ヌマンタの書斎

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真田信幸

2021-10-22 11:47:00 | 社会・政治・一般

人の生き死には、運命に左右される。

その運命とは川の流れにも似て、濁流と化すこともあれば、澱みにつかまることもある。その一方で、清流として健やかに山を下り、滔々と大河に合流して、堂々と海にそそがれる川もある。

もし出来るならば、後者のように最後は静かに海に流れ出たいと思うが、案外と汚泥に塗れて地下に沈殿するやもしれぬ。そんな運命の分かれ目が、家族を引き裂くこともある。

父である真田昌幸の子供として有名なのは、日ノ本一の強者と云われた真田幸村(信繁)である。しかし、戦国の世を生き抜き大名として後世に家を伝えたのは長子である信幸であった。

真田家は、信州の山間の地に領土を持つ土豪である。元々平地の少ない地域ゆえに土地に対する愛着心は強い。そしてこの地は武田家、上杉家、北条家、そして松平家から狙われ続けてきた。

父・昌幸は武田信玄の側近であり、あの三方が原での勝利にも貢献している。そのせいか、信玄亡き後も執拗に松平元康(後の徳川家康)から領地を狙われてきたので、両者の仲は極めて悪かった。

最終的には同盟を結んでいた上杉家の仲介もあり豊臣秀吉の側に付いて安泰を図ろうとした。しかし、家康の懐柔を狙う秀吉の命で、真田家は徳川家の部下とされてしまった。

屈辱を秀吉の前では甘受した昌幸であったが、やはり宿敵であった家康とは一度挨拶したきりで、距離を置いての冷戦状態であった。そこで、長子の信幸が家康の元に遣わされた。

上田城の攻防戦で徳川側をコテンパンに打ち破った信幸は、意外なことに家康の古参の武将たちから歓迎された。知勇伴う若き名将と賞され、特に徳川四天王の一人である本多忠勝から気に入られた。

こう言ってはなんだが、家康旗下の部下たちは基本的に体育会系というか脳みそ筋肉系である。唯一の例外は、本多正信くらいで皆そろいもそろって戦場の荒武者である。

真田信幸は日頃温厚で思慮深い人柄だが、一度戦場に出れば勇猛果敢な武者である。そのあたりが家康の部下たちに気に入られたようだ。その勇猛で知勇伴った若武者は、家康の目を引いた。

なんとか真田家の懐柔を狙っていた家康の一計で、忠勝の娘である小松姫を一旦家康の養女とし、信幸に嫁がせることになった。これが結果的には真田家の運命の岐路を決めることとなる。

実は信幸は既に正室をもっていた。名は伝わっていないが、信玄旗下の猛将として知られた真田信綱の娘で、清音院として知られている。信幸とは従兄弟の関係にあり、父・昌幸は激怒したが、信幸は受け入れている。

この婚姻が後のち、非常に重要な意味を持つ。秀吉の死後、三成の主導により起こった関ヶ原の戦いにおいて、父・昌幸と弟・信繁(幸村)は西軍方に付き敗者となる。

特に家康の後継者となる秀忠を上田城に釘づけにして、結果的に関ヶ原への参戦を遅らせたが故に、昌幸、信繁親子は死罪を賜っても仕方なかった。しかし、信幸の舅である本多忠勝と家康の養女でもあった小松姫の助命嘆願により九度山追放で済ませられている。

小松姫といえば、女性でありながら鎧を着こみ、長刀を振り回す勝気な女性として知られている。しかし、それ以上に賢女であった。正室から側室へ格下げとなった清音院と関係を修復し、義母である山手殿を九度山送りから救い出している。

また真田親子の別れの場となった犬伏城の別離の後、孫に会いたがった義父・昌幸を沼田城の門前で、もはや敵であると喝破して武装した姿で入城を拒む。しかし、その後近隣のお寺で孫との面会を認める優しさも見せている。

余談だが、城門の前で長刀を構えて待ち構える小松姫の勇姿をみた昌幸は、「これで真田家も安泰だ」と手の平返して絶賛している。それまで散々に嫌っていたことを忘れて、困った爺さんである。

一方、信幸は九度山に閉門された父と弟を金銭面で援助しているが、家康からの疑いを持たれぬよう、これまで以上に奮戦して家康の天下統一に貢献している。

その甲斐あって江戸幕府が成立以降も、上州の地に大名として残ることが出来たが、領主としても極めて有能で、浅間山の噴火などで疲弊した松代再建のため、初代松代藩主として転籍することになった。外様の大名としては、まずまずの成功者であろう。

また、この時代の人としては異例に長命であり、4代将軍家綱の代に93歳で天寿を全うしている。本人は早期に引退したがっていたが、その有能さから幕府がそれを認めず、おかげで子供たちから恨まれてしまったほどである。

ちなみに健康の秘訣は温泉療法であり、草津の湯がお気に入りだったそうだ。知名度からすれば、弟の信繁(幸村)に遠く及ばないが、真田家を生き残らせた成功者は、まちがいなく兄である信幸であったと思います。


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4 コメント

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Unknown (大俗物)
2021-10-22 22:20:00
こんばんわ。蛇足でありますが。
慶應義塾大学の理工学部(日吉キャンパス)の
真田教授は信幸の直系の子孫です。ときどき先端技術研究のTV映像や、旧領のパレードなどでお見受けします。知人に仙台真田つまり幸村の次男の子孫(大阪落城後に伊達政宗に匿われていた。後に仙台藩士)がおりますが、さすがに400年あまり経っているせいか容姿が全く似ていない(笑)
結局、どちらの真田も明治、大正、昭和、平成、
令和と残っておられますね。
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Unknown (ヌマンタ)
2021-10-25 11:51:06
大俗物さん、こんにちは。知人の方に隔意はないのですが、私は仙台真田については懐疑的です。仙台の真田家が公表している資料は明治、大正期の資料を基にしており、しかも専門家のものによるものではありません。
また、江戸時代の記録では信繁の長子も次男も死亡が確認されています。ただし娘が生き残り、仙台に引き取られています。これは家康自らが尋問しているほどで、それだけ生き残りの捜索に力を入れていた証左でもあるでしょう。敵の生き残りの男子を見逃すほど徳川は甘くないと思います。

そして、それ故にかつては仇敵でありながら、徳川の外様大名として生き残った信幸は凄いと思うのです。
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Unknown (kinkacho)
2021-10-25 22:40:41
ヌマンタさん、こんにちは。
真田の抜け穴近くの高校に通い、今も大阪城をランニングコースにしているkinkachoです。
家康と真っ向勝負したのに、お家断絶にならずに、血筋が現在に続いているのはこの人のお陰ですね。凄く有能で、隙の無い人だったと思います。
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Unknown (ヌマンタ)
2021-10-26 12:09:20
kinkachoさん、こんにちは。父である昌幸も信玄、勝頼の参謀として活躍していますが、信幸はそれ以上の才幹を持っていたのでしょうね。
近年になりかねてより噂にあった母・山手殿が石田光成の近親者であり、信幸が密かに連絡を石田方ととっていた書面が見つかっています。恐ろしく肝が据わった知恵者である側面ももった武人だったのだと、改めて感銘を受けています。
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