コメント
Unknown
(
教会員
)
2015-01-10 11:22:00
ヨハネは福音書を、ヘレニズム文化圏にいた当時の一般識者への啓蒙も意識していたということになるみたいですね。
その理解で言えば、「最初に言があった、言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った。・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。・・」
の意味するところは、
モルモン教会風表現
「最初に英知があった。英知は父と共にあった。英知はエホバであった。万物はその英知によって組織された。またその英知のうちにイエスがあった。イエスは人を照らす光である。 光は闇の中で輝いている。」
仏教風表現
「最初に因果があった、因果は仏と共にあった。因果は神である。万物はこの因果によって成った。因果のうちに釈迦が生まれた。釈迦は人を照らす道であった。道は苦の中で輝いている。」
にすんなりおきかえることができそうですね。
一般的なキリスト教では、父と子の関係が混沌としているために、ロゴスとか言われても信者はどうなのでしょう。 ロゴス=イエスキリストであるということは把握されているようですが。
成り立ちそう
(
nj
)
2015-01-10 21:48:40
二種の言い換え、成り立ちそうですね。拍手!
一般のキリスト教会の会員がヨハネ1:1をどう受け止めているのか、直接的には知りません。ただ、有名な言葉で、注解書もあり、伝統も割合長いですから、彼らの三位一体論に沿って、解釈が定着しているのではないでしょうか。「言は神と共にあった」の部分。
逆に「言は神であった」の部分は一般のキリスト教に自然に響くのではないかと思われます。
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-10 22:58:19
1:1 初めに御子を通して福音が宣べられた。福音は言葉であり,言葉は御子とともにあり,御子は神とともにおられ,御子は神から出ておられた。
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-10 23:08:39
「末日聖徒の中に,福音の真理と装って偽りの教義を説く人々がいるが,彼らは二つのタイプに分けることができる。また,実際にはこれ以外にない。第1は,完全に無知な人。怠惰のために英知を欠き,読書や勉強によって自己の進歩を図ろうとあまり努力しない人。不治の病すなわち怠惰に陥り,病んでいる人。
第2は,誇りが高く,うぬぼれの強い人。自分のうぬぼれた考えに照らして読み,自分の考えた法則で解釈し,自らが律法になろうとして,自分こそが自分の行為を裁く唯一の裁き手であるとする人。このような人は,第一の人以上に危険で無知な人である。」
Unknown さんへ
(
NJ (沼野)
)
2015-01-11 00:04:49
JSTを引用されたのですが、ではなぜJSTヨハネ1:1 は高価な真珠(正典)に含まれていないのでしょうか。JSTについて小生の記事をご覧くださればありがたいです。左ずっと下の検索で何件が見つかります。
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-11 10:34:58
少なくとも一般の哲学を参考にするよりはましなのでは。
Unknown
(
教会員
)
2015-01-11 11:50:16
ジョセフスミスの読み解きは、それはそれで立派で素晴らしいのですが、聖書の解釈は10人いれば10通りの自由が許されており、多重性ゆえに格調が高いものと思われます。
ただ何でも良いわけではなく、簡単で基本的な福音に調和しているかどうか照らし合わせて考えて見たときに、福音に調和しない解釈は偽りでしょうね。それは神がまかないものとして不協和音となり、いずれは抜き取られるということでしょう。
筆者の置かれていた聖書の時代背景(ヘレニズム文化圏への伝道を願っていた。)と共に読み解くならば、むしろ、アンモンがラモーナイ王に伝道しようとした気持と通ずるものがあるのではないだろうか。
「そのとおり」
(
NJ
)
2015-01-11 21:01:39
↑ 同感です。賛成!
憐れみ
(
Unknown
)
2015-01-11 22:35:28
沼野兄弟は自分が背教者であって、人々に対し加害者であると認識しているのだろうか?
自分が預言者よりも物事を正しく理解していると、レーマンたちのように誤解している。
沼野兄弟の無知と誤解の主張をブログやフェイスブックで発信することに、まともな教会員たちは迷惑がっています。
「真理」を誤解している教会員たちと組んで、科学的な根拠も間違っていて、聖霊からの証、啓示もない主張は、見苦しいです。
承知
(
沼野治郎
)
2015-01-12 00:25:57
どのように見られているかわかりました。指摘されて改めて状況を認識する事ができたと思っています。しかし、宗教を実践する人々の信仰を尊重しつつも、私は自分が歩んできた道(理解)の面で後戻りする事はないと思います。
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-12 22:32:45
憐れみのUnknownさんは、私ではありません。
ただ、以前から私が思っていたことが書かれています。ブログ主さんは、この教会の会員のようですが、証、聖霊の御霊といったこの教会の核と言っても良いものには、全く触れられていません。人の考えでは真理に到達しないということを教会が言っているにかかわらず、この世の学問から導きを受けようとしているようです。
この世の学問からは不完全な知識しか得られないことを教会員はよく知っているのではないでしょうか。
不完全な人の考えのみでいくら考えても、不完全な答えしか得られないのではないでしょうか。
人が人間の考えで真理に到達できるのならば、ブログ主さんよりももっと優秀な人間がとっくに真理に到達しているのではないでしょうか。そんな人がいたのでしょうか。いたら教えてください。
Unknown
(
教会員
)
2015-01-13 03:40:21
そこまで目くじらを立てることでしょうか。
教会では自分なりに聖書を研究して、自説を述べることは禁じられているものでもなく、禁じられているのはそのような自説があたかも教会が教えているかのように錯覚させたりすることだったはずです。
またもともと聖書の記述は多くが多義的であって、しばしば実際の歴史事件が末日に起きる予兆であったりしますので、指導者の誰かがAの解釈を述べたからと言って、他が全て否定されるものではないと思います。
ただ偽りの教えというのは確かにあり、そのようなものは他の聖典と明らかに反していたりしますので、それは注意すべきだと思います。
もっと重要なことは、ロゴスのような些細な見解の相違について、ことさら意見が一致しなくても、日の栄えの王国は両者に開かれているということです。
まともな豚
(
豚
)
2015-01-13 10:08:46
黒豚にイベリコ豚・・・豚にもいろいろありまして・・
まともな豚ってどんな豚なんでしょう?
痩せた豚でも、太った豚でも、その豚自身は自分はまともな豚だって思ってるのでは?
「俺はまともな豚だけど、お前はまともじゃない豚だ」ってどの豚が言えるのでしょうか?
言えるのは、トンカツを食べてるレストランの客だけじゃないかな?
