ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ただいま休暇中。。イシダイ釣れました~

2008-10-31 12:54:21 | 雑談


ぬえは只今 久しぶりの休暇中で、茨城県は鹿嶋市におります~

もう今年はいつまでも気温が下がらないで、いまだに ぬえは申合や稽古の際は単衣の着物を着ていましたが、さすがにこの数日でぐっと気温が下がったようですね。茨城は東京よりもまた少し気温が低いので、夜は寒いです~。これで東京に戻ったら、ようやく着物も袷に替えられそうです。11月になってからの衣替えとは。。やっぱりヘンな気候ですね~。。

で、昨日は久しぶりに鹿島港の堤防で釣りを楽しみました。ちょっといろいろとやる事もあったので、始めたのは午後3時頃になっちゃいましたが。。まだ寒くてつらくなるほどの季節までは間がありますが、今年はたぶんこれが最後の釣りだろうなあ。。鹿島港の周辺では、最近 風力発電が盛んに行われていて、堤防からも遠くに風力発電機のプロペラが林立しているのが、なんとも不思議な光景です。ああ、晴れてよかったね~



先行の釣り人はみ~んな外海の方へ竿を出していますが、ぬえは港内の方へ。。じつはここ、ぬえの穴場ポイントなんです。まずはサビキで魚をおびき寄せると。。ををっ、集まってくる~。。小魚ばっかりが。。(T.T) あとは。。をっ? カワハギが1匹さかんにエサを突っついています。。こいつは ぬえの腕ではまず釣れない。。

次に投げ釣りを試してみましたが、この夏に大きなスズキが釣れたので、そのあたりを目がけて何度か投げても、手応えはなし。。で、ああでもない、こうでもない、と投げていたら。。

なんと! イシダイが釣れました~! ちっちゃいけど。



宿に戻ったのですが、ん~、元気に泳いでいるのを見るとやっぱり さばくのは忍びない。。結局 翌朝には死んでしまっていたので朝食の塩焼きとなりました。。南無。。おいしゅうございました。。

休暇とは言っても、じつは貯めにため込んだ事務仕事が山をなしていますので、それを今日・明日とやってしまうつもりです。だから今回は本をたくさん持ち込んで来ていて。。あ~、大変なんです~。それでも今日は鹿嶋神宮に詣でようと思っておりますが。神様、どうかお力をお貸しくださいまし~~。。゛(ノ><)ノ

東北公演、その後(その7)

2008-10-30 14:12:24 | 能楽
それからまた、今回の子どもたちの礼儀の正しかったこと!

ぬえらが学校に到着して、そうして公演準備をしているうちに小学校はお昼休みになります。さすがに準備中の体育館の中には入ってこないものの、トイレに行くなどの用事で体育館から出ると。。会う子がみ~んな「こんにちは~」と必ず挨拶をしてくれます。わけても、これも北秋田の小学校ですが、ここでは終演後に体育館から出ると、これまた会う子ごとに「ありがとうございました~」と言います。。こんなことを小学生ができるのね~

それでも今回の東北での小中学校での公演を通じて印象的だったのは、子どもたちがみ~んな能の舞台を楽しんでくれたことでした。『安達原』という選曲がまた面白かったのだと思いますし、それにはシテの力以上に間狂言の活躍が子どもたちの心を捉えたのだと思いますが、そういう啓蒙の方法は間違いではないでしょう。師家では公演の前1~2ヶ月の間に各学校を廻って事前のワークショップをして謡や運ビの稽古をしたり、紙芝居のような方法で『安達原』のあらすじを解説したり、努力も惜しまなかった事も成功の理由のひとつだと思います。ぬえも伊豆の子どもたちに教えているけれども、やっぱり舞台をただ見せるだけではなくて、体験してもらったり、彼らと一緒に楽しむ時間を共有することはとっても大切だと思いました。

ところで今回の公演で最後の公演地青森に行ったら、ちょうどリンゴがたわわに実っておりましたですね~。ぬえはリンゴ畑というものを初めて見ました。あんな大きなリンゴが木に真っ赤にたくさんなっていて、それが山一面に。。収穫直前だそうで、もう、空気までリンゴの香りがほのかに漂っています。あ~うらやましいほどキレイな場所ですね~

それから弘前市から見た雄大な岩木山。以前 ぬえは秋田県の大館に催しで行ったときに、翌日ひとりでレンタカーを借りて、十和田湖~奥入瀬渓谷~八甲田山~青森市~金木町を廻ったことがありました。そのときも東北の美しさに魅せられたのでしたが、岩木山だけは、この行程ではず~っと遠くにしか見えませんでした。へ~~、弘前からはこんなに近くに、巨大に見えるんだ! 金木から見た岩木山はもう少し違った形に見えたのだけれど、弘前市で会った友人・しらとさんによれば、弘前市からは「山の字の形」に見えるのだそうです。ふむふむ、なるほど。しらとさんは弘前出身で、まだパソコン通信時代のニフティ・サーブ(懐かしいっ)の邦楽フォーラムの会議室(ますます懐かしいっ)でお知り合いになった方で、東京でのオフ会(ナツカシ。。これは今でもそう言うのかな?)でも何度か楽しい日をご一緒に過ごさせて頂いたことがあります。考えてみればあの時 しらとさんは東京でのオフに青森から参加されていたのねえ。。

公演からはちょっと離れてしまうけれど、弘前で しらとさんに連れて行って頂いたライブハウス(!)で聴いた津軽三味線も、強烈な体験でした。太棹三味線ってあんなに大きな音なんだ。。もう耳が痛くなるくらい。あの強烈さには心動かされました。

それにしても ぬえには津軽三味線は不思議でした。ああいう超絶テクニックを追求する文化は、ぬえの感覚ではあまり日本文化にはないはずだが。。しらとさんの説明によれば、じつは津軽三味線は明治になってから生まれた、比較的新しいものなのだそう。なるほど明治という時代は、前述の通り日本人にとって価値の大転換機で、その勢いは能も旧時代の遺物とみなされて絶滅しかかったほどでした。でも一方、能の技法を取り入れて生まれた吾妻狂言が出現するなど、新しい時代の新しい文化を生み出そうとする熱烈な息吹が手当たり次第に模索された、そういう活気を呈していた時代だとも言えるわけで。津軽三味線も、そういう時代に生まれた、現代にも力強く生命を持つ新しい日本の文化なのでしょう。世阿弥が生きた室町時代だって、武家政権が初めて都に幕府を開いた、ある意味で日本人の価値観を変えた時期だったのかも。そういう時代に文化は新しい転換点を得るのかもしれませんね。

このときの演奏には三味線のソロ、合奏のほかに津軽民謡も歌われました。津軽民謡はずっと以前からあって、明治期に三味線が新境地を迎えてもその民謡は生き続け、三味線が民謡に合わせる形で新しい民謡の形にアレンジされた。。ぬえが理解したのはこういう感じですが、これで合っているだろうか。印象的だったのは、このとき民謡を歌ったおばあ。。いや、おかあさんが、しらとさんいわく、この人は私が小さい頃から知っている、有名な民謡歌手なんですよ、という説明。ん~~、まさにプロなんですね~~!!

