シテ「あら悲しや唯今参りて候に。これ程はなどやお責めあるぞ。あら悲しやあら悲しや。
「立廻リ」の終わりに一之松にて正面を向いたシテは、大小鼓が打ち続ける中でいきなり謡い出す「謡カケ」と呼ばれる方法で謡い出します。きちんとしたトメの手を待たずに囃子の流れをいきなり分断する手法で、シテの苦悩が腹の底からわき上がって来て、思わず声を出した、という演出でしょう。シテ方の流儀によってはこの「立廻リ」が「翔」であるそうですが、「翔」は囃子の緩急が非常に著しいので、シテの心情や立場の混沌とした様が表せるとは思いますが、一方「翔」は様式的な舞なので、「立廻リ」の茫洋とした印象も、これはこれで似合うと思っています。
ツレ「不思議やな又彼の人の神気とて。面色変りさも現なきその有様。
シテ「五体さながら苦しめて。
ツレ「白髪は乱れ逆髪の。
シテ「雪を散らせる如くにて。
ツレ「天に叫び。
シテ「地に倒れて。
シテの豹変ぶりに驚いたツレが声を掛け、シテは謡いながら舞台に戻り(この辺りの掛け合いは問答ではなくて、ツレから見たシテの有様を描いたものですね)、正先から中まで下がると安座して、それからキリ(終曲)に向かって演技が畳み込むように続きます。
地謡「神風の一もみ揉んで。神風の一もみ揉んで(六ツ拍子と七ツ拍子踏返シ)。時しも卯の花朽たしの(サシて角へ行き右へ廻り)五月雨も降るやとばかり(扇を上げて右上を見、正へ面切り)。面には。白汗を流して(常座へ廻り)袂には(斜に出ながら左袖を出し)。露の繁玉(扇を袖の下に入れて中まで行き)。時ならぬ霰玉散る(正へサシ廻し)。足踏はとうとうと(七ツ拍子)。手の舞笏拍子(正へユウケン扇二つ)。打つ音は窓の雨の(右へウケ扇にて二つ打合、四ツ拍子)。震ひ戦き(正へサシツメ)立っつ居つ(中に下がりグワッシ)肝胆を砕き(正へ安座)神の怠り申し上ぐると見えつるが(正へ出トメ)。神は上らせ給ひぬとて(下がり下居、扇を上げ、倒し)。茫々と狂ひさめて(立ち上がり)。いざや我が子ようち連れて(子方に向き胸ザシにて出、子方を立たせ)。思ふ伊勢路の古里に(左へ外してサシ、脇座にて右へトリ=子方は橋掛りへ向かい、そのまま先に幕へ入る)又も帰りなば二見の浦。又も帰らば二見の(常座へノリ込拍子)。浦千鳥友よびて伊勢の国へぞ帰りける(正へヒラキ)伊勢の国へぞ帰りける(右ウケ左袖を返し、トメ拍子)。
キリの型には一カ所だけ工夫を加えましたが、効果が出るかどうか。。トメ拍子のあと扇をたたんで右へトリ、幕へ引きます。ツレはトメ拍子のあたりに立ち上がり、シテのあとに付き同幕にて幕へ引きます。
ようやく邂逅した子方はシテより先に幕に入り、一方父子とは違う目的地、白山の自宅に帰るツレはシテと一緒に幕に入る。。なんだかおかしいようですが、シテが最後に自分の喜びを表現する(と言っても常座でのサシ込ヒラキ程度で、曲によりここにユウケン扇を加えたりすることもあります)場面で子方がシテのそばに控えるわけにもいかず(それはかえってシテの演技の邪魔になるでしょう)、ひと足お先に故郷を目指して歩み出し、シテはあくまでそうれに同道する心のままでトメ拍子を踏むのです。そうなると子方とシテは一緒に幕に入るのは物理的に不可能で、あくまで「同道の心」で子方の後を追って幕に入るのです。
ところがここで問題になるのはツレの処理で、理屈で考えれば子方とシテは同じ伊勢国二見浦の故郷に帰り、ツレはそれとは別の、この能の事件の現場である加賀国白山麓の近所の自宅に帰るのですから、ツレはシテとは別のタイミングに幕に入るべきなのでしょう。ところがそうしてしまうと、結局三人だけしかいない登場人物がすべて別々のタイミングで幕に入る、つまり幕が三回揚げられることになってしまうのです。おそらくこれが舞台進行上やや煩わしいと考えられて、ツレが助演する観世流ではツレはシテと同幕にて幕に入るのでしょう。この里人の役をワキとする下掛りでは、おそらく他の曲の例から見て、おワキはシテとは別幕で引く~つまり三回幕が揚げられる~ことになるのだと思います。これはおワキという職掌の特徴から来ている演技の主張で、おそらくシテを尊重してくださっておられるのでしょうね。
。。そんなわけで明日が『歌占』の上演当日になりました。なんだか相変わらず、というか、上演の舞台の進行の説明だけで終始してしまいました。。作者の観世十郎元雅のこととか、この曲の上演の歴史の変遷とか、ぬえ以外の演者がこの曲について言った言葉など、書きたかったことはまだあるのですが。。上演終了後に、また日を改めてそれに触れる機会もあろうかと思います。
また明日ご来場くださる方々には、この場にて厚く御礼申し上げます。当日が良き日になりますように。
