夜が明けた。八王子の“司令部”では、リーダー以下“シリウス”N坊とF坊の4人が、充血した目をこすってPCのモニター画面に見入っていた。“旧AD法律事務所”に関するデーターの精査がようやく終わろうとしていた。「どうやら、他に不審な点や銀行口座の情報や、ペーパーカンパニーの存在は確認出来ないな。F坊が見付けた、スイス銀行の口座と香港のペーパーカンパニーだけの様だ!」“シリウス”が疲れた声で言った。「現在の残高は分かるか?」リーダーが目頭を押さえて問う。「最新の情報が半年前ですが、約6580万円になります。それ以降については照会不能です。S本人が持っているカードもしくはIDとPWが判明しないと無理ですよ!」N坊が言う。「“シリウス”、お前でも無理か?」「銀行が相手ですからね。セキュリティーを突破するのは容易には行きませんよ」リーダーの問いに、諦め顔で“シリウス”が返す。「そっくりそのまま残っているとすれば、Sを裸の王様には出来ない!さて、どうする?」F坊が悔しそうに言う。「Sは横須賀に釘付けだろう?如何に俺達でも基地に“侵入”するのは不可能だ。多分、私物の中にカードも入っているだろうが、そいつを手にするのは厳しいな」N坊も悔しさを隠さない。「仮に、口座から現金を引き出してもどうします?裏金ですから税法上の問題をクリアしなくては表立って使う訳にも行かないでしょう?」“シリウス”が肝心な点を指摘する。「それは認める。資産を隠匿していたのだから、脱税の容疑で当局の追及を受けたらアウトだ。闇から闇へ葬るしかあるまいよ!それでも、Sの資産に変わりは無い。どうにかして没収しなくては、M女史に災厄が降りかかる事になる!」リーダーは唇を噛んだ。「銀行のセキュリティーを突破するとなると、4~5日はかかります。でも、それでは時間切れです。我々の持っている手ではどうにもなりませんよ。ミスターJに判断を仰ぐしかないでしょう?」“シリウス”が問う。「そうだな、我々はここまでだろう。ミスターJに判断を聞こう!」リーダーは携帯を取り出すと、ミスターJを呼び出した。
ミスターJは、コーヒーブレイクの真っ最中だった。「さて、今日は“撤収作業”もある。夕方に八王子へ移動するには、直ぐにも始めたいところだが、爆音轟く中でやる気にはならんな!」爆音とは言うまでも無く“スナイパー”のイビキである。余程熟睡しているのかは不明だが、B29の大編隊さながらの轟音が轟いているのだ。下手をすると焼夷弾が降るかも知れなかった。その時、携帯が震えた。「おはよう、リーダー何があった?」ミスターJは即座に不穏な空気を察知した。「早朝からすみません。実は・・・」リーダーはSのスイス銀行の隠し口座と香港のペーパーカンパニーの存在について報告を行い、指示を仰いだ。「何!そんな裏がまだあったのか?それは何としても叩き潰さなくてはならんな!」ミスターJは直ぐに同意して思いを巡らせた。「リーダー、本件はM女史は知らんのだな?」「はい、恐らく知り得てはいないかと。“旧AD法律事務所”のデーターのかなり深い部分に隠されておりましたし、PWでプロテクトされていましたので、S以外は知り得ていないと思われます」「そうか、いずれにしても不法な蓄財である以上、M女史には手渡せないな。税法上厄介な事になる。そうなると、どうやって始末するか?が問題になるな!」「はい、根絶しなくてはSに鉄槌を下せません!」「その通りだ。だが、1つだけ手がありそうだ!恐らくだが、極秘裏に使い切る方法が無くはない。宜しい、本件は私が処理に当たろう!他に隠し口座やペーパーカンパニーの存在は、確認されておらんのだろう?」「はい、徹夜で検証・分析した結果、確認されませんでした」「ならばいい。“前線基地”を撤収する前に道筋を付けて見よう。ご苦労だったな。交替で仮眠を取って置け。最後の仕上げが目前だ!一気に仕上げる予定だ。過労は避けてくれ!」「分かりました。では、お任せします」「リーダー、休めよ!」ミスターJは念を押すと携帯を切った。「恐らく、米軍もこの資金については、把握しているに違いない。向うに水を向ければ、山は動くやも知れん。中佐にもう1つ手土産を持たせるのも悪くはあるまい!」ミスターJは微かに微笑んだ。カップをソーサーから持ち上げると、コーヒーを一口飲みもう一度算段を弾いて見る。「やはりこれしかあるまい!」ミスターJは断を下した。携帯を取り出すと、メールを作成して送信する。「後は、待つだけだ!」カップがソーサーに当たり軽やかな音を立てた。
クレニック中佐は、ミスターJからのメールを見て、直ぐにオブライエン少佐を呼び出した。「少佐、例の“買い物”の件だけど、中国からの機器の購入に際して、どの様に手配したの?」「はい、取り調べた3人の香港人の手を借りて、ペーパーカンパニーを経由させてこちらへ輸入しました!」「そのペーパーカンパニーの社長は誰なの?」「ボスのS氏です。支払いの口座も、彼の名義のスイス銀行の口座を拝借して、我々の存在に気付かれないようにしています!」「資金の補填に関しては?」「一時的に立て替えて貰ってますが、同額を補填する予定です。S氏が開放される際には、支障が出ない様に手続きは進んでいます!」「シャドーのボスであるミスターJから連絡があったわ。S氏の資金を全て使い果たして欲しいそうよ!補填の必要は無いと言って来たの。どう言うつもりなのかは分からないけれど、我々の予算にも限りがある以上、乗らない手は無いと思うの。残高はどうなっているの?」「6580万円の内、半分を送金しましたので、3290万円が残っています!」「ペンタゴンからの“調達要求”をどの程度満たしているの?」「3分の1に留まっています。残金を全額使っても、残り3分の1は応ずる事は不可能です!」