九州神社紀行-ブログ

北九州近郊を中心に神社および周辺風景の撮影日記です。

出雲大社(島根県出雲市)

2024-03-13 15:17:38 | 神社参拝ー中国

おことわり:掲載の写真は、参拝当日(10/19/2008)のものです、現在と異なっている場合があります。

 平成の大遷宮(平成20年から平成25年(平成28年)の前の写真です、本殿はじめ各社殿は修繕前です。


出雲大社を掲載しました。


 「式内社」 出雲大社(いずもおおやしろ)
【鎮座地】〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東195 旧出雲国 神門郡
【電話】 0853-53-3100
【旧社格等】 官幣大社 (現別表神社)
        出雲國一の宮
        式内社 出雲國出雲郡 杵築神社(名神大)
【御祭神】 ・大國主大神
       (配祀)
        ・天之御中主神 ・高皇産靈神 ・神皇産靈神 ・宇麻志阿斯訶備比古遲神 ・天之常立神 ・和加布都努志命         
【例祭】 5月14日 例祭(勅祭)
【御由緒】
  出雲大社 島根県簸川郡大社町杵築。旧官幣大社(現、別表神社)。
 祭神は大国主神。本殿内の客座に天之御中主神・高御産巣日神・神産巣日神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・天之常立神の五柱を併せ祀る。
一般に大社といえば当社を指すほどに著名であるが、神社側では主として出雲大社と呼んでいる。『延喜式』には杵築大社と載せ、明治四年(1871)に現社名に改称きれるまで、この名称が永く用いられた。また『日本書紀』には天日隅宮、『出雲国風土記』には天日栖宮・所造天下大神之宮など、古来種々の名称で讃仰されている。
 
 祭神の事蹟や当社の創建については『古事記』『日本書紀』の神代伝承が語るところである。大国主神は須佐之男命の神裔(御子神あるいは五世・六世の孫とされる)で、大穴牟遅神 ・大己貴神・葦原色許男神・バ千矛神・宇都志国魂神・大物主神・大国玉神などと多くの別名をもたれる。
 稲羽の 素菟を救い、兄弟の八十神と須佐之男命による試練を経て、少名毘古那神とともに国造りにあたられ、療病や災害除去の法を教えられて恩恵を垂れ給うたという。

 やがて天孫(天照大神の御孫・瓊々杵尊) 降臨にあたり国土を奉還し、多芸志之小浜に造営された広大な宮殿に隠りまして幽冥を主宰された。同時に祭祀をつかさどる者として天穂日命(天照大神の第二子)を奉仕させたが、その子孫は出雲の国造として代々仕えることになった。

 国史上にみられる当社の記録はしばしばである。古く出雲国造の任命は朝廷において丁重に行われ、新任の国造は大御世を祝する神賀詞を奏上したことが知られる。
天平神護元年(765)六一戸の神戸が寄せられ、 貞観九年(867)四月には正二位の神階をうけ、延喜の制では名神の大社に列した。
 後一条天皇の寛仁元年(1017)・長元四年 (1031)など朝廷の奉幣・祈願も多い。源 賴朝・足利義詮・同義政・山名時氏・同満 幸・細川勝元・京極高詮・尼子経久・毛利元就・同輝元・豊臣秀頼・松平直政・毛利綱広など将軍・武将・領主の寄進、造営も行われた。また中世の末頃より近世にかけては御師と呼ばれる社家の人々の活動もあって、一般民衆の信仰も相当のたかまりをみたといい、やがて明治に入ると出雲大社敬神講が組織され、出雲大社教の成立へと 展開した。

 本殿の様式はいわゆる大社造と称されるもので、伊勢神宮の神明造とともに古い神社建築の典型とされる。規模の広大さは既に古典の記述にうかがえるのであるが、社伝によれば、高さ三二丈あったが後に一六丈になったという。三二丈ははなはだ疑問であるが、少くとも平安前期の頃までは高さ一六丈・方四丈程度の規模を有したとみられる。鎌倉以降は規模を縮小し、寛文七年(1667)の造営から今日の如き高さ八丈・ 方三丈六尺となった。現在の本殿は延享元年(1744)造営のもので、文化六年・(1809)明治一四年(1881)・昭和二八年の三度に修理が加えられており、国宝に指定される。   
   以下略 (東京堂出版 神社辞典より)