「立廻リ」の終わりに一之松にて正面を向いたシテは、大小鼓が打ち続ける中でいきなり謡い出す「謡カケ」と呼ばれる方法で謡い出します。きちんとしたトメの手を待たずに囃子の流れをいきなり分断する手法で、シテの苦悩が腹の底からわき上がって来て、思わず声を出した、という演出でしょう。シテ方の流儀によってはこの「立廻リ」が「翔」であるそうですが、「翔」は囃子の緩急が非常に著しいので、シテの心情や立場の混沌とした様が表せるとは思いますが、一方「翔」は様式的な舞なので、「立廻リ」の茫洋とした印象も、これはこれで似合うと思っています。
ツレ「不思議やな又彼の人の神気とて。面色変りさも現なきその有様。
シテ「五体さながら苦しめて。
ツレ「白髪は乱れ逆髪の。
シテ「雪を散らせる如くにて。
ツレ「天に叫び。
シテ「地に倒れて。
シテの豹変ぶりに驚いたツレが声を掛け、シテは謡いながら舞台に戻り(この辺りの掛け合いは問答ではなくて、ツレから見たシテの有様を描いたものですね)、正先から中まで下がると安座して、それからキリ(終曲)に向かって演技が畳み込むように続きます。
地謡「神風の一もみ揉んで。神風の一もみ揉んで(六ツ拍子と七ツ拍子踏返シ)。時しも卯の花朽たしの(サシて角へ行き右へ廻り)五月雨も降るやとばかり(扇を上げて右上を見、正へ面切り)。面には。白汗を流して(常座へ廻り)袂には(斜に出ながら左袖を出し)。露の繁玉(扇を袖の下に入れて中まで行き)。時ならぬ霰玉散る(正へサシ廻し)。足踏はとうとうと(七ツ拍子)。手の舞笏拍子(正へユウケン扇二つ)。打つ音は窓の雨の(右へウケ扇にて二つ打合、四ツ拍子)。震ひ戦き(正へサシツメ)立っつ居つ(中に下がりグワッシ)肝胆を砕き(正へ安座)神の怠り申し上ぐると見えつるが(正へ出トメ)。神は上らせ給ひぬとて(下がり下居、扇を上げ、倒し)。茫々と狂ひさめて(立ち上がり)。いざや我が子ようち連れて(子方に向き胸ザシにて出、子方を立たせ)。思ふ伊勢路の古里に(左へ外してサシ、脇座にて右へトリ=子方は橋掛りへ向かい、そのまま先に幕へ入る)又も帰りなば二見の浦。又も帰らば二見の(常座へノリ込拍子)。浦千鳥友よびて伊勢の国へぞ帰りける(正へヒラキ)伊勢の国へぞ帰りける(右ウケ左袖を返し、トメ拍子)。
キリの型には一カ所だけ工夫を加えましたが、効果が出るかどうか。。トメ拍子のあと扇をたたんで右へトリ、幕へ引きます。ツレはトメ拍子のあたりに立ち上がり、シテのあとに付き同幕にて幕へ引きます。
ようやく邂逅した子方はシテより先に幕に入り、一方父子とは違う目的地、白山の自宅に帰るツレはシテと一緒に幕に入る。。なんだかおかしいようですが、シテが最後に自分の喜びを表現する(と言っても常座でのサシ込ヒラキ程度で、曲によりここにユウケン扇を加えたりすることもあります)場面で子方がシテのそばに控えるわけにもいかず(それはかえってシテの演技の邪魔になるでしょう)、ひと足お先に故郷を目指して歩み出し、シテはあくまでそうれに同道する心のままでトメ拍子を踏むのです。そうなると子方とシテは一緒に幕に入るのは物理的に不可能で、あくまで「同道の心」で子方の後を追って幕に入るのです。
ところがここで問題になるのはツレの処理で、理屈で考えれば子方とシテは同じ伊勢国二見浦の故郷に帰り、ツレはそれとは別の、この能の事件の現場である加賀国白山麓の近所の自宅に帰るのですから、ツレはシテとは別のタイミングに幕に入るべきなのでしょう。ところがそうしてしまうと、結局三人だけしかいない登場人物がすべて別々のタイミングで幕に入る、つまり幕が三回揚げられることになってしまうのです。おそらくこれが舞台進行上やや煩わしいと考えられて、ツレが助演する観世流ではツレはシテと同幕にて幕に入るのでしょう。この里人の役をワキとする下掛りでは、おそらく他の曲の例から見て、おワキはシテとは別幕で引く~つまり三回幕が揚げられる~ことになるのだと思います。これはおワキという職掌の特徴から来ている演技の主張で、おそらくシテを尊重してくださっておられるのでしょうね。
。。そんなわけで明日が『歌占』の上演当日になりました。なんだか相変わらず、というか、上演の舞台の進行の説明だけで終始してしまいました。。作者の観世十郎元雅のこととか、この曲の上演の歴史の変遷とか、ぬえ以外の演者がこの曲について言った言葉など、書きたかったことはまだあるのですが。。上演終了後に、また日を改めてそれに触れる機会もあろうかと思います。
また明日ご来場くださる方々には、この場にて厚く御礼申し上げます。当日が良き日になりますように。