およそ2km、富山湾を望む伏木一宮の高台の森に鎮座しています。
参道入口左には「延喜式内名神大社 越中一宮 気多神社」とある社号標、平成元年五月吉日 建立とわりと新しいものです。
手水参道入口の階段手前にあります。
側に「とやまの名水 気多神社の清泉」とありますが、「この水は自然湧水ですので生水での飲用は避けて、煮沸して下さい。」とあります。
参道の鳥居階段を上がると簡素な靖国鳥居です。
柱裏に「大正七年四月建立」と刻まれています。鳥居をくぐると両側に寄進の灯籠の並んだ平坦な参道が続きます。境内は苔むした中に杉の巨木など樹林が茂り独特の雰囲気が漂います。
参道から拝殿
参道を進むとみごとな神馬像が迎えてくれます。社殿のある境内へはさらに階段を上ります。階段上左には御神木の杉、右にも巨木が聳えています。
拝殿
階段を上がると正面に拝殿です。瓦葺で左右が回廊のようになった横長の特長のある構造です。扁額には「氣多神社」とあります。
当地は国府や国分寺が置かれた越中の中枢部であったことから越中一宮と称され、地名も伏木一宮となっています。
社殿全景
養老2年(718)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝字元年(757)に、越中から能登国が分立した後、越の大社と崇められていた能登の羽咋にある氣多大社を、越中国府に近い現在地に勧請したともいわれています。
本殿
三間社・流造・柿葺の現在の社殿は永禄年間(1558~1570)に再建されたと伝えられています。室町時代の建築の特長をよく伝え、昭和6年1月19日に国の重要文化財に指定されています。
正面向拝に掲げられている扁額(シンプル」に「一宮」とある)は空海(弘法大師、774-835)の書、真筆で当社の宝物の一つです。空海は平安時代初期の僧で真言宗の開祖。書法は嵯峨天皇、橘逸勢とともに日本三筆と称せられています。
社殿全景
社殿のある境内は神門、玉垣など無く、コンパクトに整理整頓されたレイアウトになっています。本殿左の建物には御輿堂の額が掲げられています。
境内社・大伴神社
境内左にあります。御祭神は天平18年(746年)第二代越中守として当地に赴任した大伴家持、家持の没後1200年にあたる昭和60年(1985年)創建されました。
万葉歌人としても知られる大伴家持は「万葉集」に収められた479首の内220首を当地在任中に詠んだとされています。
御神木の杉拝殿前にあります。
境内案内に「今から1440年前、我々氏子の先祖が、民の集まる場所として杉の木を植え、以降この木が御神木となり人々が参集する場所となった。」とあります。
前の狛犬は昭和8年4月建立です。
越中総社跡伝承地
参道入口の鳥居から社殿への階段の途中にあります。この場所は「かたかごの岡」と呼ばれ、越中総社が建立されていたと伝えられています。
社務所手水の側から左(西側)に入った所にあります。
あらかじめ記入されたご朱印が置いてあり、不在の場合は自由に頂くようになっています。
社務所前からの景観
社務所の前からは工場群から富山湾が望めます。今回参拝時は生憎の雨で写真は良くありません。
氣多神社(けたじんじゃ)
【鎮座地】〒933-0116 富山県高岡市伏木一宮1丁目10-1 旧越中国 射水郡
【御祭神】・大己貴命 ・奴奈加波比賣命
(配祀)
・菊理姫命 ・事代主命
【例祭】 4月18日 例祭
【旧社格等】県社
越中國一宮
式内社 越中國射水郡 氣多神社 名神大
【御由緒】
気多神社 けたじんじゃ 富山県高岡市伏木一ノ宮。旧県社。越中国の一之宮。
祭神は大己貴命・奴奈加波比売命、他に六柱の神々を祀る。
社伝によれば、養老二年(718)、能登国の気多大社から分霊を勧請したのに始まるという。
また、当社は『延喜式』の越中国射水郡に登載せられる「気多神社」にあてられる。
