コメント
第三の視点は。。
(
オムナイ
)
2015-01-17 18:07:10
NJさん著作の「第三の視点を探る」を読んだ時にも思ったんですけれども、第三の視点というのは客観的の意味というよりは第一は(保守的モルモン)で第ニは(批判的モルモン)でそのどちらでもない視点なのでしょうね。
ある意味両者の視点からも不快感を向けれられる恐れがある(^^;
故にはみ出しモルモンには新たな視点が開かれるのでしょうね。
このブログも10年以上ですかー
Unknown
(
教会員
)
2015-01-19 02:19:21
モルモン原理主義の宣伝VS反モルモンの宣伝ばかり、これじゃあ一般市民への正しい理解などは困難です。
そして第三の視点(リベラルの解説)ということでしょうね。
福音のテーマ以上
(
オムナイ
)
2015-01-19 05:04:14
https://www.lds.org/topics?lang=jpn
第三の視点は翻訳された「福音のテーマ」と考察と結論が良く似ているんですよね。
量はそれ以上だと思います、よくぞ一人でここまでと思います。
おそらく教会への態度を決めかねている人や疑問を持っている人にはダイアログ誌のような効果があるでしょう。
このブログも含めて。
お間違えなきように
(
ろっくん・R・きっこーまん
)
2015-01-19 05:23:16
モルモン原理主義というのは、モルモン教の教えに基づき多妻結婚を現在も継承しているグループを言うのでありまして、それはNJ氏のいう第1の視点ではないと拝察いたします。
もっともNJ氏は何が第1、第2かを説明しておられません。著書は拝読いたしましたがどこにも記述はありませんでした。
あとNJ氏の背教的な言動を諌める教会員が最近増えてきているようですが、これでこそ末日聖徒だと感慨深く思います。サタンは純白の状態から灰色へ。そして徐々に暗黒の状態へと誘うのを常套手段にしていると教会幹部は繰り返し警告しています。
D&C88:81 見よ、わたしは、人々に証し警告するためにあなたがたを遣わした。警告を受けた人は皆、その隣人に警告しなければならない。
さらにお間違えなきように
(
ろっくん・R・きっこーまん
)
2015-01-19 05:41:20
末日聖徒イエス・キリスト教会の公式サイトに「福音のテーマ」というページがあります。
↓
https://www.lds.org/topics?lang=jpn
この内容は真理ではありません。
まずこれは「予言者が受けた啓示」ではありません。
また公式なものでもありません。
たしかに公式サイトの中にありますが、その内容は公式なものではありません。かつての機関紙「聖徒の道」によく質疑応答というコーナーがありましたが、そこには『問題解決の一助として示されたものであり教会の公式な態度を示すものではありません』と但し書きがありました。それと同様です。
教会でかつて使用されたテキストや幹部の著書、あまつさえ予言者の言葉をも『個人の意見に過ぎず公式なものではない』と言い切る知的モルモンの諸兄には言うまでもないことだと思います。
あなたがたがそれら神のものを否定するのとまったく同様の理由です。
Unknown
(
たまWEB
)
2015-01-19 08:11:52
“NJ氏の背教的な言動を諌める教会員が最近増えてきているようですが”、“沼野兄弟たちはごく少数派 (狼きらい(削除、再掲載)) 2015-01-17 23:09:36 沼野兄弟は、フェイスブックでは、無知からの誤解による誹謗中傷や暴言があります。神聖な多妻婚をジョセフ・スミスは、色情狂だった述べ、自分の意見が正しいと思っています。『モルモン書』はフィクション・・・・ ”とかってありますが、そのサイトのURL、見たいですので、教えてくれませんかいな?!
先週、ちらっと、NJさんのフェイスブック初めて見たんすが、今は見れなくなってる模様。そこには、そういった発信はなかったようで、どこかのフォーラム??
聖文を自身にあてはめるというのはその通りと思いますが、自身以外の教会員に聖句に照らし合わせ、背教と断ずるという聖句、聖文はどこになるですかね??
大切なのは事実の確認
(
豚
)
2015-01-19 10:23:08
その発言が、擁護的であるか批判的であるかと言う選別は、真理を得るうえでまったく意味がない。
真理を得るうえで大切なのは、「何が事実なのか?」の追求です。
NJさんは、保守派からは「批判者」と見られ、改革派からは「擁護者」と見られている。
しかし、誰からどう見られていても、NJさんは一貫して、「事実の検証」を行っている。
もし、NJさんの表明している意見や研究に反論するのなら、その根拠となる資料や文献を提示して、「・・・だからあなたは間違っている」と言うべきであろう。
しかしながら、保守派改革派双方からの、そのような発言はまれである。
さらに、近年モルモン教会自身が、「何が事実だったのか?」を小出しながら表明し始めている。
ジョセフの最初の示現は、少なくとも4っつの異なるパターンが存在する事や、ジョセフが多くの女性を「妻」としていたこと、等がその例に挙げられる。
文献や資料によって裏付けされた「事実」がネット社会の広がりで、「世間に隠しようのない事実」となってきたので、後追いながら、モルモン教会自身がそれを発表する形で追認し始めている、と言う事だと思う。
今モルモン教会の会員に求められていることは、「事実を受け入れる」事ではないか。
たぶん、教会幹部もそれを願ていると思う。
もし自分がモルモンであると自認するなら、モルモンと言う十字架を背負わなければいけない。
事実は、隠すことも曲げることもできない、それは事実だから。
真理胸に照り~♪
(
やれやれ・・・
)
2015-01-19 10:48:44
>もし、NJさんの表明している意見や研究に反論するのなら、
>その根拠となる資料や文献を提示して、
>「・・・だからあなたは間違っている」と言うべきであろう。
だってNJさんはご自分が間違っていることを追求されそうになると、「この話題はこの辺りで」って書込み禁止にして逃げちゃうんですもん(笑)
ずっと議論してくれるならいいですよ、いつでもお相手しますけど・・・
でもご自分のブログで恥はかきたくないでしょう。こちらにも仏心があるので追求はしないでいるのです。
確認です
(
豚
)
2015-01-19 11:38:54
本題と関係のないことで、恐縮ですが
(ろっくん・R・きっこーまん) さんと(やれやれ・・・)さんは別人なのですか?
