ひと夏というか、もっと長い期間でもいいが、ここを訪れてくれた人の中には、強い印象を残した人もいればそうでない人もいる。そういう人たちの中には、毎年やって来て親交を新たにする人もいれば、いつの間にか姿を見せなくなった人もいて、あの老夫婦、あの若者、あの元気な男女と、何の関連もない牛の世話や牧柵の修理、あるいは今のように前夜の酒の名残りの中で、ふと思い出すことがある。
たくさんの人の、極めて限られた時間が、牧守のかそけし記憶の中に残っていることを多分その人たちは知らないだろう。都会の雑踏の中ですれ違ったような一瞬の出会いに過ぎず、それも親しく言葉を交わしたわけでもない人たちの中にも、そうした人がいる。
なにもここの牧場に限ったことではなく、毎日まいにちいろいろな人と出会って呆気なく、留めようもない時が過ぎていく。
ちらっとだけテレビで、甲子園で行われる高校野球の開会式を見た。制服を着た女子高生に率いられて、目の細い選手たちが次々と行進していく姿を見ていたら目頭が熱くなってきて自分でも驚いた。なぜだろうか。これまで、地元の学校が出場でもしない限り、あまり高校野球に関心などなかった。時々耳にする高野連の硬直した体質に対する反発は、高校時代に味わった保守的な教師の考え方と同種のものに思え、それも関心のない一因だった気がする。
また、高校生活の全てと言ってもいいほど、野球部員は他を犠牲にして部活動に明け暮れていたのを見てきた。そうしなければ甲子園どころか、県大会でも勝ち進んでいくことはできなかったし、いや、そうした涙ぐましい努力をしても結局、野球児の大半は甲子園出場の前に敗れ去っていかなければならないのが現実である。
遠い昔、同世代の野球部員があれほどまでにひたむきに野球に打ち込む姿を嫌悪し、かつ羨ましく感じながら見た思いは今も変わっていないと思っていたのに、どうしたことだったのか。比較してみても詮無いことながらその感情の高ぶりは、五輪で日の丸の旗が上がるのとは明らかに違っていた。若さ、純情、潔癖、一途、汗、涙と泥、勝利と敗北・・・、どうもその違いを言い当てることができそうもない。
テイ沢の下から2番目の橋に置いてある「ワタルナ」の標識が川に落ちていると、昨日からここの小屋に泊まっているMさん夫婦から電話が入った。急いで行ったら、すでに標識を元の場所に戻してくれて、その写真も見せてくれた。結構あの沢には人が入るけれども、Mさん夫婦のような行動に出る人はいないし、ちょっとした手間で道に落ちてる木の枝を片付けることができるはずだが、そうした人の話を聞くこともない。あまり余裕がないのだろうが、とにかく、気を付けてもらいたい。
本日はこの辺で。