東北公演、その後(その6)

2008-10-28 02:08:16 | 能楽
え~~、お話が東北公演からかなり脱線してしまいました。。いつもの事かもしれませんですが。。

考えてみれば、もう東北公演から帰ってから1週間以上が経っているんですね~。それからの ぬえは、師家の稽古能、申合に続いて師家の月例公演、伊豆および千葉での能楽講座、さらには自分のお弟子さんの稽古とおさらい会、と、息つく暇もない多忙さでした。明日もまた学校公演があるんですが、それが終われば本当に久しぶりに数日間お休みを取ることができました。ちょっと海のそばで のんびりしてこようと思います。。

そんなわけで、中尊寺 金色堂拝観から話題がそれて、師家の戦前の舞台の跡地の調査の話にまで飛んでしまいましたので、ここらで軌道修正して。。

中尊寺に参詣して、その日の午後には一関市立長坂小学校にお伺いして能楽公演を行い、終演後は秋田県の大館市に移動して投宿しました。この移動距離はハンパではなかったです。なんせ岩手県の南端から秋田県の北端への移動。。それでも先日の北海道での札幌~帯広への移動よりは、高速道路が結んでいる分ずいぶん楽だったかなあ。北海道は残念ながら交通網などインフラの整備が遅れていますね。。経済発展の阻害ともなるだろうし、一刻も早く手を差し延べてあげて頂きたいと思います。。

ところが岩手から秋田への長い道のりは、本当に印象的でした! 東北高速道をひたすら北へ進んでいくうちに日は暮れ。。すると、ぬえら能楽師一行を乗せたバスの車窓からは、左手に雄大な岩手山の偉容が聳え、方や右の車窓の向こうには、見事な満月が昇ります。。こんな幻想的な光景を ぬえは久しく見たことがない。。深山幽谷。。まさに山姥がひょっこりと顔を見せそうな、そんな光景でした。

翌日は北秋田市立鷹巣東小学校の、モダンで明るい体育館での公演、そして終演後は青森県の弘前市へ移動。青森では平川市立竹館小学校で最後の演能を行い、青森空港から帰京いたしました。

これら小学校での公演は、いや~~面白かったですよ! 上演曲『安達原』の鬼女と山伏の戦いの場面では、子どもたちもワキのまねをして数珠を揉む仕草をしていたり、大歓声はあがるわ、今回は師匠がシテを勤められましたが、あ~ ぬえもこういう場所でずっと能を舞っていたいわ~。

それから、この3つの小学校では、終演後の質疑応答で、小学生にしてはかなり高度な質問が出ていたのも印象的でしたね。いわく「そういう声を出すのには何年かかるのか」「その楽器はどれぐらい古いもので、価値はどれほどなのか」。。ここまで来ると大人と一緒。

それから、秋田の小学校での公演では、参観しておられた地元の方の一人が終演後に居残られて舞台設営のスタッフに能について質問をされたようです。スタッフの方は すぐに ぬえに声を掛けてくださって、ぬえがそのご質問にお答えさせて頂きましたが、なんと言うか、うれしい展開ではありました。ぬえは公演旅行中にスタッフの方とも一緒に飲みに行ったりして、その場では ぬえも能楽論を熱く語っていましたから、スタッフの方もお客さまからの質問を すぐに ぬえに回してくださったのでしょう。だんだんとスタッフの方とも一体化していく感じがよいな~ と率直に思いましたですね。そしてまた秋田のこのお客さまも、貪欲に能の中に文化を発見をして、それを吸収しようとしておられる。頭が下がることです。

東北公演、その後(その5)

2008-10-26 12:47:50 | 能楽
すみません、ちょっと更新が滞りました。。

益田鈍翁の写真を美術雑誌に見つけた ぬえは、早速、その出版社に電話を掛けて事情を説明して、その写真を ぬえの師家の機関誌『橘香』(きっこう)に転載する許可をお願いしてみたところ、お答えは、その写真の所有者に直接許可を求めるように、ということで、銀座のある画廊を紹介されました。

で、今度は画廊に電話を掛けて、お邪魔してご挨拶させて頂き、その場で写真の転載をお願いすることにしました。今考えれば突然の電話でお願いごとばかり。よくまあ無礼なことができたと思います。その時は ぬえはまだ書生をしていて、月刊の機関誌の発行も重要な責任がありましたし、自分の好きな調査のことで熱が入っていた事もあったでしょう。画廊にはおみやげのお菓子ぐらいは持参したと思いますが、なんとも無鉄砲な闖入者ではあったと思います。。

さて画廊の社長さんにお会いして、ぬえがいま師家の「高輪舞台」について調査していること、その舞台や、そこでの演能活動には益田鈍翁の多大な後援があってこそ維持されてきたことなどをお話し、鈍翁について『橘香』誌に記事を書き、そこに美術雑誌で見つけた鈍翁の写真を転載したいことをお願いしました。

社長さんは興味を持って ぬえのお話を聞いてくださり、写真の転載許可もすぐに承諾してくださいました。ところが、その写真のオリジナルの拝借を熱っぽくお願いすると。。現物はどこにあるかわからない、見つけ出すには時間が掛かるし、そんな時間もない、とのこと。「だいたい、私はアンタとは何の関係もないんだしね~」笑って答えられたが。。そりゃそうでした。(・_・、)

でも社長さんは ぬえがお見せした美術雑誌の鈍翁の写真をお目に掛けると「ほおっ、これは良い写真だねえ」と相好を崩されて。そして「よしっ」とおっしゃると、こう続けられました。「先ほども言ったように、写真の現物を見つけだす事はできない。だがこの雑誌に写真が載っているからには、編集部に写真のコピーがあるのだろう。それを編集部に言って借り出して使いなさい。もしも貸さない、と編集部が言ったら、それならば今後は編集部に資料を貸し出すなどの便宜はしない、と私が言ったと言いなさい」