差し支えなければご回答ください
Unknown
(
教会員
)
2015-01-19 23:46:33
末日聖徒イエスキリスト原理主義者も教会内にいて、人々を傷付け、温和な教会員に多くの迷惑をかけています。
原理主義というのは過去に予言者の誰々がこのように述べたことがある。 だから直ちに福音であって、他の末日聖徒も全員そう信じなければならない。 そうでない者は背教者であると様々な方法で攻撃する者のことです。
そのような人々の信仰方針が果たして神が喜ぶか?私は違うと思います。大管長会もある教会員がネット上で誰かを背教者呼ばわりすることは望んでいないと思います。 少なくとも恥ずかしい行為ですし、宣教師さんの足を引っ張ってることはあきらかでしょう。
恐らく原理主義は罪の一種であり、いつまでも自覚がなければ救われないことになるでしょう。
Unknown
(
ろっくん・R・きっこーまん
)
2015-01-20 05:12:56
愛する兄弟の誰かが道を踏み外しそうになったとき警告するのは、時に勇気のいることです。
その人が背教者になってしまわないようにその前に諭し、警告を与える、これこそが本当の愛なのです。
また予言者に忠実であることは信仰であり、原理主義ではありません。
あなたは予言者が語ったらそれを直ちに実行しなければいけないと思いますか?
はい、そのとおりです。
昔、オムナイさんはこう言いました。
「私は予言者の言葉を聞くとそれが理解できなくてもとりあえず実行してみます。
そうしているうちにだんだんその意味が分かってくるのです」
これは素晴らしい信仰です。あなたはこれを原理主義だというのですか?
また公式サイトにも以下のようなエピソードが紹介されています。
マリオン・G・ロムニー管長は,自分自身の経験を次のように語っています。
「わたしが何年も昔にビショップを務めていたときの経験を紹介しましょう。わたしはヒーバー・J・グラント大管長をワードに招いて話をしてもらいました。……グラント大管長はわたしのそばに立ち,わたしの肩に腕を回してこう言ったのです。『マリオン,教会の大管長にいつも目を向けていなさい。そして大管長が何かするように言ったら,それが間違いであっても,実行しなさい。そうすれば,主から祝福を受けるでしょう。』グラント大管長は瞳をきらりと光らせて,言葉を続けました。『でも,心配する必要はありません。主の代弁者が主の民を間違った方向に導くようなことを,主は決してお許しにならないのですから。』」(Conference Report, 1960年10月,78)
https://www.lds.org/manual/teachings-of-presidents-of-the-church-ezra-taft-benson/chapter-11-follow-the-living-prophet?lang=jpn
もちろん予言者の語ることに盲目的に従うのではありません。その意味を理解し、心から喜んで、自らの責任と自由意思で従うのです。
なお下衆の勘繰りとでも申しましょうか、誰かが私とほかの人を混同されているようなので、その方に迷惑がかからないようにするため今後はハンドルネームなしで投稿します。
Unknown
(
名無しの教会員
)
2015-01-20 06:37:49
“肉眼は他人の非がよく見える。
仏眼は自分の非がよく見える。”
先月の伝道のところに私がコメントしたのところがありますのでお読みください。
忠実な会員と忠実ではない会員とは何か?狼きらいさんのコメントを読んでふと思いました。
忠実な会員とは、それは、主イエス・キリストの福音(教え)を生活の中で不完全ながらでもひとつずつ一歩ずつと実践された人ではないでしょうか。
私は、忠実な会員の方でも教会の人間関係で苦しんでいる方を何人も知っています。教会の中でも、社会の中でも上手くいっていない会員の方を一言で忠実な会員ではないと呼べるのでしょうか。
私は、NJさんの発言すべてが正しいとは思ってはいません。また、ここでコメントする方も同様です。
しかし、いろんな意見や考え方を持っても良いと思いますし、感情もありますので、自分の感じていること、思っていること、言いたいことは、自由に発言しても良いことだと思いますよ。
ただ、誰にも当てはまりますが、言葉だけには気をつけないとなりませんね。その言葉がナイフのような鋭い刃物でしたら、相手は傷ついたり、誤解を招いたり、争いにもなったりしますから。主は喜ばず、悲しむことでしょう。
立正佼成会の開祖であります庭野日敬氏はこのように述べています。
“日本語に「思いやり」という美しい言葉があります。思いを他へ遣(や)るのです。愛の心・慈しみの心を人にささげるのです。つまり、心の布施にほかなりません。
そのような思いやりを他に対して持てば、その瞬間に我はスッポリ消えてしまいます。我がなくなれば、それと入れ代わりに、なんともいえない温かいものがほのぼのと胸に湧き上がってきます。これこそが本当の功徳というものです。人生のなかで、これほど美しい気持ちになれることは、ほかにないでしょうか。”
功徳という言葉が出ましたが、モルモン書の中にも、功徳という言葉が出ていたと思います。
オークス長老の話より
黄金律に従う
「キリストに従う人々は、礼節の模範となるべきです。わたしたちは全ての人々を愛し、良い聞き手となり、相手の誠実な信念に関心を示すべきです。賛成はできなくても、攻撃的になってはなりません。意見の分かれるテーマについても、争いを引き起こすような態度を執ったり、発言したりすべきではありません。わたしたちは、知恵を使って、教会員としての立場を説明、追求し、影響力を行使しなくてはなりません。その際、わたしたちの真心からの宗教的信条や宗教の自由な実践が人を不快にさせないようにと願っています。わたしたち全員が救い主の黄金律を実践するように、すなわち『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりに〔する〕』ようにお勧めします。」
最後になりますが、もう1つ、庭野日敬氏から引用したいと思います。
“ここで忘れてはならないのは、「忍ぶ」とか「耐える」といっても、相手を恨み、怒りながらそうするのではなく、その根底に「相手を理解する」という心のはたらきがなければほんものではない、ということです。あの人にはあの人の個性がある。立場がある。事情がある。それを理解すれば、自然とその人を包容する寛大な気持ちが湧いてきます。そんな気持ちで忍んでこそ、ほんとうの和が生ずるのです。その「理解する」気持ちをさらに押し進めれば、「拝む」という心になります。”
きっこーまんさんが言うように、警告の声を出すには勇気が必要ですし、またそこには、教義と聖約121章43節にも書かれているように、敵視しないためにも、愛を示さなければなりませんね。それは良き人間関係を築くためにも必要なことです。
また、教会員さんがのべていられるように、原理主義者という言葉は別としても、そのような会員がいることは確かですね。
私のようなあまり教会には活発ではない会員がこのような発言をすることは、恐縮至極に存じます。
Unknown
(
教会員
)
2015-01-20 08:04:34
結論は出たのではないでしょうか。
普段から隣人愛を示せていることと、警告はセットであり、自由意思の行使と義務の関係のように不可分であり、そのような方は場所や状況をわきまえるし言葉使いからして違っている。
愛のない者には何の啓示は下らないし、いくら予言者の説教を拝借してきても、所詮虎の衣を借りる狐のごとく、伝道の邪魔になるだけであり、終わりの日に責任を取らされる。
布施で思い出し・・・・
(
たまWEB
)
2015-01-20 09:45:41
仏教系の教えに眼布施等々、つとめて人のよい点を見るようにする等々、というのがあるらしい・・・・
うぅぅんん、日本語圏で、その言葉なしですかぁぁ・・・・
眼布施
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E7%9C%BC%E5%B8%83%E6%96%BD%E2%80%9D&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
「布施の種類
大智度論など、伝統的には、次のような種類が挙げられている。
財施とは、金銭や衣服食料などの財を施すこと。
法施とは、仏の教えを説くこと。
無畏施とは、災難などに遭っている者を慰めてその恐怖心を除くこと。
その他に、
和顔施(わがんせ):笑顔をひとに見せることが、それを見る人に幸福感を届け、一種の布施を行っていることになる、という考え。
言辞施(げんじせ):「和顔愛語」の愛語に相当。言葉で相手を傷つけないように気をつけること。
」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD
ブログの中に愛あらば~♪
(
やれやれ・・・
)
2015-01-20 10:15:10
暴言吐いて愛だとか、愛が無いとかいがみ合うメルキゼデク神権者たち!
