”Lord, is it I?”と言う話は、先の総大会神権部会でで、ディーター・F・ウークトドルフ管長が話されたものです。
愛する救い主の現世での最後の夜,全人類の贖として御自身をささげられる日の前夜のことでした。主がパンを裂きながら言われたことに,弟子たちは大きな驚きと深い悲しみを覚えたに違いありません。「あなたがたのうちのひとりが,わたしを裏切ろうとしている」と。 弟子たちは主が言われたことは本当かと疑うことも,周囲を見回し他の人を指して「彼ですか」と問うこともしませんでした。 それどころか,「非常に心配して,つぎつぎに『主よ,それはわたしですか』と言い出した」のです。1(訳注:この部分は,口語訳聖書では「主よ,まさか,わたしではないでしょう」と訳されているが,欽定訳聖書〔英文〕の“Lord, is it I? ”の本来の意味で訳出している。)
この論文: 「VI. Conclusion」以下の、二つの段落がなんか・・・・“Tyndale Bulletin 46.1 (1995) 29-42. PAPYRUS MAGDALEN GREEK 17 (GREGORY-ALAND P64): A REAPPRAISAL1 Carsten Peter Thiede Summary More than forty years after C.H. Roberts' first edition of p64, this new edition provides the first complete reconstruction of all six sides of the three fragments kept at Magdalen College, Oxford. It corrects a number of errors, adds an improved reading of several verses, in particular of Matthew 26:22, which contribute to a better understanding of early Christian scribal habits;・・・・VI. Conclusion・・・・ 」
https://www.lds.org/scriptures/gs/jehovah?lang=jpn
少し調べれば分かることなのですが、この世の多くのキリスト教会が『エホバ』という神聖な名前を『主』に置き換えた聖書を使っています。しかし末日聖徒イエス・キリスト教会には啓示によってエホバがキリストであることを知っています。歴史上の事実としてカートランド神殿に復活したキリスト、すなわちエホバが訪れられました。(概念による啓示ではなく実体としての顕現です)
『エホバ』がキリストであることはモルモン書の予言者たちも知っていました。モルモン書の最後の一節にはモロナイによる感動的な力強い証で締めくくられています。
『そしてわたしは勝利を得て空中に上げられ、生者と死者双方の永遠の裁き主である大いなるエホバの楽しい法廷であなたがたに会うことになる。アーメン』
ですので多少の文章表現がどうであっても、『エホバ』という語を除外しようとする傾向の最近の聖書を使うことはできないのです。それは聖書からまた重要な真理を失うことであるのを教会幹部はよく知っているのでしょう。
どうぞNJさんも悔い改めをされ、歴史や学問と言った人間の不完全な知恵でなく、主にすべてを委ねてみてください。この教会は真実であり、『エホバ』はキリストであり、欽定訳はもっとも主の御心にかなった聖書なので当教会で使われているのです。
『そしてわたしは勝利を得て空中に上げられ、生者と死者双方の永遠の裁き主である大いなるエホバの楽しい法廷であなたがたに会うことになる。アーメン。』
”Lord, is it I?”と言う話は、先の総大会神権部会でで、ディーター・F・ウークトドルフ管長が話されたものです。
愛する救い主の現世での最後の夜,全人類の贖として御自身をささげられる日の前夜のことでした。主がパンを裂きながら言われたことに,弟子たちは大きな驚きと深い悲しみを覚えたに違いありません。「あなたがたのうちのひとりが,わたしを裏切ろうとしている」と。
弟子たちは主が言われたことは本当かと疑うことも,周囲を見回し他の人を指して「彼ですか」と問うこともしませんでした。
それどころか,「非常に心配して,つぎつぎに『主よ,それはわたしですか』と言い出した」のです。1(訳注:この部分は,口語訳聖書では「主よ,まさか,わたしではないでしょう」と訳されているが,欽定訳聖書〔英文〕の“Lord, is it I? ”の本来の意味で訳出している。)
https://www.lds.org/liahona/2014/11?lang=jpn
ここで問題になるのが、この聖文の本来の意味である。
管長の話の中では、弟子たちが「それは私ですか?」と謙虚にイエスに問いかけた話として紹介されている。
弟子たちは、「ひょっとしたら、自分が裏切り者かもしれない?」と言う気持ちが有ったことに成る。
しかし、日本語口語訳の「主よ,まさか,わたしではないでしょう」と言う言葉になると、弟子たちは、「自分は裏切り者であるはずがない」と思っていたように解釈される。
つまり、口語訳の言葉になると、ウークトドルフ官庁の話の内容と合わなくなってしまうのだ。
聖書は多くの国語に翻訳されている、同時にその時代の言語学の認識や、さらに教団による解釈などが加わると、同じ聖書でも、内容が微妙に変わってくる。
何が何でも、聖書の中の言葉が一言一句正しい、とまではいわなくても、聖書の言葉にはそれなりの重みが有る。
今回のこの話でも、日本語の口語訳聖書を読み、それが正しいと信じている人には、ピントのはずれた話に聞こえてしまう。
ところが「こんにちは」って正しく訳してる聖書は無いんですね。有難みが無くなっちゃいますのでね。まぁ聖書の翻訳なんてそんなレベルでしょ?