ちょっと過激な。。でも、とっても嬉しいお言葉でした。男気っていうのかな。ぬえはとっても感動したのでした。

結局、美術雑誌の編集部としても部外者に資料を貸し出すのには難しい問題もあるでしょうし、ご迷惑にもなる。。画廊の社長さんとお話をした ぬえは、ようやく、自分の行動が身勝手な面もあるのだと気がついたのでした。そこでぬえは編集部に電話を掛けて、画廊の社長さんとお話をして、写真の使用は許可を頂いた事は申し上げましたが、写真自体は編集部から借り受けるのではなく、雑誌の誌面をコピーして転載させて頂きたい、とお願いしました。この許可はすぐに頂けて、そうして、雑誌誌面からの転載、という形で師家の機関誌『橘香』に鈍翁の写真入りの記事を書くことができた、というわけです。

もう、ずいぶん前の話になりますが、いろいろな方の好意。。師家のご家族や門人、図面を引いてくださった建築家、高輪舞台の跡地にお住まいになっておられる住民の方、雑誌の編集部、画廊の社長さん。。こういった方々のお気持ちがあって、記事が書けたし、また大仰に言えば後世に残す資料ができたのだと思います。

東北公演、その後(その4)

2008-10-23 01:56:40 | 能楽
師家の戦前の活動の本拠地である「高輪舞台」の調査は、つぎに当時のお舞台を知る方への聞き取り調査へと進みました。

すなわち、間取りや建具の配置、その部屋がどのような使われ方をしていたのか、などを、師家の大奥様やご家族、門下の大先輩、それから長く師家でお稽古をされておられるお弟子さまなどに集まって頂いて、座談会のような形で思い出して語って頂いたのです。やはり数十年が経過していると記憶も曖昧だったりで、ここは座談会にしてみなさんで話し合って頂くのは正解だったと思います。また、面白いもので、やはりこの家で書生修行をされておられた先輩の方が、ご家族より細かい点まで覚えておられたりしますね。これは当然で、毎日掃除をしたり、催しがあれば家具を片づけて座布団を並べたり、と、住み込みで修業をしながら家の隅々にまで気を配って仕事をしていたからです。お気持ちはよくわかります。。

さてそうして大体の見取り図が出来上がったところで、今度は ぬえはその見取り図と、高輪舞台が写り込んだスナップ写真などの資料を持って建築士さんを訪ねました。「高輪舞台」の正確な平面図を描いて頂くためで、ここでも面白い経験ができました。

座談会の結果できあがった、記憶による見取り図を見て建築士さんは、やっぱりプロですね。それでも起きる記憶違いを次々に指摘していきます。「ここに柱があったはずだ。そうでなければ建物全体の強度が保てない」「こういう造りであれば、普通は扉はこちらの方に開くはずだが。。」そしてスナップ写真を見て納得したご様子でひと言。「この家は増築していますよ。だから見取り図に不自然なところがあるんだ」そう言われてお庭から母屋に向かって撮影されたご家族のスナップ写真をあらためて見てみると。。なるほど、1階と2階とでは柱の位置がズレていたりします。「外から見たここがズレているのならば、内部のこのあたりの柱は2階まで通してあるはずだが。。ははあ、これだな」。。こうして建築士さんによって、合理的な平面図が出来上がりました。

この時に作り上げた平面図のオリジナルは、まだ ぬえの自宅にしまってあります。そして図面そのものは、たしか先代の師匠のお追善能のときに配られたプログラムと、それから師家で発行している機関誌『橘香』(きっこう)に掲載しました。これも ちゃあんと計算があってのことで、刊行物に掲載しておけば国会図書館やいくつかの大学図書館に収蔵されるので、それによってこの図面が資料として後世に残ることを期待したのです。

あ、そういえば その『橘香』誌には ぬえが「高輪舞台」の調査記録を連載したのを思い出した。この時も面白いことがありました。

前述のように戦前の師家の「高輪舞台」は、茶人としても有名な益田鈍翁さんに頂いたお家だったのですが、『橘香』誌に鈍翁のことを紹介しようと考え、鈍翁の写真を載せようと思ったのですが、はて師家で写真アルバムがまとめてしまってある納戸をいくら探しても発見できません(ぬえはこういう調査や研究が好きだったもので、それを見た先代の師匠から、師家の納戸の所蔵品を自由に調べてかまわない、というお許しを当時頂いていました)。

これには困ったのですが、たまたま当時 ある美術雑誌に鈍翁の写真が掲載されたのです。それは小田原の邸宅のお庭を散策される翁の、なんとも趣のある写真でした。さっそくその美術雑誌の編集部に電話を掛けて事情を説明し、鈍翁の写真の転載許可を求めました。。が、事態はどうも思わぬ展開をしてゆくのでした。

東北公演、その後(その3)

2008-10-22 02:14:58 | 能楽
前述の 師家の高輪のお舞台ですが、残念ながら戦災で焼失してしまいました。ぬえの師家の月例会「梅若研能会」は、この高輪舞台の舞台披キを起点にして数えておりまして、その舞台披キが昭和3年。。戦争で焼けた時期を思えば20年にも満たない短い間しか建っていなかったのですが、著名な初世梅若万三郎の数々の名演(。。と語り継がれているものを ぬえは聞くだけですけれども。。)が上演された舞台と思えば感慨も深く感じます。舞台自体は現存しないけれども、研能会は来年で創立80周年を迎える事となりました。

そして、もうかなり以前になりますが、ぬえがまだ書生をしていた頃、この高輪の舞台の跡地がどうなっているのか、実地踏査を試みたことがあります。

まずは高輪舞台の写真やら資料を集めまして、舞台のおおよその平面図を思い描いて。それから古い住所を頼りに芝・増上寺の近くの「みなと図書館」を訪れて古地図と住所照らし合わせて。大体の場所の見当をつけてはじめて高輪の地に向かったときには。。そこに建つ巨大なソニー本社ビルを見つけて、ああ。。これはもう。。ダメだ。。と落胆しました。これじゃあ跡形もないわね。

高輪のその地は、小高い山になっています。もうほとんど諦めムードでビルの間をかきわけるようにして「山頂」へ向かうと。。なんと古い煉瓦塀の片鱗が残っています。ええっ!?という感じであたりを調べてみると。。その「山頂」部分には、都心の一等地だというのに、個人のお宅が建っていて、そこには広い芝生のお庭も見えます。そしてそのお庭には。。写真で見た高輪舞台の二階建ての装束蔵が、そのまま建っていました。。