カッコイイよ!
伝統的キリスト教会はキリストの愛を説きながらモルモンを仲間はずれにしている!と憤慨していたお方を思い出します。
そんな愛あるモルモン教会員さんたちは、今もユタで多妻結婚をしている方々を仲間はずれにしたりせず、当然モルモンのお仲間に数えていらっしゃるんでしょうねぇ?
どうなんです?
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-20 17:15:46
ある有名なブログでは。少しでも批判的なことを書くと、とたんに工作員扱いされ、今では太鼓持ちばかりです。
さようなら、裸の王様。
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-20 17:50:52
あなたは、多くの教会員が愛している教会や預言者を平気で批判しながら、自身がそれについて批判されることは、極度に嫌がるのですね。どうぞ認証性にして、これからも教会を好きなだけ傷つけて下さい。
Huan1-ying2 !
(
NJ
)
2015-01-20 18:38:22
こちらにお出でになりました?えっ、わたしのこと?
忠告ありがとうございます。今後とも気を付けて参ります。(なにとぞお手柔らかに)
「HY」改め「畑の曲者」です。
(
畑の曲者
)
2015-01-21 13:02:17
> NJ様
1/19の「女性に神権授与の展望」にコメントしたかったのですが、完全に乗り遅れてしまったのでこちらにレス付けちゃいました。
必要なら適当な場所に移すなど、良きに計らっていただけますでしょうか。すみません。
さて「女性に神権を」という話ですが、、、
以前、プライマリの子供にある質問をされました。
お祈りの時に、「天のお父様」とは言うのに「天のお母様」はなぜ入っていないの?
天のお父様だけじゃなく天のお母様にもお祈りしたいよ!
そして、その答えとして、、、
まず「天のお父様」と同じように「天のお母様」も確かに存在しているし、天のお母様にもお祈りしたいという気持ちはとても純粋で暖かいものだからこれからも大切に持っていてね。
でも「天のお母様」には「天のお父様」からちゃんと伝わっているから、お祈りの時は「天のお母様」を入れなくても大丈夫なんだよ。
・・・・というような内容だったでしょうか。
その答え方で正解かどうかはわかりませんが、1つ重要なのは、表には出て来ずとも天父を影で支える天母も確かにいて彼の助け手となっているという事です。
もっと言うなら、エデンの園でエバはアダムのあばら骨を取って造られました。両者は元々1人だったという事です。
男だけでも女だけでも不完全で、両者が一緒になる事でより完全に近づくことができるというメッセージではないでしょうか。
女性は、伴侶に神権が与えられている事で自分もその神権の担い手とするなら、女性に神権を与える事はとても矛盾したことのように考えられます。
LGBTの問題はまた別の話で改めてまとめたいと思います。
質問
(
鈴木
)
2015-01-21 15:43:25
モルモン書は、すべて真実の書物ですか?
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-21 15:50:32
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/0568642a1b81cd24c5f930dd9dc3f7c5
http://blog.goo.ne.jp/numano_2004/cmt/0568642a1b81cd24c5f930dd9dc3f7c5
Unknown
(
教会員
)
2015-01-21 20:08:12
教会では女性はこの世を離れた時に、ふさわしければいずれ女祭司になるお約束になっています。 女祭司は儀式を行いますので当然、そのまえまでのどこかの時点で神権を得ているでしょう。
女性は天の父系列から男性と同じ神権を授かるのか、それとも女性しかもてない神権を、天の母系列から授かるのか、そういう詳しいことはまだ明らかにされていません。
神権持つ~子らよ来たれよ~♪
(
やれやれ・・・
)
2015-01-21 21:40:38
みんな知ってる?『儀式』って大切だよね。この世で肉体を持っている間に『儀式』を受けないと昇栄できないんだよ。
そして『儀式』を行なえるのは神権者だけなんだ。神権は権威ある人から按手によって授与されなければならない。この神権を黒人が受けられるかどうかで過去にいろいろあったよねぇ・・・
さてそこで、神殿のことを思い出してみよう。『洗いの儀式』と『灌油の儀式』、これ神殿の中では女性は女性から受けるんだ。
神殿で奉仕する女性たちはその時、神権を持っているの?
イエス・キリストよりの権能をいつ受けたの?
メルキゼデク神権を受けるための面接はいつあったの?
いやいや、茶々いれるつもりは全くありませんよ。そもそもモルモン会員をずっとやっていくつもりならこういうところに目を向ける必要なんか無いからね。教会に行って聖餐とってHTやってそれの繰り返しを楽しんでりゃいいんです。
『儀式』なんて宗教ごっこに過ぎない。死んだらそれで終わり。昇栄なんて無い無い、ホントは知ってるんでしょ?
イェローカード
(
NJ
)
2015-01-21 23:11:06
上の書き込みは私のスタンスではない。黄信号!
Unknown
(
名無しの教会員
)
2015-01-22 02:22:15
やれやれさんのいろんなコメントを読みますと、私だけでしょうか、憐れみを感じてしまいます。
時には、いいことも言っていますがね。
さて、私たちは、神権について、もう1度学ばないとなりませんね。
神権、神権の鍵、神権の権威;権限;権能などについてです。
2014年4月の大会で、オークス長老の神権の鍵と権能をお読みになるとよろしいかと存じます。これは、神権部会での話ですので、女性の皆さんは、あまり読まないこともあるでしょう。しかし、神権の鍵と権能は、女性の皆さんにも関わる話ですので是非お読みください。
やれやれさんも機会がありましたら、どうぞお読みくださいませ。そして、理解の賜物がありますよう、心からお祈り申しあげます。
Unknown
(
教会員
)
2015-01-22 05:41:33
やれやれさん、神殿儀式をお手伝いしていただく姉妹たちは別に女祭司ではありませんよね。
そんなことも分からないのでしょうか。
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-22 06:56:37
>憐れみを感じてしまいます。
>そんなことも分からないのでしょうか。
質問そのものには回答せず知ったかぶりで相手を貶めて空威張りなさるのは、ご自分が何も知らないことをさらけ出しているような印象を人々に与えます。
こうした質問にはきちんと回答すべきです。
>神殿で奉仕する女性たちはその時、神権を持っているの?
