今日は例月のとおり藤崎八旛宮へ朔日詣りに歩いて行った。その途中、八雲通りを歩いていると漱石の合羽町の家跡(現坪井2丁目)の駐車場で掃除をしている中年男性が目に入った。ひょっとしてここの家主さんかなと思い声を掛けてみた。
「ここは漱石旧居があったところですよね」
「そうです。合羽町の家のあったところです」
とにこやかに返事された。
「その痕跡は何にもないんですか」と聞くと、漱石旧居だったことはずっと前から聞いていたが何も痕跡がないことなどを話していただいた。
漱石が熊本に来て最初に住んだ光琳寺の家からわずか3ヶ月で引っ越してきた二番目の家がこの合羽町の家である。この合羽町の家に住んでいた頃、次の句を詠んでいる。
枕辺や星別れんとする晨(まくらべやほしわかれんとするあした)
鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの看病をしたそうだ。その時の心境を詠んだものらしいが、まんじりともせず夜が明ける状況を牽牛と織女の別れ星の寓話にでもなぞらえたのだろう。この句を俳句の師正岡子規へ送ったのが明治29年9月25日というから引っ越してすぐである。まぁ何とやさしい旦那様と思われる向きもあろうが、エリート官僚の舅やお手伝いの老女まで一緒に付いて来た箱入り娘と結婚式を挙げてまだ3ヶ月。そりゃあそうなるでしょう。漱石まだ29歳である。
この合羽町の家もその年が暮れて初めて迎えた正月にお客や生徒が押しかけて来て、これに懲りた漱石は1年にも満たない30年7月に大江村の家に引っ越すことになる。
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漱石の合羽町の家跡
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漱石が住んでいた当時の合羽町の家
牽牛と織女(織姫と彦星)の天の川の逢瀬をモチーフとした端唄「もみじの橋」
「ここは漱石旧居があったところですよね」
「そうです。合羽町の家のあったところです」
とにこやかに返事された。
「その痕跡は何にもないんですか」と聞くと、漱石旧居だったことはずっと前から聞いていたが何も痕跡がないことなどを話していただいた。
漱石が熊本に来て最初に住んだ光琳寺の家からわずか3ヶ月で引っ越してきた二番目の家がこの合羽町の家である。この合羽町の家に住んでいた頃、次の句を詠んでいる。
枕辺や星別れんとする晨(まくらべやほしわかれんとするあした)
鏡子夫人が病の床に伏したことがあり、漱石は寝ずの看病をしたそうだ。その時の心境を詠んだものらしいが、まんじりともせず夜が明ける状況を牽牛と織女の別れ星の寓話にでもなぞらえたのだろう。この句を俳句の師正岡子規へ送ったのが明治29年9月25日というから引っ越してすぐである。まぁ何とやさしい旦那様と思われる向きもあろうが、エリート官僚の舅やお手伝いの老女まで一緒に付いて来た箱入り娘と結婚式を挙げてまだ3ヶ月。そりゃあそうなるでしょう。漱石まだ29歳である。
この合羽町の家もその年が暮れて初めて迎えた正月にお客や生徒が押しかけて来て、これに懲りた漱石は1年にも満たない30年7月に大江村の家に引っ越すことになる。
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漱石の合羽町の家跡
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漱石が住んでいた当時の合羽町の家
牽牛と織女(織姫と彦星)の天の川の逢瀬をモチーフとした端唄「もみじの橋」