ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

能のひとつの到達点…『大会』(その11)

2011-05-08 01:37:36 | 能楽
前回の解説で、間狂言が退場したらすぐにお囃子方が「出端」あるいは「大ベシ」を打ち始めるかのように書いてしまいましたが、その前に一畳台と椅子の作物が大小前に出されます。椅子は紺地の紅緞を巻いた一人掛けのソファのようなもので、珍しい例だと思いますが、一畳台の上に最初から載せたまま舞台に出されます。

さて「出端」あるいは「大ベシ」の囃子で登場した後シテですが、釈迦に化けた天狗、という設定であることは周知ですが、さてその扮装をいかに表現するか、というところが、見どころの多いこの能の中でも最大の興味の一つでもあるわけで。(*^_^*)

で、ご存じのように、天狗の面であるところの「大ベシ見」の面の上に、釈迦の扮装たる「釈迦」の面を掛けている後シテの姿の写真をご覧になった方もあるのではないかと思います。がしかし、観世流では本来、『大会』の能の後シテが面を二重に掛けて登場することはありません。「釈迦」面を使うのは、観世流の場合ではもっぱら近来の演者の工夫によるものなのです。

今回の ぬえも「釈迦」面を掛けて出るつもりでおりますが、あくまでこれは先人の演者の工夫の踏襲であって、観世流としては「釈迦」面は用いないのが本来であることを申し添えておきたいと存じます。

同じように、じつはこの能には、使用する面に限らず、近来いろいろな工夫が試みられております。それらの中には ぬえもそのやり方で上演を予定していながら果たせなかったこともあり、また今回は ぬえがさらに工夫を発展させて試みてみる事もあります。『大会』には「恩返し」が「仇」となってしまった、という問題提起もないわけではないのですが、この種の能は深い心理描写を追求するような重い能とはまた違った方向性を持っていて、虚構であることを最大限に生かした、ある種 純粋な舞台芸能としてこの世に生み出された曲であるような気がします。…それが能にとって あるべき道なのかは別の議論だと思いますが、こういう能ではお客さまに解りやすく、楽しんでご覧になって頂く事がそもそも能の作者の意図のひとつでありましょうし、それに応える方向での演者の工夫の積み重ねが試され続けています。『大会』という能は頻繁に上演される曲ではありませんけれども、上演される度に演出に工夫が加えられ続けている希有な能で、その意味で、ぬえは『大会』を、重いテーマを持った能とは正反対に位置づけられる一連の能の中で、ひとつの到達点を示すものではないか、と考えていまして、それをこのブログでのタイトルとさせて頂きました。

さて、そのように様々な演出上の工夫が試みられる『大会』ですが、お客さまにとっては どの部分が観世流の本来のやり方であって、どこが工夫なのかを見分けるのは難しいので、当ブログではとりあえずその「本来」の演出に沿って解説させて頂いております。近来の、そして ぬえの工夫は後でまとめてご紹介させて頂くこと致しますね~

…そういうわけで、釈迦に扮した天狗の装束ですが、観世流大成版謡本の前付けでは次のように書かれています。

面―大ベシ見、赤頭、赤地金緞鉢巻、大兜巾、大会頭巾、襟―紺、着付―段厚板、半切、袷狩衣大水衣重ネル、縫紋腰帯、掛絡数珠経巻、羽団扇、物着ニ被衣

要するに天狗の装束の上に釈迦の装束を重ねて、あとで舞台上で一気に早変わりする、というのがこの曲の見どころのひとつなのですが、上記のうち赤字で記したものが天狗の装束を覆い隠すために重ね着する釈迦の装束です。前述のように観世流では「釈迦」面を使う、という選択肢はないのが本来です。要するに天狗の面(大ベシ見)ひとつで釈迦の姿も表現しよう、という演出で、そう見えるかどうかは役者の芸力にゆだねる、ということですね。(×_×;)