「では、補填分も加えて残りの3分の1の“調達要求”を満たす手配を至急取りなさい!」「宜しいのですか?個人の資金を使うとなると、公聴会で叩かれでもすれば、疑念を持たれる恐れもあります!」「税逃れの裏金だとしたら、どうなるかしら?日本でも表立って使えない資金なら、それなりの説明をすれば、問題とはならないはずよ。S氏からの提供があったとのメイキングをして置けばどう?ペンタゴンからの“調達要求”を満たしてやれるなら、彼らも不満は言わないでしょう?」「それはそうですが、S氏へはどう説明するおつもりですか?」「彼も米国へ連れて行けば、立場を理解するでしょう。資金提供の見返りとして、米国での保護を条件にすれば乗って来るはずよ!現状のまま解放したら、日本の当局からの追求から逃れるのは不可避のはず。時を稼いで闇から闇へ葬るまで待つなら、私達の言う事を聞かなくてはならないはずよ!少佐、至急手配にかかりなさい。ペンタゴンを黙らせるのよ!」「イエス・サー!では、存分にやらせていただきます!」オブライエン少佐は部屋を辞して行った。「さて、私はS氏との“取り引き”にかからきゃ。手土産をいただいた恩は忘れないわよ、ミスターJ!」中佐は、Sの経歴を調べ始めた。中にはミスターJから提供を受けた資料も含まれている。「使い方次第では、我が国の防衛に寄与する事は間違い無いわね!」中佐は窓の外を見た。快晴の空が広がっていた。
Z病院のICUから内科病棟へ移されたR女史は、久し振りに白以外の色を眼にする感覚を体現していた。個室に入れられた彼女は、窓から外を眺めて居た。中庭に面した窓からは木々が見え、花壇には花々も見えた。「やっと帰って来た!」彼女がそう言うと「まだ半分ですよ!さあ、ベッドに戻って!」とミセスAがすかさず釘を刺す。「体内では、まだ細菌との戦いは続いているのよ。最悪からは帰れたけれど、退院を云々するには時期尚早だわ。油断大敵!気をつけてくださいね」ミセスAは細心の注意を払う様に、こんこんと話を続けた。「それと、貴方に面会の方が見えてるわ。今、消毒をして貰ってます。そろそろお見えになるはずよ」「Rちゃん!やっと出て来れたね!」「T先輩!」久々の再会だった。ミセスAはT女史に2~3の注意を耳打ちすると、ナースステーションへ戻って行った。「Rちゃん、やっと真実を聞かせてあげられる。私も感無量だよ」「そうですね。やっと真実を知ることが叶う。私も気になって仕方ありませんでした・・・」「じゃあ、再生するね!」
T女史は、黒いICレコーダーを取り出すと再生ボタンを押した。
「どうかお慈悲を!国内が無理なら海外でも構いません!」「そうは言っても社則に違背した事実は覆らん!犯罪に加担した以上、懲戒解雇は免れんぞDB!役員を説得するのは無理だ。弁護士も同じことだ!」「私は家族を養わなくてはなりません。どうか見捨てないで下さい!副社長、お言いつけは何でも聞きます!」「尋常な事では無いぞ!余程の理由が無ければ、周囲を納得させられん。だが・・・、1つだけ手はある。それは“現地採用”でベトナムへ潜り込む事だ!貴様はどの道、懲戒解雇にせざるを得ない!普通ならそれで終わりだが、特別に情けをかけよう。貴様は、直ぐにベトナムへ飛べ!こちらから“現地採用”の内諾を出して置く。定年まで帰国は叶わんし、給与も半額にはなるが家族を養う糧にはなるだろう。異例の処置だが、極秘裏に手配してやろう!それで構わんな?!」「ありがとうございます!決して違背は致しません。定年まで現地で必死に働きます!」
「どう?少しは胸の閊えは消えたかな?」T女史は静かに聞いた。「ええ、もやもやしてた気持ちが落ち着きました。情けをかけてもらってのベトナム行きか。確かに異例の処置だけど、ここまで普通はやらないものなのに。DBは、救われてたのね!」「そう、これは会社から提出させた音声記録よ。Rちゃん、ICレコーダーは置いて行けないけれど、私が責任を持って保管して置く。退院したら取りに来てね」T女史は黒いICレコーダーを鞄に入れる。「それと、もう1つ。悪い知らせがあるの。Kが命を狙われたの!Rちゃん達にも嫌疑がかかったけれど、直ぐに消えたからそれはいいとして、犯人はまだ捕まっていないの。警察は暴力団関係者に絞って行方を追ってる」「Kは助かったんですか?」「大丈夫、寄生虫に取り付かれて一時は危険な状態だったけれど、オペで寄生虫を取り除いて一命は取り留めてる。今は収監されている刑務所の近くの大学病院に収容されているわ」「どんな虫だったんですか?」「フィラリアよ。心臓の裏にいたらしいわ」「どんな手口でフィラリアに?」「Rちゃん!貴方の悪いクセ!何もかも知りたがるのは、全然治らないのね。自身もまだ入院中なのよ!続きは完璧に治ってからにしよう!どっちにしろ、捜査はまだ続いてるの。貴方は自分の事だけを考えなさい。そうしないと、永遠に閉じ込めるよ!」T女史は怖い目をしてR女史を睨んだ。さすがに先輩に睨まれるとR女史も神妙に「はい、すみません。まず、退院して先輩の事務所に行く事を目指します」と頭を垂れた。「そうでなくちゃ。いつまでも留守にしてると、みんなが心配するのよ!分かってるなら、お医者さん達の言う事を聞いて、早く戻りなさい。あら、もうこんな時間!私も看護師さんに怒られそう。Rちゃん!今日はここまで。また、来るからね」「先輩、ありがとうございます!」T女史は慌てて病室を後にした。「Kも戦ってる。私も負けられないわね」R女史は安堵してベッドに横になった。窓から眩い光が差し込んでいた。