まともな豚かどうかを考えるより先に、豚がまともな肉なのかを考える方が、世の中の為になるかと・・
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-13 13:27:06
1. さて、わたしニーファイが兄たちに語り終えると、見よ、兄たちは、「おまえは我々が聞くに堪えないほど厳しいことを言った」とわたしに言った。
2. そこでわたしは兄たちに、真理に従い、悪人にとって厳しいことを言ったのはよく承知していると話した。わたしは義人を義とし、彼らが終わりの日に高く上げられることを証した。そのために、罪のある者は真理が胸の底まで刺し貫くので、真理を厳しいものと思うのである。
3. 「兄さんたち、もし兄さんたちが義にかなっていて、神の御前をまっすぐに歩めるように、進んで真理に聞き従い、それを心に留めるならば、その真理のためにつぶやいて、『おまえは我々に厳しいことを言った』などとは言わないでしょう。」
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-13 13:42:29
15. わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
16. このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
福音の本質
(
豚
)
2015-01-13 14:35:08
たといわたしが,人々の言葉や御使たちの言葉を語っても,もし愛がなければ,わたしは,やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
たといまた,わたしに預言をする力があり,あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても,また,山を移すほどの強い信仰があっても,もし愛がなければ,わたしは無に等しい。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし,預言はすたれ,異言はやみ,知識はすたれるであろう。
なぜなら,わたしたちの知るところは一部分であり,預言するところも一部分にすぎない。
もしわたしが異言をもって祈るなら,わたしの霊は祈るが,知性は実を結ばないからである。
すると,どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に,知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に,知性でも歌おう。
そうでないと,もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても,初心者の席にいる者は,あなたの感謝に対して,どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか,彼には通じない。
感謝するのは結構だが,それで,ほかの人の徳を高めることにはならない。
親しく語りあわん~♪(笑)
(
やれやれ・・・
)
2015-01-15 13:57:22
聖典の言葉を使って、相手をけん制したり威嚇したり・・・
さすがはモルモンの神権者! いいね!
3
ブタとイヌ
(
教会員
)
2015-01-15 22:43:57
ジョージ・Q・キャノン長老は、次のように教えています。
「聖徒たちは、真理と神の業について現在知っている人々が、常にそのことを心に覚えて忠実でいられるなどと考えるべきではない。
律法に背いて聖なる御霊を失うならば、その瞬間から、神の業に関する知識が増すことはやみ、衰退してしまう。
そしてわずかな間に、信仰を否定するようになる。
彼らは、御業がかつて真実であったことや、長老たちがかつて神の僕であったことは否定しないかもしれない。
しかし、自ら境界を設けてこう言うであろう。
『以前は御業は真実であったし、長老たちは正しかった。しかしあのときから、道を誤っている。』
あのときとは、自分自身が何らかの行為に陥って神の御霊の導きを失い、それまでに授けられていた知識の増加が止まったときなのである。
このような例は、枚挙にいとまがない。……
分かり切ったことであるが、律法に背いたのは本人であり、それによって主の御霊を失い、そのときに『神の教会が道を誤っている』と非難するのである。罪に問われるのは、その人自身である。」 (Millennial Star 『ミレニアルスター』 1863年8月8日 p.505-506)
不信仰な人々は、預言者の勧告をこじつけによって、無視する傾向があります。
人々は、神から心が離れれば離れるほど他人の過ちや弱さが目につくようになり、自分を改善するよりも自分の過ちを合理化し正当化しようとするようになります。
教会の指導者や教義に対する深刻な非難は、十分に自分の義務を果たしていない人や預言者に従わない人、福音にそって生活していない人々から出ています。
ジョセフ・スミスは、次のように述べています。
「王国の奥義の鍵の1つをあなたに与えよう。
それは永遠の原則であり、神とともに永遠に存在してきた原則である。
もし誰か立ち上がって他人を攻撃し、教会の欠点を探そうとしたり、また自分は正しいがほかの人々は道から外れていると言ったりする人がいるなら、その人は、背教に通じる道をかなり進んでいると判断すべきである。
そして、そのような人は、もし悔い改めないなら、神が生きてましますように確かに、背教に陥るであろう。
この原則は、イエスが教えられた原則と同様に正しい。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.156-157)
人は皆、自分自身、自分の家族、教会内で与えられた権能のおよぶ範囲内に限り、個人的啓示を受けることができると信じています。
ジョセフ・スミスは、次のように教えました。
「いかなる教会員あるいは誰であっても、自分の持っている権能よりも高い権能を持っている指導者のために教えを受けることは、神の秩序に反しているということを知識としてあなた方に与えよう。
したがって、このような者の言葉に耳を傾けることは不適切だ。
しかし、誰であっても示現や天からのみ使いの訪れを受ける者は、自分個人のみの益と導きのためでなければならない。
それは教会の基本原則、政体、教義は、王国の鍵に付与されているからだ。……
以前与えられた啓示が適用しない場合以外は、決して特別の啓示を神に尋ねてはならない。
そしてその場合、神に啓示を求めるのは、大祭司の評議会で尋ねなければならない。」 (『教会歴史』 1:338-339 )
預言者と異なる見解を持つことは、背教と見なされるのでしょうか。
ジョージ・Q・キャノン長老は、この質問に次のように答えています。
「ある友人が知りたがっていたことであるが……
教会員と教会の役員の間にはっきりとした意見の相違がある場合、…それは背教と考えられるだろうか。