ところが ぬえの師家の装束付けはまたちょっと違うんです。これがかなり衝撃的。

面―大ベシ見、赤頭、大兜巾、大会頭巾、襟―紺、段厚板、半切、袷狩衣、上ニ大水衣ヲ重ネルモ、縫紋腰帯、掛絡ナシニモ、数珠、経巻、羽団扇、物着ニ被衣(無地熨斗目)

大成版の前付けとほぼ同文であるように見えながら、なんと天狗の装束である狩衣を覆い隠す大水衣を重ねて着るのは「重ネルモ」と「替」の扱いです(!)。掛絡についても「ナシニモ」という記述。もしどちらも使わなかったとしたら、天狗の装束を隠すのは、赤頭を覆うような大きな「大会頭巾」だけという…(!!)

…なるほど、ここまで来ると本来の演出の意図も見えてきました。役者の「芸力」で天狗の姿を釈迦に見せる…まあ一面にはそういうこともあるでしょうが、顔を頭巾で顔を覆っただけで天狗の姿がバレバレなのに、一生懸命 釈迦の威厳を演じようとする、その面白さを狙っている、という面も見逃してはならないでしょう。そういえば間狂言も紙で作った衣を着て賓頭盧に化ける、と言っていましたっけ。こう考えてくるとあの間狂言の言葉は、『大会』の演出意図と一致しているかもしれません。ひょっとすると能と同時に成立した本文がそのまま伝えられていたり、極端に考えれば、能の作者がこの間狂言の詞章を同時に作ったのかもしれません。

能のひとつの到達点…『大会』(その10)

2011-05-07 02:43:32 | 能楽
注目されるのは上記鷺流の詞章ではシテの素性を「比良野の嶺に住み給ふ次郎坊」としているところ。『観世』誌の別の月の号には大蔵流・和泉流の詞章も載っているのですが、それによれば大蔵流では「愛宕の大天狗」、和泉流では「愛宕山太郎坊」となっています。

能に出てくる天狗のシテは「愛宕山に住む太郎坊」と相場が決まっていまして、『鞍馬天狗』だけは鞍馬山の大天狗が牛若丸に兵法を授けたという伝説に取材した能ですのでそのような設定になっていますが、『車僧』の間狂言は諸流一致してシテを愛宕山の太郎坊と呼んでいますし、『善界』では仏教を妨害するために唐から渡ってきた天狗の善界坊(シテ)が「承り及びたる」愛宕山の太郎坊(ツレ)に案内を乞う、という設定になっています。『善界』では日本の天狗の首領というような位置づけで愛宕山の太郎坊は描かれているわけで、これと比べると『大会』の間狂言の鷺流の詞章だけが「比良野の嶺に住み給ふ次郎坊」としているのが突出して見えますね。理由まではわからないので、これまた今後の宿題という事で…(・_・、)

さて間狂言が退場すると、囃子方は「見合わせ」て後シテの登場音楽を打ちはじめます。こういった後シテの登場音楽が始まる前にはワキの「待謡」がある場合が多いですが、間狂言が「居語り」でない場合…すなわち舞台進行にしばらくワキが関わらない場合には「待謡」がない事が多いようです。その場合は登場音楽を打ち出すキッカケがなくなりますので、「見合わせ」…つまり囃子方が呼吸をそろえて打ち出すことになります。それでも能の囃子は「せ~の!」と一斉に音を出すわけではなくて、最初のクサリ…小節の中で打ち出す、あるいは吹き出すタイミング、拍数がそれぞれに定められているために、「見合わせる」とは楽器(能では「道具」と呼び慣わしていますが)をすぐに音が出せるように構えることを意味していまして、最初に演奏を始める人…多くは笛か太鼓…が音を出すと、次々に他の囃子方がその演奏に加わっていく、という感じになります。

