訪問日:令和3年11月21日(日)
出 発:神戸高速「新開地駅」
到 着:JR「兵庫駅」
平安の時代である承安3(1173)年、大阪湾に開かれた船溜まりのひとつ「大輪田泊(おおわだのとまり)」に平清盛が「経ケ島」を築き「日宋貿易」の拠点となる。その後、鎌倉時代に入って「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれるようになり要港として栄えたこの地に慶應4(1868)年、初代兵庫県庁が置かれた。北は日本海から南は瀬戸内海まで本州を一周すれば二度通らなければならない全国12位の面積を誇る「兵庫県」は、この小さな津(港町)から始まったのだ。
まず区北部の土木産業遺産2ヶ所を訪問した後、西国街道と運河が走る約2km四方の小さなエリア「兵庫津」を歩く。
今日のスタートは神戸高速「新開地駅」。「神戸高速鉄道」とは、神戸市内を走る「阪急電鉄」「阪神電鉄」「神戸電鉄」「山陽電鉄」を結ぶため「線路」と「駅」の施設だけを保有し、「車両」は各社が乗り入れて鉄道使用料を支払うというちょっと変わった鉄道会社らしい。阪急神戸線も直通で乗り入れており「大阪梅田駅」から約35分(450円)。隣のホームには山陽電鉄の車両が停まっている。前半坂道が多いのでちょっと早めの午前9時スタート。
地下駅から駅北側の2A出口(神戸信用金庫前)で地上に出れば「大開通」と「湊町線」が交わる「新開地交差点」。右折車線も含めれば5車線もある大きな通りだ。
神戸信金を左に見ながら進み1つ目の信号で左にある「Sinkaichi2」というアーケード商店街に入る。
地元の生活を支えるというよりも飲食店が多い、いわゆる「繁華街」的な商店街である。
道幅の広い商店街だ。ちょっと時間が早いので閉まっている店が多い。
300mほどのアーケードを抜ければ正面に武士像が立つ大きな公園が現れる。
この大きな武士像は楠木正成こと「大楠公像」。兵庫区と隣の中央区にまたがるここ「湊川」で建武3(1336)年、京から九州に追われ巻き返しを図る足利尊氏の軍勢とそれを迎え撃つ新田義貞、楠木正成の軍勢が激しくぶつかり、敗退した正成が自害した「湊川の戦い」が繰り広げられた。(午前9時11分)
先月正成の嫡男である楠木正行(まさつら)終焉の地「四條畷の合戦」ゆかりの地を歩いたが何か因縁のようなものを感じるなあ。死を覚悟した武人としての精悍な顔つき。しかし、心の中では常に息子のことを案じているんだろうな。「正行さん。お父さんのところへ来たよ。」
ここは「湊川公園」。きれいな緑地なのだが、この時間帯は携帯電話を握りながら私が聞いたことのない国の言葉で口喧嘩をしている若者、朝からワンカップで喉を潤す老人、連れているワンちゃんより髪の毛が茶色いお姐さまたちの憩いの場のようだ。
公園を入って左側に平成7年1月17日早朝神戸を襲った「兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)10周年記念碑」が立つ。兵庫区では555名の方が亡くなっている。「合掌」
200mほどの公園を抜けると正面には「兵庫区役所」。兵庫区は人口約10万人。人口・面積は長田区に次いで2番目に少ない。公園入口に立つ「大楠公像」は以前ここにあったものが区役所の新築により移転したそうだ。
区役所前の湊町線をさらに進み、次の信号角に「東山商店街」というアーケードが見えるので入って行こう。
この商店街は道幅が狭い。
八百屋さんや魚屋さんなど地元の方々の台所を支えるといった庶民的な商店街だ。
400m近いアーケードを抜ける。「あっ」やっぱり「台所」だったんだ。(午前9時25分)
信号と橋で「新湊川」を渡りアーケードのない「新湊川商店街」に進む。アーチの右足元には「夢野厄除八幡神社」の石標が立つ。
お風呂屋さんの横を通る。
商店街のアーチをくぐれば小さな五叉路に出るので正面の一方通行路(出口)に進む。
狭い道は徐々に坂道になる。正面には小高い山が見える。
初めての信号を渡り正面の一方通行路(出口)に入る。カーブを曲がりどんどん坂を上って行く。
マンション敷地に突き当たれば道は大きく鋭角に左折する。
坂も少々きつくなってきた。
左の路地角に「烏原貯水池」と掘られた小さな石標が見えてくれば間もなく坂道も終わりだ。
坂を上りきれば右に「背山散策路案内図」。ここは神戸市の水源として造られた「烏原(からすはら)貯水池」の畔にある「亀の甲広場」という公園。トイレがある。(午前9時45分)
明治38年に完成した日本で4番目の水道専用ダムだそうだ。元あった烏原村は日本最初のダム水没村らしい。
堤高33m、堤長122mのアーチ状重力式粗石コンクリートダムは「立ケ畑(たちがはた)堰堤」と呼ばれる。
土木産業遺産として国の登録有形文化財に登録されている。
堰堤の上は遊歩道になっている。
公園を後にして坂道を戻り先ほどの小さな石標のある細い道に入る。墓地を抜けると住宅街に出るので道なりに坂を下る。
いい景色だな。「海が見えるぞ」
「氷室公園」という防火水そうの上にある小さな公園を過ぎれば右に「氷室神社」への階段。上って行こう。
「氷室神社」。平清盛が治承4(1180)年の福原遷都に際し、辨財天である市杵島比売(イチキシマヒメ)らを勧請して創建したと伝わる。
若い女性が多いなと思ったら「えんむすび」の神様のようだ。私は今日一日の安全を祈願する。
参拝を終え先ほどの階段からまっすぐ下って行く。
これから先は何の目印もない街中を抜けていくのでグーグルマップを添付しておきます。
10分ほどで「湊川隧道」。湊川の付け替えにより明治34(1901)年に完成した河川トンネルの遺構だ。貴重な土木産業遺産として国の登録有形文化財に登録されている。(午前10時25分)
毎月第3土曜日の午後1時から午後3時まで内部が公開され(変更あり)、いろいろなイベントも開催されるそうだ。今日は外部から坑門入口を撮影する。
すぐ下には平成12(2000)年12月に開通した「新湊川トンネル」。少し後ろに下がれば新旧のツーショットが望める。なお下流の長田区側には隧道の出口がある。「長田区」編で訪れる。