私たちはこれに対して、そのような相違が背教であると見なされたことはない、と答える。
なぜなら、教会の幹部とはっきり意見を異にしていても、意見が異なるだけではまだ背教者ではないと考えられるからである。
しかし、意見の相違を公にし、議論や詭弁や特別な弁解により、それを広めて分裂や争いを引き起こそうとし、教会の幹部の行いや勧告に誤った光を当てようとするならば、その人を背教者でないと考えることはできない。
なぜなら、そのような行為こそが、私たちの理解している背教だからである。
さらに言えば、理解が欠けているために教会の幹部とまったく異なる意見を持っている人は、それに関してどのような行動を取るか、きわめて慎重に選ばなければならない。
そうしないと、悪魔に利用されてたちまち背教という邪念に取りつかれ、神に対して、あるいは教会を管理するために神が地上に置かれた権威ある人々に対して、戦いを挑むようになるであろう。」 (Deseret News Weekly 『デゼレト・ニューズ・ウィークリー』 1869年11月3日 p.457)
ハロルド・B・リー大管長は、教会の内部から起こる偽りの教えについて、次のような警告を発しています。
「私たちの中にも、狼のような者がいる。
つまり、当教会の会員であると言っておきながら、群れを荒らしている者がいる、ということである。
また会員の中にはさまざまな曲がったことを言っている者もいる。
ここで言う『曲がったこと』とは、教会のまだ信仰の浅い会員を、自分の方に引っ張り込むために、故意に正しい原則から目をそらし、悪に固執することである。
また使徒パウロが言ったように、当時と同様、今日の私たちにとっても不思議でならないことがある。
それは会員の中に、非常に早く、福音を教えてくれた人々から離れ、またキリストの福音の真実の教えから離れて堕落し、悪意悪計に満ちた慣習と儀式を行うような背教の道を歩み出す人々がいるということである。
こうした背教者グループの中には考えもしなかった出来事をその身に招いているものもあるが、彼らは預言者の警告どおり、呪いを受けているのである。
こうした人々は、明らかにときの初め以来、サタンのろうするあらゆる詭弁を駆使して弱い人々を陥れようとするあの悪魔の一味なのである。」 (大会報告 1972年10月 p.125)
愛する者たちよ。
わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。
そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。
彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。 (ユダ 1:3-4)
ユダは教会の偽りの教師のことを、「しのび込ん」だと述べています。
この言葉のギリシャ語は「わきの入り口から滑り込む」を意味する複合語から派生しています。
背教した会員が福音の原則に公然と逆らうことはあまりありません。
むしろ彼らは巧妙に秘密の方法を用いて不用意な人を真理から遠ざけようとします。
教会員であるからということで偽りの教義を覆い隠す機会が得られるまで、傍らの入り口からそっと入り込んで会衆と静かに交流する人の表象を、ユダは用いています。
私たちが偽預言者や偽教師について考えるとき、明らかに誤った教義を支持したり、あるいはキリストの真の教えを自らの解釈で教える権能があると思い込んでいたりする人のことを想像しがちです。
そのような人を、社会の反主流を走る小さな革新的グループとかかわりのある人だとわれわれはしばしば考えます。
しかし、現に教会の会員であると自称する偽預言者や偽教師がいるのです。
何の権能もなく、自分の生産物や活動が教会の承認を得ていると主張する人たちもいます。
そのような人に気をつけてください。
彼らは自分勝手に教会の教義を説き、教会の基本原則を覆そうとする内容のシンポジウム、書物、および専門雑誌を提供することによって、誤った教義を広め仲間を集めようとしています。
神の真の預言者に反することを語り、それを公表する人々に注意しましょう。
また、自分たちがそそのかそうとしている人の永遠の幸福については関心を示そうとしない熱心な伝道者たちにも気をつけましょう。
『モルモン書』に出てくるニーホルやコリホルのように、彼らは巧妙な方法で人を騙したり、そそのかしたりして自分たちの考えに引き込みます。
彼らは「利益と世の誉れを得るために、説教をして自分自身を世の光として、シオンの幸いを求め…ない」のです。 (2ニフ 26:29)
背教者は去るべし
(
豚
)
2015-01-16 10:36:46
そうですよね・・・
教会に批判的な意見を持ちつつ、神権者として召しを果たすというのは、まったくもっておかしな話です。
背教者は、さっさと教会を去るべきですね。
そうすれば、無駄なことに時間や労力を割く必要もなくなる。
酒も飲めるし、什分の一も払わなくて済む。
日曜日も遊びに行ける。
教会員さん、よき勧告ありがとうございました。
いずこにありても. 樹に鳴く小鳥のごと その声楽しく♪
(
やれやれ・・・
)
2015-01-16 11:26:05
教会幹部の有り難いお言葉を見せ付けたって無駄ですよ~
だってこのブログにお集まりの方々は自分の気に入らないことは教会幹部の説教であろうと書籍であろうと
・それは過去のもの
・公式な教義ではない
・個人的な意見を言っただけ
の3点セットで無視しますのでね(笑)
そのくせ賞賛や脚光を浴びているモルモン会員がいると
・その人は立派な人物
・その人も私もモルモン
・だから私も立派な人物
という謎の三段論法で大喜びするんです。
素敵でしょ?
あなたもこんな素敵な知的モルモンに加わりませんか?
対話のテーブル
(
たまWEB
)
2015-01-17 09:17:32
うぅぅんんと、ネット上で、指導者に批判的書き込みがあったとしますよね、そしたら、指導者自身がへりくだってさぁ、対話のテーブルに降りてきて、いいかえれば、フォーラム、掲示板に参加して、そういった批判、疑問、質問などに、自らの声を具体的に聞かせる/答える/説明する/教えるみたいなことがないのは、どうしてなんだろう??ネットは、民主的、機会平等みたいな絶好の場と思ったりするんだが・・・・地元の指導者に制裁を加えさせるみたいなことしないでさぁ・・・・どこがどう問題となる焦点なのか、双方見解の食い違いとか、よりはっきりするんでは??
人に頼ってはならない
(
たまWEB
)
2015-01-17 14:37:45
背教云々なんだけど、味噌くそ一緒にして捨てようとしてはいないだろうか??人の価値は神の目に大いなるものであるとはあるけれど、ほんとに人が人の価値を計れるものなのかどうか??・・・・誰かが背教者であるといった裁きの啓示をほんとうに受けたということなんだろうか??或いは、単に誰かの判断の受け売りとしたらどうなのか?? 背教云々とする根拠とは??