もう興奮状態の ぬえは、後先も考えずにそのお宅のチャイムを鳴らして応答を待ちました。

するとちょうどご主人がご在宅で、ぬえの呼び掛けに応じて出て来られました。ぬえは自分が梅若家の門人であること、師家の高輪舞台の踏査を続けていて、偶然にお蔵を発見したことなど事情をお話しましたところ、ご主人は快くお宅に招じ入れてくださいました。

ご主人いわく、かつてこの所に能楽師の家があった、ということは、ここに住んで以来聞いてはいました、とのこと。お蔵は当時からのままで、取り壊しには莫大な費用がかかるので、倉庫代わりに使っておられるのだそう。ぬえが自分で調べた舞台の特徴をお話申し上げると、なんとお蔵のほかにも、かつて母屋から舞台に至る太鼓橋のたもとにあった井戸まで現存しているそうです。

早速 ぬえは拝見を所望して、井戸やお蔵を実際に見る事ができました。

お蔵は煉瓦造りの二階建てで、二階の中央部には二畳分くらいでしょうか大きな穴が開けられています。これは演能の際には二階の天上に据え付けた滑車を利用して二階に所蔵してある装束類を下に下ろすために使われたのです。そういう能楽師の家のお蔵ならではの造作を別にしても、じつに堅牢な造りのお蔵でした。。そういえば、この高輪舞台の調査を始めてすぐに、高輪舞台を記憶する人々にその思い出を語って頂いたのですが、現・師匠のお姉さんにあたる方が ぬえに仰ったことには、「戦争で、まだ幼い私たちは疎開していたのよ。ようやく戦争が終わって、汽車で東京に帰ってみると。。そこは一面焼け野原だった。。でも汽車が品川駅に近づいたとき、車窓から小高い高輪の山の上に、見慣れた煉瓦造りのお蔵がそのまま残っているのを見つけたの。その時の感激は忘れられない」。。重い言葉です。

こうして、歴史の中で偶然にも残ることもある。。なんだか話題が脱線していますが、もう少しお付き合いのほど。。

東北公演、その後(その2)

2008-10-21 08:06:14 | 能楽

日本でも明治時代に現実に起こった、中国の文化大革命並みの文化財破壊運動。忘れてはなりませんですな。

形のあるものとして文化財が失われたほかに、程度の違いこそあれこの時代には同時に技術も失われたのです。能面を打つ世襲の家~出目家はここで断絶し、近代の新しい面打ちが登場するのは明治末期のことです。鈴木慶雲や中村直彦ら明治生まれの能面作家が当初仏師を志していたり、仏像彫刻をいくつも制作していたのに能面作家に転身したのは、当時の風潮を考えなければ正当には評価できないでしょう。そして明治期の能面は、失われた技法の再発見のための研究期間でもあったのか、概してあまり評価できる作品には乏しいのが現実です。本当に能面として舞台に使える面が多く登場するのは、大正期以後のことだと ぬえは思いますですね。

そしてまた、大正時代には近代的な文化財修復も積極的に始められたように思います。冒頭の画像は ぬえ所蔵の『平家納経』のレプリカです。『平家納経』は言わずと知れた平清盛によって厳島神社に奉納された豪華この上ない装飾経で「国宝の中の国宝」と称されるものですが、大切に扱われてきたとはいえやはり時代による損傷は避けられず、その修復と、田中親美氏による精巧な複製が作られたのが大正時代なのです。ぬえの所蔵品はその田中氏の制作になる複製品をさらに現代に写したもので、内容こそ印刷ではありますが、軸などの工芸になる部分は、ため息が出るほど美しい。。ま、死蔵していてもつまらないので、ぬえはこの『平家納経』を伊豆の薪能の「子ども創作能」の小道具として、毎年舞台に出しております。

ほかにもいくつか例はあると思うのですが、このように古い時代の文化財や建築に、科学的な方法で修復を施されるようになった時代の嚆矢が大正期だったように思います。ここから戦争が始まるまでの昭和初期という時代は、まさに古美術や文化財にとっては幸せな時代だったでしょう。失われかけた職人の技術も復興して、前述したように良い近代の能面も大正時代から現れてくるようになります。

。。それはつまり、その時代に、そういった古美術や文化財に目を向け、それを愛で、保存するために財力を投じることを厭わなかった財閥やパトロンが多く輩出した時代でもあったわけで。

面白い話ですが、ぬえの師家で所蔵の能面や装束を失った原因は、明治維新の時代はいざ知らず、近い時代では戦争がその原因ではなかったそうです。その大きな原因はやはり関東大震災だったそう。。それはなぜかというと、戦争では貴重品はあらかじめ疎開できたけれど、突然訪れた地震の被害には対処する方法がなかった、のだそうです。

ところが、師家では失った能面や装束はすぐに補填されました。それは強大なパトロン(ぬえの師家では三井家や、その大番頭さんであった益田鈍翁さん)が、能が廃れる事を惜しんで援助を与えたのです。ぬえの師家は戦前には品川の高輪の高台(現在のソニー本社ビルが建っているあたり)に居宅がありましたが、そこは母屋と舞台が別棟で建ち、その舞台は二階建てで当時は珍しい観客用の食堂まで備えていました。母屋からは太鼓橋を渡って舞台に至るという豪勢さでしたが、その建物はこのようなパトロン(たしか益田さん)から頂いたもの(!)なのだそうです。高輪という土地は三井家のお屋敷のすぐそばで、師家では近所に出かけるような気軽さで三井家に謡や仕舞のお稽古に通われたんだとか。

ん~、気持ちは複雑なものもありますが、民主主義の中からは生まれてこないもの、ってのも確かにあります。それは日本文化の中で咲いた花であっても、一面では毒を持った花、という見方もできるのですけれどもね。。

東北公演、その後(その1)

2008-10-20 10:02:07 | 能楽
あ~、もう東京に帰って来ましたのに ご報告が遅くなってしまいました。東北の小中学校巡回公演のその後。

でもその前に、先日最後に書き込みをした自分のブログの記事が中尊寺拝観のことでしたので、その時に書き落としたことを少し言いたいと思います。

じつは、中尊寺では文化財の修復、という点にとても印象を強く持った ぬえなのでありました。

中尊寺の金色堂の隣りに、宝物館というべき施設、讃衡蔵(さんこうぞう)があります。平成12年に新築されたコンクリート造りの建物の中には、入館してまず目に飛び込んでくる3m近い身長の3体の阿弥陀如来、薬師如来座像をはじめ、かつて金色堂の内部を飾っていた旧蔵品の荘厳の品々(すべて国宝に指定)などが保存展示されています。