隧道前から下り次の信号を右折し2分ほどで左に「神戸電鉄有馬線」のアンダーパスが見えるのでくぐる。さらに2~3分で左に公園への入口があるので曲がりコンクリートの坂道を上って行く。
1つ目のヘアピンカーブを過ぎ2つ目のカーブ突き当りに階段があるので上っていく。
階段を上れば広場に出る。ここは「会下山(えげやま)公園」。現在は公園として整備されているが「湊川の戦い」で楠木正成が陣を構えた標高85mの小山である。トイレがある。(午前10時33分)
広場内には海難事故等で受難した海員の霊を慰める「海員萬霊塔」。昭和5年に建立されたそうだ。
その向かいには「大楠公湊川陣之遺蹟」碑。先ほどの「海員萬霊塔」ともに日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った連合艦隊司令長官東郷平八郎の揮毫である。東郷元帥は昭和の時代まで生きていたんだな。
「大楠公湊川陣之遺蹟」の後ろには「湊川の戦い」が繰り広げられた戦場が見渡せたせる。
「大楠公湊川陣之遺蹟」碑裏の道を左に下りていくと「天台宗善光寺」の通用門から境内に入って行くことができる。境内には「平業盛(たいらのなりもり)之塚」。平清盛の弟である平教盛の三男にあたり17歳で「一ノ谷の戦い」で戦死した少年武将だという。
塚の横にある山門から境内を後にする。
右に曲がったところの階段を上れば公園に戻ることができる。
公園のメインストリート(?)を下っていく。
公園の南側出入口から出て左に曲がる。「神戸市立神港橘高校」前を通れば道は間違っていない。
この道を一直線に下り「上沢通7交差点」「大開通8交差点」を過ぎてひたすら進む。
「会下山公園」から15~6分で今日のゴールとなるJR「兵庫駅」の北側に突き当たるが取りあえず通過して右に進む。なお、昭和5年竣功のちょっとレトロな駅舎は、2014(平成26)年度「日本におけるモダン・ブームメントの建築」に選定されているそうだ。(午前11時2分)
JR「山陽本線」沿いに450mほど進めば1つ目の信号で左折しJRをくぐる。このガード下は「昭和」だな。
さらに「和田岬線」をくぐれば右に「兵庫駅南公園」。トイレがある。
真っ直ぐ進めば阪神高速道路と幹線道路が走る高架道に突き当たるので右に曲がり高架をくぐる。そのまま進み次の信号を右折。2つ目の辻である神戸市バス車庫手前を右折する。そのまま進み「コーナン」横で「和田岬線」の踏切を渡ろう(先にある「コーナンPRO」と間違わないように)。
右にある大きな工場は「川崎重工神戸工場」。列車の製造工場であるため構内をJRの引き込み線が走る。車両専用出口があるこの四つ角を左に曲がろう。
ちょっと歩けば左に「株式会社デンソーテン本社」。大正末期から昭和初期ころに建てられた「旧川西機械製作所本社社屋」らしい。
三叉路に出れば右折。「兵庫運河」にかかる「材木橋」を渡る。
左を見れば「和田岬線」の小さな鉄橋。「和田旋回橋」と呼ばれかつては運河を往き来する船が通過する時は旋回したそうだが今は固定されている。
「材木橋」を渡り真っ直ぐ進んで行くと前方に巨大な建物が見えてくる。そちら方向に向かって歩いていくと「御崎公園」の前に出るので公園に入る。(午前11時35分)
右の大きな建物は「ノエビアスタジアム神戸」という競技場。Jリーグ「ヴイッセル神戸」のホームグラウンドらしい。
「ノエビアスタジアム神戸」を通り過ぎれば左に「神戸市電1103号車」。昭和29年、長田車両工場で神戸市電最後の車両として製造され、昭和46年の市電廃止後は広島電鉄車両として活躍。廃車後、平成15年3月かつて神戸市電和田運輸事務所があったこの地へ里帰りし展示されている。
そのまま公園を抜ければ「和田岬線」の線路に突き当たるので右に曲がり線路沿いに進む。「和田岬線」は「兵庫駅」から「和田岬駅」までの1駅を結ぶ「山陽本線」の支線だ。
「和田岬駅」。ホームがあるだけで駅舎や改札口はない。小さな階段からホームに入ることができる。運賃精算は「兵庫駅」でするようだ。ただ付近の工場への通勤用なのか休日は朝夕の2本しか列車は走らない。
ホームを歩く。前方には「終着点」が見える。国鉄の風景だな。そのまま進んで行くと自然に駅構外に出る。
そこは「高松線」という大きな通りの「和田岬駅前交差点」。この先には安政5(1858)年の日米修好通商条約により「兵庫(神戸)港」が開港された際に設けられた「和田岬砲台」が残る。今は「三菱重工神戸造船所」の敷地であるため見学するには事前申し込みが必要だが、造船所は自衛隊の潜水艦を建造するなど防衛機密があることから砲台を含め構内の写真撮影は禁止されているそうだ。「湊川の戦い」においても陣を張る新田義貞軍を打ち破った足利尊氏の水軍が上陸するなど昔から軍事上の要衝だったのだろうか。
「和田岬駅前交差点」の角には神戸市営地下鉄「和田岬駅」の出入口。そう「高松線」の地下には神戸市営地下鉄海岸線が走っているのだ。ほとんどの人はこちらで通勤するだろう。
地下鉄出入口横を左に曲がる。100mほどで左に「和田神社」の大鳥居が見える。(午前11時48分)
大鳥居をくぐった左側には、これから訪ねる「兵庫運河」の開削工事などで功績があった神田兵右衛門の顕彰碑が立つ。
「蛭子伝説」の地に承安3(1173)年、平清盛が市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を勧請し、その後万治元(1658)年に天御中主大神(アメノミナカヌシノミコト)を主祭神として祀られたという。
参拝を終え大鳥居を背に進み「高松線」の「和田岬交差点」を渡ってから左折し、カーブしながら進む。
次の「今出在家町交差点」の信号を渡ってから右に曲がる。3つ目の辻を左に曲がればすぐ右に「南浜公園」という小さな公園があり、そこには「兵庫生簀跡(ひょうごのいけすあと)碑」。
「摂津名所図会」には京都御所に献上する海産物の生け簀として描かれているそうだが、生きた魚が見られることから多くの見物人が集まったそうだ。まるで水族館だな。
「いけす」。鯛や鮃が踊っていたんだろうな。「タイ」「ヒラメ」。そんなことを考えていると「腹が」
「減った」
「もう3時間も歩いている。飯にしよう」