持っていません。
>イエス・キリストよりの権能をいつ受けたの?
受けていません。
>メルキゼデク神権を受けるための面接はいつあったの?
神権は受けていないのでそれはありません。
ではなぜ神殿で奉仕する女性たちは神権を受けていないのに神権が必要な儀式を行えるのか?という質問が続けてくるのだろうと思われますが、そこは別のモルモン教会員さんにお任せいたします。
誠実に回答いただけると思います。
Unknown
(
教会員
)
2015-01-22 15:49:48
不誠実ですみません。 神殿で奉仕する女性たちは神権を受けていないのに神権が必要な儀式を行えるのか?についてはいい質問だし、私にはさっぱりわかりませんが、まぜっかえしはやめてください。
最初の論旨は何の神権も持たない祭司などありえないと思えるところから、姉妹は神権など持たなくて良いという教義ではなくて、いずれは与えられるものだが、今ではないから待っていてくださいという状態であると理解した方が良いのではないか。
(男性の場合はふさわしくなければ神権もしくは神権の権威は剥奪ですよね。)
つまり姉妹が現世で神権を受けられないのは確かに性差別なのかもしれないが、それほど非難を受ける性質のものであろうか(あるいは非難する側の多くは扇動されているだけで、そのことを知らないだけなのかも知れないな)というただそれだけのことでした。
神権の行使は共同作業
(
オムナイ
)
2015-01-22 21:30:16
確かに神殿での儀式の中で女祭司という言葉が出来てきて女性同士の儀式に携わるのですが、夫婦の儀式の流れの中でのことですから、委任ととれるののではないでしょうか。
死者のバプテスマ、シーリングなどを直接女性が神殿に限っては行うということではないからです。
癒しの儀式では共に手を置いて女性も携わることがあります。
幾つか興味深い記事を取り上げて見ます。
これはNJさんのお許しを得てホームページ掲載させていただいたものです。
ttp://www.geocities.jp/waters_of_mormon/forum/MF21-1.html
・最も基本的な相違は、メイソンの儀式に女性が除外されていることである。
・古代エジプトや聖書外典偽典に精通した末日聖徒の学者たちは、エンダウ メントの儀式に共通した儀礼の痕跡が幾つも見られることをあげて、この立場を支持 している。
書籍:古代エジプト文化とヒエログリフ: ファラオ神殿の象形文字を解読する
著者: ブリジット・マクダーモット P114
女祭司の称号は名誉だけのもので、王族の女性はしばしば「ハトホルの女祭司」と呼ばれました。
しかし、エジプト史の初期には、上流社会の女性が神殿の儀式に実際に参加することがありました。・・・
ttp://morumon.net/モルモンの女性と神権
妻は夫が神権を持つことによってもたらされるすべての特権を享受します。
たとえば、教会の神殿の儀式をみれば、これは明らかです。モルモンの神殿の儀式には神権が深くかかわっています。
しかし、女性はそのすべての恩恵にあずかることができ、神殿の最大の祝福は夫と妻が一緒のときにのみ与えられます。」
また、神殿で女性は他の女性のための儀式を行う力が与えられています。
神権持つ~女子らよ来たれよ~♪
(
やれやれ・・・
)
2015-01-23 12:59:08
この件について「さっぱりわからない」と素直に認める人には誠実さを感じています。しかし教会幹部の著書であっても「それは公式なものではない」と断言する方々には無意味な推測は語らないでいただきたいですね。
末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰箇条
5.わたしたちは,福音を宣べ伝え,その儀式を執行するためには,人は預言によって,また権能を持つ者による按手によって,神から召されなければならないと信じる。
とありますが、神殿で『洗いの儀式』『灌油の儀式』を行なう女性はいつ、その権能を受けましたか?
そもそも神殿の儀式は、私たちの先祖が神権の権能が回復されていない時代、形式だけのバプテスマしか受けていなかったため、正しい権能によるバプテスマを行なうことが目的でした。
神権を持たない人が施すならばそれは儀式として無効なのです。そして女性は神権を持っていません。そうであれば女性が施す儀式は無効です。
女性神権者ではなく女祭司
(
オムナイ
)
2015-01-23 13:50:12
オークス長老の話しが引用されていましたが。こんな一節があります。
扶助協会に向けた話の中で,当時十二使徒定員会会長であったジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,次のように述べています。
「姉妹たちには神権が与えられておらず,神権が姉妹たちに授けられていないとはいえ,主が姉妹たちに権能を与えておられないという意味ではありません。…
…わたしたちの救いに関連があって絶対に必要な特定の事柄を教会内で行うために,男性あるいは,姉妹に与えられている権能があります。姉妹たちが主の宮で行う業などがそれです。
神権持つ~女子らよ来たれよ~♪・・・誰もいません
(
やれやれ・・・
)
2015-01-23 14:16:15
自分の都合に合わせて解釈や立場をころころ変えること『恣意的』と言いますが・・・
あるときにはジョセフ・フィールディング・スミス大管長の著書を「公式でない」「個人的な意見」などと否定しながら、一方では誰かがどこかで聞いたに過ぎないスミス大管長の伝聞を持ち出すなどは恣意的もいいところですね。
知的モルモンの論旨構成力はあまりにも低いと言わざるを得ません。これでは東京の研究発表会とやらの内容もたかが知れていることでしょう。
Q.神殿で『洗いの儀式』『灌油の儀式』を行なう女性はいつ、その権能を受けましたか?
A.受けていない
ということで良いですね?
ではその儀式は無効です。
Unknown
(
名無しの教会員
)
2015-01-23 14:32:43
やれやれさん、私の示したものを読んで下さったのですね。どうもありがとうございます。
しかし、やれやれさんは、エンダウメントをされましたか?
多分、されていないでしょうね。
神殿で、姉妹が、姉妹たちの儀式執行する場合も、権能を持つ者によって按手され、神から権能を授けて召されています。そして、権能を持つ召された姉妹が姉妹だけに限り神殿の儀式を執行しています。また、この方法は、その当時の預言によって決められたというふうに聞いています。更に、何人かのある姉妹からは、純潔の律法に関わるからと言うなことも聞きました。
後は、やれやれさんがそれをどう信じるか、信じないか、また納得するか、納得しないかは、どのような解釈するかは、やれやれさん次第だと思います。他のコメントを読む方々もそうでしょう。
しかし、私は、やれやれさんが、一所懸命に探し求めているから、そのような疑問を持つ人だと思っています。
何故、そう思うか?私も同じ様な疑問を持ったことがあったからです。
私の場合は、エンダウメントなど神殿で何度も何度も儀式を受けて、理解をしてきました。
何でもそうだと思いますが、わからないことがあっても、まずは、行って見ないとならないのですし、理解できないでしょう。また、祈ったとしても、直ぐには、答えがでないこともあります。聖典を読んだり、研究したからと言って、理解できないことも多々ありますね。
やれやれさんの上に、神様の祝福と御加護がありますように、心からお祈り致します。イエス・キリストの御名によって、アーメン。
思い込み神権持つ~女子らよ来たれよ~♪・・・いっぱい来ました
(
やれやれ・・・
)
2015-01-23 15:56:25
それはメルキゼデク神権ですか?アロン神権ですか?