ところで『大会』の後シテの登場音楽は観世流の場合「出端」あるいは「大ベシ」(ベシは「やまいだれ」に「悪」の字)と、両様になっています。このように2種類の登場音楽が用意されていて、シテの好みや演技の意図によって選択できる、という例は、まあ皆無ではないと思いますが、かなり珍しいと言えます。

なぜ2種類の登場音楽があるのかというと、『大会』の場合はまさに後シテの性格によるものでしょう。すなわち『大会』の後シテは「釈迦」に化けた「天狗」であって、ふたつの性格が混在している、という特殊な設定になっているのです。それに従ってシテがその役を勤めるうえでも、ふたつの性格のどちらに近いつもりで演じるのかによって気持ちは変わるはずで、「出端」が演奏される場合はシテはあくまで「釈迦」として登場しているつもり。「大ベシ」の場合では、シテの姿は釈迦であっても、それは仮の姿であって、本性は「天狗」であることは隠れようもない、という意味になって、シテの演技の幅に自由度を持たせているのですね。がんじがらめに思われやすい古典芸能ですけれども、意外やこのような演者の自由を尊重する例はとっても多いと思います。

「出端」は非常に応用力の広い登場音楽で、『高砂』のようにとても速く演奏してシテの颯爽とした登場を印象づけることもできれば、『鉄輪』『実盛』のようにゆっくりと、どっしりとした雰囲気で演奏することによって、シテの深い恨みや老武者の重厚な登場を演出することもできます。ただ、「釈迦如来」の登場には演奏の速度や気勢によって似合うような雰囲気が出せるのか、正直に言わせて頂ければ ぬえには疑問… もっとも、ほかの登場音楽を見てみても、釈迦の登場にピッタリなものはちょっと考えつかず、おそらく「出端」が『大会』の後シテの登場音楽に選ばれているのは、その汎用性そのもののゆえであろうと思います。言うなれば「そうでないもの」をあたかも「そうであるように」見せることを「演技力(演奏力)」の駆使に期待しているわけで、これは後に詳述しますけれども後シテの面の選択にも通底する思想ではあるまいか、と ぬえは思っています。

能のひとつの到達点…『大会』(その9)

2011-05-06 23:56:23 | 能楽
さて『大会』の間狂言ですが、じつは二種類の演じ方があります。ひとつは間狂言が一人だけ登場して「立ちシャベリ」をするもの、もう一つは三~四人が登場して寸劇や舞を見せるものです。

語られる内容としてはどちらも同じで、 ①彼らの眷属たる大天狗が命を失いかけたところを比叡山の僧正に助けられたその顛末。 ②大天狗はその報恩に山伏の姿となって僧正を訪れ、その望みを叶えるよう申し出たところ、僧正は釈迦如来の霊鷲山での説法の有様を見たいと答えたこと。 ③大天狗はこれを了解し、みずから釈迦の姿と変じて霊鷲山での大会を再現することになったこと。 ④そこで彼ら小天狗も菩薩や五百羅漢に化けて大天狗に協力すること。

①は前シテの間に明かされなかった、お客さまにとっての最大の疑問点で、『大会』という曲は間狂言のこの説明によってはじめて全体の意味が通じる構成になっています。現在の間狂言の文句は必ずしも『大会』が作られた当時のままに伝えられたものとは言い切れませんが、少なくとも骨子となる大意だけは能作者の意図を反映していると考えてよいでしょう。

②はまさに今舞台で演じられた前シテの有様で、③・④がこれから演じられる後シテの演技の予告という役割を果たしています。もっとも④の小天狗が化けた菩薩や五百羅漢は実際には舞台には登場せず、もっぱら地謡がその有様を謡うことで表現されます。

ちなみに『観世』誌(昭和62年12月号)に掲載された間狂言の詞章を以下にご紹介しておきます。この詞章は現在は廃絶した狂言の鷺流のもので、四人の小天狗が登場する形式のものですが、大蔵・和泉流ともこれと大きな相違はありません。