「高松線」まで戻り右に曲がる。途中、色んな物が目に入ってくるが無視してとにかく歩くのだ。「孤独のグルメ」の井之頭五郎になったつもりで。
5分ほど歩けば右に「神戸市中央卸売市場本場」。神戸市民の腹を満たす台所だ。
これまでいくつかの卸売市場を訪ねたが、どこにでも新鮮な食材を売りにした飲食店街があった。ここにもある。
時間は午後0時8分。今日もピッタリだな。
今日のオレの腹を満たすのは「海鮮丼の駅前 中央市場店」。
「地魚海鮮丼~限定20食」(1078円)を注文。奮発したなあ。私は海鮮が大好物なのだ。
食事を終え午後0時35分。地下鉄「中央市場前駅」前から「昼の部」をスタート。「兵庫津」の中心部を歩く。
目の前に見える「イオンモール兵庫南」へ向かう。
どこにでもあるイオンモールだが3階の「namco」前にちょっと小さいが「発掘されたみなとまち兵庫津」という展示スペースが設けられている。この日は「新型コロナウィルスワクチン集団接種会場」として椅子が並べられていた。
へ~え。そうなんだ。
1階まで下りて奥の出入口から出れば目の前には「兵庫運河」。プロムナードになっておりイベントなども開催される。ライトアップもされるようだ。「兵庫津」は「運河のある街」を売りにしている。
イオンモールを右に見ながら進み目の前の「入江橋」で「兵庫運河」を渡ろうと思うが横断歩道がないので一旦右へ。そこには「兵庫城」の石垣が復元されている。イオンモール建設に先立ちここで発掘調査が行われたそうだ。
イオンモール前の信号を渡り左へ「入江橋」を渡ってすぐ右に曲がる。
運河に沿って道が直角に曲がるがその角に「古代大輪田泊の石椋(いわくら)」が展示されている。昭和27年運河の浚渫工事をした際に出土したもので「兵庫津」の前身である「大輪田泊」が築造されたときの基礎として使用された石であるといわれる。
運河に沿って右に曲がれば大きな水門の前に「浄土宗来迎寺」。またの名を「築島寺」という。この辺りが平清盛が築いたといわれる「経ケ島(築島)」の中心だったのだろうか。
「高松線」に戻り左へすぐの信号を渡る。道の向こうに赤煉瓦のレトロビルが見える。
「石川ビル(石川株式会社本社)」といい、明治38年、三菱倉庫の前身である「旧東京倉庫兵庫出張所」として建築されたそうだ。
「石川ビル」先の突き当たりを左に折れ次の四つ辻を右に曲がる。小さな波止場だが神戸港の一部である。
途中左にはちょっとレトロなビル。
波止場に沿って右に曲がり次の辻を左に入る。100mほどで左に「竹尾稲荷神社」の赤い鳥居が立つ。小さな神社だ。(午後1時5分)
境内には「高田屋嘉兵衛顕彰碑」。高田屋嘉兵衛とは淡路島で生まれ「兵庫津」の廻船問屋で船乗りをしていたが才覚を表し後に「高田屋」を設立。遠く「ロシア」との貿易などで名をはせた廻船業者である。この顕彰碑は昭和28年に建立されたものである。
「竹尾稲荷神社」前から見える信号を渡り右に進めば「高田屋嘉兵衛本店跡記念碑」。嘉兵衛はここに「高田屋」の本店を置いたと伝わる。
そのまま真っ直ぐ進んでいけば左に白壁の「まちなか倶楽部」と看板が掲げられた建物。
次の信号で左に曲がる。この後訪ねる「松尾稲荷神社」への案内表示が立つ。角には味のある建物。
郵便局を右に見ながら進んで行けば「松尾稲荷神社」の鳥居前に出るのだが、そのちょっと手前の空き地に何やら白いフェンスに囲まれた青い柱が立っている。
フェンスでよく見えないが「サカヱ薬局跡地(ダイエー発祥の地)」と書かれている。ここは「スーパーダイエー」の創始者である「中内功」氏の実家があったところで、ここで同氏の祖父が開業した「サカヱ薬局」がダイエーの前身であることから「ダイエー発祥の地」といわれている。「ダイエー1号店」が開業した大阪市旭区の「千林商店街」と「発祥の地」を巡ってホットな争いがあったそうだ。(大阪24区「旭区」編参照)
すぐ先には「松尾稲荷神社」の赤い鳥居。
この神社にはたくさんの提灯がかかる。
そして本殿左奥には大阪「新世界」の守り神として有名な「ビリケン」の像が奉納されている。大正時代に食堂の店主から奉納されたもので現存日本最古の「ビリケン像」といわれている。
先ほどの鳥居を出て左に見える信号方向に進み、その手前で路地を覗き込む。以前、神社のすぐ北側に「稲荷市場」というアーケード商店街があり、その後長らく廃墟として放置されていたそうだが今では整地されているようだ。
交差点を左折する。この道は「中央区」との区境だ。
250mほど歩いて阪神高速道路下の「湊町1交差点」で国道2号線を渡り左へ。2~3分歩けば右に「西出町鎮守稲荷神社」の赤い鳥居。両脇には「高田屋嘉兵衛献上燈籠」。
右端には「一ノ谷の戦い」において18歳で討ち死にした平経俊(たいらのつねとし)の「五輪塔」が立つ。
さらに2号線に沿って進み「七宮交差点」で右折。グリーンベルトの左側の道を進んでいけば「湊八幡神社」前に出るが、境内手前に「湊口惣門跡碑」。「兵庫津」の東口にあたり番所や札場が置かれていたそうだ。(午後1時30分)
境内には「迷子のしるべ石」。迷子の特徴を紙に書いてここに張りつけ迷子を捜したという。
「湊口惣門跡碑」まで戻れば碑に刻まれているとおりここは「西国街道」。南(右)に進もう。途中「西国街道」は国道2号線に分断されるので右に曲がり、次の「西宮内町交差点」で迂回して「西国街道」に戻る。ただ「街道」の面影はない。
マクドナルドを過ぎ「本町公園」まで来れば右に「岡方倶楽部」というレトロなビルが建つ。
昭和2年に建てられたもので、今でいう自治会館のような役割をしていたそうだ。空襲や震災を乗り越え国の登録有形文化財に登録されている。
「本町公園」を過ぎ次の辻で「西国街道」は直角に右に曲がる。かつて札場があったことから「札場の辻」と呼ばれるそうだが、今ではビルの横に小さな道標と案内板が立つだけだ。
「西国街道」には曲がらずこの辻を真っ直ぐ進む。突き当たりを左に曲がれば先ほど通ったイオンモール前の「入江橋」西詰に出る。角には「清盛くん」。ご愛敬だな。
「兵庫運河」に沿って「キャナルプロムナード」という遊歩道になっているので歩いて見よう。