「“スナイパー”、小道具のトランクも忘れるな!ああ、それだ。八王子でNとFに分析させて記録する重要なモノだ。お前さんの荷物はどうした?」“撤収作業”にいそしむミスターJは、“スナイパー”に注文を付けながら言う。「荷物の積載は済んでますよ。ノートPCとプリンターもいいですか?」「ああ、持って行け。以外に広いから手こずるな。だが次にお前さんが戻るまでに済ませて置く。そのカートをどかせ!テーブルを拭き取るから」2人はそれぞれに作業に励んでいた。クレニック中佐は、ミスターJの提案を受け入れ、なおかつ“Sを参考人として本国へ招致したい”と告げて来た。期間は約半年。身柄の保証と滞在経費はSの資金から拠出するとも言っている。半年の渡米は、M女史にとってもR女史にも好ましい結果を生むはずだ。その間にSが引き起こした事件を抹消してしまえばいい。ともかく、当局が疑念を生むことも抱くことも無い様に片付ければ、M女史もR女史も安全になる。R女史への“すりこみ”も始められている。彼女に対しての“正しい認識”の植え付けも順調に進んでいる様だ。今回の作戦の大半は無事に終了しつつある。「最後の仕上げまでは気は抜けんな。だが、ここまでは順調だ。何事も無く行けば週内には撤退出来るだろう」とミスターJは呟きながら最後の縁を拭き取った。白い手袋を取り出すと、ゴミ袋を縛る。“スナイパー”が戻ってきた。「準備完了しました。直ぐに八王子へ向かいますか?」「いや、下のカフェでコーヒーを飲もう。一息つかせてくれ!」ミスターJは手袋をはめるとドアを閉めていく。「さすがに疲れた。軽く食事も済ませよう」“スナイパー”と共にエレベーターで2階へ降りる。カフェでコーヒーと軽食を注文すると、椅子にもたれて、大きく息を吐く。「いよいよ、仕上げですか。今回も色々とありましたが、少しホッとしますね」“スナイパー”が言うと「確かに横道にそれた部分は否定しないが、大勢は決したな。ここまで来れば先は見えている。残った課題を八王子で片付ければ、任務完了だ。もう少し頑張ってくれ」ミスターJは息を整えつつ返した。「Sの渡米も決まりですか?」「本人次第だが、中佐が首に縄をかけてでも引きずって行くだろうよ。ヤツが留守の間に諸々を片付ければ、後は雲散霧消になるだろう。M女史がSをどうするか?は2人の問題だ。それは姉弟で決着をつけさせる」「クレニック中佐も手土産満載で帰国すれば、株も上がりますから多少の無理は黙って聞くでしょう。向うにすれば、国防上の懸念について仔細に分かる訳ですし、こちらとしても利はある。取り引きとしては上々じゃあありませんか?」「まあな。こちらの条件が通ってくれただけでも儲けものだ!」「彼女、本気で法務部長を狙ってますよ!今回の功績で、また一歩前進ですよ!」“スナイパー”がにやけて言うと、コーヒーと軽食揃った。2人はゆっくりと時間を過ごした。
同刻、八王子“司令部”では、リーダーの指揮の元、片付けと移動が始まっていた。「2階にスペースを作れ!ミスターJの寝床を設置する。パーテーションで区切るんだ。PCを1mばかりずらさなきゃならんぞ!1階の“遊戯スペース”は階段の下に押し込めろ!空いた空間を寝床に替えるんだ!」“シリウス”を先頭に2階組が、N坊とF坊を中心に1階組が編成され室内の片付けと清掃が始まる。それを見届けたリーダーは、駐車場の整理に外へ飛び出した。遊撃隊員と一部の機動部隊員を前に「帰りを考慮して、車両の再配置を行う。“黒のベンツ”は建物の直ぐ脇、吊り出しやすい位置に移動させろ!前は遊撃隊の車で遮蔽、後ろにはトラックを配置、3軸車も直ぐに出られる位置へ出してくれ!今回は順次引き上げになるはずだ。両隊共に分かりやすい様に工夫しろ!」と命じると、携帯で大隊長を呼び出す。「大隊長、長い事ご苦労だったな。Z病院周辺に展開している車両だが、明日から順次引き上げを開始する。ああ、撤収だよ。まず、半分を帰還させる手配にかかってくれ。そうだな、トラックはギリギリの線でいい。セダンの隊員達は最後まで残る形で。うん、采配は任せるよ!何かあれば、こちらに連絡を入れてくれ。24時間当直は居るからな。じゃあ、頼んだよ」と言って事務所に戻る。「リーダー、ちょっといいですか?」“シリウス”が声をかけて来る。「どうした?」「いや、例のサーバーなんですが、再利用出来ませんかね?」「どう言う意味だ?」「破壊を前提に検証して見たんですが、結構モノが高性能なんですよ。基地のサーバーより容量は少なめですが、処理速度が速いんです。破壊するには惜しくなって・・・」「だが、公言した以上、破壊が前提だぞ。どうやって誤魔化す?」「方法はありますよ。筐体は別モノに換えて、“基地”に眠っている古いサーバーと差し替えられませんか?」「つまり外回りは破壊するが、中身を残したいって事か?」「まあ、そうです。N坊とF坊も“チューニング次第では、最速で運用できる”って言ってます」「うーん、ミスターJがお見えになったら聞いて見ろよ。どの道、破壊工程は動画で記録して、U事務所に報告する事になってる。社長も中身までは知らん訳だから、やり様はあるが、ミスターJの許可が出るかなー?」「ともかく、破壊はいつでも出来るので、判断を待ってからにしますよ」「一応、聞いて置く。それより、2階のスペースは確保したか?」「はい、終わってます。掃除も済みましたよ」「残るは1階か。あー、誰か食料調達に行かせてくれ!手の空ているヤツなら誰でもいい。2人分増えるから、計算を間違うなと言って出させろ!」「はい、俺と隊員2人で行って来ますよ」“シリウス”が請け負った。上へ下への大騒ぎが収まったのは、午後3時を過ぎていた。
