ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

『砧』~夕霧とは何者か(その3)

2013-03-30 23:29:24 | 能楽
アシライ出シで登場したシテは幕際の三之松で正面に向いて謡い出します。

シテ「それ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思ひを悲しみ。比目の枕の上には波を隔つる愁ひあり。ましてや深き妹背の中。同じ世をだに忍ぶ草。我は忘れぬ音を泣きて。袖に余れる涙の雨の。晴間稀なる心かな。

シテはツレと同装の唐織着流しですが、ワキ蘆屋某の妻で年輩の役なので「無紅」(いろなし、と読みます)と言って、紅色を用いない地味な色合いの装束を選びます。面も「深井」という、中年の役まわりの女性の面。

『砧』は風情の能ですね。端的に言ってしまえば動きが少なく、抑制されている能で、「佇まい」や視線が重要な演技の柱になります。ですから面の選び方は難しいし、よほど効く面でないと。。

面の話のついでに、ツレが掛ける面は小面ですが、「連面」と呼ばれる面です。小面にもいろいろな作の違いがあって、観世流では小面はツレが掛けるばかりで、シテが小面を掛ける事は演者の工夫による以外はまずないのですが、下懸リのお流儀では小面を若い女性のシテに用いますので、シテ方流儀により小面も選び方が異なります。すなわち、シテにふさわしい品格のある小面は観世流では使いにくいので、シテよりもやや格が下がる面。。これを連面と称してツレ専用に使うのです。『砧』では憂いを帯びて品格のある「深井」をシテが掛け、無邪気であまり深い表情が出過ぎない小面=連面をツレ用に選びます。

話は脱線しますが、深井と小面では年齢の違いによる造形の表現の相違のほかに、大きな違いがあります。それは眼のくり抜き方の違いで、小面(や若女、増など若い女面はすべて)眼の孔が四角く開けられているのに対して、深井や曲見など中年の女面では丸く開けられているのです。近くで見なければわからない微妙な違いではありますが、これが舞台上では大きな違いを生み出しまして、小面など若い女面ではハッキリとした眼差しに見え、丸い眼の中年の女面では、どことなく茫洋とした、ちょっと気がここにないような浮遊感を感じます。やはり年かさの面では、重ねてきた人生の重みと言うか、背負い込んできた宿命への疲労感のようなものが表情に投影されますが、それはこんなちょっとした造作の違いから生み出されてくるものも大きいのです。

シテの独白は孤独感と喪失感があふれるもので、まさに深井の面の持つ重みが効く場面です。「鴛鴦」はオシドリ、「比目」はヒラメ。ともに仲睦まじい夫婦の象徴ですが、それさえも「立ち去る思ひ」「波を隔つる愁ひ」と、会者定離の可能性を潜在的に持っているものだ、と嘆くシテ。情けの深い人間と生まれながら、一瞬の現世の中でさえ離ればなれになっている不幸な身の上をかこつ内容です。

このシテの独白に焦点が当たるように、屋敷に案内を乞うたツレは一旦後見座にクツロいでいますが、独白のうちに立ち上がり再び橋掛リ一之松に行き、再び案内を乞います。

ツレ「夕霧が参りたる由それそれ御申し候へ。
シテ「何夕霧と申すか。人までもあるまじ此方へ来り候へ。

面を伏せて思い悩んでいたシテはツレ夕霧の来訪を聞いて面を上げ、ツレを屋敷の中に通します。
シテは舞台に歩み行き、ツレはシテと橋掛リで入れ替わってシテのあとに続き、シテは地謡の前に、ツレは舞台の中央に近く、やや後方の位置に行って、二人は向き合って一緒に下居(座ること)します。

『砧』~夕霧とは何者か(その2)

2013-03-28 09:24:43 | 能楽
ワキが退場するとツレ夕霧は立ち上がり、大小鼓が打切の手を打って「道行」を謡います。

ツレ「この程の。旅の衣の日も添ひて。旅の衣の日も添ひて。幾夕暮の宿ならん。夢も数そふ仮枕。明し暮して程もなく。芦屋の里に着きにけり。芦屋の里に着きにけり。

「道行」は能では言葉通り旅行を表す紀行文で、登場人物が一人の場合の定型として、中ノ打切(夢も数そふ仮枕、のあと)で右へウケ、三足ほど出てから再び元の座に立ち戻る型を致します。都合たった六歩で都から九州に到着するのですから新幹線よりも飛行機よりも速い!

