「また、あの娼婦の母であるあの忌まわしい教会が、小羊の福音の大変分かりやすくて尊い部分[を】差し止め」た、 ('the most plain and precious parts of the gospel of the Lamb … have been kept back by that abominable church, which is the mother of harlots')と翻訳し、
同書1 4章1 1節でニーファイが「あの全地の淫婦を眺めてみると、彼女は多くの水の上に座を占め、 すべての国民、部族、国語の民、民族の中にあって全地を支配していた」('And it came to pass that I looked and beheld the whore of ail the earth, and she sat upon many waters; and she had domimon over Ⅱ the earth, among all nations, kindreds, tongues, and people. ,)と語るとき、 翻訳者ジョセフ・スミスと彼の同時代の末日聖徒の頭の中には、大背教の基であるカトリック教会が思い浮かべられていたことはほぼ間違いない。
2)「悩み」~米国クリスチャンの抵抗 米国キリスト教連合協議会事務局長サミュエル・コヴァートは、1945 年 8 月9日付のハリー・トルーマン大統領宛ての 電文で、冒頭から「多くのクリスチャンが日本の都市への原爆投下に著しく心をかき乱されている(“Many Christians deeply disturbed over use of Atomic Bombs against Japanese cities.”)」と非難し、その理由として「必然的に 引き起こされる無差別の破壊的影響、および人類の未来に向けて極めて危険な先例をつくることになる」 ーーーー 当時末日聖徒も同じような気持ちだったようですね。
教会に留まっている会員や信じている教会員を揶揄するような、意地悪に聞こえる表現は控えていただきたいと思います。
私が希望するのは、宗教社会学的なスタンスで、ある宗教の欠点や短所と見えることがあってもそれをあげつらうのではなく、客観的な表現で議論することです。
ここはlds教会の存在や所属教会員を全般的に肯定的に見た上で(暗黙の前提として)、意見交換や観察を行なう場としたいと思います。
アメリカのlds関連で言えば、ダイアログ誌やサンストーン誌、他のもっと新しいリベラルな出版社の論調を見ても、相手をやりこめるような物言いを見かけることはなく、きちんとしたメディアの節度は守っていると思います。
発言の自由は貴重ですが、発言の仕方にはマナーがあります。主宰者の意図やこのフォーラムの性格も尊重されねばなりません。
乳に浸して
戴きます
ーーーー
>「ふと気づく 開催したい イザヤ研」
わー。素晴らしい!素晴らしい。小聖書!
パリオリンピック、大阪万博、イザヤ研。
楽しみと希望いっぱいの人生終盤になりそうです。
是非実現を。
>教会に留まっている会員や信じている教会員を揶揄するような、意地悪に聞こえる表現は控えていただきたいと思います。
承知して発言をしてきたつもりです。
私も、教会に留まっている会員の一人です。
>ある宗教の欠点や短所と見えることがあってもそれをあげつらうのではなく、客観的な表現で議論することです。
おっしゃる通りで、モルモンが言われて嫌なことを他の教会に言うべきではないと常々思います。私の他界した叔父がプロテスタントだったので、モルモン会員同士で他の教会について話題にするとき彼を想います。
私は「最初の示現」に記載された、他の教会に関する部分は今の時代では必要ないだろうと考えています。もし仮にその部分を削除したとしたら教会内外で大きな話題になるでしょうが、好意的に受け止められるのではないかと想像しています。
もし、そう言う意図があったとしても解釈変更でいけるんじゃないでしょうか。
個人的にはJS当時多くの教派がうちの教会が正しい、他は間違っている。という流れの中で
「どこが正しい?」という素朴な疑問の中で「全て正しくない」という天啓が降ったもので、その後のJSの他教会への寛容な態度はそれを示しています。
削除ではなく「モルモンは最初の示現で全てのキリスト教を正しくないと揶揄してますね?」と問われる時に肯定的に説明する知識を身につけて欲しいと思います。
一方、現代の思想にに照らせば相応しくない表現もモルモン書にはありますね。それは解釈変更で対応していくべきだと思います。
https://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/2/26967/20141016155623736116/BRCTR_5_h13.pdf
ジョセフ・スミスの語りが『モルモン書』の物語の語り手の語りと重なってくる、もう一・つの例をあげよう。
第1ニーファイ1 3章と1 4章で、 ニーファイの見ている示現の中に現れる「悪魔の教会」の語られ方である。
この反キリストの教会は、あらゆる偽りの宗教一般を普遍的に意味したはずである。
宗派の違いに対して理解と寛容を示す現代の末日聖徒にとっては確かにそうでなければ困るはずだ。
そしておそらく ーファイ自身にとってはそうだった、と考える方がより原文の価値を高めると考えられるだろう。
ところが、マーク・D・トマス(Mark D- Thomas)が論じているように、
ジョセフ・スミスと1 9世紀初期の『モルモン書』の読者にとっては、
明らかに個別の、特定の教会を指す表現が使われて語られているように思われる。
ジョセフ。スミスが実際に生きた宗教世界は、議論の余地なくプロテスタントの福千年思想に支配された世界であり、
その思想的文脈の中では、反キリストとは、ローマ・カトリック教会を意味した。
そして、黙示録やその他の箇所に現れる「獣」や「娼婦の母」、「多くの水の中にすわっている大淫婦」(黙示録1 7章)は、
かなり明確にカトリック教会を意味し、ジョセフ・スミスが第1ニーファイ1 3章3 4節で
「また、あの娼婦の母であるあの忌まわしい教会が、小羊の福音の大変分かりやすくて尊い部分[を】差し止め」た、
('the most plain and precious parts of the gospel of the Lamb … have been kept back by that abominable church, which is the mother of harlots')と翻訳し、
同書1 4章1 1節でニーファイが「あの全地の淫婦を眺めてみると、彼女は多くの水の上に座を占め、
すべての国民、部族、国語の民、民族の中にあって全地を支配していた」('And it came to pass that I looked and beheld the whore of ail the earth, and she sat upon many waters; and she had domimon over Ⅱ the earth, among all nations, kindreds, tongues, and people. ,)と語るとき、