天狗三四人。
ヲモ「斯様に侯者は。比良野の嶺に住み給ふ次郎坊の御内なる溝越天狗にて侯。我等の是へ出づる事別の儀にても御座ない。
ツレ「えへん。 次ツレ「えへん。
ツレ「いやわごりよ達は何と思うてお出やつたぞ。
ツレ「何かは知らず。わごりよが急がしさうな体にてお出やるに依つて。両人是まで付いては出たが。様子は知らぬよ。次ツレ「身共もその通りぢや。
ヲモ「それならぱ様子を語つて聞かさう聞かしませ。ツレ「急いで語らしませ。
ヲモ「先頼み申す次郎坊は。先度鳶に成つて洛中洛外を飛行自在に翔り給へば、都東北院あたりの事なるに。大きな蜘珠の家のあるに行き掛り。切るも切られず外すも外されずして。中にかゝつてまぢまぢとして居給ふを。幼き者どもが是を見付け。こゝな蜘蛛の家に鳶こそ掛つたれとて。頓て捕へそのまま羽を抜かうといふ者もあり。いや唯締め殺せといふ者もある処へ。叡山の僧正の通りて御覧ぜられ。元より慈悲第一の御方なれば。その鳶をわれにくれよと仰せられ。今幼き者どもには扇数珠等を下され。自ら鳶を受け取り蜘蛛の家をよく取つて。其儘お放しやつたれば。二つ三つ身ぶるひして頼うだお方は帰られたが。なんぼうあぶない事ではなかつたか。
ツレ「げにと是はなあ。ツレニ人「なかなかあぶない事でおりやる。
ヲモ「さて次郎坊はこの恩を報じたく思はれ。山伏の姿に御身を現し。僧正の法味をなし給ふ折節。いつぞやは我等の命危く見えし処に。御憐みにより命助かり申す御芳志に。何にてもあれ御望みあるに於ては。刹那が聞に叶へ申さうずるとあれば。山伏の命を助けたる事は未だ覚えぬ由御申しあるを。都東北院の由申さるれば。さては其時の鳶は天狗にてありつるぞと。そこで思ひお当つやつた。処で何にてもわれこの世には望みはなしさりながら。釈尊霊鷺山にて御説法ありたる様体。眼前に於て見よ(ママ)く欲しきと宣へば。それこそ易き間の御事刹那が間こ(ママ)学ふで御目にかけ申さうずるとて。其儘飛んで御帰りある。かの釈尊の説法とやらんは。仏菩薩五百羅漢の数多いるとあるが。我等にも何ぞ一役請け取れとあらば。面々は何に成らうと思ふぞ。
ツレ「されば何がようおりやらうぞ。某は不動にならう。ヲモ「いやいや不動には成られまい。
次ツレ「某は仁王に成らう。ヲモ「仁王にもなられまい。
ツレ「それならば何仏がよからうぞ。
ヲモ「思ひ出した。堂の角なる賓頭盧にならう。ツレ二人「一段とようをりやらう。
ヲモ「即ち様子を謡ふ程に。そなた衆も謡はしませ。二人ツレ「心得た。
ヲモ謡「をかしき天狗は寄り合ひて 詞「をかしき天狗は寄り合ひて。何仏にか成らうやれと。談合するこそをかしけれ ヲモ「愛宕の地蔵にえならまし 同「大嶺葛城は法起菩薩。これ又大事の仏なり。よくよくものを案ずるに。堂の角なる賓頭盧に。成らんと皆紙衣を拵へて。皆紙衣を着つれつゝ。ごそりごそりと帰りけり。


面白いですね。最後の「をかしき天狗は…」以降は「おかしき天狗」として狂言小舞や狂言一調の形で独立して演じられることもあります。紙で作った衣を着て賓頭盧(びんずる)になる、という発想が楽しいです。神通力で変身するのではないんですね。