また役職は何?
申し訳ないですがあなたの発言からは無理やりな解釈でお茶を濁そうとするような姿勢を感じてしまいます。
神殿奉仕者になったとき何か良く分からないけど按手を受けたのは事実だし、儀式を行なっているのも事実、それなら権能をもらっているのだから『神権持っているのと同じことだよね』ということであれば、あなたの勝手な解釈、いえ思い込みに過ぎません。
本当に神権を受けたのであれば、その女性は何神権の何と言う役職に按手聖任されたましたか?
そもそも現在、神殿奉仕者の女性が神権を受けているのなら、私にではなく「近い将来、女性にも神権が与えられるか」というテーマを掲げているこのブログの関係者に対して「あなたがたはエンダウメントを受けていますか、いないでしょうね」と蔑むべきではないのですか?
豚的見解
(
豚
)
2015-01-23 19:34:08
豚の見解ですから、まともに反論しないでくださいね。
神殿の儀式を行う女性の権能、と言う問題ですが。
女性の洗いの儀式なんて、どう見ても男がやるのは無理ですよね。ですから、便宜上女性がやってる。
似たような話に、ステーク大会の時の聖餐の儀式、って言うのが有ります。
昔は、ステーク大会の時でも、ワードに帰ってきて聖餐会をやってたんですよね。普通の安息日に2回聖餐の儀式をしていた時も有りましたしね。
モルモンでは、こう言う事例の時は、その場の管理者とか、その時代の指導者が適当に・・じゃなかった、御霊を受けて判断するという習慣が有るんだと思います。
大事なのは、その事が主の御心にかなっているか?と言う事じゃないですか?
イエスも、律法学者みたいな四角四面の教義解釈より、「愛の律法」を優先した居たと思います。
儀式なんて、最後は神様が認めるかどうかでしょ?
使徒行伝にも、当時の律法では食ってはいけないものを、神様は食えって言ったわけですしね。
聖典や手引き隅をつつき出して結論が出るようなものでもないって思いますけどね。
儀式を受ける人が、それで納得してればいいだけだと思います。
昔、すし屋の板前さんで日曜日に教会に来れない兄弟がいて、その兄弟に家に行ったときに「聖餐の儀式を受けたい」って言うから、そこでやったことが有ります。
パンが無かったので、煎餅でやりました。
最近でも、小麦アレルギーでパンが食べられない会員の為に、パン以外で行っていると言う話も聞きました。
ここに、このパンをいただく・・・でも、ここにこの餅をいただく・・・でも、良いのだと豚は考えます。
儀式なんて、要は神様と個人の契約の問題でしょ?
Unknown
(
Unknown
)
2015-01-23 21:53:55
豚さん
相変わらず、冴えてますね(笑)
答えに窮すると、儀式なんて所詮は・・・というメタ視点に逃げ出す、いつもの敗北宣言ですな~
儀式にこだわってやれバプテスマの服が水に沈んだの浮いたの、聖さんの言葉を間違えたのと目を三角に吊り上げてるのは、あなたたちモルモンなんですよ
でも女性の神権はスルーなんだ~
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ある意味両者の視点からも不快感を向けれられる恐れがある(^^;
故にはみ出しモルモンには新たな視点が開かれるのでしょうね。
このブログも10年以上ですかー
そして第三の視点(リベラルの解説)ということでしょうね。
第三の視点は翻訳された「福音のテーマ」と考察と結論が良く似ているんですよね。
量はそれ以上だと思います、よくぞ一人でここまでと思います。
おそらく教会への態度を決めかねている人や疑問を持っている人にはダイアログ誌のような効果があるでしょう。
このブログも含めて。
もっともNJ氏は何が第1、第2かを説明しておられません。著書は拝読いたしましたがどこにも記述はありませんでした。
あとNJ氏の背教的な言動を諌める教会員が最近増えてきているようですが、これでこそ末日聖徒だと感慨深く思います。サタンは純白の状態から灰色へ。そして徐々に暗黒の状態へと誘うのを常套手段にしていると教会幹部は繰り返し警告しています。
D&C88:81 見よ、わたしは、人々に証し警告するためにあなたがたを遣わした。警告を受けた人は皆、その隣人に警告しなければならない。
↓
https://www.lds.org/topics?lang=jpn
この内容は真理ではありません。
まずこれは「予言者が受けた啓示」ではありません。
また公式なものでもありません。
たしかに公式サイトの中にありますが、その内容は公式なものではありません。かつての機関紙「聖徒の道」によく質疑応答というコーナーがありましたが、そこには『問題解決の一助として示されたものであり教会の公式な態度を示すものではありません』と但し書きがありました。それと同様です。
教会でかつて使用されたテキストや幹部の著書、あまつさえ予言者の言葉をも『個人の意見に過ぎず公式なものではない』と言い切る知的モルモンの諸兄には言うまでもないことだと思います。
あなたがたがそれら神のものを否定するのとまったく同様の理由です。
先週、ちらっと、NJさんのフェイスブック初めて見たんすが、今は見れなくなってる模様。そこには、そういった発信はなかったようで、どこかのフォーラム??
聖文を自身にあてはめるというのはその通りと思いますが、自身以外の教会員に聖句に照らし合わせ、背教と断ずるという聖句、聖文はどこになるですかね??
真理を得るうえで大切なのは、「何が事実なのか?」の追求です。
NJさんは、保守派からは「批判者」と見られ、改革派からは「擁護者」と見られている。
しかし、誰からどう見られていても、NJさんは一貫して、「事実の検証」を行っている。
もし、NJさんの表明している意見や研究に反論するのなら、その根拠となる資料や文献を提示して、「・・・だからあなたは間違っている」と言うべきであろう。
しかしながら、保守派改革派双方からの、そのような発言はまれである。
さらに、近年モルモン教会自身が、「何が事実だったのか?」を小出しながら表明し始めている。
ジョセフの最初の示現は、少なくとも4っつの異なるパターンが存在する事や、ジョセフが多くの女性を「妻」としていたこと、等がその例に挙げられる。
文献や資料によって裏付けされた「事実」がネット社会の広がりで、「世間に隠しようのない事実」となってきたので、後追いながら、モルモン教会自身がそれを発表する形で追認し始めている、と言う事だと思う。
今モルモン教会の会員に求められていることは、「事実を受け入れる」事ではないか。
たぶん、教会幹部もそれを願ていると思う。
もし自分がモルモンであると自認するなら、モルモンと言う十字架を背負わなければいけない。
事実は、隠すことも曲げることもできない、それは事実だから。
>その根拠となる資料や文献を提示して、
>「・・・だからあなたは間違っている」と言うべきであろう。
だってNJさんはご自分が間違っていることを追求されそうになると、「この話題はこの辺りで」って書込み禁止にして逃げちゃうんですもん(笑)
ずっと議論してくれるならいいですよ、いつでもお相手しますけど・・・
でもご自分のブログで恥はかきたくないでしょう。こちらにも仏心があるので追求はしないでいるのです。
(ろっくん・R・きっこーまん) さんと(やれやれ・・・)さんは別人なのですか?