翻訳者ジョセフ・スミスと彼の同時代の末日聖徒の頭の中には、大背教の基であるカトリック教会が思い浮かべられていたことはほぼ間違いない。
トマスは、1 8 2 0年、3 0年代のアメリカへの大規模なカトリック教徒の移民が、
アメリカ1 9世紀初期の終末思想の中で反キリスト教会がカトリック教会と同一視される傾向を増長させたと指摘している。
少なくとも『モルモン書』初版出版時の末日聖徒たちにとって、
ニーファイの語りは、ジョセフ・スミスのプロテスタント目線の語りと重なっていたと考えられる。
ーーー
なので、日曜学校やセミナリーで「特定の教会を指すのではなく。。」と教えるのではなくそういった歴史も含めて教えて欲しいんですね。
「留守がちな 老人宅は 気が付けば
訪う(とう)客が 住民の如(ごと)」
いろいろ重要な話題(項目)が交わされていますが、それぞれに対応できないもどかしさを感じています。申し訳なく思っています。(目は通しています。)
(1)必要ない
・伝道活動の上でも他の教会との交流を考える上でも、この部分は障害になることはあれ、友好関係を損なう内容をはらんでいる。
・最初の示現をテーマにした伝道用フィルムで、何十年も前のものでも、最近のものでも、他の教会を非難する部分は表現されていない
・ヒンクレー大管長が、この部分を教会外の人に伝える必要はない、との発言がリアホナ(総大会?)であった(教会のライブラリーetcで確認とれず)。
(2)「一切関係ない」件との均衡
伝統的キリスト教会が「当教会はモルモンと一切関係ない」との表記をすることに憤慨する末日聖徒がいるのに、末日聖徒側がモルモン教義を顧みないとすれば、アンバランスとなること。
(3)ジョセフ・スミス・ペーパーズ
https://www.josephsmithpapers.org/articles/primary-accounts-of-first-vision-jpn#a1832
現在、ジョセフ・スミス歴史の最初の示現として知られている部分は、1938年に書かれたものであるが、その原型は1832年のジョセフ・スミスの日記。その中にも「彼らは福音からそれ,わたしの戒めに従わない。 彼らは唇をもってわたしに近づくが,その心はわたしから遠く離れている 」という部分は存在するが、それは他のキリスト教会を非難する内容ではない。どちらかと言えば、世の人はみな罪の中にいるという主旨である。
推測ですが、当時ジョセフの教会が拡大し既存のキリスト教会との対決姿勢を深める中で、教会の優位性の根拠を過去の神秘体験に求めた文書をジョセフが書いた、ということだと思います。現在では他のキリスト教会とそうする必要はなくなってきております。
こう書きますと、お前は預言者ジョセフを信じないのか?と詰問されそうですが、そもそも最初の示現の宗教的意義は、誰しもが個人的に神からの答えを受けられるという点である、との理解が私の信仰であります。彼の文書の一言一句を神からの絶対真理と受け止める立場を私は取っておりません。ですので、いや、末日聖徒ならそうすべきである、と求めてくる方がいたとしても、私には同意できかねるのです。
また、解釈の仕方でなんとかする、肯定的に説明する、という提案につきましてですが、アルビン・ダイヤー長老の「何の目的で」という文書が黒人への神権を禁じた理由を彼なりに肯定的に説明しようとして、完全に失敗しているという前例があります。副管長となる人物でさえそうなのですから。無理な理屈を作り出すよりも、多妻結婚や黒人への神権禁止と同様に、必要でなくなったものは捨てる、のが一番いいのではないかと考えます。
私とは意見が違いますが、ひとつのありかたかも知れませんね。
ニーファイはイザヤ書に「喜びを感じる」と書いていますが、
それこそインステやセミナリーの解釈を鵜呑みにしてきた感があります。
わたしの場合はイザヤ研に向けて恥をかかぬよう「予習」をしたいと思います。
紹介して頂いた書籍
『教会はイザヤ書をいかに解釈してきたか 七十人訳から現代まで』
クリスチャン新聞さんに書評がありました。
旧約聖書イザヤ書は新約につながる預言を多く含む。
キリスト教会では古来多くの注釈がほどこされ、預言の解釈法も多様だ。
本書はイザヤ書を具体例にした聖書解釈史の入門書。
著者は、時代をこえて一貫する解釈の方向性や「系統的類似」があるとして、
歴史的批判解釈、ポストモダン解釈の限界を指摘し、旧新約全巻についての正典的解釈を回復させていく。
単に「教条的」になるのではなく、聖書解釈の営みが聖書をとらえる「苦闘」の歴史であることが、
各時代や各神学者の解釈例から伝わってくる。
現代の教会にとって励みになるものだ。
その「感動」は、かつてまい進していた歴史批判研究から方向転換したという訳者のあとがきに現れている。
ーーーーー
もしかして私のことを言っておられます?
私も教会に集っている末日聖徒の一人ですよ(昨日は用事があっていけませんでしたが)。
プロト、デウトロ、トリトの問題があるのでイザヤ書は末日聖徒にとっては鬼門でしょう。これはほぼ常識レベルで学術的に広く浸透しており、長年この説に対してモルモン教会は学術的に回答する手段がありませんでした。
近年になって、イザヤ書の一貫性を信じるアブラハム・ギレアデの著書が評価を得ていることを受け、FAIRなどの護教主義グループは彼の説を利用して対抗しようとしているようです。しかし FAIR はギレアデの発表した説が、従来のモルモン指導者の説明とも異なっている点に関しては度外視しているように見受けられます。
どうしても私にはセプテンバー・シックスだった人物を護教のために再加入させたと見えてしまうのですね。いずれにしても、末日聖徒が本気でイザヤ書に取り組むのであれば、イザヤ書3部構成説とモルモン書の整合、そしてアブラハム・ギレアデは押さえておきたいところですね。
どのような説得力のある発表がなされるのか期待し、注目しています。
フランスパン 乳に浸せば ただのパン
歯が弱ってくると、フランスパンの硬さが恋しくなってきます。
コンビニのフランスパンは柔らかすぎで、食う気がしない、あの硬さこそがフランスパンの命ではないかと思います。
モルモンも最近はその根本となる硬さを失ってきてる気がして、なんか寂しい。
他の全てのキリスト教会、否、他の全ての宗教を否定し、「唯一真の神の教会」と豪語していたガチガチに硬いモルモン教会は何処に消えたのでしょうか?
「最初の示現」の持つ意味は、選ばれし民かどうかを見分ける試金石なのだと思います。
「最初の示現」この現代人が受け入れがたい事柄を受け入れて真の神の道に進むか、受け入れずにサタンにくみするのか・・・。
理性や知性ではなく、論理や研究でもない、唯信仰のみによって真理を極める。
非論理的で、非科学的で、更に理不尽な教義の中で生き抜いていく、そんなモルモンの強さは何処に消えたのでしょうか?
みんな歯抜けの老人になってしまって、フランスパンは食べられなくなってしまったのでしょうか?
>私は「最初の示現」に記載された、他の教会に関する部分は今の時代では必要ないだろうと考えています。
いい提言だと思います。実現するかどうか現在のところ分かりませんが、そうなったとしても私は文句は言いません。むしろ良くなったと思います。
豚さん
>他の全てのキリスト教会、否、他の全ての宗教を否定し、「唯一真の神の教会」と豪語していたガチガチに硬いモルモン教会は何処に消えたのでしょうか?