旧約聖書ではかつて「らい病」と書かれていたのを「重い皮膚病」に変更しています。これは近年まで社会的に続いてきたらい病に関する誤解とそれによる差別、迫害を踏まえて、医学会では「ハンセン病」と呼ぶことになったのですが、キリスト教界でも聖書から「らい病」という表現をやめたのです。反省に基づくものか、無かったことにしちゃえっていう隠蔽工作か、それは分かりませんがね。
しかしこれでは正しい翻訳とは言えません。なぜなら聖書が描いている古代世界において現在の我々が言うハンセン病がらい病として差別迫害されていたと言う事実が伝わらなくなるからです。
まぁ・・・LDS聖書研究会とやらの賢いお歴々はこの程度のことは当然ご存知でしょう。お後が宜しいようで。
欽定訳聖書の現代英語による改版である。
旧新約聖書が含まれている新ジェイムズ王訳聖書、1982年
国際ギデオン協会がホテルや病院に設置している聖書はNKJVである。
---
NKJVというのがあり単純に現代英語にするのならば良いかもですね。
誤訳の問題は残りますが、モルモン書にはその誤訳をジョセフ・スミスが先見して修正している部分もありますから残すしかないかな。
合わせてKJVから引用してあるモルモン書も同時に改訂しなければいけないのでしょうが。
それかモルモン独自で翻訳してしまうかですね。
では国際ギデオン協会日本語聖書は。。もしや!と思ったら口語訳・と新改訳が主流。
しかし、ニューバイブル訳という個人訳も扱っているようで底本が欽定訳に起因するなら面白いかも。
わざわざ英語欽定訳から和訳。。と結構出てくる。
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/960452cc2200b7862b686041cde85420
豚さん、私は二通りの邦訳(「わたしですか」「わたしではないでしょう」)にそれほど大きな違いを見出していませんでした。ギリシャ語の否定の答えを予期する表現の場合、相手の同意(「そう、あなたではない」)を確認したい姿勢が感じられます。やはり微妙な(むしろ大きな)差がある?!もう少し、参考資料に当たってみたいです。
最初のUnknown さん、「エホバ」の呼称・訳語について発音(言語学、音韻論)上から取り上げようと思っていたところでした。ただ、一部しかご指摘に応えることができないと思いますが。・・悔い改めて、すべてを神に委ねる姿勢を促していただきありがとうございます。(もっとも、福音の研究という点では、かけた時間、当たった資料、それにより生じる進路、取る位置取りなどの相違から、長い平行線をたどることになると予想いたします。)
それは、同じ場面のルカに記述です。
「しかし,そこに,わたしを裏切る者が,わたしと一緒に食卓に手を置いている。
人の子は定められたとおりに,去って行く。しかし人の子を裏切るその人は,わざわいである。」
弟子たちは,自分たちのうちのだれが,そんな事をしようとしているのだろうと,互に論じはじめた。」
ルカでは、「俺じゃないぞ!お前じゃないのか!」って会話が有ったようにも読めます。
まったく謙遜じゃない(笑)
それと、マタイのイエスの言葉に対する、弟子たちの言葉がどうもすれ違っているような気がします。
イエスは、「あなたがたのうちのひとりが,わたしを裏切ろうとしている。」と言ってます。
「裏切るでしょう」なら、弟子たちも「ひょっとして自分がそうなるのか?」と思うのもおかしくないですが、イエスは、この場面で、一人の弟子が裏切りの思いを持っていることを指摘しています。
つまり、その場面での現在の事なので、ユダ以外は「自分じゃない」と確信してるわけですから、NJさんのおっしゃるとおり、『相手の同意(「そう、あなたではない」)を確認したい姿勢が感じられます。』ですね。
少なくとも、「自分じゃないだろうか?」と言う不安を抱く必要が無いんです。
この裏切りの話の直後に書かれている、マタイの26章31節からの話では、
そのとき,イエスは弟子たちに言われた,「今夜,あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして,羊の群れは散らされるであろう』と,書いてあるからである。
しかしわたしは,よみがえってから,あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう。」
するとペテロはイエスに答えて言った,「たとい,みんなの者があなたにつまずいても,わたしは決してつまずきません。」
イエスは言われた,「よくあなたに言っておく。今夜,鶏が鳴く前に,あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。」
ペテロは言った,「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても,あなたを知らないなどとは,決して申しません。」弟子たちもみな同じように言った。
と書かれています。
これを読んでも、弟子達が「私はイエスを裏切るかも知れない」と思ってはいなかったのではないでしょうか?