途中「兵庫城跡碑」が立つ。「兵庫城」は天正8(1580)年、池田恒興が「花隈城」を攻め落とした翌年から築城が始まったが豊臣秀吉の直轄領になったことから建設は中断、後に「大坂町奉行所兵庫勤番所」が置かれ、慶應4年(=明治元年)兵庫県が設置されると碑にも書かれているようにここが「最初の兵庫県庁」となったそうだ。そして今の「兵庫県」に続く。県庁については後ほど説明する。(午後1時52分)
「兵庫運河」に沿って行けば「県道489号線」に突き当たりその角には「兵庫住吉神社」。
境内には「清盛塚」が建つ。立派な十三重石塔は当初平清盛の墓と伝えられていたが、大正12年の発掘調査の結果、墓ではなく弘安9(1286)年、清盛の没100年を記念して建てられた供養塔であるといわれている。
隣には平清盛の甥にあたる平経正(たいらのつねまさ)の墓と伝わる「琵琶塚」が並ぶ。
神社を出てすぐ左には「兵庫運河」にかかる「大輪田橋」。運河の畔からはコンクリート造3連アーチ橋の美しい全容が望める。
橋を渡って振り返ればレトロな雰囲気の親柱が。横たわっているのは阪神淡路大震災で倒壊した反対側の親柱。震災のモニュメントとして保存されている。
親柱には「大正13年6月竣功」と刻まれている。
そのまま県道を50mほど進めば左に川岸に続く歩道が現れるので入ってみよう。「大輪田橋」のたもとには「戦災殉難者慰霊碑」。
昭和20年3月17日の神戸大空襲の際、炎から逃れ水を求めて「大輪田橋」の今は塞がれている暗渠に避難した多くの市民が炎にまかれて犠牲になった。こんな小さな港町を焼夷弾で焼き尽くす必要があったのだろうか。「合掌」
県道に戻り少し進めば左に「浄土宗阿弥陀寺」。
境内の庭園にある池には「湊川の戦い」で足利尊氏が、自害した楠木正成の首を改めるために使ったという「楠公供養石」が残る。過去の怨恨を水に流すため池に奉納されたそうだ。
そして「阿弥陀寺」の隣には何やら大きな木造建造物が。今月11月3日(文化の日)にオープンしたばかりの「初代県庁館」。白壁が眩しい。(午後2時9分)
先ほど訪れた「兵庫城跡」に建てられ、その後最初の県庁となった「大坂町奉行所兵庫勤番所」を復元したものである。
「仮牢」いまでいう留置場や
「吟味場(お白洲)」
そして初代県知事である伊藤俊介のちの「伊藤博文」が事務を執った部屋などが再現されている。
開館時間は午前9時から午後5時30分(10月~3月は午後4時30分)。月曜日が休館日で入館料は無料だ。
実は1年半ほど前イオンモールに買い物に来たときイベント広場で「兵庫津」の特別展が開催されており、その時のパンフに同館が令和3年度にオープンすると書かれていたのでこの日を待って訪れたのだ。結構前から「歩紀」を練っていたんだぞ。
そして東隣には建設中の「ひょうごはじまり館(仮称)」。こちらは令和4年度の遅い時期(令和5年始めころかな?)にオープン予定。完成すれば近代的な博物館になるそうだ。
そしてすぐ東の「中の島交差点」の信号を渡り右へ曲がる。100mほどで「新川橋」。昼食前「兵庫生簀跡碑」から「神戸中央卸売市場」まで脇目も振らずに渡った橋だ。よく見ると赤い欄干の手前に「昭和御大禮記念碑」が立つ。昭和天皇の「即位の礼」を記念して建てられたものだ。
ここでは橋を渡らず手前の信号に戻り、道路の向こう側に渡ってから「新川橋」を渡る。ここから「兵庫運河」に沿って歩いてみよう。
真っ直ぐ進めばお寺に突き当たるので左からぐるっと回って正面に行く。ここは「時宗薬仙寺」。
境内には平清盛が後白河法皇を幽閉したという「萱の御所蹟碑」や
「神戸大空襲慰霊碑」
後醍醐天皇が島流しされていた「隠岐」からの還幸(都に戻ること)途中病床に伏した際、当時の住職が献上したという霊泉「後醍醐天皇御薬水跡碑」などが並ぶ。
道路を挟んで向かい側には「御崎八幡神社」。
境内右奥には力比べに使われたという「力石」。石を撫でれば願いが叶うというのでお賽銭を奮発し「健康(健脚)祈願」した。
その先の「清盛橋」で運河を渡る。由緒ある橋かと思ったが市民からの公募で命名されたそうだ。
橋を渡れば先ほどの「兵庫住吉神社」前に出るので交差点を渡り真っ直ぐ進む。すぐ左には「時宗真光寺」。(午後2時40分)
「兵庫津」で最も大きなお寺ではないだろうか。無縁仏の墓石がピラミッドのようにそびえる。
その横には「一遍上人御廟」。
鎌倉時代後期の高僧「一遍上人」が生涯を終えた場所といわれ立派な「五輪塔」が立つ。
境内を出て「真光寺」北側の須佐野公園内には鎌倉時代初期に藤原為家が詠んだ「和田の笠松歌碑」が立つ。
そのまま北に上り3つ目の信号を過ぎれば左に「天台宗能福寺」。延暦24(805)年、伝教大師最澄が開山したと伝わる。
平清盛が出家した清盛ゆかりの寺である。平清盛死後、各地に清盛の墓処といわれる塚や石塔ができたようだが、ここにも十三重石塔が立つ「平清盛公墓所・平相國廟」が。
その他にも多くの碑が並ぶが何よりも目を引くのはこの大仏だろう。
明治24年寄進により建立され戦時中に金属供与のため解体されたそうだ。その後平成3年に再建。「兵庫大仏」と呼ばれる高さ18mの巨大な大仏様だ。
「能福寺」からさらに北に進んだ次の交差点が先ほど「札場の辻跡」から直角に曲がった「西国街道」の延長線上になるので左に曲がり「西国街道」に進む。右に「神明神社」。ちょっと「街道」の雰囲気が残るかな。
阪神高速道路が走る国道2号線を渡り、ちょっと左に曲がって右折すれば二又の左側が「西国街道」。
真っ直ぐ進めば左に「柳原蛭子神社」。
いわゆる「えべっさん」である。今日最後の神社でお参りをし、裏の立派な赤い「大鳥居」を出て右へ進む。
ここは「兵庫津」の西の出入口でもある。神社の西角には「柳原惣門跡碑」が立つ。
西の惣門から「兵庫津」を後にし、目の前の信号を渡って線路沿いに150mほど進めば午前中に通過したJR「兵庫駅」の南口。ここが本日のゴール。午後3時15分着。本日の歩き「28945歩」(19.68km)。
駅構内やガード下にもレトロな雰囲気が残る。ここから「大阪駅」まで約35分(560円)。よく歩いたな。しかし「兵庫運河」周辺と「初代県庁館」だけであれば1時間半ちょっとのコースだ。「兵庫津」の歴史がぎっしりと詰まっているのでイオンモールでのショッピングや中央卸売市場での食事がてらにちょっと歩いて見てはいかがでしょうか(イオンモール内にも海鮮を出す店がありますよ)。