お気持ちは良くわかります。私もそういう時代に改宗して、そういう考えの中で青少年時代から今までやってきましたので。
一つの解釈、一つの考え方しか認めないというわけでなく、最初の示現を1938年の文書どおり信じる人も、そうでない人もいて良い、モルモン書を歴史だと信じる人も、創作だと信じる人もいて良い、みんな同じ大きな一つの家族だよ、ってところまで視点を広げるしかないみたいですね。
聞いた話ですと復元教会では、モルモン書を信じる人も、信じない人も共存しているそうです。論争もあると聞きましたし、完全に仲が良いというわけでもないそうですが。でも何をどう信じても追い出されるようなことはないのだとか。
そんなら、タバコ吸ってるのも酒飲んでる人も、什分の一納めてない人も、みんな一緒に神殿参入しましょうよ。
最初の示現の解釈が複数あっても良いなんって誰が言ったんですか?
大管長が?十二使徒が?
神の預言者がそう言ったんですか??
ジョセフは神とキリストに会ったんですか?
神様から金版を授かって翻訳したんですか?
これってどっちでも良い話なんですか?
一つの出来事に、事実が複数あって良いんですか?
そんな不合理を認めるぐらいなら、少年が神と会って金版を授かり翻訳した、って言いはった方がまだましだって。
真実はいくつあっても良いけど、事実は必ず一つしかない。
それで良いんじゃないでしょうか。
実際のところ、今、教会に来ている人たちだって、全ての戒めを完璧に守っているわけではないし、聖典を読んでいるわけでもないですし。信仰の篤い古参会員だって「全ての人は宣教師」と言われていた時代に伝道に出た人ばかりじゃありません。よくよく考えたら、他人に対して教会や神殿に来るのを認めたり拒んだりする権限は誰にも無いって思いました。
もちろん、きっちり戒めを守って神殿に入りたいと願う方々の意思を損なうつもりはありません。
>これってどっちでも良い話なんですか?
たとえば天地創造の順番だって旧約と神殿では違いますし、イエスの臨終の描写も四福音書で異なりますが、そういうものだって受け入れてるじゃないですか。そういう些細な点までこだわる方はこだわりぬいて福音を研究する自由があり、そうでない方はそうでない方で緩やかに信仰してもいいのかも知れませんね。
他の人に対して、こうすべきだ!、これが正しいんだ!、お前もそうしろ!と求めるから諍いが起こるのかも。いやぁ私もそういうところあるんですけれど・・・すみません。
これで~いいのだ~、これでぇ~いいのだぁ~♪
と答えるべきでしたね。
ところがw
昨今は日本のフカフカに和らいかいパンがフランスで流行だとかw
フランス人も軟弱になったものです。
世も末、末日ですねー。
>「最初の示現」の持つ意味は、選ばれし民かどうかを見分ける試金石なのだと思います。
NJゼミのお勧めの教材にサンストーンがあるのをご存知かと思いますが、
その記事の中にStephen C. Taysomさんという方が書いた
ファースト・ビジョン・サーガへのアプローチというがあります。
https://sunstonemagazine.com/approaching-the-first-vision-saga/
・・・
神話は、自己と他者の考えを構築し、作り上げ、検証し、そして教え込むことによって文化を作る物語です。
・・・ファーストビジョンを語ることを目的としたこの一連のアカウントでは、
ストーリーの神話的特徴を伝えるだけでなく、各アカウントがより大きな集合体またはサガの一部として最もよく理解されることを示唆するために、
「サガ神話」とラベルを付けます、同様の話の。このエッセイは、最初の示現のサガ神話とその意味についての進行中の議論がどのようにモルモン教のさまざまな表現を形作り続けているかを探ります。
神話は文化の基盤と正当化者として機能するため、その文化に投資した人々は当然、
自分の神話を批評の範囲外に置きたいと思うでしょう。
多くの古代文化は、宗教現象学者ミルチャ・エリアーデが「歴史が始まる前」
または「宇宙の夜明け」を意味するラテン語で「イロテンポ」と呼んだものに神話を設定することによってこの行為を達成しました。
しかし、最初の示現の神話は、宇宙の夜明けのかなり後の1820年にそのルーツを持っているため、
この保護方法の変形が必要です。
ゴードン・B・ヒンクレーは、最初の示現の神話を暗黙のうちに設定しました。
「記録されたすべての宗教史において、それと比較するものは何もない」と書き
本質的に、彼の言葉は、歴史、社会学、人類学、文芸分析などの比較分野による分析にファーストビジョンを課すことに対するタブーです。
ヒンクリーは、物語を「神話」として扱うことを主張しています。
つまり、物語は、それを調査しようとする学術的な試みを超越していると主張しています。
このタブーにもかかわらず、謝罪者と批評家は、最初の示現について最も重要なことはそれが実際に起こったかどうかであるという基本的な仮定を共有しているようです。
・・・・
・・・ファースト・ビジョンの歴史性ではなく、その「意味」を問うことです。
非正統派の物語の詳細は、教会の公式作品の中にも入っていて、抗しがたいものとなっています。
2005年に公開された映画「Joseph Smith:この映画は「ジョセフ・スミスの生誕200年を記念する教会の行事の一環として大管長会の指示の下に制作された」もので、
教会のジョセフ・スミス記念館で上映されていますが、邪悪な力がジョセフに襲いかかる直前に邪悪な足の下で小枝が折れる紛れもない音が聞こえます。
この映画を見た人のほとんどは、その足音が公式には忘れられている1835年の物語へのオマージュだとは気づかないでしょう。
ーーーーー
考えてみれば、この最初の示現の記述は「ジョセフ・スミスの書」という高価な真珠の聖典の一部なんですよね。
末日聖徒の会員としては新しい物語の為にJSの体験記として読んでしまいますが、当のJSはモーセの書やアブラハムの書と並列に聖典の一部として書いているのかもしれません。
「Isaiah Made Simple」という本。Kindle版だと884円でした。安かったです。
パラパラと見たら面白そうだったですけど、理解できるでしょうか?これから読んでみます。
豚師匠のご怒り、ごもっともなんだが。
しゃーないじゃーないかい
当教会もそこそこの規模になってきたし、アメリカ大統領の座すら現実実を帯びてきた状態で、「他の教会を全否定」では、モルモン大統領は実現しないからね。
そんなもんお前さん、「大人の事情」だだわなー
とりあえず、1820年 14歳で天父と御子の示現を見た。
その後、メソジストの説教者に話したら、思わぬ反発を食らってしまった。おして迫害に発展していった。
1823年9月時点で「示現を見たことを断言し続けた」とある
考えてみよう。1820年春、示現を受けた。この時示現の意味を全て理解できたと考えるかい ?
最初に話した時の反発されて、次に話したときに最初と全く同じ話をしたと思うかい ?