昔の教会幹部の言葉を持ってくるとして、時代背景等はどうなのか??マウンテン・メドウの虐殺とかあっただろうし(1857)、当時、ブリガムに公然と反対したら、ダナイト団がやって来て処刑されてたかも。そういった時代の言葉を金科玉条として今日にあてはめるというのもなんだかなぁぁ・・・・聖典では、例えば、ジョセフ訳マルコ伝だと、「かたわらを歩むあなたの旗である者が戒めに背くものとなるなら彼を切り捨てなければならない・・・・すべての人に、他人のためではなく自分で立つか倒れるかさせなさい。人に頼ってはならない」(聖句ガイド、p310)とも。旗というの指導者ということかもしれない、教会の歴史でどの指導者に近しいどの傍らの人も、皆独立心旺盛だったら、ほとんど、間違いは起こらなかったのかも(マウンテン・メドウとか)・・・・実際は、あたかもフリーメイソンの組織の如く、上から来る指示・命令に服従みたいな、まぁ、時代がそうだったろうし、ネットによる情報共有みたいなのがヒラ会員間になかったわけだからね・・・・理想的には、ひとりひとりが独立出来てることでしょうかぁぁ・・・・
とまぁ、たまWEB、思うところ、書いてはみたんだが、はたして・・・・
単純に証がない
(
教会員
)
2015-01-17 17:41:16
ジョージ・Q・キャノン長老は、この質問に次のように答えています。
「ある友人が知りたがっていたことであるが……
教会員と教会の役員の間にはっきりとした意見の相違がある場合、…それは背教と考えられるだろうか。
私たちはこれに対して、そのような相違が背教であると見なされたことはない、と答える。
なぜなら、教会の幹部とはっきり意見を異にしていても、意見が異なるだけではまだ背教者ではないと考えられるからである。
しかし、意見の相違を公にし、議論や詭弁や特別な弁解により、それを広めて分裂や争いを引き起こそうとし、教会の幹部の行いや勧告に誤った光を当てようとするならば、その人を背教者でないと考えることはできない。
なぜなら、そのような行為こそが、私たちの理解している背教だからである。……」 (Deseret News Weekly 『デゼレト・ニューズ・ウィークリー』 1869年11月3日 p.457)
『……しかし、意見の相違を公にし、議論や詭弁や特別な弁解により、それを広めて……』
霊的な意味で従順とは神の御心を行うことで、神の教えに従い神が望んでおられる生活をすること、聖霊の促しを受け入れ従うことです。
ジョセフ・スミスは、従順について、次のように述べています。
「神が求められることは何でも正しい。
たとえずっと後にならないと理由が分からないものであっても、そうである。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.256)
L・トム・ペリー長老は、こう述べています。
「従順とは、受け身的であり、よく考えずに権威者の指示や命令に従うことであると考えることが往々にしてあります。
実際は、従順とは最高の権威者である神の知恵や力を信じる信仰が現れたものにほかなりません。
たとえ息子を犠牲にささげるよう命じられても、アブラハムが神を信じる揺るぎない信仰と従順さを行動で示したとき、神はアブラハムを救われました。
同様に、私たちが従順によって私たちの信仰を行動で示すときに、神は最終的には私たちを救ってくださるのです。」 (「忠実さから生まれる従順」 『リアホナ』 2014年4月)
ブリガム・ヤング大管長は、こう述べました。
「私はこの民が指導者をあまりにも信頼しすぎて、自分たちが神によって導かれているかどうか自分自身たずねようとしなくなることをことのほか憂慮している。
私が恐れているのは、この民が盲目な信頼に陥り良く考えもせずに信じて、自らの永遠の行く末を指導者の手に委ねることである。
こうした信頼は、彼らの救いに関する神の目的を妨げ指導者に対する彼らの影響力を弱めてしまう。
この民は、自分が正しい道に導かれていることをイエスの啓示によって自ら知ることができたのである。
男女を問わずすべての人は、聖霊の囁きによって指導者が主の導かれる道を歩んでいるかどうか、自分自身で知るように努めなければならない。」 (『ブリガム・ヤングの教え』 9:150)
“証がない”とは??
(
たまWEB
)
2015-01-17 19:29:44
うぅぅんんと、‘教会員’さんへの質問にもなるかな・・・・その得た証とは、どんなことで??
ちょうど今週末あたりでしょうか、ジョン・デーリンという教会員が、破門の憂き目に会う決定がなされたとか、ネットのフォーラムに出てるようだけど、
ジョン・デーリン・・・・「三名の活動家、教会から破門の通告を受ける モルモン教関連 / 2014-06-12 21:20:18
」
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/26af738b46fb4d033667b078bb6916cc
http://search.yahoo.co.jp/search?p=john%20dehlin&sp=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&SpellState=
はたして、彼ら破門対象の人たちが、そして彼がインタビューした200人くらいの教会員たちも、彼ら一人々について聖霊の導き、賜物が無かった人たち、それらからそれた人たちと言えるものなのかどうか??
例えば、彼らが、“意見の相違を公にし、議論や詭弁や特別な弁解により、それを広めて分裂や争いを引き起こそうとした”人たちと判断するといった場合、全く個人的に知らないような第3者が、例えば家族でないとか我々ですよね、はたして、そのような判断ができるものなのかどうか?? どこが争点になって論点になっているのかぁ、そういった判断材料も知っておいたほうがいい面もあるだろうし、このネット時代・・・・
彼らの動機は、高尚なものかもしれない。ポドカストによって(インタビュー音声)多くの会員が教会にとどまれたでしょうし、教会から離れる人の数を減らした効果があったんでは・・・・原則、従順とは神への従順であって、あらひとがみや人へではないということですよねぇぇ・・・・
誰か一人でも、ある人への破門は正しいとかって、これまで教会員人生で、まぁ、ヒラ会員として、個人的に聖霊の促し、証しを受けた経験ありとかって‘教会員’さんは、述べているんだろうか??
まぁ、たまWEB、すべて破門そのものに対し反対とかって言ってるわけではないんですけどね・・・・
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-17 20:07:15
律法に背いて聖なる御霊を失うならば、その瞬間から、神の業に関する知識が増すことはやみ、衰退してしまう。
そしてわずかな間に、信仰を否定するようになる。
彼らは、御業がかつて真実であったことや、長老たちがかつて神の僕であったことは否定しないかもしれない。
しかし、自ら境界を設けてこう言うであろう。
『以前は御業は真実であったし、長老たちは正しかった。しかしあのときから、道を誤っている。』
律法に背いて聖なる御霊を失うならば、その瞬間から、神の業に関する知識が増すことはやみ、衰退してしまう。
そしてわずかな間に、信仰を否定するようになる。
彼らは、御業がかつて真実であったことや、長老たちがかつて神の僕であったことは否定しないかもしれない。
しかし、自ら境界を設けてこう言うであろう。
『以前は御業は真実であったし、長老たちは正しかった。しかしあのときから、道を誤っている。』
あのときとは、自分自身が何らかの行為に陥って神の御霊の導きを失い、それまでに授けられていた知識の増加が止まったときなのである。
このような例は、枚挙にいとまがない。……
教会に対して疑いを持つ前に、まず自分自身にどこかおかしなところがないか、考えて見るべきではないだろうか。
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-17 20:56:39
とうスレッド内の教会員さんのコメントから一部コピーさせてもらいましたが、スマホにて、余計な作業中をしたゆえにコピーが重複しました。失礼いたしました。
教会に対してと言うことのみならず、批判する前に、まず自分を吟味してみるというのは、自身を含め誰にでも当てはまる事だと思います。
Unknown
(
たまWEB
)
2015-01-17 21:08:37
みたまを失っていると判断したということですが、その判断は何に基づいていたんでしょ??
“このような例は、枚挙にいとまがない”とありますが、自身で、得た証しとしてはどうなんでしょう??
“教会に対し疑いを持つ”という意味は、教会指導方針について意見を言うということでしょうか??
自身は教会指導方針については、満足で問題なし、すべてはよしみたいな感じでしょうか??
また同じあれですが、誰か一人でも、ある人への破門は正しいとかって、これまで教会員人生で、まぁ、ヒラ会員として、個人的に聖霊の促し、証しを受けた経験ありとかって‘教会員’さんは、述べているんだろうか??