賓頭盧は十六羅漢の第一なのですがお釈迦さまの覚え悪く、涅槃に入ることを許されず、現世にとどまって衆生を救う役目を負うことになったとか。そのため尊像はお寺の本堂の隅や外に祀られる事が多いそうで、東大寺の大仏殿の外に置かれた巨大な座像が著名。日本では「なで仏」として「おびんずるさん」などとして親しまれていますが、庶民に親近感を持たれるお立場ですから賓頭盧さんも本望でしょうね~。

能のひとつの到達点…『大会』(その8)

2011-05-05 08:21:36 | 能楽
「来序」というのは中入に際して太鼓を中心に笛・小鼓・大鼓の四つの楽器が演奏する、荘重な囃子です。きわめて間の取り方が大きく、そうして神秘的で荘重。中入する前シテ(やツレ)は橋掛リに赴き、囃子が大きく間を取って打つ打音…我々の言葉で「粒」と呼びますが…に合わせて、つま先を上げる、また下ろす、などの足遣いをいくつか踏んでから幕に入ります。とても儀式的な手順を踏む中入の演出で、そのためか来序は神仙の役の中入に多く使われ、とくに『養老』『賀茂』『嵐山』のような脇能や『玄象』『春日龍神』『合浦』などのような切能によく使われます。

…がしかし、同じ脇能でも『高砂』や『老松』には来序はないし、切能でも『土蜘蛛』『野守』『殺生石』など来序を持たない曲は多い…ようするに来序で中入するシテの性格は一様ではないのです。それは即ち、シテが誰であるか、というような、シテの役柄の個性と来序は実はあまり関係がない、と言ってよいと思います。

では来序が中入に用いられる条件は何なのか、といいますと、それはシテではなく、間狂言の性格によって来序が用いられるのであろうと ぬえは思っています。どういう事なのかというと、シテ(やツレ)が荘重な来序で幕の中に中入すると、囃子は一転、軽快な、なんというかちょっとコミカルな感じの「狂言来序」に変わります。そうして幕から登場した間狂言が舞台に入ると狂言来序も打ち止め、間狂言は発言を始める、というのが来序~狂言来序に到る定型の演出なのです。この場合間狂言はワキとは言葉を交わすことなく、立ったままで物語をし、あるいは寸劇とか舞を舞う、というように、間狂言の動作にも定型があります。

そうして来序で登場する間狂言は、異界の者である後シテの眷属…たとえば末社間や木葉天狗のような、人間ではない役です(例外あり)。このあたり、前シテが舞台にいる間に目立たぬように橋掛リの狂言座に控えていて、前シテが中入りすると里人など市井の人間という立場で舞台に入って、ワキと問答を交わして、その所望のままに昔物語をする、という、いわゆる「居語り」と呼ばれる演出で登場する間狂言とはずいぶん意味を異にしています。

…むしろ狂言来序で登場する間狂言の役は、「早鼓」で「忙しや忙しや」と小走りに登場する間狂言と似ていると思いますね。乱暴なくくり方をすれば、その役が人間であれば「早鼓」、そうでなければ「狂言来序」で登場する、と言うことができるでしょうか。…もっとも「早鼓」にはまた別の性格もありますから単純には言えないことなのですけれども…たとえば『土蜘蛛』では「早鼓」は二度打たれますし、その最初の早鼓で登場するのは間狂言ではなくてワキなのですから…

また来序にしてみても『右近』『難波』では観世流のみが「来序ナシ」で、その他のお流儀ではすべて来序が打たれますから、間狂言の性格だけが理由で、いわばシテ(やツレ)がそれに「おつきあい」するような形で来序を踏んで中入する、と言い切ることも難しいです。このあたりも ぬえの不勉強でして、もう少しきちんと調べてみる必要がありますね~

ともあれ『大会』『車僧』『善界』『鞍馬天狗』…と、天狗物の能では間狂言が「木葉天狗」「溝越天狗」といった小物の天狗という点で一致していまして、これらの曲では等しく来序が打たれて前シテが中入し、ついで狂言来序で間狂言が登場することになります。

