それからまた、今回の子どもたちの礼儀の正しかったこと!
ぬえらが学校に到着して、そうして公演準備をしているうちに小学校はお昼休みになります。さすがに準備中の体育館の中には入ってこないものの、トイレに行くなどの用事で体育館から出ると。。会う子がみ~んな「こんにちは~」と必ず挨拶をしてくれます。わけても、これも北秋田の小学校ですが、ここでは終演後に体育館から出ると、これまた会う子ごとに「ありがとうございました~」と言います。。こんなことを小学生ができるのね~
それでも今回の東北での小中学校での公演を通じて印象的だったのは、子どもたちがみ~んな能の舞台を楽しんでくれたことでした。『安達原』という選曲がまた面白かったのだと思いますし、それにはシテの力以上に間狂言の活躍が子どもたちの心を捉えたのだと思いますが、そういう啓蒙の方法は間違いではないでしょう。師家では公演の前1~2ヶ月の間に各学校を廻って事前のワークショップをして謡や運ビの稽古をしたり、紙芝居のような方法で『安達原』のあらすじを解説したり、努力も惜しまなかった事も成功の理由のひとつだと思います。ぬえも伊豆の子どもたちに教えているけれども、やっぱり舞台をただ見せるだけではなくて、体験してもらったり、彼らと一緒に楽しむ時間を共有することはとっても大切だと思いました。
ところで今回の公演で最後の公演地青森に行ったら、ちょうどリンゴがたわわに実っておりましたですね~。ぬえはリンゴ畑というものを初めて見ました。あんな大きなリンゴが木に真っ赤にたくさんなっていて、それが山一面に。。収穫直前だそうで、もう、空気までリンゴの香りがほのかに漂っています。あ~うらやましいほどキレイな場所ですね~
それから弘前市から見た雄大な岩木山。以前 ぬえは秋田県の大館に催しで行ったときに、翌日ひとりでレンタカーを借りて、十和田湖~奥入瀬渓谷~八甲田山~青森市~金木町を廻ったことがありました。そのときも東北の美しさに魅せられたのでしたが、岩木山だけは、この行程ではず~っと遠くにしか見えませんでした。へ~~、弘前からはこんなに近くに、巨大に見えるんだ! 金木から見た岩木山はもう少し違った形に見えたのだけれど、弘前市で会った友人・しらとさんによれば、弘前市からは「山の字の形」に見えるのだそうです。ふむふむ、なるほど。しらとさんは弘前出身で、まだパソコン通信時代のニフティ・サーブ(懐かしいっ)の邦楽フォーラムの会議室(ますます懐かしいっ)でお知り合いになった方で、東京でのオフ会(ナツカシ。。これは今でもそう言うのかな?)でも何度か楽しい日をご一緒に過ごさせて頂いたことがあります。考えてみればあの時 しらとさんは東京でのオフに青森から参加されていたのねえ。。
公演からはちょっと離れてしまうけれど、弘前で しらとさんに連れて行って頂いたライブハウス(!)で聴いた津軽三味線も、強烈な体験でした。太棹三味線ってあんなに大きな音なんだ。。もう耳が痛くなるくらい。あの強烈さには心動かされました。
それにしても ぬえには津軽三味線は不思議でした。ああいう超絶テクニックを追求する文化は、ぬえの感覚ではあまり日本文化にはないはずだが。。しらとさんの説明によれば、じつは津軽三味線は明治になってから生まれた、比較的新しいものなのだそう。なるほど明治という時代は、前述の通り日本人にとって価値の大転換機で、その勢いは能も旧時代の遺物とみなされて絶滅しかかったほどでした。でも一方、能の技法を取り入れて生まれた吾妻狂言が出現するなど、新しい時代の新しい文化を生み出そうとする熱烈な息吹が手当たり次第に模索された、そういう活気を呈していた時代だとも言えるわけで。津軽三味線も、そういう時代に生まれた、現代にも力強く生命を持つ新しい日本の文化なのでしょう。世阿弥が生きた室町時代だって、武家政権が初めて都に幕府を開いた、ある意味で日本人の価値観を変えた時期だったのかも。そういう時代に文化は新しい転換点を得るのかもしれませんね。
このときの演奏には三味線のソロ、合奏のほかに津軽民謡も歌われました。津軽民謡はずっと以前からあって、明治期に三味線が新境地を迎えてもその民謡は生き続け、三味線が民謡に合わせる形で新しい民謡の形にアレンジされた。。ぬえが理解したのはこういう感じですが、これで合っているだろうか。印象的だったのは、このとき民謡を歌ったおばあ。。いや、おかあさんが、しらとさんいわく、この人は私が小さい頃から知っている、有名な民謡歌手なんですよ、という説明。ん~~、まさにプロなんですね~~!!
