今日は10月10日、昭和39年に東京オリンピックが開催された日です。
それまでの気象庁の記録から 10月10日が好天に恵まれていたので オリンピックを この日に決めたそうです。昔は『体育の日』でしたが、おととしから『スポーツの日』になったそうです。
その昔 湯平地区のミニバレーチームに入っていた頃は、金曜夜になると小学校の体育館で練習に励んだものです。おばさんばかりで、若い人は少なかったけど、独身の女性 とコーチ役の男性も3~4人いて、その中でカップルが結婚したりして 楽しい時間でした。
当時町内のチームは多数ありましたが、地区名のチーム名がほとんどの中、名前を『湯平』から『翔』に変えて、ユニフォームも作りました。 背中の文字は夫の字です。
夜開催される町内の大会は当時は4回ありました(町長杯・会長杯・金融団杯・駐屯地杯)
体育の日には 朝から湯布院スポーツセンターの大会もありました。時には町の代表として大分市まで遠征することもありました。井の中の蛙 大海を知らずでした。
九人制で 最初は固定のローテーションで回っていましたが、後には進化して攻撃の人と守備の人に別れ、サーブと同時に移動するローテーションに変えました。当然 私は守備の人ですから、常に後ろで守っていました。今風に言えばリベロです。
翔チームは
①名前を地区名からオリジナル名に変えた。
②ユニフォームを作った
③ローテーションを専門性にした
で士気が上がり 町内で優勝するようになりました。ボーリング大会をしたり、忘年会ではKANの『愛は勝つ』を『翔は勝つ』に変えて合唱したものです。楽しかったな あの頃。
湯平地区公民館祭りのミニバレー大会ではメンバーが地区に別れて経験の無い人に指導して戦い、設営から審判まで担当したものです。その大会もコロナで中止になっています。
時代が流れ、母がディサービスから帰ると、夜も目が離せなくなったので ミニバレーに行けなくなりました。
母が亡くなったので復帰といきたいところですが、今度は膝がいうことをききません。このユニフォームも断捨離候補です。
今も翔チームは頑張って続いています。広報誌で活躍を見るとうれしくなります。
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