ところがその展示の最後に、かつてNHKで放映されたらしいテレビ番組の録画がビデオ上映されていまして、この金色堂も一時は荒廃していた様子がわかります。堂内のきらびやかな柱も螺鈿が剥落して痛ましいほどのありさま。なるほど現在の金色堂は昭和の大修理を経て往時の輝きを取り戻したのですね。

考えるのですが、大正から昭和という時代は、日本の文化財の転換点でありましたね。文化そのものの転換点はもう少し前の明治維新にありましたが。明治に日本は王政復古の号令を受けて、たとえば城郭の取り壊しが行われたり、武家の文化が一気に廃れました。能楽も大打撃を受けたのはこの時代で、能楽師は家禄を失って生活が困窮し、能面や装束が散逸したり、海外に流出したのもこの時期ですね。。明治維新に引き続いて廃仏毀釈運動が起こって、多くの寺院や仏像が破壊されました。ぬえが以前訪れた例では、能『桜川』の舞台になった茨城県の磯部寺は、現在では磯部神社だけが残り、神仏混淆で社域に建てられていたお寺の方は礎石を残すのみで完全に失われていました。これは明治時代に取り壊されたものだそうです。さらに文明開化の風潮の中で多くの文化財が破壊されたり、海外に流出したのもこの時代。。

その後 能の方は、明治9年に岩倉具視邸で天覧能が催され、11年には初の能楽堂が青山御所に建設されて復興することができましたが、それまでに能の多くの名家が廃絶しています。廃仏毀釈運動の方も、約10年後には信教の自由が保障されましたが、それまでに失われた仏像や仏堂は数知れず。。お城にいたっては、取り壊しを免れた天守閣はほとんど現在では国宝に指定されているのに、当時は廃屋同然の状態で、かろうじてそこに残されているだけの状態でした。琵琶湖のほとりに建つ彦根城(国宝)は井伊家の居城でしたが、現地の方に伺った話では往時は売却の憂き目に遭っていたそうです。それでも買い手が着かず、ついには銭湯の薪として売られそうになったとか。。

それぐらい、歴史を経てきたものであっても失われるのは簡単な事なのです。こういう仕事をしていると、現代でも失われていくものをたくさん目にするので、なおさら想いは強いですね~。だから数年前に京都・大原の寂光院が焼失したのは本当に驚いたし、それが放火が原因らしい、と報道されたときは ぬえは怒りのあまり逆上してしまった。それでも。。今年の2月に韓国・ソウルの南大門が焼失し、これも放火が原因ではないかという疑いが。。(・_・、)

ところが、日本では近代になってから多くの遺された文化財が修復を受けていて、それが現在にまで繋がって修復作業が続けられています。その出発点であるのが大正時代と昭和前期で、これがまた気になる時代なんですよね~(続く)

中尊寺金色堂を見てきました

2008-10-16 17:59:16 | 能楽

岩手県の一関市の小学校での公演を前に、中尊寺を訪れてみました。一関市と中尊寺がある平泉とは隣町の関係にあります。公演は小学校の昼休みを過ぎて午後の授業に当たる時間に催されるので、この公演の間中、ホテルからの出発は午前11時とかなり遅め。そこで、まだ行った事のない中尊寺へ朝に出かけてみることにしたのです。

ん~行き方がよくわからない。。時間の制約もあるので、行きは一関駅前からタクシーを利用して中尊寺に直接向かうことにしました。運転手さんに聞けば、眼目の金色堂のすぐ下まで道が通っているそうで、そこまで連れて行って頂いたら、なるほどそこからすぐ上に金色堂がありました。戦乱や火災の危機をくぐり抜けて現代にまで残された奥州藤原の唯一の、そして最も贅を尽くした遺構である金色堂は、金箔の華麗さだけではなくて、螺鈿や蒔絵の細工が見事なまでに精緻。また ぬえは、能舞台とほぼ同じ大きさの、その大きすぎない規模が、金色堂が品良く見える理由なのではないかな、と思いました。金色堂内部は撮影禁止なので、写真で見慣れたこのアングルの画像でお許しあれ。。



すぐそばには旧・覆堂という、昭和の大修理まで金色堂を風雨から守ってきた、言うなれば能舞台を収める能楽堂のような建物が保存されています。現在のコンクリート造りの覆堂はちょっと味気ないけれど、この旧・覆堂はむしろ金色堂をよくぞ守り切れたものだと思うほど簡単な造りです。それでも松尾芭蕉らもこの旧・覆堂の中の金色堂を見たのかと思うと、がんばってくれたのね~、と感謝を送りたい。



境内は、東北はもう秋の気配。そこここに紅葉が色づき始めています。



このあと岩手県の最南部の一関市の小学校で公演を終えたあと、今度は秋田県の最北部の大館市へ長距離移動したのですが、次第に紅葉の色が濃くなっていくのに気づいて、不思議な感覚でした。東北高速道から間近に眺める雄大な岩手山、そして反対側の車窓には満月が上り。。きれいだなあ。。東北。

話は戻って、中尊寺では金色堂の荘厳などを収めた博物館である讃衡蔵を拝観し、本堂のご本尊に参拝し、東物見という展望所で西行の歌碑を発見し。そして忘れちゃいけない境内の白山神社にある茅葺きの能舞台も拝見して帰りました。帰途は、なんと頻繁に通っていた路線バスを利用して30分で一関に戻りました。



さて一関では市立の長坂小学校で公演が行われましたが、や~、みんな元気だね~。演者が声を掛けるとみんな大きな声で挨拶もできて、とってもお行儀もよかったです。上演曲『安達原』では、やはり後シテの姿を見て怖がる子もいたけれど、多くの子はとっても興味を持って見てくれていました。終演後の質疑応答では「どうやって声を出す訓練をするのか」「どれぐらい練習をすると楽器が上手に鳴らせるようになるのか」と、身体論にまで興味が及ぶ高度さ。終演後には先生の合図で、楽屋に引っ込んだ演者に向かって大声で「ありがとうございました~~」の大合唱。(#^.^#) 楽しい催しだったと思います。

今日は秋田県の大館市に到着しましたが、残念ながらホテルにネット環境がなく。。

明日、北秋田市の鷹巣小学校で公演を行って、青森県の弘前市に移動してからこの書き込みをすると思います~。その頃にはすでに次の公演地、北秋田市での催しは終わっているんですけれども、そのご報告はまた次回に。。

またまた東北

2008-10-14 23:16:42 | 能楽

ども、ぬえです~

またしても、の小中学校巡回公演に出かけております。今回の出張先?は宮城県、岩手県、秋田県、青森県の四県のそれぞれ一校ずつを廻る三泊四日の旅です。先週は宮城県内の五箇所の学校を廻ったのに比べると、今回は移動距離が長いです。