その後も何回も話しているようだ、多分色々な人に話しているだろう
ここまで書いただけで、もう「JSの見神」には多くの違ったバージョウンが生まれていたと推測できるよな
過去の出来事を、全く同じ話として語ることなど不可能だよ
そのことは、各自自分に当てはめて考えればすぐに分る。同じ話などできないよ
それに最初は分かっていなかったことでも、何回か話すうちに分かってくるものがあるよ。
だから、最初に話した内容と三年後の内容とは違いがあって当然だよ。
また、聞く方も正しく解釈できるものでもない、多分に「聞き手の独断」がかなりの部分を占めてしまうだろう。
「ジョセフがこう語った」なんて話は、実は聞き手の独断解釈によって違った内容になることが多々あることは皆さん納得できるであろう
人間の「勝手な思い込み」を甘くみてはいけない
他人の証言ほどいい加減な物は無いことは、毎日報道される色々なニュースを見れば明らかなこと
悪意はないにしろ、人間が「見える範囲」なんて事実のごく一部でしかないのだよ、しかし本人は「自分は知っている」と思い込んでいるから始末が悪い。
この世では「客観的事実」なんて存在できないのだよ。だれかが、「これは事実」と確信しても、他人に証明することはできない。
全ての出来事は「過去の出来事」だからね
過去に戻らない限り証明できないのだが、勿論不可能なこと。
結局ほとんどが曖昧のまま
この情報化社会と言われている現代の出来事でさえ、事実を明らかにすることはほぼ不可能だよ
唯一できることは、できるだけ記録を残すことだけだ。
その時重要なのは「語られた状況」をできるだけ正確に記録すること
同じことでも、相手が誰かによって全く違う内容になるのだから。
聖典を読むときも、その聖句がどういう状況で語られたのは知らなければ正しく理解することはできない
とう教会は、こういう重曹な点を無視して、単に暗唱聖句として扱う。これは大変い危険なことだよ。
だから会員達は全然成長しない
昨日の断食証会の内容は酷い物だった。
改宗して40年や50年も経った指導者が、実に幼稚な「証もどき」みたいな証をしている。聞いているほうが情けなくなるくらいお粗末な証だよ。
こんな集会を何十年も続けているのだよ
「お前ら、教会に何をする為に毎週来ているのだ」と言いたくなるよ
大・・大いなる、オウ==倭
阪・・酒==蘇我
http://kt22fight.blog.fc2.com/blog-category-13.html
金春秋 天智天皇
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%87%91%E6%98%A5%E7%A7%8B%20%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87&ei=UTF-8
イザヤ書のお勉強って・・
https://www.youtube.com/watch?v=tIINcGvHKos
聖なる森の
大人の事情
ーーーー
そう言えば昔、同じステークの重鎮
苺一枝さんから聖なる森の葉っぱをお土産でいただいたことがあります。
この葉の樹木は「最初の示現」を見つめていたのかも。
と思うと感慨でした。
無くさないように聖典に大切に挟んであったのですが。。。
タブレット中心になって、どこへやら。
高価な真珠の「最初の示現」には他にも多くのことを聞いたが、ここでは書くことが出来ない。とあります。
自筆の日記にも、他に人に話したこともにも、その時点で書けない、話せないことはあったでしょうね。
8/2日9:44に「イザヤ書研究会」と題してコメントいただきました。書かれているコメントに異存はありませんが、このブログ2018/11/07日「第二イザヤを受け入れ始めた末日聖徒」というタイトルで教会の近況(イザヤ書に関する)を短くまとめています。まだでしたらご覧ください。まだ少数ですが、3~4人のよく知られた末日聖徒の研究者が第二、第三イザヤの存在を受け入れ始めています。
フランスパンをいきなりダンクしてしまう。
歯が折れてもかじってみようって気にはならないらしい。
モルモン信者にとって「複数の最初の示現問題」と言うのは、その内容の相違が何故できたのか?と言う問題では無い。
何故モルモン教会は、複数ある最初の示現の話を、複数有ると言わなかったのか? と言う問題である。
実は忘れられていたみたいなんですよね。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/gospel-topics-essays/first-vision-accounts?lang=jpn
ジョセフ・スミスの初期の自叙伝と,のちに日記の中に記録された未出版の二つの記録は,
1960年代に末日聖徒イエス・キリスト教会の歴史家たちが再発見して出版するまで,一般には忘れられていました。
ーーー
歴史家っていうか、BYUの大学院生が最初の発見者らしいですけど。
当時はセンセーショナルだたんでしょうね。
ヒンクレー管長も「複数のバージョンが気にならなくなりました。」
的にリアホナに書いてありました。
ttp://wjelc.sekl.fi/KLBI/NabetaniSensei.htm
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%8D%8B%E8%B0%B7%E5%A0%AF%E7%88%BE&ei=UTF-8
で、著書『イザヤ書注解下』のあとがきが意味深のようなんだが、理解は及ばずで、どなたか言わんとしてることを教えてちょんまげ・・
以下3人の固有名詞登場あったりで・・
0048/}{/m_0082/
宮本久雄 ヘブライ脱在論
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E4%B9%85%E9%9B%84%20%E3%83%98%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E8%84%B1%E5%9C%A8%E8%AB%96&ei=UTF-8
ベルンハルト・ドゥーム
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%A0&ei=UTF-8
ロルフ・レントルフ
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%AD%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%95&ei=UTF-8
( https://kanai.hatenablog.jp/entry/2019/01/05/145234 )
この記事は神回でしたねー。
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/b1038a93d334518c2e441b17c0e057ef