一の鳥居(宇迦橋の大鳥居)
 島根半島の西部に位置する出雲市にあります。一畑電鉄・出雲大社前駅から南へ数百mほどの宇迦橋のたもとに大鳥居です。高さ23m、幅は14m、扁額の大きさは3.6m×2.7m、畳で6畳分もあります。1915年(大正4年)に北九州市小倉の篤志家の小林徳一郎により大正天皇御即位の大典を記念して出雲大社に寄進された鉄筋コンクリート造の明神鳥居です。
 「出雲大社」の文字は、出雲大社の千家尊福(せんげたかとみ)公が大筆を背に負って書いたといわれています。

二の鳥居(勢溜の大鳥居)
 一の鳥居から、長い歴史を持つ、門前通りを抜けると、かつて多くの人で賑わった勢溜と呼ばれる広場に出ます。本社の正門、参道入り口の木製の大鳥居です。

祓社
 二の鳥居をくぐり、珍しい下り参道を進むと、程なく右にあります。祓戸四柱の神(瀬織津比咩神、速開都比咩神、気吹戸主神、速佐須良比咩神)に参拝して穢れを祓います。

祓橋
 本社神苑を横切って流れる素鵞川に架かる橋です。渡ると、ここでも俗世の穢れを祓われるとされています。

三の鳥居(松の参道の鳥居)
 祓橋を渡ると鉄製の三の鳥居から、松並木の参道が続きます。これは、出雲藩主堀尾忠氏の夫人、長松院が祈願成就の報謝のために奉納されたと伝えられています。樹齢350年を超える出雲市の指定文化財です。

「ムスビの御神像」
松の参道の終点、右手にあります。大国主大神の前に、波の上に光り輝く黄金の玉「幸御魂」「奇御魂」が現れ、それをいただくお姿を現したものです。

「御慈愛の御神像」
松の参道の終点、左にあります。こちらは有名な因幡の白兎の物語です。


四の鳥居(境内入り口の鳥居)銅鳥居
 参道の突き当り、社殿のある境内の入り口に、寛文6年(1666)毛利綱広寄進の銅製の四の鳥居です。社殿のある境内は周囲を荒垣に囲まれています。

拝殿
 鳥居をくぐると荘厳な拝殿です。奥に本殿も見られます。参拝当日は、平成の大遷宮(平成20年~平成25年)が始まったところで御祭神は本殿からこの拝殿に遷られ御仮殿とされていました。

拝殿
 昭和28年火事のため消失しましたが、昭和34年再建されました。当時は戦後最大の神社建築といわれていました。

八足門
 拝殿の奥にあります。本殿より古い寛文7年(1667)の造営で、左甚五郎作と伝えられる、「瑞獣」や流麗な「流水文」など美しい彫刻が施されています。

本殿
 御本殿は、四の鳥居から延びる荒垣、八足門からの瑞垣、さらに楼門からの玉垣と三重に囲まれた中に鎮座しています。写真奥に楼門の屋根が見られます。

本殿
 高さは8丈(24m)大屋根は面積で177坪を誇る、我が国最大級の本殿建築。「大社造」と呼ばれる日本最古の神社建築様式を今に伝えています。内殿の前室には、御客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の別天神5柱の神をお祀りしています。

本殿
 現在の御本殿は、延享元年(1744)御造営遷宮され、以来、文化6年(1809)、明治14年(1881)、昭和28年(1953)の三度の御造営遷宮がなされ、平成の大遷宮を迎えています。

本殿
 社殿群を北東より、逆光で厳かな雰囲気です。高い建物は本殿。手前の切妻造社殿は向かって左が摂社神魂伊能知比売神社本殿、右が摂社大神大后神社本殿並んでいます。

筑紫社 神魂御子神社 式内社 同社坐神魂御子神社

 瑞垣内、本殿の左(西側)に南面して鎮座。御祭神は多紀理比売命、天照大御神と素戔鳴尊とのご誓約によって生まれた女神で大国主大神の御妻、福岡県の宗像大社に祀られる祭神です。