今日は早朝に東京を新幹線で出発しまして、宮城県の中部に位置する村田町というところの村田第二中学校で、前回と同じく能『安達原』が ぬえの師匠によって上演されました。

遠くに美しい山並みを眺め、田園地帯の中に建つ中学校。公演準備を進めていると、時ならぬ太鼓の響きが会場となった体育館の中に響いてきます。???なんだろう。。見てみると、昼休みのあいだに生徒10数人が校舎の狭い中庭で和太鼓を打ち鳴らしています。どうやら文化祭が近いらしく、そのための練習でしょうか。以前、秋田の大館だったかなあ、小さな公園で薪能を行ったことがあるのですが、そのときも「前座」?として地元の方々による太鼓の演奏がありました。このときも能よりも太鼓の演奏の方がお客さまの反応は良かったような。。(^◇^;)

ぬえが子どもたちを教えている伊豆でも思うことですが、郷土芸能は脈々と土地に息づいているものですよね~。生まれも育ちも東京で田舎というものを持たない ぬえにとっては、能の道に進んでから気づかされた事も多いですが、こういう郷土に残された文化が、じつはまだまだたくさん残されていて、しかも強力に継承されている姿は、まさに驚くべきことでした。東京には本当に希薄だもんなあ。。うらやましい限りです。

さて公演は、またまた大喜びで迎えられたと思います。ぬえはこの公演では地謡に参加しているのですが、みんなが楽しんでいることは感触となって伝わってきます。ことにこの学校では終演後の質疑応答が、それはそれは活発でした。声の出し方や囃子の掛け声など、身体的な興味にまで質問が及んでいたのは感心です。

そのうえ、これは ぬえは本当に感心したのですが、公演の終わりに、生徒の代表から「お礼の言葉」が演者に送られました。ふむ、こういうことは よくある事なのです。そして、その全てがとは言いませんが、多くの場合は事前に原稿が用意されていて、先生などの推敲を経て代表の生徒によって読み上げられている感じのことも多いのですが。。このときは明らかに違いました。代表となった生徒の気持ちが表れている言葉で、本当に感激しました。お礼の言葉の最後は「みなさん、がんばってください」で、こういう言葉は作られた言葉ではないでしょう。

村田町を後にして、いま ぬえは岩手県の一関市に投宿しています。文化庁の企画となるこの公演、ぬえたち演者にも大きな印象を残しております。またまた楽しい旅が続くといいなあ。

綸子ちゃん、研能会デビューですっ

2008-10-13 03:07:34 | 能楽

8月に伊豆の国市で催された『狩野川薪能』。その際に ぬえがシテを勤めた『嵐山』の子方を勤めてくれた綸子ちゃんが、来年 東京で催される ぬえの師家の月例会~梅若研能会に出演することになりました!

綸子ちゃんは伊豆の国市在住の小学6年生。ぬえが信頼する子方です。毎年なのですが、同地で催される『狩野川薪能』で ぬえがシテを勤める能には必ず子方が出演する曲を選んでおりまして、その子方も地元の小学生から選んでいます。綸子ちゃんは今年 ぬえが選んだパートナーであり、そして努力して ぬえの期待以上の成果を ぬえにもたらしてくれました。

そもそも同薪能では地元の民話に取材して、地元の小中学生ばかりで演じる「子ども創作能」が上演されるのが大きな特徴でして、夏休みに催される薪能のために、ぬえは毎年 半年ばかり伊豆に通い詰めて子どもたちに稽古をしています。それも かれこれ9年になりますんですね~。そして数年前から、薪能の発起人である大倉正之助さんのご厚意によって、ぬえはこの薪能でシテを勤めさせて頂くようになりました。それまで「子ども創作能」だけの監督みたいな立場だった ぬえは、それでは! と、せっかく勤めさせて頂けることになった玄人能に、やはり地元の子どもたちを抜擢して子方を勤めさせることにしました。

それからというもの、プロに互して舞台に立ってもらう子どもを前年から観察していて ぬえみずから指名し、その子には「子ども創作能」とは全然違って、アマチュアの小学生からプロの子方に変身させるべく、厳しい態度で稽古を積ませました。毎年 様々なドラマがあり、毎年選ばれた子は必ず涙を流す試練もあり。。そして毎年薪能当日には見事な成果を挙げてくれました。少なくとも ぬえにはその成果についての自負はあります。

今年 ぬえが演じる能『嵐山』の子方に選んだ綸子ちゃんは。。たしかに稽古の初めこそ ぬえの厳しい注文にかなり つらそうな顔をしていましたし、もちろん ぬえも、だからと言って容赦はしなかったが。ところが稽古が3ヶ月目に入ったあたりからだったかなあ、どこからコツをつかんだのか、綸子ちゃんは ぬえの要求をそっくりそのまま成し遂げて稽古に現れるようになり、ついには ぬえが教えていないところまで、自分で稽古を応用して成果を持って稽古に来た。。ちょっとこれまでの狩野川薪能でも見たことのない子です。

それならば、と ぬえは一部省略する予定だった演出も復活させて さらに綸子ちゃんに試練を課し、すると綸子ちゃんも 次回の稽古までには キチンとそれを覚えて稽古に現れ。。こういうことを伊豆の子どもたちに期待していなかった ぬえは、すっかり綸子ちゃんに信頼を置いて、自分の万全の舞台を目指す喜びをこの薪能の中に持ち込むことができたのでした。地元の子どもを ぬえの数少ない主役の舞台に抜擢するのは、いわば ぬえが伊豆の国市から受けた恩をお返しするサービスのようなものだったのに、綸子ちゃんは ぬえが自分の本来追い求めてゆきたい舞台の、むしろ強力な補強になってくれている。。これは ぬえにとっては驚異的なことでしたね。綸子ちゃんに ぬえは「稽古は“これで良い”というところがない。“嵐山を舞うの、もう飽きちゃったな~!と思うくらいでちょうど良いんだよ」と常々言っていましたが、綸子ちゃんは たしかにそこまで到達するまでの自習を重ねてきたことは、ぬえの目から見ても明白でした。

さて ぬえはもちろん師匠には逐次 薪能の稽古の進度を報告していまして、それを聞いた師匠も何か思うところがあったらしい。

ある夜 師匠から ぬえに電話が来まして、いわく「来年 研能会で『嵐山』を上演するつもりなんだが、お前が教えている伊豆の子。。稽古が出来上がっているのならば、東京でお役を勤めてみないか?」という、ちょっと にわかには信じられないお誘いを頂きました。ぬえも、綸子ちゃんの成果には自信があったので、すぐにご両親に相談してみます、と答えて。

番組の編成には時間がかかるので、先日改めて師匠から正式にご指名を頂き、それまでに綸子ちゃんのご家族には「師匠からこう言われている。正式な依頼があるときまでにご家族で話し合って引き受けるかどうか考えをまとめておいてほしい」と ぬえからお願いしてあったので、綸子ちゃんやご家族からも すぐに承諾を頂いて、これにて来年 東京での師家の月例会に綸子ちゃんが出演することが正式に決まりました!