差し支えなければご回答ください
原理主義というのは過去に予言者の誰々がこのように述べたことがある。 だから直ちに福音であって、他の末日聖徒も全員そう信じなければならない。 そうでない者は背教者であると様々な方法で攻撃する者のことです。
そのような人々の信仰方針が果たして神が喜ぶか?私は違うと思います。大管長会もある教会員がネット上で誰かを背教者呼ばわりすることは望んでいないと思います。 少なくとも恥ずかしい行為ですし、宣教師さんの足を引っ張ってることはあきらかでしょう。
恐らく原理主義は罪の一種であり、いつまでも自覚がなければ救われないことになるでしょう。
その人が背教者になってしまわないようにその前に諭し、警告を与える、これこそが本当の愛なのです。
また予言者に忠実であることは信仰であり、原理主義ではありません。
あなたは予言者が語ったらそれを直ちに実行しなければいけないと思いますか?
はい、そのとおりです。
昔、オムナイさんはこう言いました。
「私は予言者の言葉を聞くとそれが理解できなくてもとりあえず実行してみます。
そうしているうちにだんだんその意味が分かってくるのです」
これは素晴らしい信仰です。あなたはこれを原理主義だというのですか?
また公式サイトにも以下のようなエピソードが紹介されています。
マリオン・G・ロムニー管長は,自分自身の経験を次のように語っています。
「わたしが何年も昔にビショップを務めていたときの経験を紹介しましょう。わたしはヒーバー・J・グラント大管長をワードに招いて話をしてもらいました。……グラント大管長はわたしのそばに立ち,わたしの肩に腕を回してこう言ったのです。『マリオン,教会の大管長にいつも目を向けていなさい。そして大管長が何かするように言ったら,それが間違いであっても,実行しなさい。そうすれば,主から祝福を受けるでしょう。』グラント大管長は瞳をきらりと光らせて,言葉を続けました。『でも,心配する必要はありません。主の代弁者が主の民を間違った方向に導くようなことを,主は決してお許しにならないのですから。』」(Conference Report, 1960年10月,78)
https://www.lds.org/manual/teachings-of-presidents-of-the-church-ezra-taft-benson/chapter-11-follow-the-living-prophet?lang=jpn
もちろん予言者の語ることに盲目的に従うのではありません。その意味を理解し、心から喜んで、自らの責任と自由意思で従うのです。
なお下衆の勘繰りとでも申しましょうか、誰かが私とほかの人を混同されているようなので、その方に迷惑がかからないようにするため今後はハンドルネームなしで投稿します。
仏眼は自分の非がよく見える。”
先月の伝道のところに私がコメントしたのところがありますのでお読みください。
忠実な会員と忠実ではない会員とは何か?狼きらいさんのコメントを読んでふと思いました。
忠実な会員とは、それは、主イエス・キリストの福音(教え)を生活の中で不完全ながらでもひとつずつ一歩ずつと実践された人ではないでしょうか。
私は、忠実な会員の方でも教会の人間関係で苦しんでいる方を何人も知っています。教会の中でも、社会の中でも上手くいっていない会員の方を一言で忠実な会員ではないと呼べるのでしょうか。
私は、NJさんの発言すべてが正しいとは思ってはいません。また、ここでコメントする方も同様です。
しかし、いろんな意見や考え方を持っても良いと思いますし、感情もありますので、自分の感じていること、思っていること、言いたいことは、自由に発言しても良いことだと思いますよ。
ただ、誰にも当てはまりますが、言葉だけには気をつけないとなりませんね。その言葉がナイフのような鋭い刃物でしたら、相手は傷ついたり、誤解を招いたり、争いにもなったりしますから。主は喜ばず、悲しむことでしょう。
立正佼成会の開祖であります庭野日敬氏はこのように述べています。
“日本語に「思いやり」という美しい言葉があります。思いを他へ遣(や)るのです。愛の心・慈しみの心を人にささげるのです。つまり、心の布施にほかなりません。
そのような思いやりを他に対して持てば、その瞬間に我はスッポリ消えてしまいます。我がなくなれば、それと入れ代わりに、なんともいえない温かいものがほのぼのと胸に湧き上がってきます。これこそが本当の功徳というものです。人生のなかで、これほど美しい気持ちになれることは、ほかにないでしょうか。”
功徳という言葉が出ましたが、モルモン書の中にも、功徳という言葉が出ていたと思います。
オークス長老の話より
黄金律に従う
「キリストに従う人々は、礼節の模範となるべきです。わたしたちは全ての人々を愛し、良い聞き手となり、相手の誠実な信念に関心を示すべきです。賛成はできなくても、攻撃的になってはなりません。意見の分かれるテーマについても、争いを引き起こすような態度を執ったり、発言したりすべきではありません。わたしたちは、知恵を使って、教会員としての立場を説明、追求し、影響力を行使しなくてはなりません。その際、わたしたちの真心からの宗教的信条や宗教の自由な実践が人を不快にさせないようにと願っています。わたしたち全員が救い主の黄金律を実践するように、すなわち『何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりに〔する〕』ようにお勧めします。」
最後になりますが、もう1つ、庭野日敬氏から引用したいと思います。
“ここで忘れてはならないのは、「忍ぶ」とか「耐える」といっても、相手を恨み、怒りながらそうするのではなく、その根底に「相手を理解する」という心のはたらきがなければほんものではない、ということです。あの人にはあの人の個性がある。立場がある。事情がある。それを理解すれば、自然とその人を包容する寛大な気持ちが湧いてきます。そんな気持ちで忍んでこそ、ほんとうの和が生ずるのです。その「理解する」気持ちをさらに押し進めれば、「拝む」という心になります。”
きっこーまんさんが言うように、警告の声を出すには勇気が必要ですし、またそこには、教義と聖約121章43節にも書かれているように、敵視しないためにも、愛を示さなければなりませんね。それは良き人間関係を築くためにも必要なことです。
また、教会員さんがのべていられるように、原理主義者という言葉は別としても、そのような会員がいることは確かですね。
私のようなあまり教会には活発ではない会員がこのような発言をすることは、恐縮至極に存じます。
普段から隣人愛を示せていることと、警告はセットであり、自由意思の行使と義務の関係のように不可分であり、そのような方は場所や状況をわきまえるし言葉使いからして違っている。
愛のない者には何の啓示は下らないし、いくら予言者の説教を拝借してきても、所詮虎の衣を借りる狐のごとく、伝道の邪魔になるだけであり、終わりの日に責任を取らされる。
うぅぅんん、日本語圏で、その言葉なしですかぁぁ・・・・
眼布施
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E2%80%9D%E7%9C%BC%E5%B8%83%E6%96%BD%E2%80%9D&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa&x=wrt
「布施の種類
大智度論など、伝統的には、次のような種類が挙げられている。
財施とは、金銭や衣服食料などの財を施すこと。
法施とは、仏の教えを説くこと。
無畏施とは、災難などに遭っている者を慰めてその恐怖心を除くこと。
その他に、
和顔施(わがんせ):笑顔をひとに見せることが、それを見る人に幸福感を届け、一種の布施を行っていることになる、という考え。
言辞施(げんじせ):「和顔愛語」の愛語に相当。言葉で相手を傷つけないように気をつけること。
」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%83%E6%96%BD
カッコイイよ!