(教会員R)
末日聖徒が第二イザヤを認め始めるということは、モルモン書をJSの啓示の書であると再定義することに他ならない。
ーーーー
教会員R さんへ(NJ)
初めて接する答えで卓見であると思います。考え付いたことがありませんでした。深い。この再定義、大変注目に値します。
ーーーー
金版の実在 (落伍者)
第二イザヤ・第三イザヤを認めてしまうと、金版からの翻訳説は成り立たないように感じます。
ミドラシュ説を支持するなら、金版の実在を否定しなくてもすむので、今後、こちらの説を教会は取り入れていくのでしょう。
ーーーー
モルモンのイザヤ書認識 (豚)
ジョセフスミスは、イザヤ書を使って、何を主張したかったのか?そんなことをふと思いました。
と言うのも、モルモン書も、教義と聖約も数ある旧約の予言の書から、イザヤ書の引用が極端に多いんですね。
ーーー
興味深い。 (オムナイ)
>モルモン書にイザヤ書40章以降から引用されていることが、大きな問題となっている。
ふむふむ。第二イザヤとか知りませんでした。
ーーーーー
ひとりポンコツがいますがw
まぁ、まずは伝統的イザヤ書解釈の勉強をいたします。
モルモン書に書かれていることあり末日聖徒はイザヤ書を勉強しなければという意識はあっても、具体的にどう学べばよいのか具体的な方法は思いつかないという人が多いのではないでしょうか。イザヤ書研究会でそうした提案がなされれば良いですね。
イザヤ書3部構成説に関しては、モルモン書と相対する部分があります。それを知ったときに末日聖徒の取るであろう態度としては以下のようなものがあるのではないでしょうか。
(A) 何も調べずに、頭ごなしに聖書学の通説を否定し、自説に固持する
(B) 通説を知った上で、学術的に反論を見出す
(C) 通説を知った上で、学術的に反論できなくても、信仰により自説を守る
(D) 通説を知った上で、学術的研究成果を受け入れ、自説を見直す
NJさんのブログの読者の方々には、少なくとも (A) のような姿勢だけは取っていただきたくないものだと願います。
この根拠が説得力に欠けるよね
歴史背景とか文章とかが違ってみえるから、別物とするのは軽率だよね
私みたいに、文体も表現の人格も変化させながら書いている人間はどうなるのだよ (笑い)
音楽だって、「変調」というのがあり、途中から曲調が全く変わってしまうことは普通にあることだよ
文章だって、まったく感じが変わることは普通にあることだよ
そんなもんは「別物である」という根拠にはならないよ。
>ジョセフスミスは、イザヤ書を使って、何を主張したかったのか?そんなことをふと思いました。
師匠は天才なので時折ツボを突く。
イザヤ書に限らず聖書や聖典から学ぶべき優先事項は「人生を豊かにする経験則」でしょうかね。
宗教学や聖書学は、それをなお一層豊かにしてくれますね。
とはいえ、「はじめの一歩は」素直に作者の教えようとすることに身と心を委ねることでしょうか。
イザヤ書で言えばクリスチャンの読み方はキリストは救い主であるいう証でありますし、
イザヤ書の作者編纂者が大預言者の予言と読めせたいのであれば、とりあえず、そのように読んで
昔のクリスチャンと気持ちをシンクロさせてこそ、有益な教訓を得ることができる気がします。
福音の第一原則はイエス・キリストを信じる信仰ですね。
もちろん、これを初めに書いたユダヤ人はキリストの救いを想定していないわけですから、
クリスチャンはユダヤ教のイザヤ書をどのように信仰に取り込みマッチさせてきたのでしょうか?というのも学べるかも。
興味深いですね。
あえて言えば、バビロン捕囚を見事にポンポン当てている。
「事後予言」というらしいですが、弟子のイザヤが師匠のイザヤの記事をもっともらしく後日追加した?疑惑なんでしょうね。
難しい事はダジャレでごまかすに限る。
という図式なるか??
「1892年の注解書の中でルター派神学者ベルンハルト・ドゥーム(Bernhard Duhm)が、56-66章を第三の預言者に帰されると主張して以来、バビロン捕囚からの帰還の時期に活動したと考えられる預言者による『第二イザヤ書』(40~55章)とさらに後代の預言者によるとされる『第三イザヤ書』(56~66章)が自由主義神学では区別される。
」
高等批評って・・学者さんは高い所目線ピッタリの言葉・・
学者さんが勝つのか、それとも回復の予言者が勝つのか??
激戦の勝負!!! スゴォォォーィッ!!
https://www.youtube.com/watch?v=af5e32qMn70
おそらく鍋谷堯爾氏はその学者説に触れる前はイザヤ一人を信じてたんでしょうね・・青年・壮年・老年って分けてる記述もあったりで・・
バビロン捕囚なんて必然的なことだよね
政治的バランスを考えれば、容易に予測できること
エジプトとメソポタミアという二大勢力に狭間のパレスチナ。小国の悲しさで、どちらかに従属しないと国が存続できないのだよ。
ダビテが建国できたのは、エジプトもメソポタミアも共に混乱期にあって、どさくさに紛れて建国できただけ。その後ソロモンはしっかりと「エジプトの属国」に収まった。奥さんもエジプトの姫だから、頭が上がらずに奥さんの宗教である「邪教崇拝」になる。
仕方ないのだよ、政治バランスなんだから
ところが」、この頼みとするエジプトが新バビロニアに負けてしまった。
そうなると、パレスチナの「ゴミ掃除」にバビロニアは動くことになる。
メソポタミアでは被征服民族は奴隷になるのだよ
皆殺しになるのではない。奴隷にした方が有益だからね。しかも奴隷と言ってもメソポタミアではかなり「人間的な扱い」を受けているのだよ。
そういう知識があれば、エジプトが破れた後に何があるのか容易に想像できることだよ
こんなのは、出来の悪い教員が、満点を取った生徒に向かって「100点なんておかしい、何か悪い事しただろう」と疑うのと同じだよ
全く理由にもならんよ
>政治的バランスを考えれば、容易に予測できること
はい、第一イザヤではそれらしいアバウトな予言があって、
第一イザヤ以降より具体的になっていく。という分析に基づいているようです。
もちろんモルモン書の中のキリストは「マリアから生まれる」ほどには具体的ではありませんが。
まぁ、この辺りは末日聖徒の学者先生も伝統的聖書学の「しきたり」に従う必要があって、それでこそ「むむっ。モルモン学者もなかなかやるな」となるわけで、
末日聖徒の一般信者は伝統キリスト教の一般信者と同じく
信仰レベルまで落とし込む必要はなくて、参考情報に留めておく程度で良いと思います。
こちら面白いです。
ーーー
第二イザヤの預言者像
樋口 進
雑誌名 関西学院大学キリスト教と文化研究
イザヤ書40-55章が、紀元前8世紀にエルサレムで活動した預言者イザヤの預言とは区別され、
紀元前6世紀にバビロン捕囚の地で活動した預言者の預言であるということは、19世紀のベルンハルト・ドゥーム以来定説となっている。・・・
第一イザヤには、弟子グループが存在していたと思われるが(イザ8:16参照)、