Kの容態は安定していた。ICUを出るのにしても左程の時間を要しなかった。絶対安静ではあったが、Kは一般病棟の個室へ移送され、出入口には警官が24時間交代で見張りに着いた。“第一段階は、成功したな。これからは、あらゆる時間を探ることだ!”Kの脱走計画は、第二段階へ進んでいた。もっとも懸念された着衣についても、病室のロッカーの中にある事を掴んでいた。何故、Kが着衣に拘ったのか?と言うと、“ロッカーの鍵”を隠し持っていたからに他ならない。ベルトのバックル部分に巧妙に隠された“ロッカーの鍵”は、横浜のサウナのモノだった。KとDBが“異臭の素”を抜くために、悪戦苦闘を繰り広げたあのサウナに、Kは密かに“現金と偽造パスポート”を隠していた。“横浜へたどり着けば、高飛びに持ち込める。DBとも連携出来れば、Yを葬る手立ては幾らでもある!とにかく、安全に横浜へたどり着く手筈を探らねばならん”Kは、従順な風を装いながら1つ1つ確実に、脱走に向けて動き出していた。
B29は、ベトナムでも飛んでいた。しかも、想像を絶する大編隊だ。編隊を指揮しているは、言うまでも無くDBである。睡眠薬で眠る事にすっかり慣れた“食用蛙”は、最近肥り始めていた。47kgまで落ちた体重が50kg近くまでリバウンドし始めていたのだ。「マズイ!危険な兆候だぞ!食事を変えたのか?」「いえ、むしろ糖質や全体の量を減らしている状況です。問題なのは、寝ている時間が長い事ではありませんか?」「うーむ、だが、現在の様な生活習慣になってから、紐などは発見されておらん!むしろ脱走の危険度は低下した。そこをどう見極めるかだな?」「はい、BGM作戦の効果もありまして、ひたすら眠る方向に逃げています。恐らくは“体力の温存”を画策しているのでは?」「有り得るな。そして一気呵成に攻めかかるつもりだろう。まあ、そうした事をいくら画策しても地下空間からは逃げられはせんが、体力を付けられるのは具合が悪い。食事を削るのは無理か?」「日に2食ですから、これ以上削るとすれば睡眠薬を増量して、1食まで減らすぐらいしか手はありません」「なに!既にそこまで落としているのか!1食だけにすれば生命維持に支障出がるな、生かして置くのも命令だ。だとすればどうする?」「今のサイクルを変えない事でしょうか?幸い、会計上は黒字で推移しています。食事の質をもう一段落として、肥えないようにコントロールを試みるのはどうでしょうか?」「二律相反する事だが、そこが妥協点か?致し方あるまい。その方向でやってみよう。別の意味で問題が出たら、その都度転換すればいい」事業所長はモニター室を出て、デスクに座り込む。「違背はしておらんのだろう?」「はい、BGM作戦にも抵抗を見せては居ません」「ならば、当面現状を維持して置け!経費も節約しなくてはならん。DBには、一段と質素に過ごしてもらおう!」「承知しました。では、本日より栄養制限を強化します!」「済まんが宜しく頼む」モニター室からは爆音が轟いているのが微かに聴き取れた。
「諸君、今日まで大変な苦労をかけた。だが、今回の作戦もいよいよ最終局面を迎えつつある。まず、私から一言労いを言わせて欲しい。感謝する!明日からは、一部の者を残して順次撤収に入る。機動部隊と遊撃隊は、本業に支障が迫っている者を優先して帰還させる。各隊で調整に入ってくれ。最後まで残るのは、“司令部”の要員とZ病院のAと“ドクター”とする。詳細については、リーダーと打合せて不都合が出ない様に実施してくれ。私からは、以上だ」ミスターJは電話回線を通じて、全員に呼びかけた。「帰還に際しての具体的な動きについては、順次指示を送る。大隊長の所は、指示通りに進めて欲しい。“ドクター”、R女史の容態はどうですか?」リーダーが誰何する。「ほぼ危機は脱したと診ていいじゃろう。退院までは、まだ3~4週間は要するがな。ミセスAは、そろそろ八王子に引き上げてもらって構わんよ。ワシは、経過観察と研究データーの収集のために、個人的に残るつもりだ。元々、溜まっていた休暇を取らされてる最中じゃ!少しは骨休めをさせろ!」“ドクター” が噛み付く。「分かりました。ミセスAには、明日引き継ぎを済ませて、八王子へ引き上げる様に伝えて下さい」リーダーも苦笑しながら返す。「承知した。Z病院の方はワシに任せろ!では、回診があるので切るぞ」“ドクター”は回線から離れた。「大隊長、そちらも予定通り進めてくれ!」「了解、回線から離れます」「さて、これで遠隔地との回線はクローズになりました。後はウチだけです」リーダーが報告する。「機動部隊と遊撃隊は、待機態勢を維持する。当直を残して休んでくれ。ミスターJ、ここにキャッシュで7500万円あります。“情報”を捌いて手に入れました!」「ふむ!随分と頑張ったな。米軍からも500万円を預かってきた。Sのベンツを引取ってもらったものだ。これで8000万円か!後は“黒のベンツ”の結果次第で億に乗るか否かが決まるな。“車屋”の方はどうだ?」「兵庫の方と埼玉で競合っている模様です。価格は別にして、埼玉の方で話をまとめられる様に伝えてあります。輸送が楽ですからね。近くで捌いた方が実利も得易いでしょうし」「“スナイパー”、“車屋”と連絡を取って、埼玉の線で捌きをまとめる手筈を整えてくれ。2台で2000万円を切らなければいい。直ぐに商談に加われ!」「了解です!」“スナイパー”は1階へ降りて行った。「“シリウス”、サーバーの件だが、U法律事務所の社長も中身までは知らん。NとFと相談して工作を考えろ。但し、余計なデーターは確実に消去しろ。それと、M女史のところから借り受けた端末だが、余計なデーターを消し去って返却するのに、どのくらいかかる?」「方法によって違いますが、完全に抹消するとなると、最低2日はかかります」「他の方法だとどうだ?」「リカバリーデイスクがあれば1日に短縮出来ますが、手っ取り早くやるなら復元ポイントを使って、復元させてから余計なデーターを駆除しさえすればいいので、8時間以内で完了出来ます。いずれにしても、私とN坊とF坊の3人でかかりっ切りにはなりますが」「復元で行こう。あまり時間をかけても居られない。明日の朝から作業に入れ!リーダー、トラックを手配して置いてくれ。M女史のところへ返却しなくてはならん」「はい、2t車を用意して置きます。配達は?」「明後日の午前中でいい。検証した上で返さなくては意味が無い」「承知しました」「直近で他に問題はあるか?」ミスターJが確認を取る。「指し当たって特にありません」リーダーがメモを見ながら答える。「では、皆で夕食にしよう。久し振りに顔が揃ったからな!」八王子は夕闇に包まれていた。