出 発:神戸高速「新開地駅」
到 着:JR「兵庫駅」
平安の時代である承安3(1173)年、大阪湾に開かれた船溜まりのひとつ「大輪田泊(おおわだのとまり)」に平清盛が「経ケ島」を築き「日宋貿易」の拠点となる。その後、鎌倉時代に入って「兵庫津(ひょうごのつ)」と呼ばれるようになり要港として栄えたこの地に慶應4(1868)年、初代兵庫県庁が置かれた。北は日本海から南は瀬戸内海まで本州を一周すれば二度通らなければならない全国12位の面積を誇る「兵庫県」は、この小さな津(港町)から始まったのだ。
まず区北部の土木産業遺産2ヶ所を訪問した後、西国街道と運河が走る約2km四方の小さなエリア「兵庫津」を歩く。
今日のスタートは神戸高速「新開地駅」。「神戸高速鉄道」とは、神戸市内を走る「阪急電鉄」「阪神電鉄」「神戸電鉄」「山陽電鉄」を結ぶため「線路」と「駅」の施設だけを保有し、「車両」は各社が乗り入れて鉄道使用料を支払うというちょっと変わった鉄道会社らしい。阪急神戸線も直通で乗り入れており「大阪梅田駅」から約35分(450円)。隣のホームには山陽電鉄の車両が停まっている。前半坂道が多いのでちょっと早めの午前9時スタート。
地下駅から駅北側の2A出口(神戸信用金庫前)で地上に出れば「大開通」と「湊町線」が交わる「新開地交差点」。右折車線も含めれば5車線もある大きな通りだ。
神戸信金を左に見ながら進み1つ目の信号で左にある「Sinkaichi2」というアーケード商店街に入る。
地元の生活を支えるというよりも飲食店が多い、いわゆる「繁華街」的な商店街である。
道幅の広い商店街だ。ちょっと時間が早いので閉まっている店が多い。
300mほどのアーケードを抜ければ正面に武士像が立つ大きな公園が現れる。
この大きな武士像は楠木正成こと「大楠公像」。兵庫区と隣の中央区にまたがるここ「湊川」で建武3(1336)年、京から九州に追われ巻き返しを図る足利尊氏の軍勢とそれを迎え撃つ新田義貞、楠木正成の軍勢が激しくぶつかり、敗退した正成が自害した「湊川の戦い」が繰り広げられた。(午前9時11分)
先月正成の嫡男である楠木正行(まさつら)終焉の地「四條畷の合戦」ゆかりの地を歩いたが何か因縁のようなものを感じるなあ。死を覚悟した武人としての精悍な顔つき。しかし、心の中では常に息子のことを案じているんだろうな。「正行さん。お父さんのところへ来たよ。」
ここは「湊川公園」。きれいな緑地なのだが、この時間帯は携帯電話を握りながら私が聞いたことのない国の言葉で口喧嘩をしている若者、朝からワンカップで喉を潤す老人、連れているワンちゃんより髪の毛が茶色いお姐さまたちの憩いの場のようだ。
公園を入って左側に平成7年1月17日早朝神戸を襲った「兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)10周年記念碑」が立つ。兵庫区では555名の方が亡くなっている。「合掌」
200mほどの公園を抜けると正面には「兵庫区役所」。兵庫区は人口約10万人。人口・面積は長田区に次いで2番目に少ない。公園入口に立つ「大楠公像」は以前ここにあったものが区役所の新築により移転したそうだ。
区役所前の湊町線をさらに進み、次の信号角に「東山商店街」というアーケードが見えるので入って行こう。
この商店街は道幅が狭い。
八百屋さんや魚屋さんなど地元の方々の台所を支えるといった庶民的な商店街だ。
400m近いアーケードを抜ける。「あっ」やっぱり「台所」だったんだ。(午前9時25分)
信号と橋で「新湊川」を渡りアーケードのない「新湊川商店街」に進む。アーチの右足元には「夢野厄除八幡神社」の石標が立つ。
お風呂屋さんの横を通る。
商店街のアーチをくぐれば小さな五叉路に出るので正面の一方通行路(出口)に進む。
狭い道は徐々に坂道になる。正面には小高い山が見える。
初めての信号を渡り正面の一方通行路(出口)に入る。カーブを曲がりどんどん坂を上って行く。
マンション敷地に突き当たれば道は大きく鋭角に左折する。
坂も少々きつくなってきた。
左の路地角に「烏原貯水池」と掘られた小さな石標が見えてくれば間もなく坂道も終わりだ。
坂を上りきれば右に「背山散策路案内図」。ここは神戸市の水源として造られた「烏原(からすはら)貯水池」の畔にある「亀の甲広場」という公園。トイレがある。(午前9時45分)
明治38年に完成した日本で4番目の水道専用ダムだそうだ。元あった烏原村は日本最初のダム水没村らしい。
堤高33m、堤長122mのアーチ状重力式粗石コンクリートダムは「立ケ畑(たちがはた)堰堤」と呼ばれる。
土木産業遺産として国の登録有形文化財に登録されている。
堰堤の上は遊歩道になっている。
公園を後にして坂道を戻り先ほどの小さな石標のある細い道に入る。墓地を抜けると住宅街に出るので道なりに坂を下る。
いい景色だな。「海が見えるぞ」
「氷室公園」という防火水そうの上にある小さな公園を過ぎれば右に「氷室神社」への階段。上って行こう。
「氷室神社」。平清盛が治承4(1180)年の福原遷都に際し、辨財天である市杵島比売(イチキシマヒメ)らを勧請して創建したと伝わる。
若い女性が多いなと思ったら「えんむすび」の神様のようだ。私は今日一日の安全を祈願する。
参拝を終え先ほどの階段からまっすぐ下って行く。
これから先は何の目印もない街中を抜けていくのでグーグルマップを添付しておきます。
10分ほどで「湊川隧道」。湊川の付け替えにより明治34(1901)年に完成した河川トンネルの遺構だ。貴重な土木産業遺産として国の登録有形文化財に登録されている。(午前10時25分)
毎月第3土曜日の午後1時から午後3時まで内部が公開され(変更あり)、いろいろなイベントも開催されるそうだ。今日は外部から坑門入口を撮影する。
すぐ下には平成12(2000)年12月に開通した「新湊川トンネル」。少し後ろに下がれば新旧のツーショットが望める。なお下流の長田区側には隧道の出口がある。「長田区」編で訪れる。
隧道前から下り次の信号を右折し2分ほどで左に「神戸電鉄有馬線」のアンダーパスが見えるのでくぐる。さらに2~3分で左に公園への入口があるので曲がりコンクリートの坂道を上って行く。