その弟子グループがバビロン捕囚の時代まで受け継がれ(「イザヤ学派」と言われている)、
第二イザヤもその一員であったという可能性はある。
しかし、ジョセフ・ブレンキンソップは、
第二イザヤの預言集をイザヤの書に結びつけたのは「イザヤ学派」ではなく、申命記史家であったであろう、と言う。
ーーーー
申命記史家。。。このブログでも紹介されていた気がしますが、
事後予言的に見える記事の作者ではないかとされる集団ですね。
いずこも同じ。
「大人の事情」だよね
何が真実かではなく「誰の顔を立てるか」だよ
そもそも、昔のことなんて誰にも分らん
力のあるヤツが「こうだ」と言えば、そいつが生きている間はそれが「事実」になる
そいつが死ねば、「新たな事実が明らかになる」ということだよ
広島に原爆が投下されて6日で76年となります。新型コロナウイルスの感染拡大で例年どおりの追悼は難しくなっていますが被爆地・広島は6日、犠牲者を追悼する祈りに包まれるとともに核兵器のない世界の実現に向けた訴えを国内外に発信することにしています。
ーーーーー
初めて原爆ドームを訪れた夜、娘が熱を出して寝込んだのを記憶しています。
http://harp.lib.hiroshima-u.ac.jp/hju/file/12200/20180824094535/国際教養学部紀要+第4号_07+澤村.pdf
「核時代とキリスト教―核をめぐるキリスト教の言説についての一考察―」
2)「悩み」~米国クリスチャンの抵抗
米国キリスト教連合協議会事務局長サミュエル・コヴァートは、1945 年 8 月9日付のハリー・トルーマン大統領宛ての
電文で、冒頭から「多くのクリスチャンが日本の都市への原爆投下に著しく心をかき乱されている(“Many Christians
deeply disturbed over use of Atomic Bombs against Japanese cities.”)」と非難し、その理由として「必然的に
引き起こされる無差別の破壊的影響、および人類の未来に向けて極めて危険な先例をつくることになる」
ーーーー
当時末日聖徒も同じような気持ちだったようですね。
広島に世界最初の核兵器による殺戮が行われてから76年がたった。
ですよね。
バビロンに捕囚されたのはイスラエルの罪でもなんでもない。
イザヤ書 1(リビングバイブル)
1ユダの王のウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に、アモツの子イザヤに幻の中で神から与えられたことば。
その中で、神はイザヤに、ユダ王国と首都エルサレムがどうなるかを示しました。
イスラエルの反逆
2天も地も、耳をすまして主の告げることばを聞きなさい。
「長い間かけて育て、世話をしてきた子どもたちが
わたしに逆らった。
3犬や猫でさえ飼い主の顔を覚えていて、
その恩に感謝するというのに、わたしの民イスラエルは違う。
どんなに尽くしても、知らん顔なのだ。
4なんと罪深い民だろう。
罪の重さに耐えかね、前かがみで歩いている。
彼らの先祖も悪い者だった。
彼らは生まれながらの悪人で、
わたしに背き、わたしをさげすんだ。
自分から、わたしの助けを断わったのだ。
ーーーーーー
いやいや。無茶苦茶ですよ。
普通に読めばね。
バビロン捕囚はBC600年前後ですからね。
100年以上前に国の勢力図での予見は難しそうです。
旧約聖書も史実を元にした神に従って道徳的生活をせよと教える宗教書なんですよね。
預言者の言葉だよ
神の言葉であるなら、イザヤ5:27~29のような表現はしない
これは示現を見て書いたのだから、預言者の言葉だよ
末日の様子を示現で見ても、イザヤはそれを適切に表現できない。
啓示4,示現は言葉ではなく、直接脳に与えられる「イメージ」だから、その表現は預言者の言葉の能力によるものだ。
モルモン書も同じで、「ジョセフ.スミスの言葉」だよ。だからモルモン書はジョセフの性格をよく表している。表現が極端なんだよね
「戦いで一人残らず死んだ」とか「2000人のうち一人も死ななかった」とか、極端なんだよね
一人残らず死ぬ戦争なんてあり得ないよ。これはジョセフが戦争の示現を見て「そう思った」だけで事実とは違うはずだよ。示現で見たからとて、全部を理解できるものではない。そもそも広い戦場の隅々まで見るわけでもないからね。
だからジョセフには「一人残らず死んだように見えた」だけなんだよ
あくまでも、ジョセフにはそう見えたということだよ
啓示、示現とはそういうものだよ
神が直接「言葉」を与えるのではない。当然、勘違いだってあるのだよ。また正しい知識がなければ、適切な表現ができない。
モルモン書は「せっかちな」ジョセフらしい、内容の書物だよ。
最初に読んだ時から、モルモン経には違和感を感じていたよ。それでも「宗教書」だからそれで良いのだから、私はモルモン経をしっかり読んでバプテスマを受けたのだよ
>預言者の言葉だよ
むむ。深いですね。
>イザヤ5:27~29
5:27その中には疲れる者も、つまずく者もなく、
まどろむ者も、眠る者もない。
その腰の帯はとけず、
そのくつのひもは切れていない。
5:28その矢は鋭く、その弓はことごとく張り、
その馬のひずめは火打石のように、
その車の輪はつむじ風のように思われる。
5:29そのほえることは、ししのように、
若いししのようにほえ、
ーーーー
>最初に読んだ時から、モルモン経には違和感を感じていたよ。
ハーディー・グラントさんの
Understanding theBook of Mormon
という本にはWさんと同じようなことが書いてありました。
・末日聖徒を含めても,モルモン書全体の構成論理に屈服した読者はほとんどいません。
一見すると,奇妙な名前と奇妙な物語がごちゃまぜになっていて,
風変わりなスタイルで語られていて,
そのすべてが非常に怪しい起源を持っているように見えるからかもしれません。
・語り手の巧みな表現に注目してください。
そして,わたしたちは真鍮の版とラバンのしもべを持って荒野に出て,父の天幕に向かって旅をした。後の節(2ネ5:14,ヤコブ1:10)でニーファイが持っていたことが分かっているラバンの剣については,ここでは触れられていない。
わたしたちが父のもとに荒野に下りてきた後,見よ,父は喜びに満ちていた[ここではリーハイが何か言うと思われたが,わたしたちの注意はすぐにサライヤに移った]。
彼女はわたしたちが荒野で滅びたと思っていたからである(ラバンよりも砂漠の方が彼女の最大の関心事であった)。
また,彼女はわたしの父にも不平を言っていた。
このような言い方をした後、母は父に文句を言った。(1ネ4:38-5:3)
語り手はここで3つの驚くべき動きをする。
第一に、彼は以前の出来事を語ることで、物語の年表を混乱させます。
第二に、彼は母親の不平不満を報告することで、母親を否定的な光の中に置きます
(ただし、それは彼女の息子たちへの愛のためだけですが)。
