▼花の城下町(写真をクリックすると動画を再生します)
「伊勢音頭」に「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」という有名な一節があり、全国各地に伝播した伊勢音頭系民謡の中で共通に使われている。この歌詞のもとになったのが、「石は吊って持つ 吊りたる石は 尾張名古屋の城に着く」という名古屋城築城時に唄われた石曳き唄(木遣り唄)といわれ、現在も名古屋市天白区に「平針木遣り音頭」として残っている。
この名古屋城築城には加藤清正公が大活躍したというエピソードが有名だが、「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年発行)には次のように記されている。
この時の清正の工事の活動振りは目ざましいものであった。かつて熊本大築城の経験もあり、慶長11年には江戸城の築城にも参加していたので、今度の工事は知れたものである。自ら進んで天守閣の築造を引き受け、寵臣である飯田覚兵衛をして朝鮮陣の当時に習得したという築造法の手腕を振わしめ、その成績は人目を驚かした。そうして巨大な角石などを運搬する時には、ことさらに華々しい装いをして人目をそばだたしめた。まずその大石を赤い毛氈で包み、大きな青色の綱でからげて、その上に突っ立ち上って大音声で、木遣り音頭などを唄われる。5、6千人の老若男女、いずれも華美な衣装に身を飾って、唄に合わせて綱を引く。酒は飲み次第、行商や露店の飲食物を値段かまわず買い上げて、食い放題飲み放題というので、後には見物人も商人も飛び込んで綱にとり付き、手拍子合わせて浮かれながら、えいやら声でみるみるうちに、大石を名古屋に運び着けるという賑わい。こうしてさすがの大工事も同年3月から8月までの間に無事竣成して、9月清正は熊本へ帰国せられたのである。
▼加藤清正石曳きの図
▼伊勢音頭
「伊勢音頭」に「伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ」という有名な一節があり、全国各地に伝播した伊勢音頭系民謡の中で共通に使われている。この歌詞のもとになったのが、「石は吊って持つ 吊りたる石は 尾張名古屋の城に着く」という名古屋城築城時に唄われた石曳き唄(木遣り唄)といわれ、現在も名古屋市天白区に「平針木遣り音頭」として残っている。
この名古屋城築城には加藤清正公が大活躍したというエピソードが有名だが、「肥後史話」(卯野木卯一良著・昭和56年発行)には次のように記されている。
この時の清正の工事の活動振りは目ざましいものであった。かつて熊本大築城の経験もあり、慶長11年には江戸城の築城にも参加していたので、今度の工事は知れたものである。自ら進んで天守閣の築造を引き受け、寵臣である飯田覚兵衛をして朝鮮陣の当時に習得したという築造法の手腕を振わしめ、その成績は人目を驚かした。そうして巨大な角石などを運搬する時には、ことさらに華々しい装いをして人目をそばだたしめた。まずその大石を赤い毛氈で包み、大きな青色の綱でからげて、その上に突っ立ち上って大音声で、木遣り音頭などを唄われる。5、6千人の老若男女、いずれも華美な衣装に身を飾って、唄に合わせて綱を引く。酒は飲み次第、行商や露店の飲食物を値段かまわず買い上げて、食い放題飲み放題というので、後には見物人も商人も飛び込んで綱にとり付き、手拍子合わせて浮かれながら、えいやら声でみるみるうちに、大石を名古屋に運び着けるという賑わい。こうしてさすがの大工事も同年3月から8月までの間に無事竣成して、9月清正は熊本へ帰国せられたのである。
▼加藤清正石曳きの図
▼伊勢音頭