御向社 大神大后神社 式内社 同社坐大神大后神社(名神大)
 瑞垣内、本殿の直ぐ左(東側)に南面して寄り添うように鎮座。御祭神は、大国主大神の嫡后、須勢理比売命、素戔鳴尊の御女です。大国主大神との仲は睦まじく、美しい婦徳の鑑となられた女神です。

天前社 神魂伊能知比売神社 式内社 同社坐伊能知比賣神社
 瑞垣内、御向社の左(東側)に南面して鎮座。御祭神は蚶貝比売命、御祭神蛤貝比売命。大国主大神が手間山で難に遭われた後、大神の火傷の治療と看護に尽くされた女神です。

東十九社
 荒垣内、本殿の東側にあります。御祭神は八百萬神、神在祭の間(旧暦10/11~17)、集われた全国各地の神々の宿所となる社です。通常は全国各地の神々の遙拝所です。

釜社
 荒垣内、東十九社の北に西面して鎮座。御祭神は宇迦之魂神、保食神ともよばれ、食物全般にわたっての主宰神です。

素鵞社
 本殿の後北、八雲山の麓に南面して鎮座。御祭神は素戔嗚尊、天照大御神の弟神で、出雲国の肥河上での八岐の大蛇退治はあまりにも有名です。また大国主大神の親神であられ、大神に国づくりの大任を授けられました。

彰古館
 本殿の北西方にある宝物館です。
亀甲積基壇に建つ木造二階建、入母屋造銅板葺で、正面中央に一間切妻造の玄関を設け、二階は桁行梁間とも側廻り一間を逓減し、縁高欄を廻して安定した外観をつくる。良質のスギ材を用い、施工も丁寧で、境内空間と調和している。木造2階建、銅板葺、建築面積165㎡

境内社
 荒垣内、本殿の西方に東面して鎮座。奥(南側)から西十九社、氏社二社と並んでいます。

西十九社
 東十九社と同じく御祭神は八百萬神、神在祭の間(旧暦10/11~17)、集われた全国各地の神々の宿所となる社です。通常は全国各地の神々の遙拝所です。

氏社(二社並んで東面して鎮座)
 北側(写真右)は、天穂日命、南側には、宮向宿禰が祀られています。天照大御神の第二子、大国主大神の国土奉遷にご尽力され、天神の勅命により天日隅宮(出雲大社)の祭主となられ、出雲国造の祖となられました。宮向宿禰は天穂日命の十七世の孫にして、初めて出雲姓を賜ったと伝えられています。

神楽殿
 荒垣の外、西側にあります。1981年(昭和56年)に規模を拡張して造替、大広間は270畳の広さを誇り、御祈祷や結婚式をはじめ様々な祭事行事が執り行われています。

神楽殿 日章旗
 前庭には高さ47mの国旗掲揚塔が聳え立ち、揚げられる国旗は75畳(縦8.7m・横13.6m)重さ49kgの大きさです。日本一の日の丸として知られています。

神楽殿
 快晴の日曜日、若いカップルなどで賑わっていました。

神楽殿 大注連縄
 大注連縄は長さ約13m、直径6m、重さ5.2屯に及びます。この大注連縄は数年に一度、新しい注連縄へと懸け替えられます。

結婚式
参拝当日は、日曜日の大安、結婚式に出会いました。

稲佐の浜
 大国主神が、建御雷神(武甕槌神)を迎え、国譲りを決意された、国譲り神話の舞台です。また旧暦10月10日夜には全国の八百万の神々を迎える神迎祭が行われ、神在祭が始まります。

弁天島
 地元では「べんてんさん」と呼ばれて親しまれている島、かつては「弁財天」が祀られていましたが、明治のころから豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られています。

因佐神社の鳥居
 稲佐の浜から数十mの所にあります。鳥居から参道、境内、社殿と立派な神社です。

因佐神社
 御祭神は建御雷神(たけみかづちのかみ)天照大御神の命を受け天降られ、稲佐の浜で大国主大神と国土奉献の話し合いをされた神です。勇武の神として知られています。

当日の参拝記録です。全国一宮巡拝を本格的に始めた時期になります、御朱印を頂くのを第一に考え、写真は考えが足りませんでした。
https://blog.goo.ne.jp/noyamany/e/e01b55492b75f2e5e8606091b43e2482




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