A title of our Lord, found in the Gospels about 80 times, used by him in speaking of himself, but never used by anyone else in speaking of him, though we see from Acts 7: 56 that Christians did apply it to him soon after his ascension. In the O.T. the expression “son of man” is frequently used to denote simply “a man” (e.g., Ps. 8: 4; Ps. 80: 17; Num. 23: 19; Job 25: 6). The expression is found 90 times in the book of Ezekiel, where the Lord uses the term for the prophet. The main ideas that probably underlie the title as applied to our Lord are1 lowliness, humility, and suffering (Matt. 11: 19 = Luke 7: 34; Mark 8: 31; Mark 9: 31; Mark 10: 34; Mark 14: 21);2 honor and dignity, as head and founder of the kingdom of God, and judge of all men (Mark 2: 10, 28; Matt. 13: 41; Matt. 16: 28; Matt. 19: 28; Matt. 24: 30-31; Matt. 25: 31; Matt. 26: 64);3 the thought of him as the representative or ideal Man, chosen by our Lord as expressive of his headship over the whole human family. Latter-day revelation confirms the special meaning and sacredness of this phrase when used as a name of the Savior, as in D&C 45: 39; D&C 49: 6, 22; D&C 58: 65; Moses 6: 57.
ところが、モーセ書1章12節
さて、モーセがこれらの言葉を語ったとき、見よ、サタンが来て、彼を誘惑して言った。「人の子モーセよ、わたしを拝みなさい。」
ですが、この箇所の「人の子」はモルモンの解釈では文字どうり「人間の子」と言う意味にだと言っていますね。
サタンはモーセに対して、神の子ではなく人間の子だと思わせようとして「人の子」と言った。と言うのが、モルモン教会のテキストの解釈です。
せっかくジョセフ・スミスが、聖書に記述を意識してモーセを「人の子(神に近い特別な存在)」と表現したのに、後の預言者は、その様には解釈しないんですね。
尚
タイトルの「マー君神の子不思議な子」は、楽天の前監督野村さんの言葉です。
そうですか??
NJさんは
このような意味、特に1や2の意味でモーセの書(1:12)に現れる「人の子」を受けとめればしっくりいくことがわかる。旧約外典の思想(用語を含む)が新約に反映し、さらにそれが末日聖典に流れ込んでいる例と考えられる
と言ってますが、日曜学校の「旧約聖書」教師用テキストの第1課p2の一番下の方に、こう書いて有ります。
・・・。サタンがモーセを「人の子」と呼んだのはなぜでしょうか。(サタンはモーセに、自分は神の子ではないと信じさせたかった)
つまり、この記述では、NJさんが言うところの「旧約外典の思想(用語を含む)が新約に反映し、さらにそれが末日聖典に流れ込んでいる例と考えられる」とは全く反対の解釈をしています。
旧約(ダニエル書以降)から新約に流れる「人の子」の意味は、「神から特別に召された者(預言者など)」「神の子」と言ったものですが、この日曜学校のテキストに書かれているのは、それとは全く逆で、「人の子」は「人間の子」と言う意味で、「神の子ではない」と説明しています。
ですから、
このような意味、特に1や2の意味でモーセの書(1:12)に現れる「人の子」を受けとめればしっくりいくことがわかる。
と言うのは変だと思います。私には、ぜんぜんしっくり来ないですけど・・。
私がしっくりくる、というのは「以前からこの「人の子」(12節)には聖書に独特の別の意味があるのではないか」と感じていた疑問に答えてくれると思ったからです。
サタンが「人の子モーセよ」と呼びかける部分が、「人の子」(神から前もって特別に召された者)という意味のほうが聖書的な感じを与えてくれます。(この部分に関してですが。)
「人の子」とは末日聖典の解釈でもキリストを指す言葉ですが、
この箇所だけ「神の子」に対するサタンの皮肉の言葉としてモーセに向けられているのは確かに違和感があるりますね。
しかし、キリストの雛形としてモーセを見るとマタイ4やルカ4で出てくる砂漠でのキリストの誘惑と比べると共通点が多くあることを考えると、サタンが「人の子」とモーセを呼んだ意味がわかるような気がしています。
高い山での誘惑、キリストでなく私を拝めと言った点など共通点が多いですね。
サタンの言った「人の子モーセよ、わたしを拝みなさい。」は神の子の反語と同時にキリスト(人の子)よわたしを拝めといった新約の部分に対応しているようにも思います。
高価な真珠でサタンは「わたしが独り子だ。わたしを拝め」と命じると
01:20 そこで、モーセはひどく恐れ始めた。そして、恐れ始めると、地獄の惨苦を目にした。
モーセがひどく混乱したのはなぜなのか、何を学ぶべきなのか考えさせられます。
>「人の子モーセよ、わたしを拝みなさい。」は神の子の反語と同時にキリスト(人の子)よわたしを拝めといった新約の部分[キリストに対する誘惑]に対応している
部分が大きいと思います。モチーフにおいても新約を受けついでいます。
また、ついでながら、
> モーセはひどく恐れ始めた。そして、恐れ始めると、地獄の惨苦を目にした。
の部分について今読んでいるブッシュマンの本にJSは苦難を意識した預言者であったことが窺えると書いています。
オムナイさんの前向きかつ柔軟な姿勢に学ぶべきものがあると思っています。
そういえば最初の示現でもJSが地獄の惨苦を味わう部分がありますし、
子供の頃ろ足の手術のエピソードもキリストの十字架で足を折られる部分を思い起こさせます。
愛唱歌も「悩める旅人」ですね。
5.
