フランス語をベースとしている点、短編ドキュメンタリー風の組み立て方、そして主要な登場人物が共通していること…この2本の16mmフィルムはおそらくひとつの統一された意志が通底して連作のように作られたのではないかとも考えられます。
それでは誰がこのフィルムを作ったのか。
鮒さんは、このフィルムに写っているエレーヌの夫君、マルセルなのではないか、という推測をかねて考えて ぬえに話してくれました。ぬえには、どうもフランスでの上映を意識して作られた映像…つまり商用として記録された映像であるように思えてならなかったのですが、いま、デジタル化された三保松原の「羽衣の碑」除幕式の映像と、東京・染井能楽堂で演じられた『羽衣』の映像とを並べて見ると、なるほど、商品として企画制作されたもの、というよりは、やはりもう少し記録映像的な性格の方が強いかな…とも思えてきました。
それではこれらのフィルムをマルセルが作らせたとして、目的はなんだったのでしょう。鮒さんはズバリ、亡き妻のために、その追想のために作らせたのではないか、と。なるほど…タイトル通り「Hommage à Hélène」なのですね。ぬえは先にこれを「エレーヌへのオマージュ」と直訳しましたが、この度出来上がったDVDを師家に納めるときに「エレーヌに捧ぐ」と訳を改めてみました。
そこで夫君・マルセルについて調べてみました。
エレーヌ・ジュグラリスはバレリーナで日本文化…わけても能に非常に興味を持ち、独学で能を学ぶと、とくに心酔した『羽衣』を題材に独自のバレエ作品を作って各地で公演し好評を博したこと、夫マルセルはジャーナリストで、妻が35歳の若さで亡くなったのち、わずか4ヶ月目に経済紙の記者として日本を訪れ、彼女の遺髪を携えて三保松原を訪れたこと、それが契機となって地元で運動が起こって「羽衣の碑」が建立されるに到ったこと…これらはすでにご紹介しました。
その後調べてみると、意外なことがわかってきました。
まず、エレーヌが能に関心を持ったきっかけが、そもそも夫・マルセルの影響であったらしいこと。これは確証は持てないのですが、のちに長く日本に滞在したマルセルは当時(1940年代)にすでに日本についてジャーナリストとしてかなりの知識を持っていたらしく、戦後には劇団を主宰して能の上演?を行ったこともある由。まあ、戦中戦後の頃の話ですし、ジャーナリストと実演家の若い二人が力を合わせて相乗効果として、少ない資料の上に想像力を補ってフランス人の眼から見た能というものを築き上げていった、と考えておきたいです。
この三保松原での『羽衣』の上演と、それに続いて、であろう染井能楽堂での同曲の上演以降は、とくに能と深い関係を持った形跡は ぬえには見いだせなかったマルセルですが、むしろ彼自身のその後の経歴に ぬえは興味を持ってしまいました。
マルセルは1922年生まれで、エレーヌよりも6歳年下でしたから、35歳で妻を亡くした当時はまだ30歳前後の若さです。それなのに、彼女の遺髪を携えて彼女の死後すぐに日本に駐在する記者となって来日したのですから、これは相当な敏腕であった証左なのでありましょう。
マルセルは1950年代に常駐的に日本に赴任し、以後1980年代のはじめに退職して帰国するまでの長きを日本で暮らしました。その間にベトナム戦争などの現地取材にも奔走、多くのスクープをぶちあげて、当時すでに極東地域のジャーナリストの「大物」として周知されていたようです。
それでは誰がこのフィルムを作ったのか。
鮒さんは、このフィルムに写っているエレーヌの夫君、マルセルなのではないか、という推測をかねて考えて ぬえに話してくれました。ぬえには、どうもフランスでの上映を意識して作られた映像…つまり商用として記録された映像であるように思えてならなかったのですが、いま、デジタル化された三保松原の「羽衣の碑」除幕式の映像と、東京・染井能楽堂で演じられた『羽衣』の映像とを並べて見ると、なるほど、商品として企画制作されたもの、というよりは、やはりもう少し記録映像的な性格の方が強いかな…とも思えてきました。
それではこれらのフィルムをマルセルが作らせたとして、目的はなんだったのでしょう。鮒さんはズバリ、亡き妻のために、その追想のために作らせたのではないか、と。なるほど…タイトル通り「Hommage à Hélène」なのですね。ぬえは先にこれを「エレーヌへのオマージュ」と直訳しましたが、この度出来上がったDVDを師家に納めるときに「エレーヌに捧ぐ」と訳を改めてみました。
そこで夫君・マルセルについて調べてみました。
エレーヌ・ジュグラリスはバレリーナで日本文化…わけても能に非常に興味を持ち、独学で能を学ぶと、とくに心酔した『羽衣』を題材に独自のバレエ作品を作って各地で公演し好評を博したこと、夫マルセルはジャーナリストで、妻が35歳の若さで亡くなったのち、わずか4ヶ月目に経済紙の記者として日本を訪れ、彼女の遺髪を携えて三保松原を訪れたこと、それが契機となって地元で運動が起こって「羽衣の碑」が建立されるに到ったこと…これらはすでにご紹介しました。
その後調べてみると、意外なことがわかってきました。
まず、エレーヌが能に関心を持ったきっかけが、そもそも夫・マルセルの影響であったらしいこと。これは確証は持てないのですが、のちに長く日本に滞在したマルセルは当時(1940年代)にすでに日本についてジャーナリストとしてかなりの知識を持っていたらしく、戦後には劇団を主宰して能の上演?を行ったこともある由。まあ、戦中戦後の頃の話ですし、ジャーナリストと実演家の若い二人が力を合わせて相乗効果として、少ない資料の上に想像力を補ってフランス人の眼から見た能というものを築き上げていった、と考えておきたいです。
この三保松原での『羽衣』の上演と、それに続いて、であろう染井能楽堂での同曲の上演以降は、とくに能と深い関係を持った形跡は ぬえには見いだせなかったマルセルですが、むしろ彼自身のその後の経歴に ぬえは興味を持ってしまいました。
マルセルは1922年生まれで、エレーヌよりも6歳年下でしたから、35歳で妻を亡くした当時はまだ30歳前後の若さです。それなのに、彼女の遺髪を携えて彼女の死後すぐに日本に駐在する記者となって来日したのですから、これは相当な敏腕であった証左なのでありましょう。
マルセルは1950年代に常駐的に日本に赴任し、以後1980年代のはじめに退職して帰国するまでの長きを日本で暮らしました。その間にベトナム戦争などの現地取材にも奔走、多くのスクープをぶちあげて、当時すでに極東地域のジャーナリストの「大物」として周知されていたようです。