今回は、残念ながら ぬえがシテではありませんが、さぞや舞台に華やぎを添えてくれることでしょう!

その綸子ちゃん登場の舞台の期日は以下の通り。正式な番組が発行されたら、また改めて詳細をお知らせ申し上げます~

◇梅若研能会 6月公演  平成21年6月18日(木)午後2時開演
             於・観世能楽堂(東京・渋谷)


東北公演、おわりました

2008-10-11 12:05:12 | 能楽

面白い体験でした。東北地方の小中学校を廻る巡回公演。

今回は5日間の日程で、会場は宮城県だけに限定されていたのですが、中学校3校、小学校2校で行われた ぬえの師匠の上演はどこも子どもたちが楽しんでくれたようです。ようやく帰宅しましたので、画像も少しアップしておきますね。

さて前回ご報告しました気仙沼の中学校。。ここはとっても印象に残った学校でしたが、その後移動した石巻市の市立石巻小学校が、これまた印象深い学校でした。

この学校、なんと言ってもその歴史の深さがスゴイ! 会場となった体育館。。というより、ここは昔の「講堂」と言うべき建物は、なんと建設されたのが昭和11年といいますから、もう70年前の歴史を持つ建物です。その雰囲気のよいこと。そしてさすがに「体育館」よりも音響がよいのが気に入りました。講堂の入口には創建時の写真とか新聞報道が貼り出されていて、学校としても子どもたちにもその歴史について理解させて、誇りを持ってもらおうとする努力がなされています。

それだけじゃない。その講堂の裏には、講堂と同時に建てられた奉安殿の石垣が今も残り、校内には大正時代に作られた最初の校旗が展示されていました。この校旗は昭和の終わり頃? に関係者によって学校に寄贈されたもの、という表示があって、なるほど市民からも親しまれている学校なのだな~、と感じました。

さてそんな趣のある石巻小学校の講堂での能楽公演は、もう子どもたちも大喜び! とくに上演曲『安達原』ではとっても面白い間狂言があるわけですが、この間狂言がとっても子どもたちにウケていて、ご本役の三宅近成くんもちょっとだけ型をサービスしていました。(*^。^*) 終演後の質疑応答も活発で、なんだか素直に能を楽しんでくれた子どもたちには ぬえたち演者からも感謝したいくらい。

。。でも面白いこともあって、間狂言が退場するときに子どもたちの中から「能力、かわいそう」という声が聞こえたこと。おワキが終演後に「あれは。。どういう解釈なんだろう」とマジメに考えていました。 ん~、おそらく君に叱られたのでかわいそうに思ったんじゃ。。(^◇^;)

最後の公演地、古川に近い加美町立広原小学校は、こちらは前日とはうって変わって新しい小学校で、校内は多くの壁が木製で、その木の香りが校内中に漂っていました。



体育館・兼・講堂はなんとガラス張りで驚きましたが、講堂としては開放感があって良いけれど、体育館として使う場合はどうするんだろう。。と思ったら、なるほどその時は大きなカーテン状のネットを窓一面に引き回すのですね。こういうアイデアもあるのか~

今回の学校訪問公演では、学校によって見学者が違っていて、ある学校では父兄が参観していたり、また近隣の学校の児童・生徒が集まっていたり、さらに近所の住民が見学している場合もありました。

面白いのは、たいてい、児童・生徒以外の見学者は別のお席でご覧になっているのですが、この学校では子どもたちと父兄が一緒になって参観しておられたことで、これがまた和気藹々とした雰囲気でよろしかったのではないかと思います。これまた子どもたちはとっても活発で、『安達原』の後シテが角に出ると、子どもたちは下からシテの面をのぞき込んでいます。(;^_^A 間狂言がワキの傍らをそっと抜け出して寝室を覗きに行こうとすると「見つかっちゃうよ!」と声援?が。終演後もやはり質問や感想がたくさん出されて、最後にはシテは子どもたちから花束を頂戴していました。

うまくご紹介できなかった学校も多くて申し訳ありませんが、今回の東北公演も ぬえはとっても楽しませて頂きました。北海道のときと違って天候はずっと悪かったので、東北の美しい景色を見られなかったのは残念でしたが、子どもたちの明るい笑顔と、能に興味を持って接してくれた姿は。。もう体育館の中だけは晴天続きでしたね~

かくして ぬえは東京に帰って参りましたが、土曜日・日曜日の二日間をおいて、再び月曜から東北の小中学校の訪問公演に出て参ります。次回は宮城・岩手・秋田・青森の四県を3泊4日で駆け抜けるという大忙しの旅ではありますが、また大喜びする子どもたちの姿を見られるのね~ (^。^)

東北の中学校で感心したこと

2008-10-09 08:35:25 | 能楽

前回お知らせしましたとおり、ぬえはただ今東北に来ております。先日の北海道公演と同じく文化庁の「本物の舞台芸術体験事業」の一環で、今回は4泊5日の日程で宮城県各地の小中学校を廻り、体育館で能の解説、そして ぬえの師匠が能『安達原』を見せる、というもの。

仙台市、大崎市、気仙沼市の中学校を廻って、今日は石巻市の小学校での公演予定です。前回の北海道では小学校中心に廻ったので、やっぱり今回能を見せる対象の中学生はそれと比べると、恥ずかしさも出てくる年齢でもありますし、無邪気に手を挙げて質問したり、上演中に演者に声援を送るような感じではないですが、それでも全体的に見ればおとなしく鑑賞している態度は培われているなあ、と感じます。

まあ、どの中学校でも ぬえは感心しながら子どもたちの様子を見ていたのですが、わけても昨日公演をした気仙沼市の新月(にいつき)中学校の子どもたちには驚かされました。まあ、なんて真剣に舞台を見つめていることだろう! 最初に解説のために演者が舞台に上がり、さてみんなに声をかけると、早速大声で挨拶の言葉が返ってくる。ぬえは遠くから見ているだけでしたが、その後の能の上演のときに地謡に座って見ていると、まあ、みんな生き生きとした目で、固唾を呑んで舞台を見つめています。どの中学校でも 子どもたちは楽しんでくれたり、まあ中には退屈している子どもだって、もちろん少しはいるはずなのだけれど、まず相手。。この場合演者が一生懸命に演じている姿を、とりあえずは尊重する、という態度は、もう立派な大人ですね。

