16 コメント

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霊の存在 ()
2019-02-21 18:41:00
>このようにヘブル語は霊魂 / 肉体の二分法を知らないので、魂を肉体とは別の見えないものとは考えない。

その根拠がよく分かりません。

そもそも、創世記2章7節には、「神は土のチリで人間を作り、命の息をその鼻に吹きいれられた。」と書いてあります。

これは、肉体と霊がはっきりと別の物だという事を意味すると思うのですが。

他にも、聖書には悪霊とか出てきますし、霊が肉体を持たずに単独で存在するという視点で書かれてある部分は、少なからずあります。

モルモンンは、すべての生物はまず霊の形で創造された、と言う教義ですから、この著者の視点とは真っ向から食い違いますね。
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要するに (教会員R)
2019-02-22 08:15:24
肉体と霊が不可分とするヘブルの文化があって、それよりも古い別の文化(肉体と霊を識別している文化の創世記神話)をヘブルの文化が拝借した時点で聖典に齟齬が生じて理解しにくくなっているのでしょう。

さらにまた、イエスの死後に異邦人に伝わることで(肉体と霊を識別している文化の)哲学に影響されて余計に分かりにくくなったものと思われる。

イエスを基点に考えてヘブルの文化に軍配が上がるとすれば、キリスト教は全て失格になってしまうことになる。
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要してない? ()
2019-02-22 13:08:41
何の根拠もなく断言できる人は素晴らしい!!

そういう方の話は横に置いといて・・・。


>それでヘブル語は生ける人間を指し示すのに「魂」nephes という語、あるいは「肉」basar という語を区別せずに使用する。

へブル人が、「Kol-hannephes」と「Kol-basar」が同じ事を意味している。と言うのは、それが同じ意味の言葉である(例えば、カレーライスとライスカレー)と言っていいのでしょうか?

ローマ人への手紙8章の冒頭から引用します。(長くてすみません)

こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。

ここでは、明らかに肉と霊を区別している。対比させている。

私の憶測で、全く根拠はないが、人間はこの世に生きる「肉の者」でも有り、神と共に生きる「霊の者」でもある。と言う解釈なのではないか?

やっぱ、哲学は豚には向いてない・・・。
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要は (オムナイ)
2019-02-22 15:14:24
ギリシャ語とか英語に訳された聖書というのは本来のヘブライ思想とはずいぶんかけ離れてしまった。

ということでしょうね。

それでも残骸のように、ヘブライ思想の痕跡があると。
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課題、話題が沸き上がります (NJ)
2019-02-22 17:48:23
コメントされた3名の方は、いずれも「そうですね」としか言えないレベルの高いことを述べられました。

まず、豚さんがヘブライ語を引用されたので、どこから引用されたのか驚きました。とにかく、指摘されたことはごもっともです、と申し上げます。

トレモンタンはギリシャ的な思考と対比して書いていて、二元化はそのせいと言っているようです。

少なくともへブル思想には、魂とか英語でいう soul という概念が二元論ではない形でヘブライ語聖書に出てくる、という点で私は理解が前進したと感じたわけです。(ほかにも学んだことがいくつもありますが。)
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Unknown (Unknown)
2019-02-23 01:30:31
ローマ人への手紙の作者と書かれた目的を考えれば、それをヘブル思想と言うのには無理があるのでは?

それと聖書だけを取り上げてこう書かれてあるから(あるいはこう書かれていないから)という狭い範囲でヘブル思想を語るのもどうかと思います。

一番の問題は末日聖徒は、LDS教会から教え込まれた解釈以外を知らないのに、その内容が聖書学的に正しいと根拠なしに思い込んでいることです。そうしたバイアスの下で研究者の著書を読んでも理解はできないでしょう。

LDS教会発行の書籍を脇に置いて、まともな聖書注解書から学ばれることをお勧めいたします。
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バイアスは必要 ()
2019-02-25 15:44:30
>ローマ人への手紙の作者と書かれた目的を考えれば、それをヘブル思想と言うのには無理があるのでは?

確かにパウロは、生まれながらにローマの市民権を持って居たようですが、同時にベニヤミンの出で、ファリサイ派に属していたれっきとしたユダヤ人です。(聖書の記述では)、さらに当初はキリスト教徒を迫害していたという記述から、かなり熱心なユダヤ教徒の思想家だったのではないでしょうか?