“吟味せよ”
(
たまWEB
)
2015-01-17 21:25:48
自身は、吟味した結果、批判しなくなったとか、そういうふうに変わったとかいう経験ありということ??
当該者の問題視していることへの関心は特になしというか、封じる、防ぐ目的のみ??
吟味するということは、基本、建設的批判も含め、意見は歓迎しないみたいな??
沼野兄弟たちはごく少数派
(
狼きらい(削除、再掲載)
)
2015-01-17 23:09:36
沼野兄弟は、フェイスブックでは、無知からの誤解による誹謗中傷や暴言があります。
神聖な多妻婚をジョセフ・スミスは、色情狂だった述べ、自分の意見が正しいと思っています。
『モルモン書』はフィクション、「知恵の言葉」は戒めでないので従わない、同性愛は正しいなどの自分の意見が正しいと思っています。
教会の運営は、末端に行くほど「啓示」からではない人の間違い、清くない弱点からの人の加害などあります。
この点は、改善点を見つけたり、ゆるし合う目的での語り合いは正しいと思います。
しかし、現在あるとおりの、過去にあったとおりの、また未来にあるとおりの、物事についての知識、また、天からの光と啓示である「真理」は、批判を公に発して、言葉巧みに賛同者を集うのは、見苦しいです。
真理や預言者の教えに反対し、教会に対して不満をいうのは、自分は真理を理解できない、証がないと公表しているようなものです。
ルシフェルも自分の考えの方が、天父より優れていると主張しました。
「そんなに教会が嫌なら、教会を脱会したらどうですか?」と言われませんか?
私は悔い改めのほうをお勧めします。
ちなみに『モルモンフォーラム』の言語に関する記述はためになりました。
さすが専門分野ですね。尊敬しています。
他の内容は、たとえばフリーメーソンりーなどは、英文からの翻訳でしょうが、浅い知識で、ジョセフ・スミスなどが知りえた位置までまったくきていません。
したがって、やや誤解を生むような、つまり「真理」をあまり知らない人のこの世的な観点の文章になっています。
だから、普段から「先生」とよばれていても、「自分は物事を知っている」と自惚れないほうが良いです。
忠実な教会員である聖徒とは、イエス・キリストのようになろうと努力を続ける罪人です。
https://www.lds.org/scriptures/gs/saint?lang=jpn&letter=%E3%81%9B
忠実でない教会員は、信仰面や人間関係でこの世の人々とあまり変わらない問題がありますね。
この辺で
(
nj
)
2015-01-17 23:13:56
「ロゴス」に関連しないコメントに終始し始めましたので、この辺で受け付け終了とさせていただきます。
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その理解で言えば、「最初に言があった、言は神と共にあった。言は神であった。・・万物は言によって成った。・・言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。・・」
の意味するところは、
モルモン教会風表現
「最初に英知があった。英知は父と共にあった。英知はエホバであった。万物はその英知によって組織された。またその英知のうちにイエスがあった。イエスは人を照らす光である。 光は闇の中で輝いている。」
仏教風表現
「最初に因果があった、因果は仏と共にあった。因果は神である。万物はこの因果によって成った。因果のうちに釈迦が生まれた。釈迦は人を照らす道であった。道は苦の中で輝いている。」
にすんなりおきかえることができそうですね。
一般的なキリスト教では、父と子の関係が混沌としているために、ロゴスとか言われても信者はどうなのでしょう。 ロゴス=イエスキリストであるということは把握されているようですが。
一般のキリスト教会の会員がヨハネ1:1をどう受け止めているのか、直接的には知りません。ただ、有名な言葉で、注解書もあり、伝統も割合長いですから、彼らの三位一体論に沿って、解釈が定着しているのではないでしょうか。「言は神と共にあった」の部分。
逆に「言は神であった」の部分は一般のキリスト教に自然に響くのではないかと思われます。
第2は,誇りが高く,うぬぼれの強い人。自分のうぬぼれた考えに照らして読み,自分の考えた法則で解釈し,自らが律法になろうとして,自分こそが自分の行為を裁く唯一の裁き手であるとする人。このような人は,第一の人以上に危険で無知な人である。」
ただ何でも良いわけではなく、簡単で基本的な福音に調和しているかどうか照らし合わせて考えて見たときに、福音に調和しない解釈は偽りでしょうね。それは神がまかないものとして不協和音となり、いずれは抜き取られるということでしょう。
筆者の置かれていた聖書の時代背景(ヘレニズム文化圏への伝道を願っていた。)と共に読み解くならば、むしろ、アンモンがラモーナイ王に伝道しようとした気持と通ずるものがあるのではないだろうか。
自分が預言者よりも物事を正しく理解していると、レーマンたちのように誤解している。
沼野兄弟の無知と誤解の主張をブログやフェイスブックで発信することに、まともな教会員たちは迷惑がっています。
「真理」を誤解している教会員たちと組んで、科学的な根拠も間違っていて、聖霊からの証、啓示もない主張は、見苦しいです。
ただ、以前から私が思っていたことが書かれています。ブログ主さんは、この教会の会員のようですが、証、聖霊の御霊といったこの教会の核と言っても良いものには、全く触れられていません。人の考えでは真理に到達しないということを教会が言っているにかかわらず、この世の学問から導きを受けようとしているようです。
この世の学問からは不完全な知識しか得られないことを教会員はよく知っているのではないでしょうか。
不完全な人の考えのみでいくら考えても、不完全な答えしか得られないのではないでしょうか。
人が人間の考えで真理に到達できるのならば、ブログ主さんよりももっと優秀な人間がとっくに真理に到達しているのではないでしょうか。そんな人がいたのでしょうか。いたら教えてください。
教会では自分なりに聖書を研究して、自説を述べることは禁じられているものでもなく、禁じられているのはそのような自説があたかも教会が教えているかのように錯覚させたりすることだったはずです。
またもともと聖書の記述は多くが多義的であって、しばしば実際の歴史事件が末日に起きる予兆であったりしますので、指導者の誰かがAの解釈を述べたからと言って、他が全て否定されるものではないと思います。
ただ偽りの教えというのは確かにあり、そのようなものは他の聖典と明らかに反していたりしますので、それは注意すべきだと思います。
もっと重要なことは、ロゴスのような些細な見解の相違について、ことさら意見が一致しなくても、日の栄えの王国は両者に開かれているということです。
まともな豚ってどんな豚なんでしょう?
痩せた豚でも、太った豚でも、その豚自身は自分はまともな豚だって思ってるのでは?
「俺はまともな豚だけど、お前はまともじゃない豚だ」ってどの豚が言えるのでしょうか?
