ぬえの能楽通信blog

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三位一体の舞…『杜若』(その9)

2024-06-01 12:30:28 | 能楽
地謡「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住み所求むとて。東の方に行く雲の。伊勢や尾張の海面に立つ波を見て。いとどしく過ぎにし方の恋しきに。羨ましくも。かへる浪かなとうち詠めゆけば信濃なる。浅間の嶽なれや。くゆる煙の夕景色。
シテ「さてこそ信濃なる。浅間の嶽に立つ煙。
地謡「遠近人の。見やはとがめぬと口ずさみなほ遙々の旅衣三河の国に着きしかば。


クセは長大でシテが謡う「上羽」が二カ所ある二段グセ。序破急の原則により最初は静かに謡い出す地謡も次第に速度を上げ、最後はかなり急調になります。そのあとに序之舞になるのはほかに「二人静」「千手」に例がありますが、急調の謡からグッと位を静めて序之舞の位に持ち込むのは難しいところです。もっともこの三曲のうち太鼓が入るのは「杜若」だけで、太鼓序之舞に特有のコイ合一クサリを聞いてからシテが謡い出す一種の場面転換のような間があるし、そもそも太鼓序之舞は大小のそれよりやや位が軽くなるので、いくぶんやりやすいかも。

この「クセ」の最初の方の文言は、「伊勢物語」の中のいわゆる「東下り」と呼ばれる第七段~十五段にまで連なる一群の章段が語られ、三河国八橋の杜若の物語がある九段も当然そこに含まれ、都を離れた「昔男」が三河に到着するまでの足跡を綴ったものです。

「伊勢物語」で「昔男」がなぜ「東下り」をしたのかは古来議論があるところで、「東下り」の直前の第六段が「鬼一口」で有名な、業平が藤原高子を盗み出して芥川を渡り、雷や雨を避けてあばら屋の蔵に女を隠し置いたところ女が鬼に食われた、という章段であるために、恋人を失った男が失意のあまりに都を去った、と一般には読まれています。

しかしながらこの第六段では盗み出した女を隠したところ鬼に食われたという本文に続けて、あたかもその注釈のように「これは二条の后の。。」と女が高子であり、鬼に食い殺されたというのは高子の兄、藤原国経・基経の二人が逃避行の後を追って高子を取り返したのだ、と書かれているのですが、これは現在ではこの部分は後補であろうと考えられています。このことはは「伊勢物語」についての根源的な謎。。作者は誰なのか、「昔男」とは本当に業平のことなのか、という疑問への回答と密接に結び付いていますね。

能「杜若」は九段の主人公が業平である(そしてその本性は菩薩である)ことを前提に書かれているから、このブログで「伊勢物語」の作者論や主人公の同定などはあまり意味をなさないのですけれども、ちょっと気になる論考を見たので少々そのご紹介をさせて頂きます。

古来「伊勢物語」の作者については、業平自身にそれを見る説や三十六歌仙の伊勢が作者でありその名前が作品名になったという説などがあります(一方 六十九段に描かれる伊勢斎宮との逢瀬が原拠となっているという説もあり)。

また一方、業平が主人公とした場合も官職を持った人物が政務を放棄して「東下り」をするということがあり得るのか、いや、高子を盗み出したために官職を止められたためにそうなったのだろう、とも議論されてきました。

さらに別の意見では、業平は一般的な見方による醜聞により出世コースからはみでた人物像とは違って、実際には官職についてはそれほど不遇ではなかった、とも言われ、それは能「松風」に描かれる兄・行平ともまた同様である、とのこと。

混迷を極める問題ですが、ぬえは、ここで国文学研究者の片桐洋一氏の説に注目しました。いわく「伊勢物語の作者は業平自身で、そこに書かれた話は事実ではないが、自身の女性との経験を脚色し、殿上人との会話の中で育っていったものであろう(大意)」。

「伊勢物語」の作者が業平自身、という説があるのは知っていましたが、文学的には素人である業平が物語を書く、という考え方自体に ぬえは疑問を持っていました。が、貫之が「土佐日記」を著した例もあるのだし、平安初期の人物像は 私たちの常識では計り知れないものです。もう証拠も見つかる可能性が低い現在では、なるほど、こういう考え方も可能性としてはあるかも。

さて能に戻って、「東下り」の原因は能の作者にとっても難しかったのか、「杜若」では業平の栄光に満ちた元服に続けて「然れども世の中の。一度は栄え。一度は。衰ふる理の誠なりける身のゆくへ。住み所求むとて。東の方に行く。。」と、理由は示さないものの生死流転の仏教的な無常観によって主人公は都をさ迷い出たように描かれます。

「いとどしく。。」は「伊勢物語」七段で伊勢と尾張の境で都を懐かしんだ歌、「信濃なる 浅間の嶽なれや」は八段の歌。「伊勢物語」では続く九段が八橋の唐衣の歌なのだから、「伊勢物語」に沿って業平が都落ちをするその経緯を順に紹介して、さて三河に到着した、となるわけです。

こゝぞ名にある八橋の。沢辺に匂ふ杜若。花紫のゆかりなれば。妻しあるやと思ひぞ出づる都人。

ここまでの所、型としてはクリからサシにかけて不動で、サシの終わりにユウケン扇をし、「衰ふる理の」と足拍子をひとつ踏んでからようやく動き出しますが、型はサシ込ヒラキ、角トリ、中に戻って再びサシ込ヒラキ、打込、上扇、大左右。。と定型の型が続きます。サシの終わりのユウケンは「羽衣」にもありますがここでこの型をするのはどちらかといえば珍しい型で、「羽衣」と「杜若」を比べてみれば続くクセの内容がめでたい曲で行われる傾向があるようです。

また「伊勢や尾張の海面に立つ波を見て」とサシ廻シをして海の波を見るのと「浅間の嶽なれや」とヒラキながら正面の上を見上げるのが具体的に意味を持った型といえるでしょう。

ぬえは思うのですが、「杜若」を含む詩的で情緒的な能。。鬘能の多くは、このように意味を持たない型が連続して、ところどころに意味がある型が散りばめられている程度という印象があります。これはある意味もっともなことで、喜びや悲しみ、また懐かしい思い出の追憶などシテの感情が地謡によって語られるとき、シテは具体的な型をすることは難しいと思います。むしろそこから能の作者が生み出した究極の演技が「動かない」ことなのであって、その意味ではシテが座ったきり動かない居グセは最大の効果を狙って成功した偉大な発明と ぬえは考えます。

たとえばシテが生前に受けた苦しみを八人の男性の地謡が力を込めて表現する場合、その一方シテは動かない。。これはただ座っているのではなくて、地謡の謡う内容を表現しているのであって、地謡と心を合わせて「力を込めて」座っているのです。そうすると木彫の能面が表情を変えることはないはずなのに、地謡が謡うシテのつらい経験を反芻して、心は後悔や憎しみに燃え上がりながらもじっと耐えているように見えるのですよね。こうすることによって観客がシテ自身の気持ちに同調してまるでシテ本人になりきって同じ苦しみを共有することができる。。動かない演技、心の中での演技がお客さまに伝わることは ぬえも何度も経験しているところです。現代のスピード社会の中ではなかなかそこまでお客さまの理解は得られにくいとは思いますが。。                         (続く)