そこから、私は、彼がへブル思想の持ち主だと考えます。
 よろしければ、「ヘブル思想と言うのには無理があるのでは?」と思う理由を教えてください。

聖書だけと言われれば、確かに範囲は狭いですが、少なくとも、このブログでの、共有できる数少ない書物だと思います。

多種多様な文献から引き出してきても、互いの共通認識が無ければ、理解しようがないと思います。

>そうしたバイアスの下で研究者の著書を読んでも理解はできないでしょう。

意味は違うかも知れませんが、私の勉強した電気の方面では、バイアスは時に必要なものです。
電子回路では、あらかじめかけたバイアスが、基準値の役目を担います。

宗教でも、全く宗教観を持たない人同士が宗教について話しても、宗教を理解するのは難しいのではないでしょうか?

私は、モルモンと言うバイアスが有るから、それを基準として、キリスト教を認識できるのだと思っています。

私はモルモンの宣教師と出会わなかったら、聖書を読むことも無く、キリストについて考えることも無かったでしょう。

何処から登ても、山の頂は一つじゃないですか?
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Unknown (教会員R)
2019-02-26 08:04:37
パウロの書いたローマ人への手紙8は、

神を喜ばせるために開かれている、真のクリスチャンであるためのゲームのルールの説明と考えると分かりやすいでしょう。

このゲームの勝利条件は、「イエスの説いた霊的に生きるの意味を悟って生涯を終えること」であって、プレーヤー(真のクリスチャン)でいられる条件は「肉体の死について考えないこと」につきる。

ここで言う「罪」とは反則(肉の死について考えたり問うこと)であり、その罰は「死」(退場命令を受けること)と考えれば、すべて説明がつきます。

■キリスト・イエスにある者(プレーヤーとは)は罪に定められることがない(者のことである)。 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則(ルール)は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

■これは律法の要求(ルール)が、肉によらず霊によって歩くわたしたち(プレーヤー)において、満たされるためである。 なぜなら、肉に従う者(退場者)は肉のことを思い、霊に従う者(プレーヤー)は霊のことを思うからである。

■それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである(ルールはルール)。 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。(当たり前だ)

■もし、キリストがあなたがたの内におられるなら(プレーヤーであり続けるなら)、からだは(アダムの)罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きている(プレーヤーとして生き続けられる)のである。

■イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っている(プレーヤーとして活動中)なら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださる(肉体の死という現象は存在しない)であろう。

■兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者である(人間誰でも死ぬ)が、肉に従って生きる責任(死ぬ死ぬと考えなければならない責任)を肉に対して負っているのではない。

■なぜなら、もし、肉に従って生きる(肉体の死を考える)なら、あなたがたは死ぬ外はない(ルール違反によって退場しかない)からである。しかし、霊(考え方)によってからだの働きを殺す(死ぬ死ぬと考えない)なら、あなたがたは生きるであろう(永遠にプレーヤーで居続けられる)。
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Unknown (Unknown)
2019-02-27 07:12:58
豚さんへ

お返事どうもです。

私、コメントしてから考えてみたのですが、このトレスモンタンさんが言ってる『ヘブル思想』というのがそもそも何か?それを私らの方が捉え違いをしているのでは?ということに気が付きました。

私は『ヘブル思想』というのはユダヤ人の伝統的なものの考え方でそれは旧約聖書の中で顕著になっているもののことだと考えてこの記事を読んでおりましたが、トレスモンタンさんがその意味で使っていないかも知れないと思い至りました。

この点を間違えると最初からボタンの掛け違いが起こるわけですね。豚さんはどういう意味で『ヘブル思想』を捉えていらっしゃるのですか?

とりあえずその前提で話を進めるとして、パウロはユダヤ人であり、かつては伝統的なユダヤ人の思想を持っていたので多くのキリスト教徒を迫害しておりましたが、聖書によれば劇的な改宗をしたため、自らの『ヘブル思想』を捨て(あるいはそれから抜け出し)キリスト教と言う新しい思想に飛び込んだのだという認識です。

その新しい思想を伝えるのがローマ人への手紙を含むパウロ書簡であるため、新約聖書をもって『ヘブル思想』の根拠とするのはいかがなものかと思うわけですね。ただし先に述べましたように、トレスモンタンさんが言う『ヘブル思想』が何なのかまずはっきりしないとどうにもならないのですが。
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Unknown (Unknown)
2019-02-27 07:20:58
>私はモルモンの宣教師と出会わなかったら、聖書を読むことも無く、キリストについて考えることも無かったでしょう。

それは私もそうですね。しかし伝統的なキリスト教への理解を進めれば理解されていくと思いますが、末日聖徒イエス・キリスト教会の教えていることとはキリスト教ではありません。

ありませんと言い切ると反発する末日聖徒ももいるでしょうから言い換えますと、伝統的な店で修業を積んだ職人が握る寿司と、バイトの店員が作る回転ずしの違いだと言えば的確かなと思います。
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