言えるのは、トンカツを食べてるレストランの客だけじゃないかな?
まともな豚かどうかを考えるより先に、豚がまともな肉なのかを考える方が、世の中の為になるかと・・
2. そこでわたしは兄たちに、真理に従い、悪人にとって厳しいことを言ったのはよく承知していると話した。わたしは義人を義とし、彼らが終わりの日に高く上げられることを証した。そのために、罪のある者は真理が胸の底まで刺し貫くので、真理を厳しいものと思うのである。
3. 「兄さんたち、もし兄さんたちが義にかなっていて、神の御前をまっすぐに歩めるように、進んで真理に聞き従い、それを心に留めるならば、その真理のためにつぶやいて、『おまえは我々に厳しいことを言った』などとは言わないでしょう。」
16. このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
たといまた,わたしに預言をする力があり,あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても,また,山を移すほどの強い信仰があっても,もし愛がなければ,わたしは無に等しい。
愛はいつまでも絶えることがない。しかし,預言はすたれ,異言はやみ,知識はすたれるであろう。
なぜなら,わたしたちの知るところは一部分であり,預言するところも一部分にすぎない。
もしわたしが異言をもって祈るなら,わたしの霊は祈るが,知性は実を結ばないからである。
すると,どうしたらよいのか。わたしは霊で祈ると共に,知性でも祈ろう。霊でさんびを歌うと共に,知性でも歌おう。
そうでないと,もしあなたが霊で祝福の言葉を唱えても,初心者の席にいる者は,あなたの感謝に対して,どうしてアァメンと言えようか。あなたが何を言っているのか,彼には通じない。
感謝するのは結構だが,それで,ほかの人の徳を高めることにはならない。
さすがはモルモンの神権者! いいね!
3
「聖徒たちは、真理と神の業について現在知っている人々が、常にそのことを心に覚えて忠実でいられるなどと考えるべきではない。
律法に背いて聖なる御霊を失うならば、その瞬間から、神の業に関する知識が増すことはやみ、衰退してしまう。
そしてわずかな間に、信仰を否定するようになる。
彼らは、御業がかつて真実であったことや、長老たちがかつて神の僕であったことは否定しないかもしれない。
しかし、自ら境界を設けてこう言うであろう。
『以前は御業は真実であったし、長老たちは正しかった。しかしあのときから、道を誤っている。』
あのときとは、自分自身が何らかの行為に陥って神の御霊の導きを失い、それまでに授けられていた知識の増加が止まったときなのである。
このような例は、枚挙にいとまがない。……
分かり切ったことであるが、律法に背いたのは本人であり、それによって主の御霊を失い、そのときに『神の教会が道を誤っている』と非難するのである。罪に問われるのは、その人自身である。」 (Millennial Star 『ミレニアルスター』 1863年8月8日 p.505-506)
不信仰な人々は、預言者の勧告をこじつけによって、無視する傾向があります。
人々は、神から心が離れれば離れるほど他人の過ちや弱さが目につくようになり、自分を改善するよりも自分の過ちを合理化し正当化しようとするようになります。
教会の指導者や教義に対する深刻な非難は、十分に自分の義務を果たしていない人や預言者に従わない人、福音にそって生活していない人々から出ています。
ジョセフ・スミスは、次のように述べています。
「王国の奥義の鍵の1つをあなたに与えよう。
それは永遠の原則であり、神とともに永遠に存在してきた原則である。
もし誰か立ち上がって他人を攻撃し、教会の欠点を探そうとしたり、また自分は正しいがほかの人々は道から外れていると言ったりする人がいるなら、その人は、背教に通じる道をかなり進んでいると判断すべきである。
そして、そのような人は、もし悔い改めないなら、神が生きてましますように確かに、背教に陥るであろう。
この原則は、イエスが教えられた原則と同様に正しい。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.156-157)
人は皆、自分自身、自分の家族、教会内で与えられた権能のおよぶ範囲内に限り、個人的啓示を受けることができると信じています。
ジョセフ・スミスは、次のように教えました。
「いかなる教会員あるいは誰であっても、自分の持っている権能よりも高い権能を持っている指導者のために教えを受けることは、神の秩序に反しているということを知識としてあなた方に与えよう。
したがって、このような者の言葉に耳を傾けることは不適切だ。
しかし、誰であっても示現や天からのみ使いの訪れを受ける者は、自分個人のみの益と導きのためでなければならない。
それは教会の基本原則、政体、教義は、王国の鍵に付与されているからだ。……
以前与えられた啓示が適用しない場合以外は、決して特別の啓示を神に尋ねてはならない。
そしてその場合、神に啓示を求めるのは、大祭司の評議会で尋ねなければならない。」 (『教会歴史』 1:338-339 )
預言者と異なる見解を持つことは、背教と見なされるのでしょうか。
ジョージ・Q・キャノン長老は、この質問に次のように答えています。
「ある友人が知りたがっていたことであるが……
教会員と教会の役員の間にはっきりとした意見の相違がある場合、…それは背教と考えられるだろうか。
私たちはこれに対して、そのような相違が背教であると見なされたことはない、と答える。
なぜなら、教会の幹部とはっきり意見を異にしていても、意見が異なるだけではまだ背教者ではないと考えられるからである。
しかし、意見の相違を公にし、議論や詭弁や特別な弁解により、それを広めて分裂や争いを引き起こそうとし、教会の幹部の行いや勧告に誤った光を当てようとするならば、その人を背教者でないと考えることはできない。
なぜなら、そのような行為こそが、私たちの理解している背教だからである。
さらに言えば、理解が欠けているために教会の幹部とまったく異なる意見を持っている人は、それに関してどのような行動を取るか、きわめて慎重に選ばなければならない。
そうしないと、悪魔に利用されてたちまち背教という邪念に取りつかれ、神に対して、あるいは教会を管理するために神が地上に置かれた権威ある人々に対して、戦いを挑むようになるであろう。」 (Deseret News Weekly 『デゼレト・ニューズ・ウィークリー』 1869年11月3日 p.457)
ハロルド・B・リー大管長は、教会の内部から起こる偽りの教えについて、次のような警告を発しています。
「私たちの中にも、狼のような者がいる。
つまり、当教会の会員であると言っておきながら、群れを荒らしている者がいる、ということである。
また会員の中にはさまざまな曲がったことを言っている者もいる。
ここで言う『曲がったこと』とは、教会のまだ信仰の浅い会員を、自分の方に引っ張り込むために、故意に正しい原則から目をそらし、悪に固執することである。
また使徒パウロが言ったように、当時と同様、今日の私たちにとっても不思議でならないことがある。
それは会員の中に、非常に早く、福音を教えてくれた人々から離れ、またキリストの福音の真実の教えから離れて堕落し、悪意悪計に満ちた慣習と儀式を行うような背教の道を歩み出す人々がいるということである。
こうした背教者グループの中には考えもしなかった出来事をその身に招いているものもあるが、彼らは預言者の警告どおり、呪いを受けているのである。
こうした人々は、明らかにときの初め以来、サタンのろうするあらゆる詭弁を駆使して弱い人々を陥れようとするあの悪魔の一味なのである。」 (大会報告 1972年10月 p.125)
愛する者たちよ。
わたしたちが共にあずかっている救について、あなたがたに書きおくりたいと心から願っていたので、聖徒たちによって、ひとたび伝えられた信仰のために戦うことを勧めるように、手紙をおくる必要を感じるに至った。