あとでこの新月中学校の先生に聞いてみたのですが、「気仙沼というところは仙台に行くまでもとっても時間がかかるような場所で、この町には映画館もないんです。だから子どもたちは娯楽が少なくて、こういう能を見る機会も本当に喜んでいるんですよ」とおっしゃっておられましたが。。娯楽がないから面白く見てくれる。。それだけではあるまい。

重ねて伺ったところでは、じつは2ヶ月?ほど前に ぬえの師家からここに限らず各学校を廻ってデモンストレーションを行っていまして、能楽公演が行われる前に予備知識を与えたり、それから簡単な発声や運ビなどの稽古も行っていたのです。そのときに今回の上演曲『安達原』の一部を謡ってもらって、「これを公演の際にもみんなで謡ってもらうよ~」と宿題を出しておいた。この日はみんな大きな声を出して謡っていましたが、先生いわく、「毎日お昼休みには先日能楽師の先生から宿題の自習のためにお借りした、謡が吹き込まれたCDを毎日校内放送で流して、みんなで稽古したのです」というお答え。。う~ん、これには ぬえも驚かされました。

やはり人を尊重する態度、そういうものが自然に培われているのかな。。と感心した ぬえではありました。これが普通であってほしいんで、感心されるような世の中の風潮ではいけないですけどね。

またまた東北に

2008-10-07 22:15:26 | 能楽
ごぶさたしております、ぬえです~

ただいま、またまた師匠の文化庁のお仕事で東北地方の小中学校を廻っております。

東北というのは ぬえは数年前に秋田・大館で催しがあって、そのあとレンタカーを借りて十和田湖~青森市~金木町まで一人で巡った、その印象があまりにも強くて、久しぶりの訪問に胸躍らせていましたが、やはり秋の東北は美しかった。。

いまは気仙沼市に来ています。

すみません、またご報告はのちほどまとめて。。

沼津御用邸での祝言挙式、テレビ放映されました

2008-10-05 02:25:47 | 能楽
今日は師家の別会でした。ご来場頂きました方には厚く御礼申し上げます。
ぬえは能『高砂・八段之舞』および能『木賊』の地謡で、合計3時間強の長丁場で、いや~、久しぶりに足が痛くて七転八倒状態させて頂きました。。(×_×;)

さて、かねてお知らせ申し上げました沼津御用邸での祝言挙式ですが、延期になっていたテレビ放映が、先日ついに放送されました。放送されたのは一昨日、10月2日の夕方6時過ぎ~7時までの静岡第一テレビのニュース番組の中の「特集」で、数分程度のワクだったようです。

いやまたこれが。ぬえにこの放送日の連絡が届いたのが当日の朝だったという。。(¨;) そのとき ぬえは国立能楽堂の楽屋におりました。申合を済ませてからメールを見てびっくり。もとより ぬえは静岡のテレビを見る環境にはありませんから、すぐに伊豆の子どもたちのお母さん方の何人かにメールをして録画をお願いしました~。みなさん、突然のことですんませんっ。

あとで聞いた話では、御用邸のお庭で『高砂』を舞う ぬえもしっかり映っているそうです。う~ん、今年はこれでテレビに登場するのは3回目。。なのですが、ぬえが自分の目で見たのは東京で放映された1回のみ。。あとは静岡のローカル局での放映だったので、どちらも ぬえ、見てにゃい。。

あ、そのうちの一つは、テレビ放映後にパソコンテレビの「Gyao」でも配信されています。すでにご案内したとは思いますが、興味のある方はこちらをどぞ~

いい伊豆みつけた #15 ひめの国・はなの国・伊豆の国 夏巡り篇

さて御用邸に話を戻して、この結婚式先週の9月23日に執り行われたのですが、まあ、絵に描いたような日本晴れで、御用邸に初めて足を踏み入れた ぬえとしましては、お庭で気持ちよく『高砂』を舞わせて頂きました。この日は装束を着けて舞うか! というところまで話が進んでいたのですが、挙式のタイムスケジュールの関係で着付の時間が取れず、やむなく裃姿で「神舞」だけを舞ったのですが、いや、案外ああいう場面では装束よりも裃の方が映えるかもしれないな、と思いました。いずれにしても新郎新婦さんには忘れ得ない結婚式になったことでしょう。おめでとうございます~~ Y(^^)

ところでその御用邸ですが、残念ながら戦災で主要な建物は焼失し、西附属邸、東附属邸が今に往時の面影を留めています。そのうち東附属邸は一般に貸し出されていまして、今回の挙式の会場となったのもここ。で、この日会場に到着してから ぬえは邸内と、それからお庭をしばらく散策しておりました。お庭は、セキュリティの問題もあるから、さすがに海を一望というわけにはいきませんが、それでも松が目立つお庭は海の間近に建てられた邸宅であることを感じさせます。

。。と、あれ? お庭にどこかで見たような建物が。。近づいてみると、なんと国宝「待庵(たいあん)」の写しの茶室でした。駿河待庵と名付けられたこの茶室。。国宝の三つの茶室に限らず名作と言われる茶室にはしばしば「写し」が作られていますが、海の間近というのはちょっと見たことがないです。松林に囲まれて、ちょっと深山幽谷の感じは出ませんわね。。

駿河待庵の画像

話はされに飛びますが、国宝「待庵」は京都に現存するものの、見学には往復はがきでの申込が必要なため、ぬえはまだ見たことがありません。上記「どこかで見た」ってのは写真集でありましょう。。(;^_^A 残りの二つの国宝の茶室は「如庵(じょあん)」と「蜜庵(みったん)」で、じつは「待庵」は撮影禁止、大徳寺にある「蜜庵」は非公開です。

見れない、と言われれば見たくなるのは『安達原』の間狂言と同じ心で、調べましたら、「待庵」はしっかり、「蜜庵」は1枚だけ画像が見つかりました。

待庵

「蜜庵」(記事の中に1枚だけ画像あり)

ぬえが見たのは岐阜県・犬山市にある、織田有楽斎作の「如庵」で、こちらはホテルの庭に移築されているためかとってもオープン。時期により一般公開されて内部に上がって見学もできます。それどころか! ウェブでは茶室内部のムービーまで見られるんですよね。

「如庵」

あ~今日は横道にそれっぱなしの話題でありました。。