父が幼い頃(大正時代初期)日参した泰勝寺の長岡家でふるまわれたおやつの中に、新坪井六間町にあった菓子舗・福栄堂の銘菓「さおしか」があったらしい。どんなお菓子だったのかは福栄堂も今はないのでわからなかった。
ところが先日、熊本情報ブログ「肥後ジャーナル」の2年前の記事に、明治28年創業の老舗和菓子店「福栄堂」が味噌天神近くで火曜日だけ営業しているという記事を発見した。
この店が件の「福栄堂」なのか確かめたくて今日訪れてみた。「肥後ジャーナル」の記事のとおり、今日は休業日で閉まっていたので、味噌天神に参拝した後、裏の公園から電話インタビューを試みた。女将さんと思しき年配の女性が電話に出られた。かつて六間町に店を構えていたお店(の後身)なのかや、わが父の思い出の菓子だったこと、それを今でもどこかで作っていないか探していたことなど縷々説明した。それに対し、お祖母様の代から今日までの店の経過を実に懇切丁寧に説明され、店の商品への愛顧に対する感謝の言葉を述べられた。そして残念ながら、今は「さおしか」は作っていないが、合志市須屋の和洋菓子工房・大盛堂さんが同じ製法で「さおしか」を作っておられることを紹介していただいた。
父が他界して23年。やっと父の思い出の菓子にたどり着いた。後日、大盛堂さんを訪れてみたい。
「さおしか(小牡鹿)」とは若い牡鹿のこと。万葉集にも度々この言葉が出てくる。
「さおしか」が詠まれた和歌を一首
我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿 (大伴旅人)
(わがをかに さをしかきなく はつはぎの はなつまどひに きなくさをしか)
(大意)
私の岡に若い牡鹿がやって来て、まるで萩の花に求婚をするかのように鳴いている。
味噌天神社
わが父が「さおしか」をふるまわれた長岡邸(泰勝寺跡)
ところが先日、熊本情報ブログ「肥後ジャーナル」の2年前の記事に、明治28年創業の老舗和菓子店「福栄堂」が味噌天神近くで火曜日だけ営業しているという記事を発見した。
この店が件の「福栄堂」なのか確かめたくて今日訪れてみた。「肥後ジャーナル」の記事のとおり、今日は休業日で閉まっていたので、味噌天神に参拝した後、裏の公園から電話インタビューを試みた。女将さんと思しき年配の女性が電話に出られた。かつて六間町に店を構えていたお店(の後身)なのかや、わが父の思い出の菓子だったこと、それを今でもどこかで作っていないか探していたことなど縷々説明した。それに対し、お祖母様の代から今日までの店の経過を実に懇切丁寧に説明され、店の商品への愛顧に対する感謝の言葉を述べられた。そして残念ながら、今は「さおしか」は作っていないが、合志市須屋の和洋菓子工房・大盛堂さんが同じ製法で「さおしか」を作っておられることを紹介していただいた。
父が他界して23年。やっと父の思い出の菓子にたどり着いた。後日、大盛堂さんを訪れてみたい。
「さおしか(小牡鹿)」とは若い牡鹿のこと。万葉集にも度々この言葉が出てくる。
「さおしか」が詠まれた和歌を一首
我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿 (大伴旅人)
(わがをかに さをしかきなく はつはぎの はなつまどひに きなくさをしか)
(大意)
私の岡に若い牡鹿がやって来て、まるで萩の花に求婚をするかのように鳴いている。
味噌天神社
わが父が「さおしか」をふるまわれた長岡邸(泰勝寺跡)
長岡家の謡のお稽古に幼い父も末席に侍しており、中でも生涯忘れなかった謡曲「田村」
父は亡くなる数年前には、幼い頃の生家があった泰勝寺の近辺へ行きたがり、何度も車に乗せて連れて行きました。そんな時、必ず話していたのが長岡家でご馳走になったお菓子のことでした。よほど美味しかった思い出が残っていたのでしょう。できることならもう一度「さおしか」を食べさせてあげたかったと思います。ぜひ復刻していただけることを願っております。今度は営業日にお伺いさせていただきます。
お父様のお好きだった『さおしか』が見つかって良かったです。
この記事を読んでから そういえばお隣の徳島にも『さおしか』があったことを思い出しました。
会社勤めしていたころ 徳島からのお客様が さおしかを手土産に来られた時はとても嬉しかった。
冨士屋さんというお菓子屋さんが作る
さおしか(小男鹿)で 字が違いますが和三盆を使った上品な甘さで
高いからもらった時しか食べられませんでした。
さおしか の音で昔を思い出しました。
数年前、徳島の「さおしか」も調べたことがあります。熊本の「さおしか」とはちょっと作り方が異なるようですが、江戸詰めの武士だった創業者が江戸菓子のエッセンスを徳島に持ち帰って開発されたと聞いています。
製品は写真でしか見たことはありませんが、とても美味しそうでした。