「いつ消えた!」「私がトイレに行っている間です。鍵を破られました!」警官は唇を噛んでいた。「まだ、遠くには逃れてはいまい。半径5km以内で非常線を張れ!」「はっ!」刑事達が脱兎の如く走って行く。その姿を冷静に見つめる視線があった。「馬鹿め、こっちはまだ支度が整っていないんだ。さて、この騒ぎに乗じて抜け出すとするか」闇から闇へ不審な陰は動いて行った。病院の玄関は赤いパトライトの洪水で溢れ返っていた。「そうだ!Kが逃走した!近県の県警にも応援要請を出せ!」ヤツが動いた。
ミスターJは、コーヒーブレイクの真っ最中だった。「さて、今日は“撤収作業”もある。夕方に八王子へ移動するには、直ぐにも始めたいところだが、爆音轟く中でやる気にはならんな!」爆音とは言うまでも無く“スナイパー”のイビキである。余程熟睡しているのかは不明だが、B29の大編隊さながらの轟音が轟いているのだ。下手をすると焼夷弾が降るかも知れなかった。その時、携帯が震えた。「おはよう、リーダー何があった?」ミスターJは即座に不穏な空気を察知した。「早朝からすみません。実は・・・」リーダーはSのスイス銀行の隠し口座と香港のペーパーカンパニーの存在について報告を行い、指示を仰いだ。「何!そんな裏がまだあったのか?それは何としても叩き潰さなくてはならんな!」ミスターJは直ぐに同意して思いを巡らせた。「リーダー、本件はM女史は知らんのだな?」「はい、恐らく知り得てはいないかと。“旧AD法律事務所”のデーターのかなり深い部分に隠されておりましたし、PWでプロテクトされていましたので、S以外は知り得ていないと思われます」「そうか、いずれにしても不法な蓄財である以上、M女史には手渡せないな。税法上厄介な事になる。そうなると、どうやって始末するか?が問題になるな!」「はい、根絶しなくてはSに鉄槌を下せません!」「その通りだ。だが、1つだけ手がありそうだ!恐らくだが、極秘裏に使い切る方法が無くはない。宜しい、本件は私が処理に当たろう!他に隠し口座やペーパーカンパニーの存在は、確認されておらんのだろう?」「はい、徹夜で検証・分析した結果、確認されませんでした」「ならばいい。“前線基地”を撤収する前に道筋を付けて見よう。ご苦労だったな。交替で仮眠を取って置け。最後の仕上げが目前だ!一気に仕上げる予定だ。過労は避けてくれ!」「分かりました。では、お任せします」「リーダー、休めよ!」ミスターJは念を押すと携帯を切った。「恐らく、米軍もこの資金については、把握しているに違いない。向うに水を向ければ、山は動くやも知れん。中佐にもう1つ手土産を持たせるのも悪くはあるまい!」ミスターJは微かに微笑んだ。カップをソーサーから持ち上げると、コーヒーを一口飲みもう一度算段を弾いて見る。「やはりこれしかあるまい!」ミスターJは断を下した。携帯を取り出すと、メールを作成して送信する。「後は、待つだけだ!」カップがソーサーに当たり軽やかな音を立てた。
クレニック中佐は、ミスターJからのメールを見て、直ぐにオブライエン少佐を呼び出した。「少佐、例の“買い物”の件だけど、中国からの機器の購入に際して、どの様に手配したの?」「はい、取り調べた3人の香港人の手を借りて、ペーパーカンパニーを経由させてこちらへ輸入しました!」「そのペーパーカンパニーの社長は誰なの?」「ボスのS氏です。支払いの口座も、彼の名義のスイス銀行の口座を拝借して、我々の存在に気付かれないようにしています!」「資金の補填に関しては?」「一時的に立て替えて貰ってますが、同額を補填する予定です。S氏が開放される際には、支障が出ない様に手続きは進んでいます!」「シャドーのボスであるミスターJから連絡があったわ。S氏の資金を全て使い果たして欲しいそうよ!補填の必要は無いと言って来たの。どう言うつもりなのかは分からないけれど、我々の予算にも限りがある以上、乗らない手は無いと思うの。残高はどうなっているの?」「6580万円の内、半分を送金しましたので、3290万円が残っています!」「ペンタゴンからの“調達要求”をどの程度満たしているの?」「3分の1に留まっています。残金を全額使っても、残り3分の1は応ずる事は不可能です!」「では、補填分も加えて残りの3分の1の“調達要求”を満たす手配を至急取りなさい!」「宜しいのですか?個人の資金を使うとなると、公聴会で叩かれでもすれば、疑念を持たれる恐れもあります!」「税逃れの裏金だとしたら、どうなるかしら?日本でも表立って使えない資金なら、それなりの説明をすれば、問題とはならないはずよ。S氏からの提供があったとのメイキングをして置けばどう?ペンタゴンからの“調達要求”を満たしてやれるなら、彼らも不満は言わないでしょう?」「それはそうですが、S氏へはどう説明するおつもりですか?」「彼も米国へ連れて行けば、立場を理解するでしょう。資金提供の見返りとして、米国での保護を条件にすれば乗って来るはずよ!現状のまま解放したら、日本の当局からの追求から逃れるのは不可避のはず。時を稼いで闇から闇へ葬るまで待つなら、私達の言う事を聞かなくてはならないはずよ!少佐、至急手配にかかりなさい。ペンタゴンを黙らせるのよ!」「イエス・サー!では、存分にやらせていただきます!」オブライエン少佐は部屋を辞して行った。「さて、私はS氏との“取り引き”にかからきゃ。手土産をいただいた恩は忘れないわよ、ミスターJ!」中佐は、Sの経歴を調べ始めた。中にはミスターJから提供を受けた資料も含まれている。「使い方次第では、我が国の防衛に寄与する事は間違い無いわね!」中佐は窓の外を見た。快晴の空が広がっていた。