国府に近いところに鋲座していることから、はやくから越中国の一ノ宮と称された。
その後、源義仲の兵火にかかり焼失したが、間もなく再建した。天正年間(1573-92)、再度上杉氏の兵火にかかって社殿を焼失した。その後、当社の別当は小祠を建て、祭祀を続けていたが、近世に入ると、藩主の前田利常は本殿・拝殿等を再建した。また、慶安二年(1650)、社領一〇石、山林二〇町歩を寄進するなど、格別の庇護を行った。例祭四月一八日。
(東京堂出版ー神社辞典より)
富山県の北西部に位置し、富山湾に面した高岡市にあります。市の北部に聳える二上山の東麓、JR氷見線「伏木駅」の北西およそ2km、富山湾を望む伏木一宮の高台の森に鎮座しています。
参道入口左には「延喜式内名神大社 越中一宮 気多神社」とある社号標、平成元年五月吉日 建立とわりと新しいものです。
手水参道入口の階段手前にあります。
側に「とやまの名水 気多神社の清泉」とありますが、「この水は自然湧水ですので生水での飲用は避けて、煮沸して下さい。」とあります。
参道の鳥居階段を上がると簡素な靖国鳥居です。
柱裏に「大正七年四月建立」と刻まれています。鳥居をくぐると両側に寄進の灯籠の並んだ平坦な参道が続きます。境内は苔むした中に杉の巨木など樹林が茂り独特の雰囲気が漂います。
参道から拝殿
参道を進むとみごとな神馬像が迎えてくれます。社殿のある境内へはさらに階段を上ります。階段上左には御神木の杉、右にも巨木が聳えています。
拝殿
階段を上がると正面に拝殿です。瓦葺で左右が回廊のようになった横長の特長のある構造です。扁額には「氣多神社」とあります。
当地は国府や国分寺が置かれた越中の中枢部であったことから越中一宮と称され、地名も伏木一宮となっています。
社殿全景
養老2年(718)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝字元年(757)に、越中から能登国が分立した後、越の大社と崇められていた能登の羽咋にある氣多大社を、越中国府に近い現在地に勧請したともいわれています。
本殿
三間社・流造・柿葺の現在の社殿は永禄年間(1558~1570)に再建されたと伝えられています。室町時代の建築の特長をよく伝え、昭和6年1月19日に国の重要文化財に指定されています。
正面向拝に掲げられている扁額(シンプル」に「一宮」とある)は空海(弘法大師、774-835)の書、真筆で当社の宝物の一つです。空海は平安時代初期の僧で真言宗の開祖。書法は嵯峨天皇、橘逸勢とともに日本三筆と称せられています。
社殿全景
社殿のある境内は神門、玉垣など無く、コンパクトに整理整頓されたレイアウトになっています。本殿左の建物には御輿堂の額が掲げられています。
境内社・大伴神社
境内左にあります。御祭神は天平18年(746年)第二代越中守として当地に赴任した大伴家持、家持の没後1200年にあたる昭和60年(1985年)創建されました。
万葉歌人としても知られる大伴家持は「万葉集」に収められた479首の内220首を当地在任中に詠んだとされています。
御神木の杉拝殿前にあります。
境内案内に「今から1440年前、我々氏子の先祖が、民の集まる場所として杉の木を植え、以降この木が御神木となり人々が参集する場所となった。」とあります。
前の狛犬は昭和8年4月建立です。
越中総社跡伝承地
参道入口の鳥居から社殿への階段の途中にあります。この場所は「かたかごの岡」と呼ばれ、越中総社が建立されていたと伝えられています。
社務所手水の側から左(西側)に入った所にあります。
あらかじめ記入されたご朱印が置いてあり、不在の場合は自由に頂くようになっています。
社務所前からの景観
社務所の前からは工場群から富山湾が望めます。今回参拝時は生憎の雨で写真は良くありません。
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