記憶とはつまり経験です。
記憶、経験というのは、「五感」(「視覚」「聴覚」「嗅覚」「触覚」「味覚」)により絶えず送り込んでくる情報の中に突如として現れる、制御しきれない突風の一部なのです。一部ということはもちろん「主観」には、「首都」により最小限に抑え込んだ影響と、掴み取ることのできなかったはみ出した影響の二つが流れ込んでくるのですね。
その二つの影響は、もちろん各街やそこの住人たちにも伝わります。幹線(シナプスら)を利用して情報をすぐさま受け入れることのできる各街やそこの住人たちは、二つの現実に悩まされることになります。「協調」という古くから伝わるビジョンしかないからです。止もう得ず、それを特殊な方法で作業調整を可能とする裏部屋を「主観」という会議室の隅に作ったのです。そこでは予測や推理または概念という、五感とは一線を置いた「思考」といわれるもう一つの経験を実行させる現実でも空想でもない二次的経験をなす部屋を作ったのです。それは「第六感目」にあたる感覚器官となりました(五感が先に誕生した以上、第「六感」目になるのでしょうね)。「主観」とはほとんど関係することはなく、関係するとすれば直感や胸騒ぎと言った特殊な現実を描くことができ、現在では本能的なものとか、一人称で証明も根拠も無いものと呼ばれるようになりました。
「六感目」は小さな部屋での会議となります。他の国(生命体)からは証明も根拠も無い空想と言われますが、どの国(生命体)にも裏部屋が存在するようになるとそのれは注意力や警戒心となっていきます。ここで問題になってくるのは、二つの現実世界と二つの影響と二つの経験の「協調」から「区別」というものが現れるということです。
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