Z病院のICUから内科病棟へ移されたR女史は、久し振りに白以外の色を眼にする感覚を体現していた。個室に入れられた彼女は、窓から外を眺めて居た。中庭に面した窓からは木々が見え、花壇には花々も見えた。「やっと帰って来た!」彼女がそう言うと「まだ半分ですよ!さあ、ベッドに戻って!」とミセスAがすかさず釘を刺す。「体内では、まだ細菌との戦いは続いているのよ。最悪からは帰れたけれど、退院を云々するには時期尚早だわ。油断大敵!気をつけてくださいね」ミセスAは細心の注意を払う様に、こんこんと話を続けた。「それと、貴方に面会の方が見えてるわ。今、消毒をして貰ってます。そろそろお見えになるはずよ」「Rちゃん!やっと出て来れたね!」「T先輩!」久々の再会だった。ミセスAはT女史に2~3の注意を耳打ちすると、ナースステーションへ戻って行った。「Rちゃん、やっと真実を聞かせてあげられる。私も感無量だよ」「そうですね。やっと真実を知ることが叶う。私も気になって仕方ありませんでした・・・」「じゃあ、再生するね!」
T女史は、黒いICレコーダーを取り出すと再生ボタンを押した。
「どうかお慈悲を!国内が無理なら海外でも構いません!」「そうは言っても社則に違背した事実は覆らん!犯罪に加担した以上、懲戒解雇は免れんぞDB!役員を説得するのは無理だ。弁護士も同じことだ!」「私は家族を養わなくてはなりません。どうか見捨てないで下さい!副社長、お言いつけは何でも聞きます!」「尋常な事では無いぞ!余程の理由が無ければ、周囲を納得させられん。だが・・・、1つだけ手はある。それは“現地採用”でベトナムへ潜り込む事だ!貴様はどの道、懲戒解雇にせざるを得ない!普通ならそれで終わりだが、特別に情けをかけよう。貴様は、直ぐにベトナムへ飛べ!こちらから“現地採用”の内諾を出して置く。定年まで帰国は叶わんし、給与も半額にはなるが家族を養う糧にはなるだろう。異例の処置だが、極秘裏に手配してやろう!それで構わんな?!」「ありがとうございます!決して違背は致しません。定年まで現地で必死に働きます!」
「どう?少しは胸の閊えは消えたかな?」T女史は静かに聞いた。「ええ、もやもやしてた気持ちが落ち着きました。情けをかけてもらってのベトナム行きか。確かに異例の処置だけど、ここまで普通はやらないものなのに。DBは、救われてたのね!」「そう、これは会社から提出させた音声記録よ。Rちゃん、ICレコーダーは置いて行けないけれど、私が責任を持って保管して置く。退院したら取りに来てね」T女史は黒いICレコーダーを鞄に入れる。「それと、もう1つ。悪い知らせがあるの。Kが命を狙われたの!Rちゃん達にも嫌疑がかかったけれど、直ぐに消えたからそれはいいとして、犯人はまだ捕まっていないの。警察は暴力団関係者に絞って行方を追ってる」「Kは助かったんですか?」「大丈夫、寄生虫に取り付かれて一時は危険な状態だったけれど、オペで寄生虫を取り除いて一命は取り留めてる。今は収監されている刑務所の近くの大学病院に収容されているわ」「どんな虫だったんですか?」「フィラリアよ。心臓の裏にいたらしいわ」「どんな手口でフィラリアに?」「Rちゃん!貴方の悪いクセ!何もかも知りたがるのは、全然治らないのね。自身もまだ入院中なのよ!続きは完璧に治ってからにしよう!どっちにしろ、捜査はまだ続いてるの。貴方は自分の事だけを考えなさい。そうしないと、永遠に閉じ込めるよ!」T女史は怖い目をしてR女史を睨んだ。さすがに先輩に睨まれるとR女史も神妙に「はい、すみません。まず、退院して先輩の事務所に行く事を目指します」と頭を垂れた。「そうでなくちゃ。いつまでも留守にしてると、みんなが心配するのよ!分かってるなら、お医者さん達の言う事を聞いて、早く戻りなさい。あら、もうこんな時間!私も看護師さんに怒られそう。Rちゃん!今日はここまで。また、来るからね」「先輩、ありがとうございます!」T女史は慌てて病室を後にした。「Kも戦ってる。私も負けられないわね」R女史は安堵してベッドに横になった。窓から眩い光が差し込んでいた。
「“スナイパー”、小道具のトランクも忘れるな!ああ、それだ。八王子でNとFに分析させて記録する重要なモノだ。お前さんの荷物はどうした?」“撤収作業”にいそしむミスターJは、“スナイパー”に注文を付けながら言う。「荷物の積載は済んでますよ。ノートPCとプリンターもいいですか?」「ああ、持って行け。以外に広いから手こずるな。だが次にお前さんが戻るまでに済ませて置く。そのカートをどかせ!テーブルを拭き取るから」2人はそれぞれに作業に励んでいた。クレニック中佐は、ミスターJの提案を受け入れ、なおかつ“Sを参考人として本国へ招致したい”と告げて来た。期間は約半年。身柄の保証と滞在経費はSの資金から拠出するとも言っている。半年の渡米は、M女史にとってもR女史にも好ましい結果を生むはずだ。その間にSが引き起こした事件を抹消してしまえばいい。ともかく、当局が疑念を生むことも抱くことも無い様に片付ければ、M女史もR女史も安全になる。R女史への“すりこみ”も始められている。彼女に対しての“正しい認識”の植え付けも順調に進んでいる様だ。今回の作戦の大半は無事に終了しつつある。「最後の仕上げまでは気は抜けんな。だが、ここまでは順調だ。何事も無く行けば週内には撤退出来るだろう」とミスターJは呟きながら最後の縁を拭き取った。白い手袋を取り出すと、ゴミ袋を縛る。“スナイパー”が戻ってきた。