「道行」を謡いきったツレは正面に向き直り、「着きゼリフ」を述べます。

ツレ「急ぎ候程に。芦屋の里に着きて候。やがて案内を申さうずるにて候。

これで九州蘆屋へ到着したことになり、ツレは早速ワキ「蘆屋の某」の屋敷に向かいます。ツレは橋掛リ一之松に立って幕に向かい呼び掛けます。

ツレ「いかに誰か御入り候。都より夕霧が参りたるよし御申し候へ。

これを聞いて大小鼓が「アシライ」を打ち出します。笛が森田流の場合は大小鼓にお付き合いして吹きますが、一噌流の場合は吹かない定めになっています。

「アシライ」は拍子に合わない打ち方で、大鼓は「コイ合」、小鼓は「三地」と呼ばれる最も基本的で音数の少ない手を交互にずっと打ち行くもので、言葉の通り役者のセリフの中~たとえばシテとワキの問答の中などに修飾的に彩りを添えるものです。これをあえて人物の登場に用いるのが「アシライ出シ」で、この『砧』のシテの登場場面もそれにあたります。人物の登場のしかたとしては最も淋しいものの一つで、『砧』では登場する人物が不安に悩んでいる象徴として効果的に使われています。

蛇足ながら「アシライ出シ」とは反対に登場人物の退場に「アシライ」が演奏される場合は「アシライ込ミ」といいます。これもやはり人物の淋しい心の象徴として使われるのがほとんどで、とぼとぼと歩み行く状態の表現ですね。子どもを失った母親が泣く泣くその行方を尋ねて歩み出す場面~狂女物の能の前シテの中入などに多く使われます。このように「アシライ」での登退場は多く淋しさの表現ですから、例外はありますがほとんどの場合シテの動作について打たれる囃子事であるといえます。

シテは幕の内でこの「アシライ」を聞き、大小鼓の「コイ合」「三地」の繰り返しを3つ聞いたところで幕を揚げて登場するのが定めとなっていますが、現実にはそれではちょっと間が延びてしまうので、2つくらいを聞いて出ることもあります。

ところで、このツレの「道行」か一之松での幕への呼び掛け、そしてアシライ出シでシテが登場、という展開は『熊野』とまったく同じ演出ですね。どちらかの作者がもう片方の能の演出を取り入れたのかもしれません。能としては『砧』の方が作は古いので『熊野』が『砧』を参考にしたと考えるのが自然でしょうが、長い上演のブランクがあって再興され、そのときに演出が練り直された『砧』の特殊な事情もあるので、一概にそうとも言い切れないかも。

ちなみに冒頭にワキが登場しない喜多流の場合では、最初にツレが「次第」の囃子で登場して名宣リ、道行と続くので、さらに『熊野』と同じ演出になっています。

『砧』~夕霧とは何者か(その1)

2013-03-27 10:11:44 | 能楽
さて遅くなりましたが例によって舞台進行を見ながら能『砧』を読み進めて参りましょう。この能は文句の美麗さでは大変有名ではありますが、じつは凝った修辞のためにちょっと意味が通りにくいところもあり詞章の意味を読み解くのは意外に難しいですね。