ぬえらが学校に到着して、そうして公演準備をしているうちに小学校はお昼休みになります。さすがに準備中の体育館の中には入ってこないものの、トイレに行くなどの用事で体育館から出ると。。会う子がみ~んな「こんにちは~」と必ず挨拶をしてくれます。わけても、これも北秋田の小学校ですが、ここでは終演後に体育館から出ると、これまた会う子ごとに「ありがとうございました~」と言います。。こんなことを小学生ができるのね~
それでも今回の東北での小中学校での公演を通じて印象的だったのは、子どもたちがみ~んな能の舞台を楽しんでくれたことでした。『安達原』という選曲がまた面白かったのだと思いますし、それにはシテの力以上に間狂言の活躍が子どもたちの心を捉えたのだと思いますが、そういう啓蒙の方法は間違いではないでしょう。師家では公演の前1~2ヶ月の間に各学校を廻って事前のワークショップをして謡や運ビの稽古をしたり、紙芝居のような方法で『安達原』のあらすじを解説したり、努力も惜しまなかった事も成功の理由のひとつだと思います。ぬえも伊豆の子どもたちに教えているけれども、やっぱり舞台をただ見せるだけではなくて、体験してもらったり、彼らと一緒に楽しむ時間を共有することはとっても大切だと思いました。
ところで今回の公演で最後の公演地青森に行ったら、ちょうどリンゴがたわわに実っておりましたですね~。ぬえはリンゴ畑というものを初めて見ました。あんな大きなリンゴが木に真っ赤にたくさんなっていて、それが山一面に。。収穫直前だそうで、もう、空気までリンゴの香りがほのかに漂っています。あ~うらやましいほどキレイな場所ですね~
それから弘前市から見た雄大な岩木山。以前 ぬえは秋田県の大館に催しで行ったときに、翌日ひとりでレンタカーを借りて、十和田湖~奥入瀬渓谷~八甲田山~青森市~金木町を廻ったことがありました。そのときも東北の美しさに魅せられたのでしたが、岩木山だけは、この行程ではず~っと遠くにしか見えませんでした。へ~~、弘前からはこんなに近くに、巨大に見えるんだ! 金木から見た岩木山はもう少し違った形に見えたのだけれど、弘前市で会った友人・しらとさんによれば、弘前市からは「山の字の形」に見えるのだそうです。ふむふむ、なるほど。しらとさんは弘前出身で、まだパソコン通信時代のニフティ・サーブ(懐かしいっ)の邦楽フォーラムの会議室(ますます懐かしいっ)でお知り合いになった方で、東京でのオフ会(ナツカシ。。これは今でもそう言うのかな?)でも何度か楽しい日をご一緒に過ごさせて頂いたことがあります。考えてみればあの時 しらとさんは東京でのオフに青森から参加されていたのねえ。。
公演からはちょっと離れてしまうけれど、弘前で しらとさんに連れて行って頂いたライブハウス(!)で聴いた津軽三味線も、強烈な体験でした。太棹三味線ってあんなに大きな音なんだ。。もう耳が痛くなるくらい。あの強烈さには心動かされました。
それにしても ぬえには津軽三味線は不思議でした。ああいう超絶テクニックを追求する文化は、ぬえの感覚ではあまり日本文化にはないはずだが。。しらとさんの説明によれば、じつは津軽三味線は明治になってから生まれた、比較的新しいものなのだそう。なるほど明治という時代は、前述の通り日本人にとって価値の大転換機で、その勢いは能も旧時代の遺物とみなされて絶滅しかかったほどでした。でも一方、能の技法を取り入れて生まれた吾妻狂言が出現するなど、新しい時代の新しい文化を生み出そうとする熱烈な息吹が手当たり次第に模索された、そういう活気を呈していた時代だとも言えるわけで。津軽三味線も、そういう時代に生まれた、現代にも力強く生命を持つ新しい日本の文化なのでしょう。世阿弥が生きた室町時代だって、武家政権が初めて都に幕府を開いた、ある意味で日本人の価値観を変えた時期だったのかも。そういう時代に文化は新しい転換点を得るのかもしれませんね。
このときの演奏には三味線のソロ、合奏のほかに津軽民謡も歌われました。津軽民謡はずっと以前からあって、明治期に三味線が新境地を迎えてもその民謡は生き続け、三味線が民謡に合わせる形で新しい民謡の形にアレンジされた。。ぬえが理解したのはこういう感じですが、これで合っているだろうか。印象的だったのは、このとき民謡を歌ったおばあ。。いや、おかあさんが、しらとさんいわく、この人は私が小さい頃から知っている、有名な民謡歌手なんですよ、という説明。ん~~、まさにプロなんですね~~!!