記憶はあくまで傷痕です。「主観」には良い悪いもなく、ただの成長過程の痕跡といいますか、あくまで「首都」を飛び越え直接入ってきた調整されていないゴツゴツした「情報」の塊です。
「首都」がまだ発達していなかった頃は、「主観」により国(生命体)の繁栄のための生きた応用と間違った応用の「区別」をしていました。しかしそれは、個体という国(生命体)と外界の環境(個体の住処)を整え次世代に受け渡すための自動運動性に関わる「区別」です。内蔵コントロールやそれらに付随する筋肉、表面的維持などの自動性に関係した生きた応用と間違った応用の「区別」です。言語やその理解のような二次的な「区別」は、「首都」ができニューロンネットワークが各街々に広がり、自動運動性以外の「区別」を調整という形で「首都」がカバーし始め、こぼれた情報を「主観」の裏部屋に収めるようになってからのお話です。
「主観」が生きた応用と間違った応用の「区別」をしていた頃は、「五感」という五つの街はまだ開拓途中の小さなグループでしかありませんでした。街を形成するまでは何世代にもわたり遺伝子に繁栄のための情報を受渡し、その世代その世代で少しずつ設計内容を見直しては構造を変え進化していかなくてはなりません。自動運動性が発達し、同時に運動能力と感覚能力を獲得したときに五つの街に機会が訪れました。五つの開拓途中のグループよりも大きく発達した街は幾つもありましたが、運動能力と感覚能力を獲得したときにどんなに小さなグループでも、どんなに小さな街でも、どんなに優れた街だったとしても、内的だけではなく外的にも国(生命体)全体の繁栄のための正確な「情報」をもたらし、「協調体」としての活発な応用行動を獲得することのできる可能性という平等な機会が訪れたのです。しかし、それは決して平等ではなかったのですね。実際には、当時その機会を与えられたのは開拓途中のグループや住処を探すものにだけでした。「主観」が自動運動性を創り上げる過程に獲得した運動能力と感覚能力は、個々の細胞という街にしかできない役目を与えているのです。つまり、その役目を放棄して別の役目に移ると「協調体」は成り立つことができないのですね。そのせいで失敗した街も多くありました。それらの街は「協調性」からはみ出し、国(生命体)全体としてではなく、独立したものとしての繁栄のための利益の獲得に向かったのですね。
「協調性」からはみ出した国を創ることができます。血統の痕跡は残し偏った利益だけを求める「協調性」です。それは、発生しては滅びるを繰り返すのですね。しかし、偏った「協調性」だから外的な環境とは調和することはありません。もちろん、繁栄も流行のような仕方で維持はできません。だから、発生しては滅びるということになるのですね。それは大昔に実際に繰り返された事実です(現在もどこかにある現象でしょう)。次世代へ受け渡すことのできる国(生命体)の維持は、『先祖となる歴史的遺伝子と近時的遺伝子の相互作用による「学習」のたまものであり、匙を投げることのない「協調体」だけができる維持である。』と、いうこと。そのことに目を背け、偏った「協調性」を追いつづけ、全体との「協調性」を破棄してしまった国(生命体)はその道をたどるのですね。
繁栄には、一部だけを主張したものであっては無為な選択や利益や適応になってしまいます。今どうすれば利益を得て適応ができるのか。でなく、新しい環境づくりのための、全体の「協調」による自動的な変化を維持し受継がれるのが基本となってくるのですね。「主観」から役目を与えられた細胞という街たちが匙を投げ放棄するということは、「自己」の中心となる「主観」を放棄する意味となります。「協調」を放棄することでもありますから、衰退しうる(国)生命体は「協調」と「学習」が少しばかり欠けていた、と言えるでしょうね。
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