能のひとつの到達点…『大会』(その7)

2011-05-04 01:01:55 | 能楽
さて『大会』の舞台に戻って。
シテから「都東北院の辺にての御事」と言われてようやく気がついた僧。

ワキ「げにさる事のありしなり。また望みを叶へ給はん事。この世の望み更になし。但し釈尊霊鷲山にての御説法の有様。目のあたりに拝み申したくこそ候へ。
シテ「それこそ易き御望みなれ。まことさやうに思し召さば。即ち拝ませ申すべしさりながら。尊しと思し召すならば。必ず我が為悪かるべし。構へて疑ひ給ふなと。


このあと間狂言の登場によって前シテの山伏が天狗の化身であること、「都東北院の辺にて」起こった事件とは、鳶に化けた天狗の命を僧が助けたこと、が物語られるわけですが、この問答の場面では僧の応対もまことにあっさりとしたもので…「げにさる事のありしなり」だけ。「あ、あれか」と言っているだけなのですが、思い起こしてみれば彼が助けたのは山伏ではなく鳶だったのであって、そうなるとこの山伏=鳶ということになり、すなわち人間ではないことに極まるのですが。もうちょっと驚いてくれても良いと思う。天狗さんも拍子抜けでしょう。

ま、とはいえ、このひと言で済ませてしまうあたりが、何事にも動じない高僧の威厳を表現するのでしょうし、第一ここでワキが「あ、それではあなたは天狗なんですね?」と言ってしまうと、それこそネタバレでもあるので、そういう計算はされて台本が作られているのかも。

それにしても「この世の望み更になし。但し釈尊霊鷲山にての御説法の有様。目のあたりに拝み申したくこそ候へ」というのは名セリフですね。さきほどの「あ、あれか」に引き続いてですから、まさに修行三昧の徳の高い僧の姿です。世を捨て人であるから現世に欲しいものはないんですね。もったいない…

シテの言葉も「御望みの事候はゞ。刹那に叶へ申すべし」とか「それこそ易き御望みなれ」とか、神通力を持っている事が随所でほのめかされています。『大会』という能はあっけないほど短い上演時間の曲ですし、また前シテもほんの少ししか舞台に登場していないのですが、それにしては文言が練られているな、というのが稽古をしてみた感想です。ショー的な面白さを持った能であるからこそ、舞台設定も心理描写も最低限に抑えて、こだわることなくスピーディーに物語を展開させているのでしょう。ぬえ、稽古をしていてよく思うのですが、能というものは台本がとてもよく練られていますね。よくよく読み込みをしないと気づかないような、目に見えないような工夫があったり、仕掛けがあったり。先人はすごいなあ、と感心するばかり。

「構へて疑ひ給ふなと」と二足ワキへツメたシテ。これより地謡が謡い出して怒濤の中入となります。

地謡「返すがへすも約諾し。と正面に直し返すがへすも約諾し。さあらばあれに見えたる。と右ウケ杉一村に立ち寄りて。と三足出目を塞ぎ待ち給ひ。仏の御声の聞えなば。と面伏せ聞きその時。とワキへ向き両眼を開きて。よくよく御覧候へと。と少し出てサシ込ヒラキ言ふかと見れば雲霧と地謡急に進み、正ヘ二重ビラキ(右ウケ面ツカウも)。降り来る雨の足音ほろほろと歩み行く道のと七ツ拍子踏み。木の葉をさつと吹き上げて。と扇を開き正へ下より上へ二つ強くあおぎ上げ乍正ヘ出行き掛かり。谷に下り。と正の上をサシ右へ廻り角よりシテ柱へ到りかき消すやうに。失せにけりと小廻リ正へヒラキ、かき消すやうに失せにけり。と扇たたみ乍右トリ橋掛リへ行き 来序踏み中入

能のひとつの到達点…『大会』(その6)