昔の日本の末日聖典は、特に教義と聖約などでは、読みづらかったです。
現代語に変わってからは、教義と聖約の書など、よく読むようになりました。
昔の言葉が会員の定着しなかった理由の1つでもあったと聞いたことがあります。
英語版聖書も必要であるならば、どの時期の改訂された聖書が良いのかわかりませんが、考え見ることも必要な場合がありますね。欽定版も参考として遺すのも良いかも知れませんが。聖書比較的に。
現代の新約聖書のギリシャ語写本底本のほとんどはネストレ版で何度も校正され現在24版だそうです。
つまり、多くの写本を収集し確からしいものを研究しつつ原本に近づこうとしているのでしょうね。
対して欽定訳はビザンチン・テキストと言われる古い固定した写本に頼っているようで加筆なども多いのでしょうね。
もっと古いラテン語の聖書には欄外にどの写本から引用したとか、別な写本ではこんな表現になっているとか、欄外に注訳があったそうです。
皮肉なことに現代のネストレ版に通じる研究心は欽定訳以前にはあったということでしょうか。
一説には欽定訳の翻訳を命じたジェームズ王が欄外の注訳が嫌いだったから、つけるなと言ったとか。まぁ、完成版を目指的発想だったのでしょうか。
ひょっとしてビザンチン・テキストの当該ギリシャ語の部分は否定的語感はつかわれていないのかも。
オタクな人たちは意味も分からずそれっぽい言葉を使って業界人にでもなった気分を味わうらしいですが、そんな雰囲気にあふれてます。
ところでモルモン書も同様に新しいテキストが発見されて変更されたのをご存知ですか?日本語際翻訳のことじゃありませんよ。オリジナル英文の変更です。
レーマン人の肌が黒くなった、というところ、『黒』を表す語句が black から dark に変更されているんです。1985 年頃だったと思いますね。黒人に神権が与えられたすぐ後ですね。何か関係があるんでしょうか?教会はジョセフの原本により近い言葉に変えたみたいなことを言ってますが・・・
しかし、このことは日本の教会には全く知らされませんでした。きっと信仰の弱い会員にこんなことを教えたら潰れちゃうと当時の指導者が心配したからでしょうね。真実を知れば潰れるのがモルモン信仰なんでしょう。求道者や新会員に余計なことを言うなって怒る人もいますしね。まぁこの辺の事情は教会翻訳部にいた先生や、監督会、ビショップリック経験者の皆さんにお聞きしたいものですね。
モルモン書に出てくるアディオスはスペイン語なので舞台となっている南米はスペイン語圏。
そしてスペイン人に滅ぼされた原住民と滅ぼされニーファイ人。
英語のgood-byeよりも再会のニュアンスを含んだアディオスを選んだのは、なかなかのセンスだなと素人でもおもうでしょうね。
時代背景や社会背景の常識から考えると黒や暗黒の問題もわかりやすいかも。
あなたの読んでるのはオムナイ訳のモルモン書かな?それともビザンチン=テキスト?(笑)
そんで、ヨセフス(37年 - 100年頃 政治家及び著述家)という人いるじゃないですか、『・・・・
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/1236fa27f014c0405140b4bc01ef55d8
「古代アラム語聖書が、ネット英語圏で訳されてて、4種みつけまして、マタイ26:22のそのところ、三つは、欽定訳と同じと言えます」(上記サイトの終わり3行)
大変興味があります。最近アラム語について関心が向いています。イエスや弟子たちはギリシャ語ではなく、アラム語が母語であった筈だからです。では、新約聖書は?という方向から少し勉強してみたいわけです。
すると Numquid ego sum Domine?
