ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能のひとつの到達点…『大会』(その11)

2011-05-08 01:37:36 | 能楽
前回の解説で、間狂言が退場したらすぐにお囃子方が「出端」あるいは「大ベシ」を打ち始めるかのように書いてしまいましたが、その前に一畳台と椅子の作物が大小前に出されます。椅子は紺地の紅緞を巻いた一人掛けのソファのようなもので、珍しい例だと思いますが、一畳台の上に最初から載せたまま舞台に出されます。

さて「出端」あるいは「大ベシ」の囃子で登場した後シテですが、釈迦に化けた天狗、という設定であることは周知ですが、さてその扮装をいかに表現するか、というところが、見どころの多いこの能の中でも最大の興味の一つでもあるわけで。(*^_^*)

で、ご存じのように、天狗の面であるところの「大ベシ見」の面の上に、釈迦の扮装たる「釈迦」の面を掛けている後シテの姿の写真をご覧になった方もあるのではないかと思います。がしかし、観世流では本来、『大会』の能の後シテが面を二重に掛けて登場することはありません。「釈迦」面を使うのは、観世流の場合ではもっぱら近来の演者の工夫によるものなのです。

今回の ぬえも「釈迦」面を掛けて出るつもりでおりますが、あくまでこれは先人の演者の工夫の踏襲であって、観世流としては「釈迦」面は用いないのが本来であることを申し添えておきたいと存じます。

同じように、じつはこの能には、使用する面に限らず、近来いろいろな工夫が試みられております。それらの中には ぬえもそのやり方で上演を予定していながら果たせなかったこともあり、また今回は ぬえがさらに工夫を発展させて試みてみる事もあります。『大会』には「恩返し」が「仇」となってしまった、という問題提起もないわけではないのですが、この種の能は深い心理描写を追求するような重い能とはまた違った方向性を持っていて、虚構であることを最大限に生かした、ある種 純粋な舞台芸能としてこの世に生み出された曲であるような気がします。…それが能にとって あるべき道なのかは別の議論だと思いますが、こういう能ではお客さまに解りやすく、楽しんでご覧になって頂く事がそもそも能の作者の意図のひとつでありましょうし、それに応える方向での演者の工夫の積み重ねが試され続けています。『大会』という能は頻繁に上演される曲ではありませんけれども、上演される度に演出に工夫が加えられ続けている希有な能で、その意味で、ぬえは『大会』を、重いテーマを持った能とは正反対に位置づけられる一連の能の中で、ひとつの到達点を示すものではないか、と考えていまして、それをこのブログでのタイトルとさせて頂きました。

さて、そのように様々な演出上の工夫が試みられる『大会』ですが、お客さまにとっては どの部分が観世流の本来のやり方であって、どこが工夫なのかを見分けるのは難しいので、当ブログではとりあえずその「本来」の演出に沿って解説させて頂いております。近来の、そして ぬえの工夫は後でまとめてご紹介させて頂くこと致しますね~

…そういうわけで、釈迦に扮した天狗の装束ですが、観世流大成版謡本の前付けでは次のように書かれています。

面―大ベシ見、赤頭、赤地金緞鉢巻、大兜巾、大会頭巾、襟―紺、着付―段厚板、半切、袷狩衣大水衣重ネル、縫紋腰帯、掛絡数珠経巻、羽団扇、物着ニ被衣

要するに天狗の装束の上に釈迦の装束を重ねて、あとで舞台上で一気に早変わりする、というのがこの曲の見どころのひとつなのですが、上記のうち赤字で記したものが天狗の装束を覆い隠すために重ね着する釈迦の装束です。前述のように観世流では「釈迦」面を使う、という選択肢はないのが本来です。要するに天狗の面(大ベシ見)ひとつで釈迦の姿も表現しよう、という演出で、そう見えるかどうかは役者の芸力にゆだねる、ということですね。(×_×;)

ところが ぬえの師家の装束付けはまたちょっと違うんです。これがかなり衝撃的。

面―大ベシ見、赤頭、大兜巾、大会頭巾、襟―紺、段厚板、半切、袷狩衣、上ニ大水衣ヲ重ネルモ、縫紋腰帯、掛絡ナシニモ、数珠、経巻、羽団扇、物着ニ被衣(無地熨斗目)

大成版の前付けとほぼ同文であるように見えながら、なんと天狗の装束である狩衣を覆い隠す大水衣を重ねて着るのは「重ネルモ」と「替」の扱いです(!)。掛絡についても「ナシニモ」という記述。もしどちらも使わなかったとしたら、天狗の装束を隠すのは、赤頭を覆うような大きな「大会頭巾」だけという…(!!)

…なるほど、ここまで来ると本来の演出の意図も見えてきました。役者の「芸力」で天狗の姿を釈迦に見せる…まあ一面にはそういうこともあるでしょうが、顔を頭巾で顔を覆っただけで天狗の姿がバレバレなのに、一生懸命 釈迦の威厳を演じようとする、その面白さを狙っている、という面も見逃してはならないでしょう。そういえば間狂言も紙で作った衣を着て賓頭盧に化ける、と言っていましたっけ。こう考えてくるとあの間狂言の言葉は、『大会』の演出意図と一致しているかもしれません。ひょっとすると能と同時に成立した本文がそのまま伝えられていたり、極端に考えれば、能の作者がこの間狂言の詞章を同時に作ったのかもしれません。