江戸時代後期、彦根藩直営の藩窯(はんよう)から、有田焼や瀬戸焼にも劣らない名品が生まれた。
藩主・井伊直弼(なおすけ)の代に黄金期を迎えながら、幕末の動乱で途絶えた「湖東焼」だ。藩窯の期間はわずか20年。しかも関東大震災(1923年)で東京の井伊家の屋敷も被災して湖東焼の大半が焼け、「幻の焼き物」と呼ばれるが、復興や直弼の再評価を願う人が彦根市にいる。
↑写真:中日新聞より
復興を願う市民グループの一つが、NPO法人「湖東焼を育てる会」。
元彦根城博物館学芸員で、井伊家伝来の美術工芸品の調査研究や展示を担当してきた同会理事長で柏原宿歴史館長の谷口徹さんが、湖東焼の歴史をひもとく。
湖東焼は、1829年に城下の商人・「絹屋半兵衛」が始め、1842年から民窯を彦根藩が召し上げて藩主・直亮(なおあき)が基盤を築き、直弼の代で花開く。
【滋賀・近江の先人第128回】江戸末期、幻の湖東焼きの創業者・絹屋半兵衛(彦根市)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/0c8beae18438865c77949ef2c0fec138
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/0c8beae18438865c77949ef2c0fec138
土作り、絵付け師、焼き師と工程ごとに焼き物の産地から引っ張った専門家がおり、その数は50人を超えた。「直弼のこだわりは尋常ではなく、投資を惜しまなかった」と谷口さん。藩の威信をかけた事業は、直弼が暗殺された1860年の「桜田門外の変」で暗転。パトロンを失って職人は去りその後、廃絶した。
谷口さんは現在、会員約30人と湖東焼再興に力を注ぐ。名品を発掘しようと「湖東焼拝見」を企画して家庭に眠る逸品を探し出し、写真に収めてデータを蓄積した。彦根市内の窯場跡から出土した窯道具の分類もしていて、コンテナ500個分の出土品を前に、「死ぬまでに整理し、文献史料を裏付けたい」と決意を語る。
同会は、「再興湖東焼 一志郎(いちしろう)窯」の看板を掲げる陶芸家・中川一志郎さんもサポート。
中川さんは信楽焼の窯元に生まれ、湖東焼の名品に魅せられて彦根で作陶する。40年ほど経過し、作品は県伝統工芸品に指定されている。「各地から名工を集めて日本一といわれた湖東焼を造らせた直弼はすごい」と話し、「芸術文化は、その時代を写す鏡。湖東焼の特色は繊細な絵付けだと思う。ベースや技術を守りながら今の文化を写し出す作品を表現したい」と意欲を燃やす。
↑写真:中日新聞より
中川さんは、地元の城西小学校で15年ほど前から児童に茶わん作りを指導する。「成形や絵付け、窯焼き体験を通して文化人・直弼を知ってもらいたい」と指導に熱が入る。
彦根城博物館は、126点の被災した湖東焼を所蔵。器の表面は火を受けて溶けだし、艶は失われ黒ずむが、常設展や数年に一度特別展で公開してきた。奥田晶子学芸員は「井伊家の家職をつとめた人々が中心となり、罹災(りさい)した伝来品が丹念に拾い集められ彦根に運ばれたのは、非業の最期を遂げた直弼の再評価を願ってのことだったのでは。その思いを受け止め、伝えていきたい」と話す。
湖東焼の魅力について、「細かいところまで作りこんであり、ある意味ぜいたく品です。名絵付け師といわれた『鳴鳳(めいほう)』の華やかな画題や構図、細やかな筆致を見てもらいたい」。「井伊家や彦根の歴史を考える上で重要な湖東焼ですが、いまだに地域の人々に知られていない。今後も、身近に感じてもらえる催しを会の皆さんと企画したい」と情熱を燃やす。
<中日新聞より>
NPO法人 湖東焼を育てる会
再興湖東焼 一志郎(いちしろう)窯
彦根城博物館