また前場の時間経過が不分明とは良く言われるところですが、ぬえはそれほど違和感を持っていません。『砧』の台本が人物の相関関係とか事件の経過など時間の進行に主眼が置かれているのではなく、シテの心理描写に重点が置かれているのは明白だし、その表現のためには事件「そのもの」さえ存在していればよいので、~たとえば遠くから誰かが擣つ砧の音が聞こえてきたとか、新たな使いが到着して夫がこの年の暮れにも帰郷できないと知らせるとか、こうした事件の積み重ねによって段々とシテが不安感に追い詰められていく事にこそ、この能のテーマの主流はあると思うのです。そもそも夫の帰郷を待つ妻(シテ)は夕霧の到着以前からすでに不安から憔悴していて、彼女にとって現実的な時間経過そのものが不分明であったでしょう。彼女にとっての時間とは、すでに夫が帰り来る「その日」としてしか意味を成していないのではないかと思います。

さて能『砧』は世阿弥晩年の自信作、というのが定説化していますが、室町末期にはすでに ほぼ上演は途絶えて忘れ去られた能になってしまいました。その後200年あまりを経て江戸前期に、宝生流、観世流で復曲され、次いで喜多流で、幕末から明治にかけて金剛流で流儀の上演曲に加えられました。金春流は戦後になっての復曲です。

こうしたことが原因なのか、シテ方の各流儀で、型や謡い方が大きく異なっている点も『砧』の特徴なのだそうです。もっとも能としての上演がなかった時代にも『砧』は謡としては上演されていたようで、現在観世流で重習とされているのと同じように、謡としても古来大事に扱われきたようで、喜多流を除けば各流儀で詞章にそれほど大きな異同はないようです。世阿弥の自筆本こそ伝存していないものの、『砧』は上演が途絶えている間も比較的本文がきちんと伝承されてきたようですね。

上記のように『砧』はシテ方各流儀で型や謡い方が異なっている能なのですが、ぬえはもとより観世流のことしかわからないので、このブログでも観世流の舞台進行のご紹介とさせて頂きます。

囃子方・地謡がそれぞれ幕と切戸から登場して着座すると、名宣笛でまずワキの蘆屋の某が登場します。ワキの後ろにはツレの侍女・夕霧が続いて登場するのですが、ワキとツレが一緒に登場するのは珍しい例ですね。まあ、皆無ではないでしょうが、その場合でもシテやツレ、あるいはツレ立衆が大勢登場する中にワキが交じっている、という例ばかりが頭に浮かび、このようにワキと、面を掛けた女ツレが二人っきりで登場するのは異例だと思います。

ワキは舞台常座に立ち、ツレはその後ろで正面に向いて、ワキの陰に隠れるように下居します。
ワキは素袍上下の出で立ち、ツレは唐織着流し。ともに市井の普段着の人物、という表現です。もっともワキは地元・九州蘆屋の豪族とか領主のような身分の高い人物と思われます。

ワキこれは九州芦屋の何某にて候。われ自訴の事あるにより在京仕り候。かりそめの在京とは存じ候ひつれども。当年三とせになりて候。余りに古里の事心もとなく候程に。召使ひ候夕霧と申す女を。古里へ下さばやと存じ候。<ワキの詞章は下懸リ宝生流による。以下同> ワキはツレに向き直って、
ワキ「いかに夕霧。余りに古里心もとなく候程に。おことを下し候べし。この年の暮には必ず下るべき由。心得て申し候へ。
ツレ「さらばやがて下り候べし。必ずこの年の暮には御下りあらうずるにて候。
ワキ「心得て候

ワキ…シテにとっては帰りを待ちわびる最愛の夫が訴訟ごとのために都に三年逗留している事実が観客に明かされ、自分が不在の故郷のことを心配して侍女・夕霧を使いに下す、という事情が知らされます。ワキが登場する前場はこれだけで、ツレに用事を言いつけるとワキはすぐに幕に引いてしまい、あと舞台は夕霧の旅の場面に移ります。ちなみに喜多流ではこの場面がなく、最初に舞台に登場するのは帰郷を急ぐ夕霧で、彼女の口から都での事情が説明される、という展開になっています。

『砧』を勤めさせて頂きます!