1つ目のヘアピンカーブを過ぎ2つ目のカーブ突き当りに階段があるので上っていく。
階段を上れば広場に出る。ここは「会下山(えげやま)公園」。現在は公園として整備されているが「湊川の戦い」で楠木正成が陣を構えた標高85mの小山である。トイレがある。(午前10時33分)
広場内には海難事故等で受難した海員の霊を慰める「海員萬霊塔」。昭和5年に建立されたそうだ。
その向かいには「大楠公湊川陣之遺蹟」碑。先ほどの「海員萬霊塔」ともに日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を破った連合艦隊司令長官東郷平八郎の揮毫である。東郷元帥は昭和の時代まで生きていたんだな。
「大楠公湊川陣之遺蹟」の後ろには「湊川の戦い」が繰り広げられた戦場が見渡せたせる。
「大楠公湊川陣之遺蹟」碑裏の道を左に下りていくと「天台宗善光寺」の通用門から境内に入って行くことができる。境内には「平業盛(たいらのなりもり)之塚」。平清盛の弟である平教盛の三男にあたり17歳で「一ノ谷の戦い」で戦死した少年武将だという。
塚の横にある山門から境内を後にする。
右に曲がったところの階段を上れば公園に戻ることができる。
公園のメインストリート(?)を下っていく。
公園の南側出入口から出て左に曲がる。「神戸市立神港橘高校」前を通れば道は間違っていない。
この道を一直線に下り「上沢通7交差点」「大開通8交差点」を過ぎてひたすら進む。
「会下山公園」から15~6分で今日のゴールとなるJR「兵庫駅」の北側に突き当たるが取りあえず通過して右に進む。なお、昭和5年竣功のちょっとレトロな駅舎は、2014(平成26)年度「日本におけるモダン・ブームメントの建築」に選定されているそうだ。(午前11時2分)
JR「山陽本線」沿いに450mほど進めば1つ目の信号で左折しJRをくぐる。このガード下は「昭和」だな。
さらに「和田岬線」をくぐれば右に「兵庫駅南公園」。トイレがある。
真っ直ぐ進めば阪神高速道路と幹線道路が走る高架道に突き当たるので右に曲がり高架をくぐる。そのまま進み次の信号を右折。2つ目の辻である神戸市バス車庫手前を右折する。そのまま進み「コーナン」横で「和田岬線」の踏切を渡ろう(先にある「コーナンPRO」と間違わないように)。
右にある大きな工場は「川崎重工神戸工場」。列車の製造工場であるため構内をJRの引き込み線が走る。車両専用出口があるこの四つ角を左に曲がろう。
ちょっと歩けば左に「株式会社デンソーテン本社」。大正末期から昭和初期ころに建てられた「旧川西機械製作所本社社屋」らしい。
三叉路に出れば右折。「兵庫運河」にかかる「材木橋」を渡る。
左を見れば「和田岬線」の小さな鉄橋。「和田旋回橋」と呼ばれかつては運河を往き来する船が通過する時は旋回したそうだが今は固定されている。
「材木橋」を渡り真っ直ぐ進んで行くと前方に巨大な建物が見えてくる。そちら方向に向かって歩いていくと「御崎公園」の前に出るので公園に入る。(午前11時35分)
右の大きな建物は「ノエビアスタジアム神戸」という競技場。Jリーグ「ヴイッセル神戸」のホームグラウンドらしい。
「ノエビアスタジアム神戸」を通り過ぎれば左に「神戸市電1103号車」。昭和29年、長田車両工場で神戸市電最後の車両として製造され、昭和46年の市電廃止後は広島電鉄車両として活躍。廃車後、平成15年3月かつて神戸市電和田運輸事務所があったこの地へ里帰りし展示されている。
そのまま公園を抜ければ「和田岬線」の線路に突き当たるので右に曲がり線路沿いに進む。「和田岬線」は「兵庫駅」から「和田岬駅」までの1駅を結ぶ「山陽本線」の支線だ。
「和田岬駅」。ホームがあるだけで駅舎や改札口はない。小さな階段からホームに入ることができる。運賃精算は「兵庫駅」でするようだ。ただ付近の工場への通勤用なのか休日は朝夕の2本しか列車は走らない。
ホームを歩く。前方には「終着点」が見える。国鉄の風景だな。そのまま進んで行くと自然に駅構外に出る。
そこは「高松線」という大きな通りの「和田岬駅前交差点」。この先には安政5(1858)年の日米修好通商条約により「兵庫(神戸)港」が開港された際に設けられた「和田岬砲台」が残る。今は「三菱重工神戸造船所」の敷地であるため見学するには事前申し込みが必要だが、造船所は自衛隊の潜水艦を建造するなど防衛機密があることから砲台を含め構内の写真撮影は禁止されているそうだ。「湊川の戦い」においても陣を張る新田義貞軍を打ち破った足利尊氏の水軍が上陸するなど昔から軍事上の要衝だったのだろうか。
「和田岬駅前交差点」の角には神戸市営地下鉄「和田岬駅」の出入口。そう「高松線」の地下には神戸市営地下鉄海岸線が走っているのだ。ほとんどの人はこちらで通勤するだろう。
地下鉄出入口横を左に曲がる。100mほどで左に「和田神社」の大鳥居が見える。(午前11時48分)
大鳥居をくぐった左側には、これから訪ねる「兵庫運河」の開削工事などで功績があった神田兵右衛門の顕彰碑が立つ。
「蛭子伝説」の地に承安3(1173)年、平清盛が市杵嶋姫(イチキシマヒメ)を勧請し、その後万治元(1658)年に天御中主大神(アメノミナカヌシノミコト)を主祭神として祀られたという。
参拝を終え大鳥居を背に進み「高松線」の「和田岬交差点」を渡ってから左折し、カーブしながら進む。
次の「今出在家町交差点」の信号を渡ってから右に曲がる。3つ目の辻を左に曲がればすぐ右に「南浜公園」という小さな公園があり、そこには「兵庫生簀跡(ひょうごのいけすあと)碑」。
「摂津名所図会」には京都御所に献上する海産物の生け簀として描かれているそうだが、生きた魚が見られることから多くの見物人が集まったそうだ。まるで水族館だな。
「いけす」。鯛や鮃が踊っていたんだろうな。「タイ」「ヒラメ」。そんなことを考えていると「腹が」
「減った」
「もう3時間も歩いている。飯にしよう」
「高松線」まで戻り右に曲がる。途中、色んな物が目に入ってくるが無視してとにかく歩くのだ。「孤独のグルメ」の井之頭五郎になったつもりで。
5分ほど歩けば右に「神戸市中央卸売市場本場」。神戸市民の腹を満たす台所だ。