Can it be that I am Lord?
となっていて、ギリシャ語とよく似ています。否定を期待する質問であると辞書の記載にありました。
NJさん ブルガタ聖書(ラテン語)は否定を期待する質問になっているとのこと。参考になりました。ますます混沌w
現代聖書の多くの底本はネストレ・アーラント(Nestle-Aland)と呼ばれる現代の聖書学の最高水準であろうギリシア語新約聖書テキスト。
そこでレセプトゥスの方では否定を期待する質問にはなっていない。と思ったのですが、調べた限りでは同じよう。
http://dbwf.net/images/TRStephanus.pdf
Μήτι ἐγώ εἰμι, Κύριει
では、欽定訳の訳者の単なる訳し方の違い。かと思えば
たまwebsさんは「古代アラム語聖書」の英語訳は欽定訳に準じていると。。
では、欽定訳の訳者は別の写本も検討してた可能性もある。。
豚さんの思索もまさに混沌
私はそんなことを思うはずはない、と言う意見です。
ですから、「主よ、私でしょうか?」と日本語に訳すのはおかしいし、同様の意味の欽定訳英文もおかしい。
とは言うものの、中には「それって俺の事?」って、自分を自覚していない弟子もいたかも。
そういう人って何処にでもいるから~どこにでも、そこにでも・・・
”・・・・ひどく心を痛めて、弟子の皆が、口々に言った、”私はその裏切り者ではないですよね、【私はその者でない、言われるのを期待して、と同意を求めて】主よ? すると、主は答えて言われた・・・・
”
なんで、欽定訳で否定疑問文みたく訳さなかったのか??
なんか、この論文が、26:22の最古パピルス紙片に触れてるでしょうか?? たまWEBには、もちちんぷんかんぷんこてんこてんなわけです。何を言ってるのか、NJさんにでも、要約的解説でもお願いしてみてみましょう・・・・
この論文: 「VI. Conclusion」以下の、二つの段落がなんか・・・・“Tyndale Bulletin 46.1 (1995) 29-42.
PAPYRUS MAGDALEN GREEK 17 (GREGORY-ALAND P64): A REAPPRAISAL1
Carsten Peter Thiede
Summary
More than forty years after C.H. Roberts' first edition of p64, this new
edition provides the first complete reconstruction of all six sides of the
three fragments kept at Magdalen College, Oxford. It corrects a number
of errors, adds an improved reading of several verses, in particular of
Matthew 26:22, which contribute to a better understanding of early
Christian scribal habits;・・・・VI. Conclusion・・・・
」
http://www.tyndalehouse.com/TynBul/Library/TynBull_1995_46_1_02_Thiede_PapyrusMagalen.pdf#search='matthew+26%3A22++greek'
http://cache.yahoofs.jp/search/cache?c=YnrVDvReUAYJ&p=matthew+26%3A22++greek&u=www.tyndalehouse.com%2FTynBul%2FLibrary%2FTynBull_1995_46_1_02_Thiede_PapyrusMagalen.pdf#search='matthew+26%3A22++greek'
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「26:22 "Surely not I, Lord" Each disciple asked the question. The Greek grammatical construction expected a negative answer. Their asking the question shows their confusion.
」
http://www.freebiblecommentary.org/new_testament_studies/VOL01/VOL01_26.html
「"Surely not g3385 μήτι mēti
」
http://www.blbclassic.org/Bible.cfm?b=Mat&c=26&t=NIV#conc/22
「3385 [e] Mēti Μήτι not IntPrtcl
」
http://biblehub.com/text/matthew/26-22.htm
「Word: mhti
Pronounce: may'-tee
Strongs Number: G3385
Orig: from 3361 and the neuter of 5100; whether at all:--not (the particle usually not expressed, except by the form of the question). G3361
Use:
Heb Strong:
1) whether, at all, perchance
」
http://www.godrules.net/library/strongs2b/gre3385.htm
http://www.godrules.net/library/kjvstrongs/kjvstrongsmat26.htm