2011-05-03 22:24:33 | 能楽
能と狂言は芸の兄弟として一緒に発展してきたものではありますが、仲良しの兄弟かと言われると、つかず離れず、絶妙の関係を保ってきたように思えます。狂言方は能役者と比べると、歴史的に一段下がったような地位に甘んじていた、とも言われているのですが、しかし、意外にも狂言方の芸は往古より能役者にとって不可触なものだったのではないかなあ、というのが ぬえの印象です。

能も狂言も、往古は風刺劇とか大道芸のようなものから出発したようですが、狂言は世相風刺や即興性を重んじてきたために、古典文学を題材にして歌舞劇として発展していった能と比べると台本が固定化されたのはかなり遅れた時代であったと考えられています。そうしてその即興性はある程度 間狂言にも反映されたのではないか、と ぬえは考えます。

もちろん古い文献にも現代にまで上演が続いている狂言の曲名は散見されるし、その逆にいかにも当時の世相に合わせて当座に新作されたのではないか、と思われるような、固定化されていない曲名も見えるのですし、同じ事は能についてもそのまま同じ事が言えるのですが、狂言の台本は室町時代末期の『天正狂言本』が例外的に古いものの、これはあらすじを記した備忘録的な本で、厳密な意味での台本の出現は江戸時代になるのをまで待たねばなりませんでした。能が早く室町時代の前期に謡本を持っていたのとは対照的ですが、能がワキや囃子方など専門職の役者が集まって上演するために、統一された台本が必要だった事もその理由でしょうが、狂言が当意即妙の芸を重んじたために、がんじがらめにセリフを固定した台本がなじまなかったのでしょう。

そうしてその即興性が狂言の芸の醍醐味であってみれば、それは当然役者個人に舞台進行や演出について大きな決定権を任せる事になります。世阿弥は『申楽談儀』に「ただ脇の為手も、狂言も、能の本のまま何事をも言ふべし」と書き、また『習道書』に「をかしなればとて、さのみに卑しき言葉・風体、ゆめゆめあるべからず」、『申楽談儀』に「三番猿楽、ヲカシニハスマジキコトナリ。近年人ヲ笑ハスル、アルマジキコト也」と書きましたが、要するにこれらは幽玄をめざす世阿弥の理想なのであって、現実にはそれとは遠い演技が実際に行われていたことを示しているのですし、それは世阿弥が考える理想の舞台とは別に、狂言が本質的に持っている喜劇性やダイナミズムとして溌剌と舞台に生かされていたのです。

こういう事から、おそらく間狂言も能の台本が書かれたのと同時に、能と同じ作者によって作られたものではない場合が多いだろう、と類推することができるので、そういった例が『巴』の間狂言に見ることができるのではないか、というのが ぬえの考えです。

ところが一方、『大会』では後に間狂言が語る内容~天狗が鳶に化けたところ地上に落ちてしまい、京童に殺されそうになった。そこに通りかかった僧正が助けてやった~がなければ台本の意味がまったく不明になってしまう能もあるわけで、能の台本そのものが、本文には書き記されていない間狂言の語る内容を前提として組み立てられている曲もあるのです。

考えてみれば世阿弥自筆本でも『布留』や『江口』には割合とまとまった間狂言の詞章が書き記してあります。さらに『鵺』や『船橋』では、前シテが語る物語よりも相当突っ込んで間狂言が語ることによって、その曲が描く世界がかなり広がりを増している、という曲もありますね。

こう考えてくると、能と狂言…わけても間狂言との成立の関係は一様ではなく、これらについては精査する研究が必要でしょう。

…oscarさん、コメントをありがとうございました。

だいたい間狂言について ぬえが考えるのはこんなところです。しかしかつては流動的であったはずの間狂言も、江戸期からは次第に固定化されていったので、いまでは狂言のお流儀に伝えられてある詞章は尊重されるべきで、シテ方の一存で変えて頂くようなお願いは失礼に当たりますですね。