伝統的キリスト教会はキリストの愛を説きながらモルモンを仲間はずれにしている!と憤慨していたお方を思い出します。
そんな愛あるモルモン教会員さんたちは、今もユタで多妻結婚をしている方々を仲間はずれにしたりせず、当然モルモンのお仲間に数えていらっしゃるんでしょうねぇ?
どうなんです?
さようなら、裸の王様。
忠告ありがとうございます。今後とも気を付けて参ります。(なにとぞお手柔らかに)
1/19の「女性に神権授与の展望」にコメントしたかったのですが、完全に乗り遅れてしまったのでこちらにレス付けちゃいました。
必要なら適当な場所に移すなど、良きに計らっていただけますでしょうか。すみません。
さて「女性に神権を」という話ですが、、、
以前、プライマリの子供にある質問をされました。
お祈りの時に、「天のお父様」とは言うのに「天のお母様」はなぜ入っていないの?
天のお父様だけじゃなく天のお母様にもお祈りしたいよ!
そして、その答えとして、、、
まず「天のお父様」と同じように「天のお母様」も確かに存在しているし、天のお母様にもお祈りしたいという気持ちはとても純粋で暖かいものだからこれからも大切に持っていてね。
でも「天のお母様」には「天のお父様」からちゃんと伝わっているから、お祈りの時は「天のお母様」を入れなくても大丈夫なんだよ。
・・・・というような内容だったでしょうか。
その答え方で正解かどうかはわかりませんが、1つ重要なのは、表には出て来ずとも天父を影で支える天母も確かにいて彼の助け手となっているという事です。
もっと言うなら、エデンの園でエバはアダムのあばら骨を取って造られました。両者は元々1人だったという事です。
男だけでも女だけでも不完全で、両者が一緒になる事でより完全に近づくことができるというメッセージではないでしょうか。
女性は、伴侶に神権が与えられている事で自分もその神権の担い手とするなら、女性に神権を与える事はとても矛盾したことのように考えられます。
LGBTの問題はまた別の話で改めてまとめたいと思います。
女性は天の父系列から男性と同じ神権を授かるのか、それとも女性しかもてない神権を、天の母系列から授かるのか、そういう詳しいことはまだ明らかにされていません。
そして『儀式』を行なえるのは神権者だけなんだ。神権は権威ある人から按手によって授与されなければならない。この神権を黒人が受けられるかどうかで過去にいろいろあったよねぇ・・・
さてそこで、神殿のことを思い出してみよう。『洗いの儀式』と『灌油の儀式』、これ神殿の中では女性は女性から受けるんだ。
神殿で奉仕する女性たちはその時、神権を持っているの?
イエス・キリストよりの権能をいつ受けたの?
メルキゼデク神権を受けるための面接はいつあったの?
いやいや、茶々いれるつもりは全くありませんよ。そもそもモルモン会員をずっとやっていくつもりならこういうところに目を向ける必要なんか無いからね。教会に行って聖餐とってHTやってそれの繰り返しを楽しんでりゃいいんです。
『儀式』なんて宗教ごっこに過ぎない。死んだらそれで終わり。昇栄なんて無い無い、ホントは知ってるんでしょ?
時には、いいことも言っていますがね。
さて、私たちは、神権について、もう1度学ばないとなりませんね。
神権、神権の鍵、神権の権威;権限;権能などについてです。
2014年4月の大会で、オークス長老の神権の鍵と権能をお読みになるとよろしいかと存じます。これは、神権部会での話ですので、女性の皆さんは、あまり読まないこともあるでしょう。しかし、神権の鍵と権能は、女性の皆さんにも関わる話ですので是非お読みください。
やれやれさんも機会がありましたら、どうぞお読みくださいませ。そして、理解の賜物がありますよう、心からお祈り申しあげます。
そんなことも分からないのでしょうか。
>そんなことも分からないのでしょうか。
質問そのものには回答せず知ったかぶりで相手を貶めて空威張りなさるのは、ご自分が何も知らないことをさらけ出しているような印象を人々に与えます。
こうした質問にはきちんと回答すべきです。
>神殿で奉仕する女性たちはその時、神権を持っているの?
持っていません。
>イエス・キリストよりの権能をいつ受けたの?
受けていません。
>メルキゼデク神権を受けるための面接はいつあったの?
神権は受けていないのでそれはありません。
ではなぜ神殿で奉仕する女性たちは神権を受けていないのに神権が必要な儀式を行えるのか?という質問が続けてくるのだろうと思われますが、そこは別のモルモン教会員さんにお任せいたします。
誠実に回答いただけると思います。
最初の論旨は何の神権も持たない祭司などありえないと思えるところから、姉妹は神権など持たなくて良いという教義ではなくて、いずれは与えられるものだが、今ではないから待っていてくださいという状態であると理解した方が良いのではないか。
(男性の場合はふさわしくなければ神権もしくは神権の権威は剥奪ですよね。)
つまり姉妹が現世で神権を受けられないのは確かに性差別なのかもしれないが、それほど非難を受ける性質のものであろうか(あるいは非難する側の多くは扇動されているだけで、そのことを知らないだけなのかも知れないな)というただそれだけのことでした。
死者のバプテスマ、シーリングなどを直接女性が神殿に限っては行うということではないからです。
癒しの儀式では共に手を置いて女性も携わることがあります。
幾つか興味深い記事を取り上げて見ます。
これはNJさんのお許しを得てホームページ掲載させていただいたものです。
ttp://www.geocities.jp/waters_of_mormon/forum/MF21-1.html
・最も基本的な相違は、メイソンの儀式に女性が除外されていることである。
・古代エジプトや聖書外典偽典に精通した末日聖徒の学者たちは、エンダウ メントの儀式に共通した儀礼の痕跡が幾つも見られることをあげて、この立場を支持 している。
書籍:古代エジプト文化とヒエログリフ: ファラオ神殿の象形文字を解読する
著者: ブリジット・マクダーモット P114
女祭司の称号は名誉だけのもので、王族の女性はしばしば「ハトホルの女祭司」と呼ばれました。
しかし、エジプト史の初期には、上流社会の女性が神殿の儀式に実際に参加することがありました。・・・
ttp://morumon.net/モルモンの女性と神権
妻は夫が神権を持つことによってもたらされるすべての特権を享受します。
たとえば、教会の神殿の儀式をみれば、これは明らかです。モルモンの神殿の儀式には神権が深くかかわっています。
しかし、女性はそのすべての恩恵にあずかることができ、神殿の最大の祝福は夫と妻が一緒のときにのみ与えられます。」
また、神殿で女性は他の女性のための儀式を行う力が与えられています。
末日聖徒イエス・キリスト教会の信仰箇条
5.わたしたちは,福音を宣べ伝え,その儀式を執行するためには,人は預言によって,また権能を持つ者による按手によって,神から召されなければならないと信じる。
とありますが、神殿で『洗いの儀式』『灌油の儀式』を行なう女性はいつ、その権能を受けましたか?
