おことわり:掲載の写真は、参拝当日(08/19/2008)のものです、現在と異なっている場合があります。
丹生都比売神社を掲載しました。
「式内社」 丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
<通称>天野大社(あまのたいしゃ)
【鎮座地】 〒649-7141 和歌山県伊都郡かつらぎ町大字上天野230 旧紀伊国 伊都郡
【電話】 0736-26-0102
【旧社格等】 官幣大社 (現別表神社)
紀伊國一の宮
式内社 紀伊國伊都郡 丹生都比女神社 名神大 月次新嘗
【御祭神】 ・丹生都比賣大神
・高野御子大神
・大食都比賣大神
・市杵嶋比賣大神
【例祭】 1月14日厄除祭 2月17日祈年祭 4月22日又は近い日曜日春の大祭 8月18日夏の大祭 10月16日例祭
【御由緒】
参拝のしおり
丹生都比売大神は天照大神の御妹神で別名稚日女尊(わかひるめのみこと)と申します。織物の祖神と言われ、御子の高野御子と共に大和地方を巡歴され、農耕殖産を教え導かれこの地に鎮座されました。
神功皇后に協力された功績で応神天皇より紀ノ川以南の広大な地を神領として与えられました。その後も皇室の御崇敬は厚く延喜の制で名神大社に列せられ、大正13年官弊大社になりました。
それ故社宝には、国宝や重文も多く保存されています。古くは弘法大師が当社の側に曼陀羅院を建立し、その後神白、神黒、2匹の犬の導きで高野山に真言密教の道場を開き、
以来当社は高野山の守護神として崇拝されています。
第3、4殿には鎌倉時代の初め行勝上人により、敦賀の気比神宮、安芸の厳島神社を勧請され、4柱の神を各殿にお祀りして以来4社明神とも呼ばれてお導きの神として参詣者が絶えません。
当社の特殊神事の1月14日の御田祭、4月22日の花盛祭及び渡御の儀は平安時代の古式そのままに行われています。
以上
(平成祭りデータ)
丹生都比売神社(旧官幣大社)
一、御由緒
当社の創建は古く、少なくとも今から千七百年前のことと伝えられる。現存する日本最古の祝詞のひとつである「丹生大明神告門」によれば、丹生都比売大神は天照大神神の妹神で、紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州、大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座された。
また、播磨国風土記によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船をすべてて朱色に塗ったところ戰勝することが出来またため、これに感謝し、応神天皇が社殿と広大な神領を寄進されたとある。
丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに「丹生」の名前がある。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を採掘する一族の祀る女神とされる。全国に丹生神社は八十八社、丹生都比売を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、その総本社である。
御子の高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師空海の前に、白と黒の犬を連れた狩人に化身して現れ、空海を高野山へ導いたと今昔物語にある。空海は、日本人の心に根ざした仏教を布教するために、大神のご守護を受けて、神々の住む山を備受け、真言密教の総本山高野山を開いた。そして、古くからの日本人の心にある祖先を大切にし、自然の忠みに感謝する神道の精神が仏教に取り入れられ、当社と高野山に
於て、神と仏が共存する日本人の宗教観が形成された。
当社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離まで神と仏が相和して五十六人の神主と僧侶で守られてきた。
高野山に参詣する表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社の境内の入口で、 まず地主神である当社に参拝した後に高野山に登ることが慣習であった。
現在の本殿のかたちは、今から八百年前の鎌倉時代に、行勝上人により、麦比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、合わせての四殿となり、室町時代に火事により、復興されたものである。
一、社殿と文化財
朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗な本級は、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されている。他に文化財としては、国宝の銀銅蛭巻太刀、 重要文化財の木造狛犬四対、木造鍍金装神與,金鋼琵琶等多数ある。
一、主な祭礼
一月一日 歳旦祭 一月第三日曜日 厄除祭·御田祭
二月十七日 祈年祭 四月第三日曜日 花盛祭
六月三十日 夏越の大祓 七月十八日 神還祭
十月十六日 例祭 十一月二十三日 新嘗祭
十二月三十一日歳越の大祓 每月十六日 月次祭
(楼門由緒掲示より)
【参拝月日】 08/19/2008
外鳥居
和歌山県の北東部、高野山の北西に位置する、標高450mのかつらぎ町、天野の里に鎮座しています。参道入り口の両部鳥居です。「両部」とは密教の金剛・胎蔵に由来する命名で、神仏習合が盛んだった神社によく見られます。
輪橋(太鼓橋)
鏡池に架かる、半円形に反った形から太鼓橋とも呼ばれます。慶長年間(1596年 - 1615年)に淀姫が寄進したと伝えられています。
神様が渡るための神橋ですが、当社では一般の参拝者も渡ることができます。
輪橋(太鼓橋)から境内
輪橋(太鼓橋)を渡ると、小川に架かる禊橋から楼門まで一直線の石畳の参道が続いています。
参道から楼門
禊橋をを渡ると、社殿のある境内です。参道正面に朱塗りの華やかな楼門、その奥に本殿があり、楼門左に本殿の屋根が見られます。
参道の右に手水舎、その右奥には授与所があります。
楼門
入母屋造檜皮葺の楼門です。室町時代の明応8年(1499年)の造営。室町時代中期の三間一戸の代表的な楼門形式と云われています。国指定重要文化財。
楼門
楼門の並びに向かって右に拝殿、左は神饌所です。紫の垂れ幕には、「奉納 総本山金剛峯寺 平成十七年三月吉祥日」とあり、高野山との深い関係が分かります。
楼門から本殿
一段高い奥、瑞垣に囲まれた中に、右から第一殿 丹生都比売大神(丹生明神)、第二殿 高野御子大神(狩場明神)空海を高野山へ導いた神、第三殿 大食都比売大神(気比明神)、第四殿 市杵島比売大神(厳島明神)が並んでいます。全容は見られませんが、向拝の木鼻など見事な彫刻の一端が見られます。
本殿は、一間社春日造で、この建築様式では日本最大規模とされ、室町時代に再建されたもので、以来十数年ごとに修復が行われています。
本殿
創建は今から約1700年前と伝えられ、御祭神の「丹生都比売大神」は、紀ノ川」流域の三谷に降臨し、紀州、大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座されました。当初は、「丹生都比売大神」と「高野御子大神」の二柱をお祀りしていましたが、行勝上人により、平安末期に「大食都比売大神」と「市杵島比売大神」が勧請されました。
佐波神社 境内左手、神饌所の左にあります。
明治時代に上天野地区の諸社を合祀した社です。
楼門から境内
楼門前の境内はわりとゆったりとしています。当社は、高野山と密接な関係を持っていて、平成16年(2004)には、日本人の信仰の源泉「神道と仏教の融合した景観」があるとして世界遺産に登録されています。
禊橋から輪橋(太鼓橋)
現在は中鳥居があるようですが、大正6年(1917)に消失し、平成23年(2011)に再建されたので、参拝当日(2008/08/19)にはありませんでした。
輪橋(太鼓橋)と鏡池
輪橋(太鼓橋)のかかる鏡池は不老長寿となった、八百比丘尼が池に姿を映し、年老わない自分を嘆いて鏡を投げ入れたと伝わっています。
当日の参拝記録です、今読み返してみると、当時が思い出されて、楽しい気分にひたれます。
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