…とはいえ、今回は思うところがあって、無理を承知で間狂言のお役の先生に演出の工夫をお願いしてみました…ぬえにとっても初めての経験で、かなり緊張してお願いしてみて…結果的にそれは叶わなかったのですが、いろいろと考えさせられるところもあり、よい経験でした。そのお話はいずれ…

能のひとつの到達点…『大会』(その5)

2011-05-01 03:20:24 | 能楽
能の中で「居語り」またはそれに準じた形式の多くの間狂言は、前シテが語った同じ内容をもう一度、地元に住む里人などの視点から、土地に伝えられた物語として語る、というパターンであることが多いのですが、それでも間狂言が語る内容が、どうも前シテが語った内容と少し齟齬を感じる場合が多いように思うのです。

いえ、ちょっとした事なんですが、そしてお狂言方に対して失礼な言い方かもしれませんが、地謡に座っていて聞く間狂言の文言が、どうも前シテ…というか謡本が描いている内容と、微妙なニュアンスのズレを感じることが、しばしばあるのです。おワキに問われて間狂言が物語るその内容が、前シテ…に限らずその能で描かれる主人公や事件についての話題から微妙に広がりを見せたり、やや方向性を異にしていたり。

こういった微妙な齟齬については、間狂言の詞章に精通しているわけではない ぬえが いますぐに例を挙げることができないのですが…たとえば『巴』ではこんなことがあります。前シテが中入する際の地謡の言葉は次のようなものです。
「さるほどに暮れてゆく陽も山の端に…いづれももの凄き折節に我も亡者の来たりたり。その名をいづれとも知らずはこの里人に問はせ給へと言ひ捨てて草のはつかに入りにけり」

「この里人」とは明らかに間狂言を指している言葉であろうと思いますが、これに対して間狂言が登場してすぐに言う文句が「これはこのあたりに住む者。今日は社の祭礼の日だが、まだ早いと見えて誰も来ていない」(大意)というようなものなのです。シテ方が伝える謡本の詞章が間狂言の存在を前提にしていて、シテが舞台から去る場面で舞台展開をそれに譲っている(居語りの間狂言は、前シテが中入する際の橋掛リの通行の邪魔にならぬよう、早めに…具体的には初同のあたりで目立たぬように幕から登場して一之松の「狂言座」に控えます)のに対して、間狂言のこの言葉は、ワキが出会った不思議な里女が夕暮れに自分は幽霊と明かしていたのに、肝心の里人が登場するのは翌朝だった…つまりその夜には何事も起きなかった、というように解せざるを得ない…さらに言えば、間狂言との問答の中で前シテが巴の霊の化身だということが確信されたワキは「待謡」を謡って、そうして後シテの巴の霊が登場するのですが、それは間狂言から物語を聞いた朝からはずっと時間を経た、また次の夜、という事になってしまいます。

上記『巴』の間狂言の詞章は ぬえが地謡で聞いたものですが、諸流の間狂言の詞章を掲載した『観世』誌(平成3年4月号)によれば大蔵・和泉・鷺流とも「今日はこの所(または「当社」)の御神事なので参ろうと思う」というような文言で、「早いために誰も来ていない」という言葉はないのですが、まあ、単純に考えれば夜に始まる神事は特殊で、通常は里人が集まる昼に行われるのであろうと考えれば、意味は同じようなことになろうかと思います。また一方、ある機会に ぬえは狂言方と長く話をしたときにこの話題が出て、そのときもやっぱり彼は「ああ、うちもやっぱり「まだ早いと見えて…」と言いますねえ」とおっしゃっていましたから、やはり ぬえの聞いた文句で間違いはないようです。

ぬえが言いたいのは、これら間狂言に問題があるとか、不都合がある、ということではなくて、能の台本と間狂言とは決して同一の作者とか指向性によって合理的に、体系的に作られたものばかりではない、ということです。