そもそも神殿の儀式は、私たちの先祖が神権の権能が回復されていない時代、形式だけのバプテスマしか受けていなかったため、正しい権能によるバプテスマを行なうことが目的でした。
神権を持たない人が施すならばそれは儀式として無効なのです。そして女性は神権を持っていません。そうであれば女性が施す儀式は無効です。
扶助協会に向けた話の中で,当時十二使徒定員会会長であったジョセフ・フィールディング・スミス大管長は,次のように述べています。
「姉妹たちには神権が与えられておらず,神権が姉妹たちに授けられていないとはいえ,主が姉妹たちに権能を与えておられないという意味ではありません。…
…わたしたちの救いに関連があって絶対に必要な特定の事柄を教会内で行うために,男性あるいは,姉妹に与えられている権能があります。姉妹たちが主の宮で行う業などがそれです。
あるときにはジョセフ・フィールディング・スミス大管長の著書を「公式でない」「個人的な意見」などと否定しながら、一方では誰かがどこかで聞いたに過ぎないスミス大管長の伝聞を持ち出すなどは恣意的もいいところですね。
知的モルモンの論旨構成力はあまりにも低いと言わざるを得ません。これでは東京の研究発表会とやらの内容もたかが知れていることでしょう。
Q.神殿で『洗いの儀式』『灌油の儀式』を行なう女性はいつ、その権能を受けましたか?
A.受けていない
ということで良いですね?
ではその儀式は無効です。
しかし、やれやれさんは、エンダウメントをされましたか?
多分、されていないでしょうね。
神殿で、姉妹が、姉妹たちの儀式執行する場合も、権能を持つ者によって按手され、神から権能を授けて召されています。そして、権能を持つ召された姉妹が姉妹だけに限り神殿の儀式を執行しています。また、この方法は、その当時の預言によって決められたというふうに聞いています。更に、何人かのある姉妹からは、純潔の律法に関わるからと言うなことも聞きました。
後は、やれやれさんがそれをどう信じるか、信じないか、また納得するか、納得しないかは、どのような解釈するかは、やれやれさん次第だと思います。他のコメントを読む方々もそうでしょう。
しかし、私は、やれやれさんが、一所懸命に探し求めているから、そのような疑問を持つ人だと思っています。
何故、そう思うか?私も同じ様な疑問を持ったことがあったからです。
私の場合は、エンダウメントなど神殿で何度も何度も儀式を受けて、理解をしてきました。
何でもそうだと思いますが、わからないことがあっても、まずは、行って見ないとならないのですし、理解できないでしょう。また、祈ったとしても、直ぐには、答えがでないこともあります。聖典を読んだり、研究したからと言って、理解できないことも多々ありますね。
やれやれさんの上に、神様の祝福と御加護がありますように、心からお祈り致します。イエス・キリストの御名によって、アーメン。
また役職は何?
申し訳ないですがあなたの発言からは無理やりな解釈でお茶を濁そうとするような姿勢を感じてしまいます。
神殿奉仕者になったとき何か良く分からないけど按手を受けたのは事実だし、儀式を行なっているのも事実、それなら権能をもらっているのだから『神権持っているのと同じことだよね』ということであれば、あなたの勝手な解釈、いえ思い込みに過ぎません。
本当に神権を受けたのであれば、その女性は何神権の何と言う役職に按手聖任されたましたか?
そもそも現在、神殿奉仕者の女性が神権を受けているのなら、私にではなく「近い将来、女性にも神権が与えられるか」というテーマを掲げているこのブログの関係者に対して「あなたがたはエンダウメントを受けていますか、いないでしょうね」と蔑むべきではないのですか?
神殿の儀式を行う女性の権能、と言う問題ですが。
女性の洗いの儀式なんて、どう見ても男がやるのは無理ですよね。ですから、便宜上女性がやってる。
似たような話に、ステーク大会の時の聖餐の儀式、って言うのが有ります。
昔は、ステーク大会の時でも、ワードに帰ってきて聖餐会をやってたんですよね。普通の安息日に2回聖餐の儀式をしていた時も有りましたしね。
モルモンでは、こう言う事例の時は、その場の管理者とか、その時代の指導者が適当に・・じゃなかった、御霊を受けて判断するという習慣が有るんだと思います。
大事なのは、その事が主の御心にかなっているか?と言う事じゃないですか?
イエスも、律法学者みたいな四角四面の教義解釈より、「愛の律法」を優先した居たと思います。
儀式なんて、最後は神様が認めるかどうかでしょ?
使徒行伝にも、当時の律法では食ってはいけないものを、神様は食えって言ったわけですしね。
聖典や手引き隅をつつき出して結論が出るようなものでもないって思いますけどね。
儀式を受ける人が、それで納得してればいいだけだと思います。
昔、すし屋の板前さんで日曜日に教会に来れない兄弟がいて、その兄弟に家に行ったときに「聖餐の儀式を受けたい」って言うから、そこでやったことが有ります。
パンが無かったので、煎餅でやりました。
最近でも、小麦アレルギーでパンが食べられない会員の為に、パン以外で行っていると言う話も聞きました。
ここに、このパンをいただく・・・でも、ここにこの餅をいただく・・・でも、良いのだと豚は考えます。
儀式なんて、要は神様と個人の契約の問題でしょ?
相変わらず、冴えてますね(笑)
答えに窮すると、儀式なんて所詮は・・・というメタ視点に逃げ出す、いつもの敗北宣言ですな~
儀式にこだわってやれバプテスマの服が水に沈んだの浮いたの、聖さんの言葉を間違えたのと目を三角に吊り上げてるのは、あなたたちモルモンなんですよ
でも女性の神権はスルーなんだ~