「準備完了しました。直ぐに八王子へ向かいますか?」「いや、下のカフェでコーヒーを飲もう。一息つかせてくれ!」ミスターJは手袋をはめるとドアを閉めていく。「さすがに疲れた。軽く食事も済ませよう」“スナイパー”と共にエレベーターで2階へ降りる。カフェでコーヒーと軽食を注文すると、椅子にもたれて、大きく息を吐く。「いよいよ、仕上げですか。今回も色々とありましたが、少しホッとしますね」“スナイパー”が言うと「確かに横道にそれた部分は否定しないが、大勢は決したな。ここまで来れば先は見えている。残った課題を八王子で片付ければ、任務完了だ。もう少し頑張ってくれ」ミスターJは息を整えつつ返した。「Sの渡米も決まりですか?」「本人次第だが、中佐が首に縄をかけてでも引きずって行くだろうよ。ヤツが留守の間に諸々を片付ければ、後は雲散霧消になるだろう。M女史がSをどうするか?は2人の問題だ。それは姉弟で決着をつけさせる」「クレニック中佐も手土産満載で帰国すれば、株も上がりますから多少の無理は黙って聞くでしょう。向うにすれば、国防上の懸念について仔細に分かる訳ですし、こちらとしても利はある。取り引きとしては上々じゃあありませんか?」「まあな。こちらの条件が通ってくれただけでも儲けものだ!」「彼女、本気で法務部長を狙ってますよ!今回の功績で、また一歩前進ですよ!」“スナイパー”がにやけて言うと、コーヒーと軽食揃った。2人はゆっくりと時間を過ごした。
同刻、八王子“司令部”では、リーダーの指揮の元、片付けと移動が始まっていた。「2階にスペースを作れ!ミスターJの寝床を設置する。パーテーションで区切るんだ。PCを1mばかりずらさなきゃならんぞ!1階の“遊戯スペース”は階段の下に押し込めろ!空いた空間を寝床に替えるんだ!」“シリウス”を先頭に2階組が、N坊とF坊を中心に1階組が編成され室内の片付けと清掃が始まる。それを見届けたリーダーは、駐車場の整理に外へ飛び出した。遊撃隊員と一部の機動部隊員を前に「帰りを考慮して、車両の再配置を行う。“黒のベンツ”は建物の直ぐ脇、吊り出しやすい位置に移動させろ!前は遊撃隊の車で遮蔽、後ろにはトラックを配置、3軸車も直ぐに出られる位置へ出してくれ!今回は順次引き上げになるはずだ。両隊共に分かりやすい様に工夫しろ!」と命じると、携帯で大隊長を呼び出す。「大隊長、長い事ご苦労だったな。Z病院周辺に展開している車両だが、明日から順次引き上げを開始する。ああ、撤収だよ。まず、半分を帰還させる手配にかかってくれ。そうだな、トラックはギリギリの線でいい。セダンの隊員達は最後まで残る形で。うん、采配は任せるよ!何かあれば、こちらに連絡を入れてくれ。24時間当直は居るからな。じゃあ、頼んだよ」と言って事務所に戻る。「リーダー、ちょっといいですか?」“シリウス”が声をかけて来る。「どうした?」「いや、例のサーバーなんですが、再利用出来ませんかね?」「どう言う意味だ?」「破壊を前提に検証して見たんですが、結構モノが高性能なんですよ。基地のサーバーより容量は少なめですが、処理速度が速いんです。破壊するには惜しくなって・・・」「だが、公言した以上、破壊が前提だぞ。どうやって誤魔化す?」「方法はありますよ。筐体は別モノに換えて、“基地”に眠っている古いサーバーと差し替えられませんか?」「つまり外回りは破壊するが、中身を残したいって事か?」「まあ、そうです。N坊とF坊も“チューニング次第では、最速で運用できる”って言ってます」「うーん、ミスターJがお見えになったら聞いて見ろよ。どの道、破壊工程は動画で記録して、U事務所に報告する事になってる。社長も中身までは知らん訳だから、やり様はあるが、ミスターJの許可が出るかなー?」「ともかく、破壊はいつでも出来るので、判断を待ってからにしますよ」「一応、聞いて置く。それより、2階のスペースは確保したか?」「はい、終わってます。掃除も済みましたよ」「残るは1階か。あー、誰か食料調達に行かせてくれ!手の空ているヤツなら誰でもいい。2人分増えるから、計算を間違うなと言って出させろ!」「はい、俺と隊員2人で行って来ますよ」“シリウス”が請け負った。上へ下への大騒ぎが収まったのは、午後3時を過ぎていた。
Kの容態は安定していた。ICUを出るのにしても左程の時間を要しなかった。絶対安静ではあったが、Kは一般病棟の個室へ移送され、出入口には警官が24時間交代で見張りに着いた。“第一段階は、成功したな。これからは、あらゆる時間を探ることだ!”Kの脱走計画は、第二段階へ進んでいた。もっとも懸念された着衣についても、病室のロッカーの中にある事を掴んでいた。何故、Kが着衣に拘ったのか?と言うと、“ロッカーの鍵”を隠し持っていたからに他ならない。ベルトのバックル部分に巧妙に隠された“ロッカーの鍵”は、横浜のサウナのモノだった。KとDBが“異臭の素”を抜くために、悪戦苦闘を繰り広げたあのサウナに、Kは密かに“現金と偽造パスポート”を隠していた。“横浜へたどり着けば、高飛びに持ち込める。DBとも連携出来れば、Yを葬る手立ては幾らでもある!とにかく、安全に横浜へたどり着く手筈を探らねばならん”Kは、従順な風を装いながら1つ1つ確実に、脱走に向けて動き出していた。