これまでいくつかの卸売市場を訪ねたが、どこにでも新鮮な食材を売りにした飲食店街があった。ここにもある。
時間は午後0時8分。今日もピッタリだな。
今日のオレの腹を満たすのは「海鮮丼の駅前 中央市場店」。
「地魚海鮮丼~限定20食」(1078円)を注文。奮発したなあ。私は海鮮が大好物なのだ。
食事を終え午後0時35分。地下鉄「中央市場前駅」前から「昼の部」をスタート。「兵庫津」の中心部を歩く。
目の前に見える「イオンモール兵庫南」へ向かう。
どこにでもあるイオンモールだが3階の「namco」前にちょっと小さいが「発掘されたみなとまち兵庫津」という展示スペースが設けられている。この日は「新型コロナウィルスワクチン集団接種会場」として椅子が並べられていた。
へ~え。そうなんだ。
1階まで下りて奥の出入口から出れば目の前には「兵庫運河」。プロムナードになっておりイベントなども開催される。ライトアップもされるようだ。「兵庫津」は「運河のある街」を売りにしている。
イオンモールを右に見ながら進み目の前の「入江橋」で「兵庫運河」を渡ろうと思うが横断歩道がないので一旦右へ。そこには「兵庫城」の石垣が復元されている。イオンモール建設に先立ちここで発掘調査が行われたそうだ。
イオンモール前の信号を渡り左へ「入江橋」を渡ってすぐ右に曲がる。
運河に沿って道が直角に曲がるがその角に「古代大輪田泊の石椋(いわくら)」が展示されている。昭和27年運河の浚渫工事をした際に出土したもので「兵庫津」の前身である「大輪田泊」が築造されたときの基礎として使用された石であるといわれる。
運河に沿って右に曲がれば大きな水門の前に「浄土宗来迎寺」。またの名を「築島寺」という。この辺りが平清盛が築いたといわれる「経ケ島(築島)」の中心だったのだろうか。
「高松線」に戻り左へすぐの信号を渡る。道の向こうに赤煉瓦のレトロビルが見える。
「石川ビル(石川株式会社本社)」といい、明治38年、三菱倉庫の前身である「旧東京倉庫兵庫出張所」として建築されたそうだ。
「石川ビル」先の突き当たりを左に折れ次の四つ辻を右に曲がる。小さな波止場だが神戸港の一部である。
途中左にはちょっとレトロなビル。
波止場に沿って右に曲がり次の辻を左に入る。100mほどで左に「竹尾稲荷神社」の赤い鳥居が立つ。小さな神社だ。(午後1時5分)
境内には「高田屋嘉兵衛顕彰碑」。高田屋嘉兵衛とは淡路島で生まれ「兵庫津」の廻船問屋で船乗りをしていたが才覚を表し後に「高田屋」を設立。遠く「ロシア」との貿易などで名をはせた廻船業者である。この顕彰碑は昭和28年に建立されたものである。
「竹尾稲荷神社」前から見える信号を渡り右に進めば「高田屋嘉兵衛本店跡記念碑」。嘉兵衛はここに「高田屋」の本店を置いたと伝わる。
そのまま真っ直ぐ進んでいけば左に白壁の「まちなか倶楽部」と看板が掲げられた建物。
次の信号で左に曲がる。この後訪ねる「松尾稲荷神社」への案内表示が立つ。角には味のある建物。
郵便局を右に見ながら進んで行けば「松尾稲荷神社」の鳥居前に出るのだが、そのちょっと手前の空き地に何やら白いフェンスに囲まれた青い柱が立っている。
フェンスでよく見えないが「サカヱ薬局跡地(ダイエー発祥の地)」と書かれている。ここは「スーパーダイエー」の創始者である「中内功」氏の実家があったところで、ここで同氏の祖父が開業した「サカヱ薬局」がダイエーの前身であることから「ダイエー発祥の地」といわれている。「ダイエー1号店」が開業した大阪市旭区の「千林商店街」と「発祥の地」を巡ってホットな争いがあったそうだ。(大阪24区「旭区」編参照)
すぐ先には「松尾稲荷神社」の赤い鳥居。
この神社にはたくさんの提灯がかかる。
そして本殿左奥には大阪「新世界」の守り神として有名な「ビリケン」の像が奉納されている。大正時代に食堂の店主から奉納されたもので現存日本最古の「ビリケン像」といわれている。
先ほどの鳥居を出て左に見える信号方向に進み、その手前で路地を覗き込む。以前、神社のすぐ北側に「稲荷市場」というアーケード商店街があり、その後長らく廃墟として放置されていたそうだが今では整地されているようだ。
交差点を左折する。この道は「中央区」との区境だ。
250mほど歩いて阪神高速道路下の「湊町1交差点」で国道2号線を渡り左へ。2~3分歩けば右に「西出町鎮守稲荷神社」の赤い鳥居。両脇には「高田屋嘉兵衛献上燈籠」。
右端には「一ノ谷の戦い」において18歳で討ち死にした平経俊(たいらのつねとし)の「五輪塔」が立つ。
さらに2号線に沿って進み「七宮交差点」で右折。グリーンベルトの左側の道を進んでいけば「湊八幡神社」前に出るが、境内手前に「湊口惣門跡碑」。「兵庫津」の東口にあたり番所や札場が置かれていたそうだ。(午後1時30分)
境内には「迷子のしるべ石」。迷子の特徴を紙に書いてここに張りつけ迷子を捜したという。
「湊口惣門跡碑」まで戻れば碑に刻まれているとおりここは「西国街道」。南(右)に進もう。途中「西国街道」は国道2号線に分断されるので右に曲がり、次の「西宮内町交差点」で迂回して「西国街道」に戻る。ただ「街道」の面影はない。
マクドナルドを過ぎ「本町公園」まで来れば右に「岡方倶楽部」というレトロなビルが建つ。
昭和2年に建てられたもので、今でいう自治会館のような役割をしていたそうだ。空襲や震災を乗り越え国の登録有形文化財に登録されている。
「本町公園」を過ぎ次の辻で「西国街道」は直角に右に曲がる。かつて札場があったことから「札場の辻」と呼ばれるそうだが、今ではビルの横に小さな道標と案内板が立つだけだ。
「西国街道」には曲がらずこの辻を真っ直ぐ進む。突き当たりを左に曲がれば先ほど通ったイオンモール前の「入江橋」西詰に出る。角には「清盛くん」。ご愛敬だな。
「兵庫運河」に沿って「キャナルプロムナード」という遊歩道になっているので歩いて見よう。
途中「兵庫城跡碑」が立つ。「兵庫城」は天正8(1580)年、池田恒興が「花隈城」を攻め落とした翌年から築城が始まったが豊臣秀吉の直轄領になったことから建設は中断、後に「大坂町奉行所兵庫勤番所」が置かれ、慶應4年(=明治元年)兵庫県が設置されると碑にも書かれているようにここが「最初の兵庫県庁」となったそうだ。そして今の「兵庫県」に続く。県庁については後ほど説明する。(午後1時52分)