そのわけは、不信仰な人々がしのび込んできて、わたしたちの神の恵みを放縦な生活に変え、唯一の君であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからである。
彼らは、このようなさばきを受けることに、昔から予告されているのである。 (ユダ 1:3-4)
ユダは教会の偽りの教師のことを、「しのび込ん」だと述べています。
この言葉のギリシャ語は「わきの入り口から滑り込む」を意味する複合語から派生しています。
背教した会員が福音の原則に公然と逆らうことはあまりありません。
むしろ彼らは巧妙に秘密の方法を用いて不用意な人を真理から遠ざけようとします。
教会員であるからということで偽りの教義を覆い隠す機会が得られるまで、傍らの入り口からそっと入り込んで会衆と静かに交流する人の表象を、ユダは用いています。
私たちが偽預言者や偽教師について考えるとき、明らかに誤った教義を支持したり、あるいはキリストの真の教えを自らの解釈で教える権能があると思い込んでいたりする人のことを想像しがちです。
そのような人を、社会の反主流を走る小さな革新的グループとかかわりのある人だとわれわれはしばしば考えます。
しかし、現に教会の会員であると自称する偽預言者や偽教師がいるのです。
何の権能もなく、自分の生産物や活動が教会の承認を得ていると主張する人たちもいます。
そのような人に気をつけてください。
彼らは自分勝手に教会の教義を説き、教会の基本原則を覆そうとする内容のシンポジウム、書物、および専門雑誌を提供することによって、誤った教義を広め仲間を集めようとしています。
神の真の預言者に反することを語り、それを公表する人々に注意しましょう。
また、自分たちがそそのかそうとしている人の永遠の幸福については関心を示そうとしない熱心な伝道者たちにも気をつけましょう。
『モルモン書』に出てくるニーホルやコリホルのように、彼らは巧妙な方法で人を騙したり、そそのかしたりして自分たちの考えに引き込みます。
彼らは「利益と世の誉れを得るために、説教をして自分自身を世の光として、シオンの幸いを求め…ない」のです。 (2ニフ 26:29)
教会に批判的な意見を持ちつつ、神権者として召しを果たすというのは、まったくもっておかしな話です。
背教者は、さっさと教会を去るべきですね。
そうすれば、無駄なことに時間や労力を割く必要もなくなる。
酒も飲めるし、什分の一も払わなくて済む。
日曜日も遊びに行ける。
教会員さん、よき勧告ありがとうございました。
だってこのブログにお集まりの方々は自分の気に入らないことは教会幹部の説教であろうと書籍であろうと
・それは過去のもの
・公式な教義ではない
・個人的な意見を言っただけ
の3点セットで無視しますのでね(笑)
そのくせ賞賛や脚光を浴びているモルモン会員がいると
・その人は立派な人物
・その人も私もモルモン
・だから私も立派な人物
という謎の三段論法で大喜びするんです。
素敵でしょ?
あなたもこんな素敵な知的モルモンに加わりませんか?
昔の教会幹部の言葉を持ってくるとして、時代背景等はどうなのか??マウンテン・メドウの虐殺とかあっただろうし(1857)、当時、ブリガムに公然と反対したら、ダナイト団がやって来て処刑されてたかも。そういった時代の言葉を金科玉条として今日にあてはめるというのもなんだかなぁぁ・・・・聖典では、例えば、ジョセフ訳マルコ伝だと、「かたわらを歩むあなたの旗である者が戒めに背くものとなるなら彼を切り捨てなければならない・・・・すべての人に、他人のためではなく自分で立つか倒れるかさせなさい。人に頼ってはならない」(聖句ガイド、p310)とも。旗というの指導者ということかもしれない、教会の歴史でどの指導者に近しいどの傍らの人も、皆独立心旺盛だったら、ほとんど、間違いは起こらなかったのかも(マウンテン・メドウとか)・・・・実際は、あたかもフリーメイソンの組織の如く、上から来る指示・命令に服従みたいな、まぁ、時代がそうだったろうし、ネットによる情報共有みたいなのがヒラ会員間になかったわけだからね・・・・理想的には、ひとりひとりが独立出来てることでしょうかぁぁ・・・・
とまぁ、たまWEB、思うところ、書いてはみたんだが、はたして・・・・
「ある友人が知りたがっていたことであるが……
教会員と教会の役員の間にはっきりとした意見の相違がある場合、…それは背教と考えられるだろうか。
私たちはこれに対して、そのような相違が背教であると見なされたことはない、と答える。
なぜなら、教会の幹部とはっきり意見を異にしていても、意見が異なるだけではまだ背教者ではないと考えられるからである。
しかし、意見の相違を公にし、議論や詭弁や特別な弁解により、それを広めて分裂や争いを引き起こそうとし、教会の幹部の行いや勧告に誤った光を当てようとするならば、その人を背教者でないと考えることはできない。
なぜなら、そのような行為こそが、私たちの理解している背教だからである。……」 (Deseret News Weekly 『デゼレト・ニューズ・ウィークリー』 1869年11月3日 p.457)
『……しかし、意見の相違を公にし、議論や詭弁や特別な弁解により、それを広めて……』
霊的な意味で従順とは神の御心を行うことで、神の教えに従い神が望んでおられる生活をすること、聖霊の促しを受け入れ従うことです。
ジョセフ・スミスは、従順について、次のように述べています。
「神が求められることは何でも正しい。
たとえずっと後にならないと理由が分からないものであっても、そうである。」 (『預言者ジョセフ・スミスの教え』 p.256)
L・トム・ペリー長老は、こう述べています。
「従順とは、受け身的であり、よく考えずに権威者の指示や命令に従うことであると考えることが往々にしてあります。
実際は、従順とは最高の権威者である神の知恵や力を信じる信仰が現れたものにほかなりません。
たとえ息子を犠牲にささげるよう命じられても、アブラハムが神を信じる揺るぎない信仰と従順さを行動で示したとき、神はアブラハムを救われました。
同様に、私たちが従順によって私たちの信仰を行動で示すときに、神は最終的には私たちを救ってくださるのです。」 (「忠実さから生まれる従順」 『リアホナ』 2014年4月)
ブリガム・ヤング大管長は、こう述べました。
「私はこの民が指導者をあまりにも信頼しすぎて、自分たちが神によって導かれているかどうか自分自身たずねようとしなくなることをことのほか憂慮している。
私が恐れているのは、この民が盲目な信頼に陥り良く考えもせずに信じて、自らの永遠の行く末を指導者の手に委ねることである。
こうした信頼は、彼らの救いに関する神の目的を妨げ指導者に対する彼らの影響力を弱めてしまう。
この民は、自分が正しい道に導かれていることをイエスの啓示によって自ら知ることができたのである。
男女を問わずすべての人は、聖霊の囁きによって指導者が主の導かれる道を歩んでいるかどうか、自分自身で知るように努めなければならない。」 (『ブリガム・ヤングの教え』 9:150)
ちょうど今週末あたりでしょうか、ジョン・デーリンという教会員が、破門の憂き目に会う決定がなされたとか、ネットのフォーラムに出てるようだけど、
ジョン・デーリン・・・・「三名の活動家、教会から破門の通告を受ける モルモン教関連 / 2014-06-12 21:20:18
」
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/26af738b46fb4d033667b078bb6916cc
http://search.yahoo.co.jp/search?p=john%20dehlin&sp=1&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&SpellState=
はたして、彼ら破門対象の人たちが、そして彼がインタビューした200人くらいの教会員たちも、彼ら一人々について聖霊の導き、賜物が無かった人たち、それらからそれた人たちと言えるものなのかどうか??