第三に、彼は母親の言葉を正確に伝えています。
この節と8節以外では,ニーファイは女性の言葉を引用していません。
ニーファイの意図が目の前の状況から読者の注意をそらすことであるならば、
ニーファイは特に効果的な方法を選んだのです。
ーーーー
要はニーファイは盗みや殺人に実際は罪悪感を感じていて、
誤魔化そうとしているということでしょうか。
同じバビロン捕囚を扱った記述なのにモルモン書はより「人間臭い」んですよね。
古代イスラエルには、まだ幾何学的認識は無かったようだね
ここなんか「先端の尖った円筒の左右両側に大きな三角の板」というような表現になるよね
神が直接下す言葉ならこの程度の表現になるよ
しかし、イザヤ書は「イザヤの言葉」だから、原始的な表現しかできない
多言語で旧新約を紹介しているサイトでアニメーションビデオを使ってわかりやすく教えているサイトです。
https://bibleproject.com/japanese/
素晴らしい!セミナリーはこれだけで良いかも。
イザヤ書も大変わかりやすく説明されてます。
https://www.youtube.com/watch?v=6we_2WOjXsA
https://www.youtube.com/watch?v=XYUvO73DxvI
ーーー
モルモン書もこのテイストで作って欲しいい。
そう思うよ
私は基本的に「預言」というものに大して興味は無い
何故ならば、私の信仰に関係ないからね
既に、巌の様に強固な信仰があるし、預言が私の信仰を強めることもないし
イザヤ書は「面倒くさい」のだよね
通読すれば、「堕落から回復」までが書いてあることはすぐに分るが、細かい言葉は何のことか説明に困るのだよね
だから「言いたいことはわかるが、細かい質問されるとこまる」そういう面倒なものなんだよね。
黙示録の後半もそうだよね
そういうことに探究心のある人間には面白いだろうが、私みたいな「実利主義」の人間には興味がわかないのが正直な話だな
興味があるのは イザヤと日本神話の神イザナミとイザミの「イザ」は関係があるのかと言う方だよね
おー。古事記と旧約聖書は似ていると言いますからね。
イザヤの「ヤ」はヤハウエの短縮形だとか。(聖書プロジェクトイザヤ書)
「イザ」は救われるだとか。
「神は救われる」を象徴している名前。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%83%9F
名前の由来
「イザナ」は「誘う」の語幹、「ミ」は女性を表す語とする説[4]、また名前の「ナ」は助詞とする説[5]がある。
ーーーー
誘う(イザナウ)に通じるのでしょうか。
イザ・ヤ=神に誘う、神は救う。
お!!!関係あるのではないでしょうか。
イザナミではなく イザナギ でした。訂正します
大国主命の神話は、ヨセフと11人の兄弟 + モーセ達の出エジプトの話をミックスしたような感じだよね
九州に渡ったのが、素戔嗚尊と瓊瓊杵尊 といった記述を目にし、
馬淵和夫筑波大名誉教授や寺本克之、など40名の研究者が韓国側と共同研究 といった記述を目にしました。
東国輿地勝覧 では 天神 夷毘訶 と 伽耶山神 政見母主 の二人の息子
兄 朱日(伽耶初代王) 弟 金首露王(金官伽耶初代王) となり、
朱日(伽耶初代王)=伊珍阿鼓 が 伊弉諾尊 であり、孫である瓊瓊杵尊に「高天原」の天磐座から「翡翠の勾玉、銅鏡、鉄剣」の三種の神器を授け、「豊芦原の千五百秋の瑞穂の国は、わが子孫が君たるべき地である、爾皇孫速く行って統治せよ。その国の栄えることは、天地が窮まりないと同様であろう」と命じて、見送ったとされる天照大神が、 夷毘訶 であるとしているそうです。
」
https://plaza.rakuten.co.jp/agrifresh/diary/?PageId=20&ctgy=44
首露王 イザナギ
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%A6%96%E9%9C%B2%E7%8E%8B%20%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%82%AE&ei=UTF-8
「あとは伊邪那岐尊、伊耶那美命も、蛇神を彷彿とさせる情報が取り出せたりした。埼玉県の両神山ではイザナギとイザナミを祀ってますが、この山は元々龍神山が両神山になったとも言われたりするとか。
さらにイザナギとイザナミが塔の前で回転し、まぐわう描写ですね、アレ、中国の伏義と女媧の関係によく似てますね。伏義と女媧は蛇神だったので。
」
https://tacchan.hatenablog.com/category/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80
「私、このお二人の持ち物を見て驚きました。
フリーメイソンのロゴが
コンパスに三角定規なんです。
しかも、蛇が、回りをグルット囲んでいるロゴもあるほどです。
」 https://ameblo.jp/peroko-0221/entry-12197199973.html
「「長い」という言葉もまた「ナガ」から派生したものだと考えられるが、これら、蛇を意味する言葉が日本の神話世界にも数多く現れている。例えば、ナガスネヒコやオキナガタラシヒメ(神功皇后)といった伝説上の人物の祖先もまた蛇であったのかもしれないが、極めつけはイザナギとイザナミである。国生みの神であるこの一対の男女神は、まさに伏羲と女カ、さらにはナーガとナーギィに共通する性質を兼ね備えている。
このように考えていくと、古代日本には多くの蛇が関わり、影響していたことを改めて想起させられる。ヤマタノオロチや三輪山の蛇信仰をはじめとする日本各地に伝わる蛇に関する伝説は数知れない。そのすべてがナーガとナーギィの血統を引くものであるかどうかは定かではないが、その一部はインドと関係があるかもしれない。
」http://chaichai.campur.com/indozatugaku/naga02.html
http://historyman.blog.jp/archives/20619729.html
イザナギ 許黄玉
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%82%AE%20%E8%A8%B1%E9%BB%84%E7%8E%89&ei=UTF-8
日本にはいない「大蛇」が出てくるのは、何かヒントがあったのだろうね
記憶が曖昧だが、日本神話にサソリが登場していたような、勘違いかな ?
彼らは同族だったんかも・・西アジア系の・・
一方は陸路で東へ東へと進み、朝鮮半島南端に達しついに列島へと・・
他方は東へそして南へと行き、海路づたいで、沖縄、奄美、九州から朝鮮半島南端に達し、で、同族婚の後九州に・・
神社のしめ縄も神前結婚後の夫婦の結びつきで天下を治めよみたいな??
