5か月の休みの後半わずかの間だが、暖かくなると外に出たくなる。この頃は、カタクリの開花にばかり気を取られていたら、枯れたと思っていたケヤキの盆栽が何本も細い枝を伸ばしていて驚いた。冬の間、盆栽を凍らせないため鉢ごと土中に埋めておくのだが、その埋め方が十分でなかったか、春になっても芽を出さなかった。春とは、1年前の春のことである。老いぼれたケヤキは辛うじて細い生命を繋いでいて、丸1年をかけて息を吹き返した。
盆栽も一時は結構あったが、信州の冬を乗り越えられず大半が枯れた。いや、枯らした。秋の終わりに畑に埋め、春になったら掘り起こし、根切をしたり、肥培したり、土替えをする。それから春、夏、秋と、水を切らさず、葉切や整枝をしながら眺めに眺め、姿の美しさを褒めまくるのである。そうやって盆栽への愛情が高まるこの期間が、実は木にも人にも大変に重要だったのだ。「双方で愛情を育む」などと言うのは面映ゆいが、そういうことだと思う。
よく、針金がけや、窮屈な鉢に植える盆栽をつかまえ、木が可哀そうだという人がいる。しかし、そういう人たちの多くは、盆栽を知らない人たちである。実生からの赤松が1千年以上も、何代にもわたって受け継がれてきたのは、盆栽だったからである。そうでなかったら、とっくに枯れている。たくさんの人の愛情が、1本の赤松を、1千年も生かしてきたのだ。
ところが、上の仕事が始まると、その最も愛情を注いでやるべき時に、あまり手をかけてやれない。充分に褒めまくることができなくなる。「愛情を育めない」憾みが残る。そこで考えた。こうなったら、トラックに積んで入笠牧場に持っていってでも、老いの愛情を注ぎ、一緒に年を重ねていこうか、と。
ケヤキは病み上がりだから、写真はこのくらいで。しばらくは放っておくが、これからの整枝が難しい。カタクリはきっと増え、来春はあまり手の入らない狭い庭を少しは華やかにしてくれるだろう。丼子(どんぶりこ)