2013-03-26 00:32:47 | 能楽
来る4月21日(日)、国立能楽堂にて催される師家の別会「橘香会」(きっこうかい)にて、重習の能『砧』を披かせて頂くことになりました。世阿弥晩年の自信作とされる、まさに大曲ですね。重習の能は少し前に2度目の『望月』を伊豆で勤めて以来、また「橘香会」でシテを勤めさせて頂くのは数年前の『朝長』以来です。

お稽古はもちろん進めておりますのですが、技術ではなんともならない、何というか「佇まい」を見せる能で、深い演技を演者に課す能ですね。これは難しい。。

また、上演に際して調査も行っているのですが、やはり問題が山積、といった感じです。なんと言ってもツレ夕霧の存在が、能全体に重要な意味を持ってきて、この日上演されるもう一番の能『松風』と同じくツレが大きく台本に作用する能だと思います。

これから稽古が進んで苦しみが増えてくる頃だと思いますが、公演当日までには何とか ひとつの結論を持って舞台に上がりたいな、と考えております。

△▼△▼ 橘香会 ▼△▼△

平成25年4月21日(日) 国立能楽堂 午後1時開演(開場12時)

   仕舞 難 波 加藤眞悟
       田 村 伊藤嘉章
       蝉 丸 遠田 修
       枕之段 青木一郎
       玉之段 中村 裕

能  松 風
       シテ(松風)長谷川晴彦
       ツレ(村雨)梅若 泰志
       ワキ(旅僧)安田  登
       間 (浦人)三宅 右矩
       笛     栗林 祐輔
       小鼓    曽和 正博
       大鼓    大倉正之助
       後見    梅若万佐晴ほか
       地謡    青木 一郎ほか

狂言 井 杭 シテ(易者)三宅 右近
       アド(某) 三宅 近成
       アド(井杭)栗原福太郎

   仕舞 井 筒 梅若万佐晴
      景 清 梅若万三郎

能  
      前シテ(蘆屋某の北方)
      後シテ(北方の亡霊) ぬえ
      ツレ(夕霧) 青木 健一
      ワキ(蘆屋某)森  常好
      間(下人)  高澤 祐介
      笛      寺井 宏明
      小鼓     亀井 俊一
      大鼓     柿原 光博
      太鼓     桜井  均
      後見     梅若万佐晴ほか
      地謡     梅若万三郎ほか

              終了予定 五時五十五分

              主催:公益財団法人 梅若研能会

◆◇入場料◇◆(全席指定席)
      S席 10,000円
      A席  8,000円
      B席  6,000円
      C席  5,000円
      D席  4,000円
      ※学生席(D席以外)各席2,000円引き

【『砧』あらすじ】
九州の有力者、蘆屋某(ワキ)は訴訟のため上京したが訴訟が長引き、国元の妻(前シテ)は帰国を待ちわびていた。三年目の秋、帰りを待ちわびる妻のもとに帰国したのは侍女の夕霧(ツレ)ただひとりであった。妻は夫の無情さを嘆くが、せめてもの慰みにと、里人の打つ砧を取り寄せて打ちながら、我が思いをのせた砧を打つ音が都の夫の心に通じるようにと念じる。しかし今年も帰国できないという知らせを聞いた妻は、夫の心変わりを恨みながら病で命を落とす。
帰国した夫が妻の死を知り菩提を弔うと、妻の亡霊(後シテ)がやつれ果てた姿で現れる。妻は夫を思う恋慕の執心を持ちながら没したため、地獄に落ちていたが、いまだに夫が忘れられず、恋と恨みで揺れ動く思いを夫に訴える。そのつれなさを妻は責めるが、夫の読経の功徳によって成仏するのだった。

どうぞお誘い合わせの上ご来場をお待ち申し上げております。お申込は ぬえ宛メール(QYJ13065@nifty.com)でも承ります。

例によってこちらのブログでも『砧』について書いてみようと思っております。併せましてよろしくお願い申し上げます~~