「兵庫運河」に沿って行けば「県道489号線」に突き当たりその角には「兵庫住吉神社」。
境内には「清盛塚」が建つ。立派な十三重石塔は当初平清盛の墓と伝えられていたが、大正12年の発掘調査の結果、墓ではなく弘安9(1286)年、清盛の没100年を記念して建てられた供養塔であるといわれている。
隣には平清盛の甥にあたる平経正(たいらのつねまさ)の墓と伝わる「琵琶塚」が並ぶ。
神社を出てすぐ左には「兵庫運河」にかかる「大輪田橋」。運河の畔からはコンクリート造3連アーチ橋の美しい全容が望める。
橋を渡って振り返ればレトロな雰囲気の親柱が。横たわっているのは阪神淡路大震災で倒壊した反対側の親柱。震災のモニュメントとして保存されている。
親柱には「大正13年6月竣功」と刻まれている。
そのまま県道を50mほど進めば左に川岸に続く歩道が現れるので入ってみよう。「大輪田橋」のたもとには「戦災殉難者慰霊碑」。
昭和20年3月17日の神戸大空襲の際、炎から逃れ水を求めて「大輪田橋」の今は塞がれている暗渠に避難した多くの市民が炎にまかれて犠牲になった。こんな小さな港町を焼夷弾で焼き尽くす必要があったのだろうか。「合掌」
県道に戻り少し進めば左に「浄土宗阿弥陀寺」。
境内の庭園にある池には「湊川の戦い」で足利尊氏が、自害した楠木正成の首を改めるために使ったという「楠公供養石」が残る。過去の怨恨を水に流すため池に奉納されたそうだ。
そして「阿弥陀寺」の隣には何やら大きな木造建造物が。今月11月3日(文化の日)にオープンしたばかりの「初代県庁館」。白壁が眩しい。(午後2時9分)
先ほど訪れた「兵庫城跡」に建てられ、その後最初の県庁となった「大坂町奉行所兵庫勤番所」を復元したものである。
「仮牢」いまでいう留置場や
「吟味場(お白洲)」
そして初代県知事である伊藤俊介のちの「伊藤博文」が事務を執った部屋などが再現されている。
開館時間は午前9時から午後5時30分(10月~3月は午後4時30分)。月曜日が休館日で入館料は無料だ。
実は1年半ほど前イオンモールに買い物に来たときイベント広場で「兵庫津」の特別展が開催されており、その時のパンフに同館が令和3年度にオープンすると書かれていたのでこの日を待って訪れたのだ。結構前から「歩紀」を練っていたんだぞ。
そして東隣には建設中の「ひょうごはじまり館(仮称)」。こちらは令和4年度の遅い時期(令和5年始めころかな?)にオープン予定。完成すれば近代的な博物館になるそうだ。
そしてすぐ東の「中の島交差点」の信号を渡り右へ曲がる。100mほどで「新川橋」。昼食前「兵庫生簀跡碑」から「神戸中央卸売市場」まで脇目も振らずに渡った橋だ。よく見ると赤い欄干の手前に「昭和御大禮記念碑」が立つ。昭和天皇の「即位の礼」を記念して建てられたものだ。
ここでは橋を渡らず手前の信号に戻り、道路の向こう側に渡ってから「新川橋」を渡る。ここから「兵庫運河」に沿って歩いてみよう。
真っ直ぐ進めばお寺に突き当たるので左からぐるっと回って正面に行く。ここは「時宗薬仙寺」。
境内には平清盛が後白河法皇を幽閉したという「萱の御所蹟碑」や
「神戸大空襲慰霊碑」
後醍醐天皇が島流しされていた「隠岐」からの還幸(都に戻ること)途中病床に伏した際、当時の住職が献上したという霊泉「後醍醐天皇御薬水跡碑」などが並ぶ。
道路を挟んで向かい側には「御崎八幡神社」。
境内右奥には力比べに使われたという「力石」。石を撫でれば願いが叶うというのでお賽銭を奮発し「健康(健脚)祈願」した。
その先の「清盛橋」で運河を渡る。由緒ある橋かと思ったが市民からの公募で命名されたそうだ。
橋を渡れば先ほどの「兵庫住吉神社」前に出るので交差点を渡り真っ直ぐ進む。すぐ左には「時宗真光寺」。(午後2時40分)
「兵庫津」で最も大きなお寺ではないだろうか。無縁仏の墓石がピラミッドのようにそびえる。
その横には「一遍上人御廟」。
鎌倉時代後期の高僧「一遍上人」が生涯を終えた場所といわれ立派な「五輪塔」が立つ。
境内を出て「真光寺」北側の須佐野公園内には鎌倉時代初期に藤原為家が詠んだ「和田の笠松歌碑」が立つ。
そのまま北に上り3つ目の信号を過ぎれば左に「天台宗能福寺」。延暦24(805)年、伝教大師最澄が開山したと伝わる。
平清盛が出家した清盛ゆかりの寺である。平清盛死後、各地に清盛の墓処といわれる塚や石塔ができたようだが、ここにも十三重石塔が立つ「平清盛公墓所・平相國廟」が。
その他にも多くの碑が並ぶが何よりも目を引くのはこの大仏だろう。
明治24年寄進により建立され戦時中に金属供与のため解体されたそうだ。その後平成3年に再建。「兵庫大仏」と呼ばれる高さ18mの巨大な大仏様だ。
「能福寺」からさらに北に進んだ次の交差点が先ほど「札場の辻跡」から直角に曲がった「西国街道」の延長線上になるので左に曲がり「西国街道」に進む。右に「神明神社」。ちょっと「街道」の雰囲気が残るかな。
阪神高速道路が走る国道2号線を渡り、ちょっと左に曲がって右折すれば二又の左側が「西国街道」。
真っ直ぐ進めば左に「柳原蛭子神社」。
いわゆる「えべっさん」である。今日最後の神社でお参りをし、裏の立派な赤い「大鳥居」を出て右へ進む。
ここは「兵庫津」の西の出入口でもある。神社の西角には「柳原惣門跡碑」が立つ。
西の惣門から「兵庫津」を後にし、目の前の信号を渡って線路沿いに150mほど進めば午前中に通過したJR「兵庫駅」の南口。ここが本日のゴール。午後3時15分着。本日の歩き「28945歩」(19.68km)。
駅構内やガード下にもレトロな雰囲気が残る。ここから「大阪駅」まで約35分(560円)。よく歩いたな。しかし「兵庫運河」周辺と「初代県庁館」だけであれば1時間半ちょっとのコースだ。「兵庫津」の歴史がぎっしりと詰まっているのでイオンモールでのショッピングや中央卸売市場での食事がてらにちょっと歩いて見てはいかがでしょうか(イオンモール内にも海鮮を出す店がありますよ)。
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