B29は、ベトナムでも飛んでいた。しかも、想像を絶する大編隊だ。編隊を指揮しているは、言うまでも無くDBである。睡眠薬で眠る事にすっかり慣れた“食用蛙”は、最近肥り始めていた。47kgまで落ちた体重が50kg近くまでリバウンドし始めていたのだ。「マズイ!危険な兆候だぞ!食事を変えたのか?」「いえ、むしろ糖質や全体の量を減らしている状況です。問題なのは、寝ている時間が長い事ではありませんか?」「うーむ、だが、現在の様な生活習慣になってから、紐などは発見されておらん!むしろ脱走の危険度は低下した。そこをどう見極めるかだな?」「はい、BGM作戦の効果もありまして、ひたすら眠る方向に逃げています。恐らくは“体力の温存”を画策しているのでは?」「有り得るな。そして一気呵成に攻めかかるつもりだろう。まあ、そうした事をいくら画策しても地下空間からは逃げられはせんが、体力を付けられるのは具合が悪い。食事を削るのは無理か?」「日に2食ですから、これ以上削るとすれば睡眠薬を増量して、1食まで減らすぐらいしか手はありません」「なに!既にそこまで落としているのか!1食だけにすれば生命維持に支障出がるな、生かして置くのも命令だ。だとすればどうする?」「今のサイクルを変えない事でしょうか?幸い、会計上は黒字で推移しています。食事の質をもう一段落として、肥えないようにコントロールを試みるのはどうでしょうか?」「二律相反する事だが、そこが妥協点か?致し方あるまい。その方向でやってみよう。別の意味で問題が出たら、その都度転換すればいい」事業所長はモニター室を出て、デスクに座り込む。「違背はしておらんのだろう?」「はい、BGM作戦にも抵抗を見せては居ません」「ならば、当面現状を維持して置け!経費も節約しなくてはならん。DBには、一段と質素に過ごしてもらおう!」「承知しました。では、本日より栄養制限を強化します!」「済まんが宜しく頼む」モニター室からは爆音が轟いているのが微かに聴き取れた。
「諸君、今日まで大変な苦労をかけた。だが、今回の作戦もいよいよ最終局面を迎えつつある。まず、私から一言労いを言わせて欲しい。感謝する!明日からは、一部の者を残して順次撤収に入る。機動部隊と遊撃隊は、本業に支障が迫っている者を優先して帰還させる。各隊で調整に入ってくれ。最後まで残るのは、“司令部”の要員とZ病院のAと“ドクター”とする。詳細については、リーダーと打合せて不都合が出ない様に実施してくれ。私からは、以上だ」ミスターJは電話回線を通じて、全員に呼びかけた。「帰還に際しての具体的な動きについては、順次指示を送る。大隊長の所は、指示通りに進めて欲しい。“ドクター”、R女史の容態はどうですか?」リーダーが誰何する。「ほぼ危機は脱したと診ていいじゃろう。退院までは、まだ3~4週間は要するがな。ミセスAは、そろそろ八王子に引き上げてもらって構わんよ。ワシは、経過観察と研究データーの収集のために、個人的に残るつもりだ。元々、溜まっていた休暇を取らされてる最中じゃ!少しは骨休めをさせろ!」“ドクター” が噛み付く。「分かりました。ミセスAには、明日引き継ぎを済ませて、八王子へ引き上げる様に伝えて下さい」リーダーも苦笑しながら返す。「承知した。Z病院の方はワシに任せろ!では、回診があるので切るぞ」“ドクター”は回線から離れた。「大隊長、そちらも予定通り進めてくれ!」「了解、回線から離れます」「さて、これで遠隔地との回線はクローズになりました。後はウチだけです」リーダーが報告する。「機動部隊と遊撃隊は、待機態勢を維持する。当直を残して休んでくれ。ミスターJ、ここにキャッシュで7500万円あります。“情報”を捌いて手に入れました!」「ふむ!随分と頑張ったな。米軍からも500万円を預かってきた。Sのベンツを引取ってもらったものだ。これで8000万円か!後は“黒のベンツ”の結果次第で億に乗るか否かが決まるな。“車屋”の方はどうだ?」「兵庫の方と埼玉で競合っている模様です。価格は別にして、埼玉の方で話をまとめられる様に伝えてあります。輸送が楽ですからね。近くで捌いた方が実利も得易いでしょうし」「“スナイパー”、“車屋”と連絡を取って、埼玉の線で捌きをまとめる手筈を整えてくれ。2台で2000万円を切らなければいい。直ぐに商談に加われ!」「了解です!」“スナイパー”は1階へ降りて行った。「“シリウス”、サーバーの件だが、U法律事務所の社長も中身までは知らん。NとFと相談して工作を考えろ。但し、余計なデーターは確実に消去しろ。それと、M女史のところから借り受けた端末だが、余計なデーターを消し去って返却するのに、どのくらいかかる?」「方法によって違いますが、完全に抹消するとなると、最低2日はかかります」「他の方法だとどうだ?」「リカバリーデイスクがあれば1日に短縮出来ますが、手っ取り早くやるなら復元ポイントを使って、復元させてから余計なデーターを駆除しさえすればいいので、8時間以内で完了出来ます。いずれにしても、私とN坊とF坊の3人でかかりっ切りにはなりますが」「復元で行こう。あまり時間をかけても居られない。明日の朝から作業に入れ!リーダー、トラックを手配して置いてくれ。M女史のところへ返却しなくてはならん」「はい、2t車を用意して置きます。配達は?」「明後日の午前中でいい。検証した上で返さなくては意味が無い」「承知しました」「直近で他に問題はあるか?」ミスターJが確認を取る。「指し当たって特にありません」リーダーがメモを見ながら答える。「では、皆で夕食にしよう。久し振りに顔が揃ったからな!」八王子は夕闇に包まれていた。
「いつ消えた!」「私がトイレに行っている間です。鍵を破られました!」警官は唇を噛んでいた。「まだ、遠くには逃れてはいまい。半径5km以内で非常線を張れ!」「はっ!」刑事達が脱兎の如く走って行く。その姿を冷静に見つめる視線があった。「馬鹿め、こっちはまだ支度が整っていないんだ。さて、この騒ぎに乗じて抜け出すとするか」闇から闇へ不審な陰は動いて行った。病院の玄関は赤いパトライトの洪水で溢れ返っていた。「そうだ!Kが逃走した!近県の県警にも応援要請を出せ!」ヤツが動いた。
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