例えば、彼らが、“意見の相違を公にし、議論や詭弁や特別な弁解により、それを広めて分裂や争いを引き起こそうとした”人たちと判断するといった場合、全く個人的に知らないような第3者が、例えば家族でないとか我々ですよね、はたして、そのような判断ができるものなのかどうか?? どこが争点になって論点になっているのかぁ、そういった判断材料も知っておいたほうがいい面もあるだろうし、このネット時代・・・・
彼らの動機は、高尚なものかもしれない。ポドカストによって(インタビュー音声)多くの会員が教会にとどまれたでしょうし、教会から離れる人の数を減らした効果があったんでは・・・・原則、従順とは神への従順であって、あらひとがみや人へではないということですよねぇぇ・・・・
誰か一人でも、ある人への破門は正しいとかって、これまで教会員人生で、まぁ、ヒラ会員として、個人的に聖霊の促し、証しを受けた経験ありとかって‘教会員’さんは、述べているんだろうか??
まぁ、たまWEB、すべて破門そのものに対し反対とかって言ってるわけではないんですけどね・・・・
そしてわずかな間に、信仰を否定するようになる。
彼らは、御業がかつて真実であったことや、長老たちがかつて神の僕であったことは否定しないかもしれない。
しかし、自ら境界を設けてこう言うであろう。
『以前は御業は真実であったし、長老たちは正しかった。しかしあのときから、道を誤っている。』
律法に背いて聖なる御霊を失うならば、その瞬間から、神の業に関する知識が増すことはやみ、衰退してしまう。
そしてわずかな間に、信仰を否定するようになる。
彼らは、御業がかつて真実であったことや、長老たちがかつて神の僕であったことは否定しないかもしれない。
しかし、自ら境界を設けてこう言うであろう。
『以前は御業は真実であったし、長老たちは正しかった。しかしあのときから、道を誤っている。』
あのときとは、自分自身が何らかの行為に陥って神の御霊の導きを失い、それまでに授けられていた知識の増加が止まったときなのである。
このような例は、枚挙にいとまがない。……
教会に対して疑いを持つ前に、まず自分自身にどこかおかしなところがないか、考えて見るべきではないだろうか。
教会に対してと言うことのみならず、批判する前に、まず自分を吟味してみるというのは、自身を含め誰にでも当てはまる事だと思います。
“このような例は、枚挙にいとまがない”とありますが、自身で、得た証しとしてはどうなんでしょう??
“教会に対し疑いを持つ”という意味は、教会指導方針について意見を言うということでしょうか??
自身は教会指導方針については、満足で問題なし、すべてはよしみたいな感じでしょうか??
また同じあれですが、誰か一人でも、ある人への破門は正しいとかって、これまで教会員人生で、まぁ、ヒラ会員として、個人的に聖霊の促し、証しを受けた経験ありとかって‘教会員’さんは、述べているんだろうか??
当該者の問題視していることへの関心は特になしというか、封じる、防ぐ目的のみ??
吟味するということは、基本、建設的批判も含め、意見は歓迎しないみたいな??
神聖な多妻婚をジョセフ・スミスは、色情狂だった述べ、自分の意見が正しいと思っています。
『モルモン書』はフィクション、「知恵の言葉」は戒めでないので従わない、同性愛は正しいなどの自分の意見が正しいと思っています。
教会の運営は、末端に行くほど「啓示」からではない人の間違い、清くない弱点からの人の加害などあります。
この点は、改善点を見つけたり、ゆるし合う目的での語り合いは正しいと思います。
しかし、現在あるとおりの、過去にあったとおりの、また未来にあるとおりの、物事についての知識、また、天からの光と啓示である「真理」は、批判を公に発して、言葉巧みに賛同者を集うのは、見苦しいです。
真理や預言者の教えに反対し、教会に対して不満をいうのは、自分は真理を理解できない、証がないと公表しているようなものです。
ルシフェルも自分の考えの方が、天父より優れていると主張しました。
「そんなに教会が嫌なら、教会を脱会したらどうですか?」と言われませんか?
私は悔い改めのほうをお勧めします。
ちなみに『モルモンフォーラム』の言語に関する記述はためになりました。
さすが専門分野ですね。尊敬しています。
他の内容は、たとえばフリーメーソンりーなどは、英文からの翻訳でしょうが、浅い知識で、ジョセフ・スミスなどが知りえた位置までまったくきていません。
したがって、やや誤解を生むような、つまり「真理」をあまり知らない人のこの世的な観点の文章になっています。
だから、普段から「先生」とよばれていても、「自分は物事を知っている」と自惚れないほうが良いです。
忠実な教会員である聖徒とは、イエス・キリストのようになろうと努力を続ける罪人です。
https://www.lds.org/scriptures/gs/saint?lang=jpn&letter=%E3%81%9B
忠実でない教会員は、信仰面や人間関係でこの世の人々とあまり変わらない問題がありますね。
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。