日本でも明治時代に現実に起こった、中国の文化大革命並みの文化財破壊運動。忘れてはなりませんですな。
形のあるものとして文化財が失われたほかに、程度の違いこそあれこの時代には同時に技術も失われたのです。能面を打つ世襲の家~出目家はここで断絶し、近代の新しい面打ちが登場するのは明治末期のことです。鈴木慶雲や中村直彦ら明治生まれの能面作家が当初仏師を志していたり、仏像彫刻をいくつも制作していたのに能面作家に転身したのは、当時の風潮を考えなければ正当には評価できないでしょう。そして明治期の能面は、失われた技法の再発見のための研究期間でもあったのか、概してあまり評価できる作品には乏しいのが現実です。本当に能面として舞台に使える面が多く登場するのは、大正期以後のことだと ぬえは思いますですね。
そしてまた、大正時代には近代的な文化財修復も積極的に始められたように思います。冒頭の画像は ぬえ所蔵の『平家納経』のレプリカです。『平家納経』は言わずと知れた平清盛によって厳島神社に奉納された豪華この上ない装飾経で「国宝の中の国宝」と称されるものですが、大切に扱われてきたとはいえやはり時代による損傷は避けられず、その修復と、田中親美氏による精巧な複製が作られたのが大正時代なのです。ぬえの所蔵品はその田中氏の制作になる複製品をさらに現代に写したもので、内容こそ印刷ではありますが、軸などの工芸になる部分は、ため息が出るほど美しい。。ま、死蔵していてもつまらないので、ぬえはこの『平家納経』を伊豆の薪能の「子ども創作能」の小道具として、毎年舞台に出しております。
ほかにもいくつか例はあると思うのですが、このように古い時代の文化財や建築に、科学的な方法で修復を施されるようになった時代の嚆矢が大正期だったように思います。ここから戦争が始まるまでの昭和初期という時代は、まさに古美術や文化財にとっては幸せな時代だったでしょう。失われかけた職人の技術も復興して、前述したように良い近代の能面も大正時代から現れてくるようになります。
。。それはつまり、その時代に、そういった古美術や文化財に目を向け、それを愛で、保存するために財力を投じることを厭わなかった財閥やパトロンが多く輩出した時代でもあったわけで。
面白い話ですが、ぬえの師家で所蔵の能面や装束を失った原因は、明治維新の時代はいざ知らず、近い時代では戦争がその原因ではなかったそうです。その大きな原因はやはり関東大震災だったそう。。それはなぜかというと、戦争では貴重品はあらかじめ疎開できたけれど、突然訪れた地震の被害には対処する方法がなかった、のだそうです。
ところが、師家では失った能面や装束はすぐに補填されました。それは強大なパトロン(ぬえの師家では三井家や、その大番頭さんであった益田鈍翁さん)が、能が廃れる事を惜しんで援助を与えたのです。ぬえの師家は戦前には品川の高輪の高台(現在のソニー本社ビルが建っているあたり)に居宅がありましたが、そこは母屋と舞台が別棟で建ち、その舞台は二階建てで当時は珍しい観客用の食堂まで備えていました。母屋からは太鼓橋を渡って舞台に至るという豪勢さでしたが、その建物はこのようなパトロン(たしか益田さん)から頂いたもの(!)なのだそうです。高輪という土地は三井家のお屋敷のすぐそばで、師家では近所に出かけるような気軽さで三井家に謡や仕舞のお稽古に通われたんだとか。
ん~、気持ちは複雑なものもありますが、民主主義の中からは生まれてこないもの、ってのも確かにあります。それは日本文化の中で咲いた花であっても、一面では毒を持った花、という見方もできるのですけれどもね。。