裸で傷つき、死ぬばかりの彼
道に見つけ、彼の息吹きかえし
薬もて直せば、わがうちにある
傷の痛み忘れ、心は和む
6.
獄舎(ひとや)に謀反(むほん)の刑を受く彼を見ぬ
われはあざけりの中、彼をたたう
われは彼のため死ぬかと問われて
身は弱けれど、霊は「死ぬ」と叫びぬ
などはキリストの苦難と自分自身に対する迫害を重ねていたのでしょうね。
>オムナイさんの前向きかつ柔軟な姿勢に学ぶべきものがあると思っています。
いえいえ、NJさんの足元にも及びません。
http://uchimurakorea.hp.infoseek.co.jp/uchimura/goroku/191302christian_anti-christ.htm
最近見つけた内村鑑三さんの言葉にNJさんを思い浮かべています。
神は有りという者、必ずしも信者にあらず。
神は無しという者、必ずしも不信者にあらず。
常に事物の光明的半面に着眼する者、これ信者なり。
その暗黒的半面に注目する者、これ不信者なり。
たとえモルモん書を偽典と思っていてもジョセフスミスの創作と思っていても信者として尊敬出来ているわけを知ることができました。
以下の二つの文献は聖典を的確に引用して「人の子」を明確に定義づけ、モルモンの教義の要ともいえる父なる神とその御子イエス・キリストの関係をはっきりさせています。
1.George M. Peacock 、Unlocking The Idiom,(Springville, UT:CFI, 2009),72.
ほとんどの聖書学者あるいは翻訳者は、「人の子」というこの言い回しを慣用句とみなしている。しかし、聖書を補う啓示が示すように、まず、これは固有名である。イエスあるいは死すべき人間は、単にひとの子であることを意味しているというように誤って解釈されてきた。しかし、聖書を補って明らかにされた真理は、そうでないことを示している。ブルース・R・マッコンキーは、以下の見解を公にした。
啓示された聖典すべてが、最高神が聖なる人であるという永遠の真理を証明している。モーセの記述によると、「アダムの言葉で、聖なる人とは神の名である。また、神の独り子の名は、人の子、すなわちイエス・キリストであり」(モーセ書6:57)と述べている。従って、イエスが古代の弟子たちに、「人々は人の子をだれと言っているか」(マタイ16:13)と尋ねられた時、「人々は私を誰だといっているのか?わたしは、私が聖なる人の子であることを証しする。つまり神であるその聖なる人の子であるということだが、人々は私が誰だといっているのか?」と聞かれたことと同じである。これと類似した聖句で、現在の神権時代初期に与えられた啓示の一つは次のように問いかけている。「純粋な言語で神のみ名は何か?」その答え:「アーマン」。問い:「神の子のみ名は何か?」答え:「御子アーマン」。(オルソン・プラット、モルモンの教義二版29頁)。主はエノクに自ら名乗って次のように言われた。「見よ、わたしは神である。聖なる人とはわたしの名である。賢慮の人とはわたしの名であり、無窮も永遠もわたしの名である。」(モーセ書7:35)
結論として、「人の子」とは、慣用句であるが、またイエス・キリストの固有名でもある。「神の子羊」、「油注がれし者」、「命のパン」、「生ける水」、及び「ことば」といった他の多くのイエス・キリストの名前は慣用句である。
2. LDS Bible Dictionary、Son Of Man
A title of our Lord, found in the Gospels about 80 times, used by him in speaking of himself, but never used by anyone else in speaking of him, though we see from Acts 7: 56 that Christians did apply it to him soon after his ascension. In the O.T. the expression “son of man” is frequently used to denote simply “a man” (e.g., Ps. 8: 4; Ps. 80: 17; Num. 23: 19; Job 25: 6). The expression is found 90 times in the book of Ezekiel, where the Lord uses the term for the prophet.
The main ideas that probably underlie the title as applied to our Lord are1 lowliness, humility, and suffering (Matt. 11: 19 = Luke 7: 34; Mark 8: 31; Mark 9: 31; Mark 10: 34; Mark 14: 21);2 honor and dignity, as head and founder of the kingdom of God, and judge of all men (Mark 2: 10, 28; Matt. 13: 41; Matt. 16: 28; Matt. 19: 28; Matt. 24: 30-31; Matt. 25: 31; Matt. 26: 64);3 the thought of him as the representative or ideal Man, chosen by our Lord as expressive of his headship over the whole human family.
Latter-day revelation confirms the special meaning and sacredness of this phrase when used as a name of the Savior, as in D&C 45: 39; D&C 49: 6, 22; D&C 58: 65; Moses 6: 57.
hikaruさま、二つの文献の紹介をありがとうございました。参考になります(したいです)が、少々lds側視点が強すぎるように感じられます。「人の子」はもう少し広い概念で捉えたいと考えています。
そういえば、明日第二週は「前世」「天上の会議」「予任」など興味ある概念が目白押しです。この分野も外典、偽典と関わりの強いところで、私はジョセフ・F・マッコンキーが記事を書いているのを知って興味深く見ています。C.Wilfred Griggs, ed., "Apocryphal Writings and the Latter-day Saints"BYU宗教学センター刊 '86 に Premortal Existence, Foreordinations, and Heavenly Councils というpaper を寄せているからです。