(例えば時代は下りますが、赤毛とされる聖徳太子・・「ただ聖徳太子は突厥族の大可汗で、ササン朝ペルシャの王女と結婚しており、その間にできたのがヤズデガルド3世(最後の皇帝)と斉明天皇らしいのです。イスラムの攻撃でササン朝ペルシャは滅亡します。ヤズデガルド3世の息子ペーローズが妻と娘その他を連れて渥美大島に亡命してきたことが日本書紀に書かれています。吐噶喇・トカラから来たと。
聖徳太子はササン朝ペルシャのホスロー二世の右腕として活躍した証拠が、夢殿の救世観音と法隆寺の獅子狩文錦の冠上に、三日月を横にして上に丸が付いているマークがあることだそうです。このマークはホスロー二世のシンボルなんだとか。・・
」 http://franzpeter.cocolog-nifty.com/taubenpost/2019/12/post-d2e6d4.html
)
天智天皇が金春秋ならば、藤原鎌足は金庾信(きん ゆしん)が相当かも・・
金庾信 金官伽耶
https://search.yahoo.co.jp/search?p=%E9%87%91%E5%BA%BE%E4%BF%A1%20%E9%87%91%E5%AE%98%E4%BC%BD%E8%80%B6&ei=UTF-8
イザヤの妻ツィポラは女預言者だったなぁ。と思いながらイザヤ書読んでました。
イザヤ書8:1(聖書協会共同訳)
主は私に言われた。「大きな板を取り、その上に普通の文字で、『マヘル・シャラル・ハシュ・バズのため』と書きなさい。」
ーーー
大きな板に普通の文字?違和感ありますね。
モルモン書のイザヤ書引用箇所は2Ne16:1
「さらに、主の言葉がわたしに言われた。『大きな巻き物を一巻取り、それに普通の文字でマヘル・シャラル・ハシ・バズと書きなさい。』
新共同訳でもイザヤ8:1
主はわたしに言われた。「大きな羊皮紙を取り、その上に分かりやすい書き方で、マヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る)と書きなさい」と。
ーーー
他の訳でも羊皮紙や板、と翻訳がわかれています。
こちらの解釈が納得できました。
blog.goo.ne.jp/kuro-obi/e/240b23683bdfa67625e5f9ab5a2ca642
~普通の文字で・・・書け?~
1節の私訳
主は私にお命じになった。「大きな石の板一枚と砥いだノミを用意し『マヘル・シャラル・ハシ・バズ(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)』と刻め」。
ーーーー
とまぁ、一応納得したところでモルモン書寄りに別の考えも浮かんできました。
「石の板」といえばモーセに授けられた2枚の石板。
出エジプト32:16
その板は神の作、その文字は神の文字であって、板に彫ったものである。
---
イザヤ書の「普通の文字」はモーセの石板の「神の文字」を意識したモノであって「ヘブライ語」のことではないか?
モルモン書にはスペースが多くあればヘブライ語で書いた。とある。
では、「神の文字」は?
エジプトの神官文字(ヒエラティック)ではなかったか。
モーセは生まれてこの方エジプトにいた。
さらにさらに、大きな板(large tablet)とは、
ニーファイの大版(large plates)と同じ意味であって
ニーファイの大版には主に「歴史」が記されたとあります。
同じようにイザヤ書の「大きな板」は歴史書を意味するのかも。
するとこうなる。
偽預言者オムナイの私訳
主は私にお命じになった。
「歴史用の版に『マヘル・シャラル・ハシ・バズ(略奪の日は迫っている。はく奪の日はすぐにも訪れる)』とヘブライ語で記せ」。
イザヤ書8:16
わたしは、あかしを一つにまとめ、教をわが弟子たちのうちに封じておこう。
ーーー
と、ここに繋がってくるのかも。
成程 !
素晴らしい推論ではないかい
ですか?お恥ずかしいw
この「大きな板」がラバンの真鍮版的だともっと面白いですね。
先に紹介したこの方は「大きな板」に焦点を当てています。
blog.goo.ne.jp/kuro-obi/e/e1e16efcf93cda2611c3b1ee9145a660
~大きな板?~
新改訳では大きな『板』という解釈ですが、新共同訳では『羊皮紙』となっています。
この違いは底本にしているテキストの違いで、マソラ・テキスト(Masoretic ヘブライ語)を底本とした場合、『gillayown ギリヨーン』ということばで『板材』と訳出されるようです。
一方、七十人訳(Septuagint ギリシャ語訳)を底本とした場合『τομον tomon』というギリシャ語を『パピルス、巻物』と解釈してきました。板か羊皮紙か、どちらの解釈が正しいのか調べてみましょう。
ーーーー
もちろん、現代はマラソ本文の方が権威がありますから、そちらを採用すると。
「gillayown」ギラヨン?が出てくる箇所は旧約でわずか二箇所。
biblestudytools.com
NAS旧約聖書ヘブライ語辞書
意味
テーブル、タブレット、鏡、平らな光沢のある飾り
イザヤ3:23
鏡、上質の亜麻布の服、ターバン、かぶり物を取り去る。
ーーーーー
そしてーー!!!ここでのギラヨンは「鏡」
おそらく紀元前の鏡とは青銅製でしょう。
モーセの五書など載せてあった、ラバンの真鍮版もおそらく青銅製の板。
イザヤの大版は真鍮版だった!というのは妄想すぎるでしょうか?
lexicons/hebrew/nas/gillayown.html
※ラテン語styloは『先の尖ったもの』という意味で、ノミという意味も含まれています。
ノミではなくて、先の尖った鉄の筆で書かれたものでしょうか。
エレミヤ17:1「聖書協会共同訳」
ユダの罪は「鉄の筆、ダイヤモンドの先で書き記され」
その心の板に祭壇の角に刻まれている。
>モーセの五書など載せてあった、ラバンの真鍮版もおそらく青銅製の板。
合金としての「真鍮」はローマ時代から。。と思っていたのですが、
どうやら先史時代からあったようです。
古代の技術侮り難しですね。
>イザヤの大版は真鍮版だった!というのは妄想すぎるでしょうか?
ジョセフ・スミスも参照したらしいアダム・クラークさんの聖書註解書
http://www.godrules.net/library/clarke/clarkeisa8.htm
第1節の 「この言葉は「転がす」という意味のllg galalからではなく、・・「こすってはっきりと明るくする」、「磨く」を意味します。
したがって、この由来によれば、「wylg gillayon」はロールや巻物ではなく、古代に鏡として使われていたような磨かれた金属板を意味している可能性が高い。
・・出エジプト記第三十七章8節によると、イスラエルの女性の鏡は、細かく磨かれた真鍮で作られていたが、そこから、彼女たちが使っていたのは、幕屋の扉に集まるときにも持ち歩いていた小さな手鏡であったと思われる。
・・預言者は、この小さな手鏡のようなものではなく、大きな鏡、すなわち、職人用の彫刻刀で「Ťwna frjb becheret enosh」と深く永遠に続く文字でその上に自分が伝えるべき預言を刻むのに十分な大きさの石板を取るように命じられています。
この場所でのfrj cheretは、確かに書いたり彫ったりする道具を意味しているが、・・・それゆえ、ここでは、Ťwna frj cheret enosh(労働者の道具)と呼ばれ、hŤa frj cheret ishshah(女性が使っていた同じ名前の道具)と区別されています。
www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。
・イザヤ8:1の「大きな板」は真鍮製の可能性がある。
・(KJV)のman's penとは職人用の彫刻刀を指す。
労働者の道具)とも呼ばれ、女性が使っていた同じ名前の道具とは区別されていた。
ーーー
むぅー。ニーファイが大版(歴史用)と小版(霊的用)と分けて書いたのはオリジナルアイデアではなくて、ユダヤ人の伝統だったのかもですね。
小版の「ある懸命な目的」が116ページを失ったジョセフスミスの後付けの創作と見えてしまいますが、
これも実は複製(バックアップ)を作っておく古代の習慣だとか。